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修行に役立つもの

 心構え正しき立派な修行者は、あらゆるものを修行に役立て、修行の役に立たないものには決して近づかない。しかし、そう言われても、普通の修行者は何をどうしてよいか分からず、身も蓋もないであろう。そこで、以下に修行に役立つものを挙げる。この通り修行に勤しむならば、その修行者こそが心構え正しき立派な修行者であると認められる。では、列挙しよう。

 身近かな人々と仲良くして、しかも安易に迎合しないことは修行に役立つ。人々(衆生)は距離的にも心理的にも年齢的にも遠くの人とは争わないが、身近かな人々とは争いがちだからである。

 生活が簡素で、ゆっくりとした時間を多くつくることは修行に役立つ。とくに夜は重要である。夜の三つの区分の一つだけでも目覚めているべきである。

 仏や菩薩に親近することは修行に役立つ。もちろん、誰もができる環境にあるとは言わないが。

 自分がどうなりたいのかを考えること(想起すること)は修行に役立つ。

 決して独りよがりにならず、身近かな人々との関係をよいものにしようと思うことは修行に役立つ。

 嫌なことをするのではなく、むしろ好きなことに取り組み、しかもそれによって覚ろうとしないことは修行に役立つ。

 嫌なことを嫌だと公言することは、修行を阻害しない。

 心の仕組みについて探究することは、修行に役立つ。

 人間の尊厳について考究することは、修行に役立つ。

 人と世の真実を見極めようとすることが、修行そのものである。


修行に役立たないもの

 「これは修行を阻害するものとなる」などと言う不埒なものは存在しない。しかしながら、世間において「これは修行に役立つものである」と少なからず信じられているにも関わらず実は修行には役立たないものがある。それを以下に挙げる。

 瞑想(メディテーション)やいわゆる坐禅(真の坐禅ではないパフォーマンス)は、修行には役立たない。魔境を生むだけである。

 力んで修行することは、修行には役立たない。それでは善知識も近づいてはくれないだろう。

 怠惰であることは修行を破綻させる。最後の最後でしくじることになるだろう。

 いかなる苦行も、覚りには役立たない。修行は楽しみとともに為されるべきものである。

 いかなる儀式も、修行とはならない。修行は、新鮮な気持ちで対峙して為されるべきである。

 仏にすがっても絶対に修行は完成しない。

 他の人々を論破することは何の役にも立たない。紛糺を生むだけである。

 いわゆるボランティア精神は、修行とは無関係である。

 いかなる経験も修行には役立たない。解脱は咄嗟に起こるからである。

 知識の多寡は修行の可否とは関係がない。

 見識の有無によって修行の速さに違いは見られない。

 成人していない者の修行は修行とはならない。

 すでに老齢にある者の修行が完成することは容易ではない。

 自分だけで覚れると考えている者はすでに道を踏み外している。

 真理ならざるものを真理であると見なすならば、修行の完成は遠い。

 真理を真理ならざるものであると誤って断定し、誹謗するならば、地獄へと赴く。


覚ったあとの修行など存在しない

 いわゆる「悟後の修行」など存在しない。なんとなれば、解脱して識別作用の滅を見たならば他に別の解脱など存在しないからである。そして、この解脱は逆戻りすることがない。形態(rupa)が解脱するときには、苦悩のよすががすべて残りなく終滅する。0(ゼロ)は0であって、0以外の何ものでもないように、本当に解脱したときにはすっかり解脱し終えるのである。それゆえに、そのような人にとって悟後の修行など何ら存在しないのは当然のことである。つまり、修行は果てのあるもの、終わりがあるものであると知っている。それで覚った人のことを”修行完成者”と呼ぶ。

 ではなぜ、「悟後の修行」などという言葉を耳にするのであろうか。それは、覚っていないのに覚ったと勘違いしている者があるからである。

 何某かの境涯に達し、自分では覚ったと思っていても、もしも煩悩の火が残っていて心の動揺が静まっていないならば、それは覚りでも何でもないものであると知らなければならない。そのような者は、残った煩悩──実はわずかさえも煩悩を滅してはいないのであるが──を滅するための果てしない修行が仏道であるなどと言うだろう。彼は、自分では覚ったつもりでいても、すぐに元の木阿弥になることを知っているからである。その現実を見て、「悟後の修行」などという誤った考えを起こすのである。しかし、これはまったく愚かしいことである。いかなる仏も、覚った後に修行が必要だなどとは決して言わないからである。

 欲にしたがい、物を欲しがるように覚りを求める者が、魔境に陥って愚かな考えを起こす。安らぎを求める修行者は、決してこのような事態に陥ってはならない。聖求によって解脱し、この聖求によってその解脱が真の解脱であると覚知せよ。真の解脱知見は、虚妄ならざるものだからである。


誤った修行は地獄行きになるのか?

 正しい修行も、誤って行うと地獄に落ちることがある。これは本当のことである。それゆえに、修行者は心して修行しなければならない。

 しかし、だからと言って修行者が修行に取り組むことを恐れていては話にならない。心構え正しき修行者は、そんなことを危惧しなくてもまっすぐにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達するからである

 それでも、もしかしたら? と修行に恐怖を感じる人もあるだろう。そこで、絶対に地獄行きにならない修行の心得について以下に記す。

 先ず、何よりも大事なことは正法を誹謗してはならないということである。これさえしなければ、どんな修行をしても地獄に落ちることは決してない。なお、表現はさまざまだが、ここで正法とは次のことを指す。

  正法: 人は真実のやさしさを知ることによって仏となるという事実。

 すなわち、やさしさの追求が仏になる道であるということを誹謗しない限り、何をどのように考えていても地獄に落ちることはないということである。

 次に注意すべきことは、自分の浅はかな修行の正当性を信じる余り、たとえうっかりでも仏、阿羅漢、〈道の人〉を傷つけてはならないということである。これさえしなければ、どんな行為をしても地獄に落ちることは決してない。

 最後に注意すべきことは、法(ダルマ)が正しく語られるのを遮ってはならないということである。これさえしなければ、どんなことを論じても地獄に落ちることは決してない。

 修行者は、たったこれだけのことを注意しておくだけで、地獄に落ちる怖れは無くなる。

 三つのことをしないように注意しさえすれば、地獄に堕ちる心配はいらない。この損なってはならない三つとはいわゆる三宝(仏法僧)のことである。逆に、三宝を敬う人は天界に生まれる。天界とは、三宝が満ちている国のことだからである。

 地獄に堕ちた者は気が遠くなるような長い時間おそろしい苦悩に喘ぐ。そして、容易にはこの世には戻って来られない。決して為してはならないことを為した報いであるが、それがなぜ分かるかと言うと、生まれながらに三宝を損なうような邪悪な者がこの世に生を受けるのを見ないからである。

 人々には見えないから、地獄が実在しないのではない。地獄からこの世に帰還することが極めて難しいので、地獄の実在が人々には見えにくいに過ぎない。聡明な人は、地獄の実在を覚知する。試したことはなくても、麻薬や覚醒剤の恐ろしさを知っているようなものである。心構え正しき修行者は、地獄など何の縁もないが、ある者どもにとっては地獄は決して遠いところにあるのではない。自分がどちらか分からない人は、三つの悪しきことがらをうっかりでも為さないように気をつけるべきではある。


正法とはそもそも何であるか

 正法とは人を覚りに至らしめる偉大な力を持った文章のことである。人は、この正法によって仏となる。

 正法は、意味の通じる文章であって呪文ではない。しかしながら、人は正法の意味を理解することによって覚るのではない。人は正法を縁として覚るが、正法を理解したゆえに覚ったのではないと知るからである。つまり、正法は理解できなくても覚ることができる。覚り以前においては、ただ正法を知っていれば充分である。覚った後で、正法の意義を知ることになるからである。

 修行者が正法を知らなくても阿羅漢果を達成することはできる。しかし、正法を知らない者が仏になることはあり得ない。正法にしたがい、正法により、正法の真の理解を生じつつあるとき、まさしく正法を理解する機縁を生じ、因縁があって、正法の記述が真実であると知った人が、この正法によって仏となる。

 正法は、修行者が真実を知ろうとすることと密接に関係している。修行者が真実を知ろうとするゆえに正法の理解を生じる。正法を書いた仏たちも修行者が真実を知ろうとすることを前提としてこの正法を書き記している。もし経典に正法の記述がなければ、仏教が仏教として伝わることはなかったかも知れない。

 正法は(法身の)諸仏たちが書かせたものではない。正法は、この世に出現した仏たち(如来)が書き記したものである。仏たちは、苦悩する人々が覚り、自分と等しく異なるところがないようになって欲しいと願ってこの正法を書き記した。この正法を完全に理解した仏が後の世に出現したときに、まさしく仏になったのだと知らしめるためにも仏たちはこの正法を書き記したのである。

 正法は修行者を仏にならしめる威力がある。その反面、正法によって地獄に堕ちる者も現れる。心が邪であるならば、正法はその者をすみやかに、まっすぐに地獄へと突き落とすからである。それゆえに、仏たちは注意深く正法を経典の中に書き留めている。心構え正しき修行者だけがこの正法によって仏になることを知っていたからである。

 正法は、法(ダルマ)の本質をずばり明らかにしている。余りにもはっきりと書き下されているので、心が邪な者には恐ろしい副作用が現れる。それゆえに、みだりに正法を開示してはならない。開示すべき人に、開示すべき時に、開示するに相応しいやり方で開示しなければならない。



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