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正法とはそもそも何であるか

 正法とは人を覚りに至らしめる偉大な力を持った文章のことである。人は、この正法によって仏となる。

 正法は、意味の通じる文章であって呪文ではない。しかしながら、人は正法の意味を理解することによって覚るのではない。人は正法を縁として覚るが、正法を理解したゆえに覚ったのではないと知るからである。つまり、正法は理解できなくても覚ることができる。覚り以前においては、ただ正法を知っていれば充分である。覚った後で、正法の意義を知ることになるからである。

 修行者が正法を知らなくても阿羅漢果を達成することはできる。しかし、正法を知らない者が仏になることはあり得ない。正法にしたがい、正法により、正法の真の理解を生じつつあるとき、まさしく正法を理解する機縁を生じ、因縁があって、正法の記述が真実であると知った人が、この正法によって仏となる。

 正法は、修行者が真実を知ろうとすることと密接に関係している。修行者が真実を知ろうとするゆえに正法の理解を生じる。正法を書いた仏たちも修行者が真実を知ろうとすることを前提としてこの正法を書き記している。もし経典に正法の記述がなければ、仏教が仏教として伝わることはなかったかも知れない。

 正法は(法身の)諸仏たちが書かせたものではない。正法は、この世に出現した仏たち(如来)が書き記したものである。仏たちは、苦悩する人々が覚り、自分と等しく異なるところがないようになって欲しいと願ってこの正法を書き記した。この正法を完全に理解した仏が後の世に出現したときに、まさしく仏になったのだと知らしめるためにも仏たちはこの正法を書き記したのである。

 正法は修行者を仏にならしめる威力がある。その反面、正法によって地獄に堕ちる者も現れる。心が邪であるならば、正法はその者をすみやかに、まっすぐに地獄へと突き落とすからである。それゆえに、仏たちは注意深く正法を経典の中に書き留めている。心構え正しき修行者だけがこの正法によって仏になることを知っていたからである。

 正法は、法(ダルマ)の本質をずばり明らかにしている。余りにもはっきりと書き下されているので、心が邪な者には恐ろしい副作用が現れる。それゆえに、みだりに正法を開示してはならない。開示すべき人に、開示すべき時に、開示するに相応しいやり方で開示しなければならない。


正法の手引き

 正法は、完結した文章である。したがって、正法を解説することには特別な意味はない。笑い話を解説するようなものである。それでも、正法の意味が分からないという修行者のために敢えてその手引きを記したいと思う。

 すべての正法は、ただ一つのことを主張している。 それは、

  『真実にやさしい人は必ずあなたの身近に現れる それを自ら発見せよ』

と言うことである。具体的には、

  『諸仏世尊はただ一大事因縁のみによって世に出現したまう(法華経)』

である。あるいは、このことを一種逆説的に説くものもある。

  『衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経)』

 また、釈尊のように覚りの過程をそのまま表現したものもある。

  『諸々の尊敬さるべき人が、安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、”教え”を聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(スッタニパータ)』

 いずれにせよ、真実のやさしさとは何かを知ることで人は覚ると言っているのである。



四聖諦とは

 四聖諦とは、四つの聖なる真理という意味である。通常、苦・集・滅・道の四つを挙げる。それぞれ、次のように要約される。

 
 苦諦:苦があるという真理
 集諦:苦には原因があるという真理
 滅諦:苦は滅することができるという真理
 道諦:苦を滅する道が存在するという真理

 仏たちがこれらを説くのは、人々(衆生)が苦に安住していながら、そのことについての自覚がないことを憂えてのことである。仏たちには苦は存在しない。そして、人々(衆生)もまた覚れば苦を抜くことができ、そのことそれ自体は保証されている。四聖諦は、それが誰にとってもそうであることを説くのである。

 素質豊かな人は、これだけ聞いただけで覚りを求める心を起こすだろう。そのような人は四聖諦についてこれ以上追求する必要はない。四聖諦は、人々(衆生)に覚りを求める心を起こさせることを目的として説かれたものだからである。それで原始仏典では四聖諦そのものはあまり登場しない。すなわち、原始仏典の舞台はサンガ(僧伽)が中心であり、サンガ(僧伽)に集う人々はすでに覚りを求める心を起こした人々であるので敢えて四聖諦を説く必要がなかったのである。


苦諦

 錯覚に陥っていてそのことを知らないならば、錯覚から抜け出すことはとてもできないであろう。それと同じく、人々(衆生)は苦に安住しているが、苦の本質を知らなければ苦から脱れようとは思わないだろう。

 
 錯覚は、それが錯覚だと分かっても錯覚としての感覚的認知は相変わらずである。つまり、それが錯覚だと知っただけではその錯覚そのものから脱れることはできない。その一方で、苦はそれが苦であると覚知したならば最終的には抜け出すことができる。苦を脱したときには苦を脱したとはっきりと覚知することができる。これを解脱知見と呼ぶ。
 
 さて、四聖諦では苦・集・滅・道の四つを説くが、実は苦を知った時点でそれを滅する道をすでに歩んでいるのである。もちろん、苦を知っただけですぐに覚りが訪れるわけではない。しかしながら、苦を知った人が正しい遍歴を為すならば覚りは遠からず訪れることになるであろう。それが道に他ならない。聖求ある人は、自ら機縁を生じ、不可思議なる因縁によって覚ることになる。解脱を達成するまでの時間には修行者によって早い遅いの差はあるが、苦を知った人の覚りはその時点ですでに約束されていると言ってよいのである。
 
 ところで、本書では苦の説明そのものは割愛する。苦の本質は、修行者が自分自身で見極めなければならないものだからである。ここでは苦諦の心髄だけを書いておく。
 
 苦諦: 衆生はすべて苦に安住している。

集諦

 苦の原因にはたくさんのものがある。しかしながら、それらはすべて群を為しており各個撃破ではなく一掃することができる。これが集諦である。

 
 すべての苦は縁起であり、原因と結果とが互いに相依関係にある。すなわち、
 
  ”これ”があるゆえに、”かれ”がある ── ①  順観
 
  ”これ”がないゆえに、”かれ”がない ── ②  逆観
 
であると知られる。また、
 
  ”これ”が生じるゆえに、”かれ”が生じる ── ①´  順観
 
  ”これ”が滅するゆえに、”かれ”が滅する ── ②´  逆観

 そして、これらのことが苦の原因を一掃できることの根拠となる。
 
 集諦の心髄: どれでもよい 一つの苦の原因を滅したならばすべての苦の原因が同時に滅する。


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