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魔境

魔境とは

 修行者に隙があると、魔境に陥ることがある。一度魔境に落ち込むと、人によっては容易に抜け出すことが出来なくなる。しかし、魔境がどんなものかを知っていれば恐れるに足らない。

 
 魔境とは、一言で言えば「仏国土の下手な複製」である。まともな人であれば、本物よりも複製(おもちゃ)の方が好ましいとは思わないだろう。しかし、悪魔とその軍勢は人々(衆生)の隙につけ込んで、複製が本物よりも魅力的なものであるかのように見せかけ、愚かな人々を惹きつけてしまうのである。
 
 さて、悪魔とその軍勢はいわば勝手に人々(衆生)を幻惑しようとするのであるから、それを横から止めさせることはできない。できることは、人々が幻惑されないように魔境の真実を知らしめることであろう。
 
 先ず大事な結論を言おう。それは、聖求ある人は決して魔境には陥らないということである。と言うのは、聖求ある人は、自分が到達すべき境地について微かであるが確かな覚知を持っているので、魔境はそれにはあたらないことをすぐに見破ってしまうからである。たとえば、葉っぱでできたままごと遊びのお札を、本物のお金ではないと簡単に見破るようなものである。
 
 聖求なき者は、魔境に陥ることがあり得る。そのような人でも、魔境に陥らないための方法や抜け出す方法を知っていることは役立つに違いない。その具体的な方法は、悪魔とその軍勢の手口を知ることである。すなわち、1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢 がそれである。日々の修行によってこれらの悪癖を御すならば、魔境に陥ることは決してないであろう。うっかり魔境に陥ってしまった人でも、こららの悪癖を御することで魔境から抜け出すことができる筈である。
 
 子供達がつまらない遊びを卒業して大人になるように、修行者は世俗のつまらない享楽や騒動から離れ抜け出して、仏の世界に親近すべきである。

チャクラおよびナーダ音

 魔境ではないが、瞑想(メディテーション)を行なうとチャクラが見えたり、ナーダ音が聞こえたりするようになる。これらは覚りとは本質的には関係がないものであるが、一定の関係が認められるものでもある。と言うのは、解脱するとチャクラが見え始める人があるからである。

 
 チャクラは、釈尊の仏伝では覚りを開いた朝に見た「明けの明星」として知られているものである。しかしながら、スッタニパータやダンマパダなどの主要な原始経典においてはその明確な記述は認められない。つまり、釈尊もこれは覚りとは無関係であると考えていたのであろう。
 
 私(=SRKWブッダ)のことで言えば、覚る20年前からチャクラは見えていた。さらに覚る15年前には目を開けた状態でもつねにチャクラが見えるようになった。現在もそうである。チャクラはつねに見えている状態である。しかしここで考えてみて欲しい。もしもチャクラが覚りに関係があると言うのならば覚る20年も前から見えていたのはいかなる理由であろうか。チャクラがつねに見えるようになった時から15年も経ってやっと覚ったのであると考えたとき、チャクラは覚りとは無関係であろうと言うべきことが分かる。このことはナーダ音についても同様である。いわゆるナーダ音が聞こえるようになったのも、覚る20年前であるからである。
 
 それでも早とちりする修行者は、瞑想(メディテーション)によってチャクラが見えたりナーダ音が聞こえるようになると何かの境地に達したような気がして有頂天になるかも知れない。それこそが魔境に陥る隙となる。神秘的なものに憧れる性質のある修行者は、とくに気をつけるべきことである。