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覚ったあとの修行など存在しない

 いわゆる「悟後の修行」など存在しない。なんとなれば、解脱して識別作用の滅を見たならば他に別の解脱など存在しないからである。そして、この解脱は逆戻りすることがない。形態(rupa)が解脱するときには、苦悩のよすががすべて残りなく終滅する。0(ゼロ)は0であって、0以外の何ものでもないように、本当に解脱したときにはすっかり解脱し終えるのである。それゆえに、そのような人にとって悟後の修行など何ら存在しないのは当然のことである。つまり、修行は果てのあるもの、終わりがあるものであると知っている。それで覚った人のことを”修行完成者”と呼ぶ。

 ではなぜ、「悟後の修行」などという言葉を耳にするのであろうか。それは、覚っていないのに覚ったと勘違いしている者があるからである。

 何某かの境涯に達し、自分では覚ったと思っていても、もしも煩悩の火が残っていて心の動揺が静まっていないならば、それは覚りでも何でもないものであると知らなければならない。そのような者は、残った煩悩──実はわずかさえも煩悩を滅してはいないのであるが──を滅するための果てしない修行が仏道であるなどと言うだろう。彼は、自分では覚ったつもりでいても、すぐに元の木阿弥になることを知っているからである。その現実を見て、「悟後の修行」などという誤った考えを起こすのである。しかし、これはまったく愚かしいことである。いかなる仏も、覚った後に修行が必要だなどとは決して言わないからである。

 欲にしたがい、物を欲しがるように覚りを求める者が、魔境に陥って愚かな考えを起こす。安らぎを求める修行者は、決してこのような事態に陥ってはならない。聖求によって解脱し、この聖求によってその解脱が真の解脱であると覚知せよ。真の解脱知見は、虚妄ならざるものだからである。


誤った修行は地獄行きになるのか?

 正しい修行も、誤って行うと地獄に落ちることがある。これは本当のことである。それゆえに、修行者は心して修行しなければならない。

 しかし、だからと言って修行者が修行に取り組むことを恐れていては話にならない。心構え正しき修行者は、そんなことを危惧しなくてもまっすぐにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達するからである

 それでも、もしかしたら? と修行に恐怖を感じる人もあるだろう。そこで、絶対に地獄行きにならない修行の心得について以下に記す。

 先ず、何よりも大事なことは正法を誹謗してはならないということである。これさえしなければ、どんな修行をしても地獄に落ちることは決してない。なお、表現はさまざまだが、ここで正法とは次のことを指す。

  正法: 人は真実のやさしさを知ることによって仏となるという事実。

 すなわち、やさしさの追求が仏になる道であるということを誹謗しない限り、何をどのように考えていても地獄に落ちることはないということである。

 次に注意すべきことは、自分の浅はかな修行の正当性を信じる余り、たとえうっかりでも仏、阿羅漢、〈道の人〉を傷つけてはならないということである。これさえしなければ、どんな行為をしても地獄に落ちることは決してない。

 最後に注意すべきことは、法(ダルマ)が正しく語られるのを遮ってはならないということである。これさえしなければ、どんなことを論じても地獄に落ちることは決してない。

 修行者は、たったこれだけのことを注意しておくだけで、地獄に落ちる怖れは無くなる。

 三つのことをしないように注意しさえすれば、地獄に堕ちる心配はいらない。この損なってはならない三つとはいわゆる三宝(仏法僧)のことである。逆に、三宝を敬う人は天界に生まれる。天界とは、三宝が満ちている国のことだからである。

 地獄に堕ちた者は気が遠くなるような長い時間おそろしい苦悩に喘ぐ。そして、容易にはこの世には戻って来られない。決して為してはならないことを為した報いであるが、それがなぜ分かるかと言うと、生まれながらに三宝を損なうような邪悪な者がこの世に生を受けるのを見ないからである。

 人々には見えないから、地獄が実在しないのではない。地獄からこの世に帰還することが極めて難しいので、地獄の実在が人々には見えにくいに過ぎない。聡明な人は、地獄の実在を覚知する。試したことはなくても、麻薬や覚醒剤の恐ろしさを知っているようなものである。心構え正しき修行者は、地獄など何の縁もないが、ある者どもにとっては地獄は決して遠いところにあるのではない。自分がどちらか分からない人は、三つの悪しきことがらをうっかりでも為さないように気をつけるべきではある。


正法とはそもそも何であるか

 正法とは人を覚りに至らしめる偉大な力を持った文章のことである。人は、この正法によって仏となる。

 正法は、意味の通じる文章であって呪文ではない。しかしながら、人は正法の意味を理解することによって覚るのではない。人は正法を縁として覚るが、正法を理解したゆえに覚ったのではないと知るからである。つまり、正法は理解できなくても覚ることができる。覚り以前においては、ただ正法を知っていれば充分である。覚った後で、正法の意義を知ることになるからである。

 修行者が正法を知らなくても阿羅漢果を達成することはできる。しかし、正法を知らない者が仏になることはあり得ない。正法にしたがい、正法により、正法の真の理解を生じつつあるとき、まさしく正法を理解する機縁を生じ、因縁があって、正法の記述が真実であると知った人が、この正法によって仏となる。

 正法は、修行者が真実を知ろうとすることと密接に関係している。修行者が真実を知ろうとするゆえに正法の理解を生じる。正法を書いた仏たちも修行者が真実を知ろうとすることを前提としてこの正法を書き記している。もし経典に正法の記述がなければ、仏教が仏教として伝わることはなかったかも知れない。

 正法は(法身の)諸仏たちが書かせたものではない。正法は、この世に出現した仏たち(如来)が書き記したものである。仏たちは、苦悩する人々が覚り、自分と等しく異なるところがないようになって欲しいと願ってこの正法を書き記した。この正法を完全に理解した仏が後の世に出現したときに、まさしく仏になったのだと知らしめるためにも仏たちはこの正法を書き記したのである。

 正法は修行者を仏にならしめる威力がある。その反面、正法によって地獄に堕ちる者も現れる。心が邪であるならば、正法はその者をすみやかに、まっすぐに地獄へと突き落とすからである。それゆえに、仏たちは注意深く正法を経典の中に書き留めている。心構え正しき修行者だけがこの正法によって仏になることを知っていたからである。

 正法は、法(ダルマ)の本質をずばり明らかにしている。余りにもはっきりと書き下されているので、心が邪な者には恐ろしい副作用が現れる。それゆえに、みだりに正法を開示してはならない。開示すべき人に、開示すべき時に、開示するに相応しいやり方で開示しなければならない。


正法の手引き

 正法は、完結した文章である。したがって、正法を解説することには特別な意味はない。笑い話を解説するようなものである。それでも、正法の意味が分からないという修行者のために敢えてその手引きを記したいと思う。

 すべての正法は、ただ一つのことを主張している。 それは、

  『真実にやさしい人は必ずあなたの身近に現れる それを自ら発見せよ』

と言うことである。具体的には、

  『諸仏世尊はただ一大事因縁のみによって世に出現したまう(法華経)』

である。あるいは、このことを一種逆説的に説くものもある。

  『衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる(維摩経)』

 また、釈尊のように覚りの過程をそのまま表現したものもある。

  『諸々の尊敬さるべき人が、安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、”教え”を聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。(スッタニパータ)』

 いずれにせよ、真実のやさしさとは何かを知ることで人は覚ると言っているのである。



四聖諦とは

 四聖諦とは、四つの聖なる真理という意味である。通常、苦・集・滅・道の四つを挙げる。それぞれ、次のように要約される。

 
 苦諦:苦があるという真理
 集諦:苦には原因があるという真理
 滅諦:苦は滅することができるという真理
 道諦:苦を滅する道が存在するという真理

 仏たちがこれらを説くのは、人々(衆生)が苦に安住していながら、そのことについての自覚がないことを憂えてのことである。仏たちには苦は存在しない。そして、人々(衆生)もまた覚れば苦を抜くことができ、そのことそれ自体は保証されている。四聖諦は、それが誰にとってもそうであることを説くのである。

 素質豊かな人は、これだけ聞いただけで覚りを求める心を起こすだろう。そのような人は四聖諦についてこれ以上追求する必要はない。四聖諦は、人々(衆生)に覚りを求める心を起こさせることを目的として説かれたものだからである。それで原始仏典では四聖諦そのものはあまり登場しない。すなわち、原始仏典の舞台はサンガ(僧伽)が中心であり、サンガ(僧伽)に集う人々はすでに覚りを求める心を起こした人々であるので敢えて四聖諦を説く必要がなかったのである。



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