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諸界

法界と諸仏

 法界の諸仏が現世に智慧を出現せしめて法の句として発する。それが善知識である。修行者はその善知識を耳にして正法の真実を知り、因縁によって解脱を果たす。これが覚りという現象の全貌である。

 
 ところで、そもそも法界とは何なのであろうか? 諸仏はなぜ現世に智慧を出現せしめようとするのであろうか?
 
 さて、そもそも法界を見たことがあるか? と問われれば
 
  『見たことはない』
 
と答えるしかない。では、なぜ法界があるなどと言えるのであるか? と問われれば
 
  『この世にはないものが時として出現するので、その出所が法界であると考えるしかない』
 
と答えなければならないであろう。この世にはないものとは何か? と問われれば
 
  『智慧』
 
と答えることができる。智慧をこの世に出現せしめているのは誰か? と問われれば
 
  『諸仏がそうしているのであろう』
 
と答えるべきだと言えよう。と言うのは、この世の誰も智慧を知らず、それを知るのはただ諸仏だけだからである。
 
 ただ、未だ分からないことがある。なぜ諸仏は智慧をこの世に出現せしめるのか? という点である。そのいわゆる動機については、次のように推定することができる。
 
  『この世の衆生が解脱して仏(如来)になると、衆生を自分と等しく異なることがないようにしたいという誓願を持つに至る。その誓願は法界の諸仏も同じなのであろう。そして、それゆえに諸仏は時としてこの世に智慧を出現させて、本質的に自分と等しく異なることのない生き身の仏(うつせみの仏)をつくり出そうとしているのであろう。』
 
 すなわち、そのような動機を持つ存在が諸仏に他ならず、それゆえに諸仏は諸仏と呼ばれるべき何かであると言うべきことである。

 なお、釈尊が法界について語っている経典は少ないが、少なくとも次の箇所は法界について詳細に述べている部分である。

【 第二六章 安らぎ(ニルヴァーナ) 】  注記1)

{中略}

21 不生なるものが有るからこそ、生じたものからの出離をつねに語るべきであろう。 作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

22 生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、──それは喜ぶに足りない。

23 それの出離であって、思考の及ばない境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

25 来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。 住してとどまることも無く、依拠することも無い。──それが苦しみの終滅であると説かれる。

26 水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ──、そこには白い光も輝かず、闇黒も存在しない。

27 そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。 聖者はその境地について自らあるがままに知り、自己の沈黙をまもって、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28 さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。 これがかれの最後の身体である。

29 これは究極たる最上の境地であり、無上の静けさの境地である。 そこは、一切の相が滅びて無くなり、{世間に}没することのない解脱の境地である。


注記1) 引用: ブッダの 真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫 青 302-I ISBN4-00-333021-8

諸天・諸神

 ここでは諸天・諸神と表現するが、一般には護法善神と呼ばれている。その名の通り、法(ダルマ)を守る神々であり、ひいては仏道を歩む修行者を守護すると言われている。実際、修行者にはまるで何かが危険を回避してくれているような不可思議なことが起こるし、それは解脱しても変わらない。法(ダルマ)を求め、実践する人は何かに護られているという実感が確かにある。
 
 さて、諸天・諸神の出自であるが、それは法界ではなく天界であると考えられる。と言うのは、諸天・諸神が修行者を守護するやり方がとても人間的なものだからである。それらはまるで偶然を装ってはいるが、どこか人が差し向けたような匂いを感じるのである。この点は、法界の智慧とはまったく違っている。
 
 修行者を守護するためには、その他の人間を動員しなければならない。それでその手法は人間くさいものとなるのだろう。智慧は人間とは余りにかけ離れていて、相手が菩薩ならいざ知らず、それを用いてはいわゆる低俗な人々(衆生)を動かすことはできないからである。たとえば町中で妙なる調べを流しても足をとめる人は少ないであろう。が、どこかの一角で大きな爆発音を立てれば多くの人々が何事かと急ぎ集まってくるだろう。一種野蛮なものほど人々を動員する変な力を持っているからである。
 
 それでも一部場合によっては高尚な手段が用いられる。その一つが陀羅尼(ダーラニー:総持)である。これは智慧に似たものであり、極わずかな言葉によってあらゆる人々を御することができる特別な言葉(呪文)である。これはとくに善男善女を守護するために用いられる。この陀羅尼を耳にした人は、彼らに危害を加えることは決してあり得ない。この陀羅尼の出自も天界だと考えられるが、これは諸天・諸神が未来において自分たちが仏になるための功徳を積んでいるのだと考えてよいであろう。

悪魔とその軍勢

 その本当の正体は不明であるが、人々(衆生)が解脱して覚ることを好まず、人々をこの世にそのまま留めようとする存在が知られる。それが悪魔とその軍勢である。

 
 悪魔とその軍勢は人々にいろいろな影響を与えようとするが、その手段は一般に低俗で野卑である。それゆえに、彼らの出自は人間界よりもいわば低い界であると考えて差し支えないであろう。仏教用語にはそれらを表すいくつかの名称があるが、ここでは敢えて特定しない。
 
 悪魔とその軍勢の特徴は、言葉を使わずに身振り手振りや表情、音声などで人々を惹きつけ、あるいは脅し、すくませ、また意味もなく安心させて、結果的にこの世に留めようとすることである。しかし、その活動は単発的であり、連動して畳みかけたようなものは少ない。それぞれの手口もバラバラで、統一性に欠けている。指揮系統がはっきりとは見えない。どこか投げやりで、起伏が激しい割には散漫であり、集中的でない。その場限りで、永続性が認められない。知的でなく、動物的な臭いがする。それでも人々(衆生)をこの世に留め置くには充分過ぎる力を持っているのは確かである。釈尊という偉大な仏の出現以降にも多く存在する享楽的で俗悪な歴史の事実群がそれを物語っている。
 
 さて、具体的には 1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢 が悪魔とその軍勢の仕業によるものであると考えられる。
 
 人々(衆生)がこれらに馴染むと、無上の楽しみたるニルヴァーナに向かうことを止め、劣悪なこの世にこそ留まりたいという気持ちにさせられる。また、本来、人にはこれらの8つの悪癖は無いのであるが、まるでそれが人の本来的な性質であるかのように見せかけられ、思い込まされてしまう。その結果、人々(衆生)はこれらを容易に捨て去ることができなくなってしまう。自分自身で自分をこの世に縛りつけてしまうのである。
 
 しかしながら、解脱した人はこれらの悪癖をすでに離れている。元々存在しないものなのであるから、解脱と共にこれらが一掃されるのは当然のことである。