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チャクラおよびナーダ音

 魔境ではないが、瞑想(メディテーション)を行なうとチャクラが見えたり、ナーダ音が聞こえたりするようになる。これらは覚りとは本質的には関係がないものであるが、一定の関係が認められるものでもある。と言うのは、解脱するとチャクラが見え始める人があるからである。

 
 チャクラは、釈尊の仏伝では覚りを開いた朝に見た「明けの明星」として知られているものである。しかしながら、スッタニパータやダンマパダなどの主要な原始経典においてはその明確な記述は認められない。つまり、釈尊もこれは覚りとは無関係であると考えていたのであろう。
 
 私(=SRKWブッダ)のことで言えば、覚る20年前からチャクラは見えていた。さらに覚る15年前には目を開けた状態でもつねにチャクラが見えるようになった。現在もそうである。チャクラはつねに見えている状態である。しかしここで考えてみて欲しい。もしもチャクラが覚りに関係があると言うのならば覚る20年も前から見えていたのはいかなる理由であろうか。チャクラがつねに見えるようになった時から15年も経ってやっと覚ったのであると考えたとき、チャクラは覚りとは無関係であろうと言うべきことが分かる。このことはナーダ音についても同様である。いわゆるナーダ音が聞こえるようになったのも、覚る20年前であるからである。
 
 それでも早とちりする修行者は、瞑想(メディテーション)によってチャクラが見えたりナーダ音が聞こえるようになると何かの境地に達したような気がして有頂天になるかも知れない。それこそが魔境に陥る隙となる。神秘的なものに憧れる性質のある修行者は、とくに気をつけるべきことである。

地獄

 地獄について述べたい。

 地獄には光がない。地獄から這い上がる手段が基本的に存在していない。それで、一度地獄に堕ちると長い間苦しむことになる。

 さて、この世に善悪の区別が無いならば、最初から善悪を論じる必要はないであろう。しかし、衆生にとって善悪はまさしく実感されるものである。ところが、善悪は超えることができる。それが智慧の体現であり、真如である。

 善悪を認めるが、善悪に左右されない境地が真如である。これは、たとえば病気のキャリアのようなものである。世に善悪があることは知っているが、善悪そのものを超えた境地が覚り(智慧)である。これは、病気の根治(免疫)のようなものである。

 また、善悪がそもそも存在しない世界が想定され、間違いなく実在している。それが法界である。ゆえに、法界からこの世へのアクセスは法の句の形を採ることになる。

 さらに、善悪が意味を持たない世界も想定され、これも間違いなく実在している。それが地獄である。それで、一度地獄に堕ちると功徳を積むことができず、この世に戻ってくることができない。

 因果応報と言うのは、善いことをすれば善い世界に生まれ、悪いことすると悪処に堕ちるなどというような単純なものではない。因果応報の真実は、善いことを善いことだと知り、悪いことを悪いことだと知る人は、天界に生まれてついに覚るということである。

 また、因果応報の真実は、善いことを悪いことだと言い張り、悪いことを善いことだと言い張るひねくれ者は、善悪が倒錯した地獄に堕ちて長い間苦しむということである。地獄では善いことを為しても善いことだと見てくれず、悪いことを褒める世界である。誰もこんな処に居たくないであろうが、それはまさしくかつての自分が現世においてしたことである。その因縁によって地獄に堕ちるのである。

 因果応報についての第一種の理解は、真理を真理だと理解する人は天界に赴きついに覚り、真理を真理だと理解することのできない者は地獄に近づくことになるというものである。

 因果応報についての第二種の理解は、真理ならざるものを真理ならざるものだと理解して離れる人は天界に赴きついに覚り、真理ならざるものを真理だと見なして近づく者は地獄に堕ちてしまうということである。

 たとえば、薬を薬だと理解する人の病気は癒えるが、麻薬を(快楽の)妙薬だと見なす者は当初健康であっても末路は悲惨であるようなものである。あるいはまた、麻薬を危険なものだと理解する人は廃人になる怖れが無いが、薬を毒だと見なす者の病はついに癒えないようなものである。

 本来、人々に賢愚の区別はないが、それぞれの功徳の有無によって賢愚が現れる。そうして、それぞれの人はそれぞれに相応しい処に行き着くことになる。天界に行って覚るも、地獄に堕ちて苦しむも、各自のことがらである。どちらに行くにせよ、そは自分自身で選んだ道なのである。


あとがきに代えて

 私(=SRKWブッダ)が慧解脱を果たして覚り、仏となってから丁度10年になる。その間、無上の楽しみたるニルヴァーナの境地は、途切れることなく続いている。覚りは、一切の苦悩からの解脱であり憂いなき境地の体得である。その境地が継続しているのである。そして、それは私が生きている間続くことは間違いない。

 
 さて、仏となってからこの10年間にはいろいろなことがあった。覚りと同時に疑惑は去りその真相が明らかになったことがいくつかあるが、それだけでなく覚りが継続する中でこの境地について理解が深まったこともある。本書は、それらについても記した。
 
 また、とくに仏教の世界観について釈尊以来伝えられていることについても一部触れたが、分からないことは分からないと書いた。それでも推定で論じられるものについては論じている。仏がどのように世界を見ているのかを垣間見ることができるであろう。
 
 ところで、何の予備知識もない者がこの本をいきなり読むと理解を超えた奇怪なものに映るかも知れない。覚りの気根のない者が読んでも、混乱して信じることは難しいだろう。そのような場合には、まだ自分には仏縁がないのだと知って考え込まないようにして欲しい。いずれ功徳を積むことがあったならば、その時にこそこの本が役に立つであろう。
 
 例によって、この本も必要があれば適宜拡充して行くつもりである。コメントやメールなどで読者の感想や意見があれば歓迎したい。
 
     2011年12月18日 著者記す      

奥付



『仏道の心髄』


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著者 : SRKWブッダ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/buddha1219/profile


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