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── 目次 ──

 【2013.12.30版】

1章 覚りの真相
    覚りとは何か 1936文字 
    覚りの解釈 1740文字 
    覚りの前後に起こること 2193文字 
    覚りの階梯 932文字 
    懺悔 850文字 
    帰依 985文字 
    覚りの機縁 663文字 

2章 覚りの修行
    修行とは何か 2,173文字 
    修行に役立つもの 610文字 
    修行に役立たないもの  642文字 
    覚ったあとの修行など存在しない  748文字 
    誤った修行は地獄行きになるのか? 1,124文字 

3章 法
    正法とはそもそも何か 966文字 
    正法の手引き 421文字 
 
4章 四聖諦
    四聖諦とは 490文字 
    苦諦 594文字 
    集諦 312文字 
    滅諦 315文字 
    道諦 460文字 

5章 聖求
    聖求とは 887文字 
    聖求なき者はどうなる 808文字 
    聖求は喚起できるか? 592文字 

6章 戒律
    具足戒 819文字 
    修行者が持つべき戒律 123文字 
 
7章 観
    観の実践 634文字 
    公案を援用した方法 374文字 
    観(=止観)の完成 307文字 
    観とはならないもの 595文字 
 
8章 遍歴
    遍歴の実際 876文字 
    それは遍歴とは言わない 353文字 

9章 法界
    法界と諸仏 1,523文字 
    諸天・諸神 772文字 
    悪魔とその軍勢  862文字 

10章 魔境
    魔境とは 795文字 
    チャクラおよびナーダ音 692文字 

11章 地獄
    地獄 1,198文字 
 


涼風通信のパスワード

ホームページ『覚りの境地』(http://www.geocities.jp/srkw_buddha)


 「涼風通信」の最新パスワードは下記の通りです。

   → 無料化にともない非掲載。

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【更新履歴】

 2011年12月18日  第一版完成。
 2011年12月19日  四聖諦について章を追加。 第一版として継続。
 2011年12月22日  一部ルビに対応。
 2011年12月26日  遍歴について拡充した。
 2012年01月05日  集諦について拡充した。
 2012年01月07日  遍歴の実際および修行とは何かについて拡充した。
 2012年02月01日  2章に一節を追加した。 「誤った修行は地獄行きになるのか?」
 2012年02月10日  1章に一節を追加した。 「帰依」
 2012年02月22日  全体的に、細かい点について拡充した。
 2012年12月29日  11章を追加した。 「地獄」
 2013年01月23日  9章-1節「法界と諸仏」に引用を追加した。

はじめに

 一般に、仏教は難解であると見られているようである。しかしながら、仏教そのものは本来分かりやすい平易な教えである。実際に難しいのは仏道を歩むことである。釈尊以来およそ2500年が経過しているが、覚りの境地に至った人は極めて少ないという事実がそれを何よりも物語っている。これは仏道が険しい道であるということではなく、仏道を最後まで歩む人が少ないことを示している。ある者は途中で道を踏み外し、ある者は袋小路に迷い込み、ある者は落とし穴に落ち、ある者は道草を食って、ほとんどの修行者が生きている間に目的地まで到達しないのである。

 本書は、この仏道を歩むことについて修行者が心得ておくべきことがらについてその心髄を記したものである。もちろん、すでに功徳を積んだ育ちのよい人(=生まれながらの菩薩)は本書を読まなくても周到に覚りに達するであろう。まっすぐに道を歩める人は、道の途中に道標などなくても目的地たるニルヴァーナに到着するからである。しかしながら、そうでない修行者もあるだろう。本書は、そのような修行者に向けて書いた。

 本書は、仏道の心髄を簡潔に述べることを旨としており、敢えて平易な表現は採っていない。そのため、初学の修行者にとって内容は極めて難解なものとなっているかも知れない。また、仏道の心髄をずばり指し示すことを旨として書いており、敢えて冗長な表現は採っていない。本書を読み物として楽しんで読もうとする人にとっては物足りなく感じるかも知れないが、心髄のみを簡潔に書くことによってむしろそれぞれの真意が鮮明になると考えた。

 静けさを目指し、究極の安らぎたるニルヴァーナに至り住することを願う人は、本書に挑戦して欲しい。浅学の者は読みこなすのに苦労するであろうが、修行者にとってそれは必ずや空しからざる努力となるものと確信するからである。

 ただし、邪な心で本書を読めばニルヴァーナに達するどころか地獄行きとなるであろう。正しい道の案内であっても、心得違いをする者にとっては役に立たないどころか身を滅ぼす悪魔の説と化してしまうからである。この点に留意してじっくりと読まれることを願う。

覚りとは何か

 そもそも覚りとは何か? それを説明したい。

 覚りとは目覚めることである。何から目覚めるかと言うと、この世の虚妄から目覚めるのである。この世の真相は、世人が見ているようなものではない。覚るとそれの真相が見え、種々さまざまな虚妄が消滅する。

 消滅するものの中でもっとも重要なものが「識別作用」である。と言うのは、人々(衆生)はこの識別作用があるために苦悩しているからである。

 たとえば手でテーブルを強く叩くと音がする。人々にとってその音は不快なものとして感じられるであろう。しかし、よく考えてみるとその音自体には人を不快にするような特別な何かがあるわけではない。ただ机を叩いた音がしただけの筈である。実際、机を叩いた音は机を叩いただけの音に過ぎない。覚るとそれがまったくそのように聞こえ、不快感を生じたり、その音に驚いたりすることがなくなる。それで覚ったことによって識別作用が消滅したと分かるのである。

 この識別作用は、いわゆる六識(眼耳鼻舌身意)それぞれに影響を与えている。覚るとそのすべてについて識別作用が消滅する。すなわち、外界との接触によって起こるそれぞれの識について人を不快にするような識別作用だけが消滅するのである。

 ここで、「人を不快にするような識別作用だけが消滅する」という点が重要である。認識作用自体が消滅するのではなく、不快なものだけが消滅する。これは本当に不可思議なことであるが、覚ると実際にそうなるのである。ただし、同時に人に快を与えるような識別作用もほぼ終滅する。したがって、覚ると飛び上がって喜ぶような快を味わうことはできなくなる。それでも不快なものが一掃されるのは素晴らしいことである。それで覚りの境地を”楽”と称するのである。

 覚ると、この世は余計なものだらけであることが分かる。それどころか、この世のほとんどすべてが余計なものなのだと気づく。たとえば、子供が大人になったとき、子どもじみた玩具の数々がもうどうでもよいガラクタに映るようなものである。すでに覚った人にとって、衆生が喜ぶようなものは喜ぶに足りないものと映る。また、衆生がそれを無くしたと言って悲しんでいるようなものも、実は悲しむに値しない下らないものだと知るのである。

 もちろん、この世のすべてが下らない、不要なものだと映るのではない。必要なものは必要なものだと分かる。ただし、そのようなものでもどうしてもそれがなければならないかと言われれば別に無くてもよいもの、他のもので充分に代替できるものだと知っている。それゆえに、覚った人は特定の何かにこだわらない。たとえば釘を打つのにはハンマーが最適であることは当然のことであるが、ハンマーが無くても他のものを適切にその代わりにして釘を打つことができるようになるようなものである。

 また、衆生は人間関係で多くの苦悩を受けている。しかしながら、覚った人は人間関係で苦悩することがない。全人類がいわば我が子か家族になったような対応ができるようになる。心の中に巣くっていた悪を完全にとどめているので、何かと敵対することがない。敵対することがないので無敵(敵がいない)である。それで未来を危ぶむような不吉なことがない。不吉なことは多く人間関係から現れるものだからである。

 覚った人は、憂いがなく、過去のことを思い出して悲しんだり、未来のことがらについてあくせくすることがない。ただ現在のことがらについてだけで生きている。なぜそうなるのかと言えば、過去はすでに過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来していないと如実に知るからである。現在の安らぎは過去のことがらすべての結果であり、過去を変える必要がない。未来のことは今現在何をどのように計らおうともそれに従ったものとはならないことを知っている。すべては結果オーライとなり、思惑など抱かなくても最善・最良・最高の結果となることを知っている。なぜそうなるのかは説明できないが、覚った人の行為は必ずそのようになるのである。これは本当に不可思議なことであるが、それがそうなる境地が覚りの境地であることは確かである。

 覚った人は、死を超克している。死の恐怖はなくなり、来世を願うこともない。この世においても、すでに為すべきことを為し終えていることを知っている。衆生世間に楽しみがあることは知っているが、その楽しみはすでに自分を心から楽しませるものとはならないことを知っている。けだし、真の楽しみは安らぎ(=ニルヴァーナ)であることを如実に知っているからである。これは痩せ我慢ではない。余計なものがない楽しみを知り、世間の人々が余計なものを抱え込んでいるゆえにかえって苦悩に喘いでいることを見るからである。



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