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聖求

聖求とは

 求めるから得ることができる。覚りもまたそのようである。しかしながら、覚りはただ求めるだけでは得ることができない。覚りは、聖求(しょうぐ)によってのみ得ることができると説かれる。

 修行者の中には、覚りを求めてはいるが聖求なき者がある。それでは彼は修行者とは呼べない。その一方で、人々の中には覚りを明確に求めてはいないが聖求ある人がある。そのような人はすでに修行者の部類に入る。

 もし覚りに素質というものがあり敢えてその有無を論じるならば、それはこの聖求の有無に帰せられるだろう。

 聖求ある人の聖求を損ない挫くことは誰にもできない。聖求なき人に聖求を与えたり喚起することも誰にもできない。聖求とは求めでありながらその本質は心底においてすでに知っている「それ」のことだからである。この心底の「それ」を表面的なことで云々することはできないからである。つまり、聖求は外的なことにも内的なことにも影響を受けず、他の人が影響を与えることもできない。

 聖求ある人は修行の成否を心配するに及ばない。遠からず覚るだろうからである。問題は聖求なき者である。聖求なき者は覚ることができないのであろうか? 結論を先に言えば、聖求なき者はおそらく今世で覚ることはないであろう。今世の功徳を来世に廻向するしか方法はあるまい。そのような者はSRKWブッダという仏との縁によって覚ることはないが、功徳を積んで聖求を廻向するならば他の仏との縁によって覚ることができるだろう。

 ところで、ここで言っておきたいことがある。聖求の有無はどうあれ、今現在の修行は決して無駄にはならないということである。その果報が今世で現れるか、来世で現れるかの違いがあるだけである。その意味では、修行に勤しむ人は何ら心配することはない。

 あるものを無いことにすることはできない。無いものをあることにすることもできない。それが聖求の真実である。また、自分に聖求があるかどうか気になる者もあるかも知れないが、聖求とはそのような範疇のものではない。ではなぜ仏たちは聖求について語るのかと言えば、聖求があってこそ覚ることができるからである。


聖求なき者はどうなる

 聖求なき者はおそらく今世で覚ることはないと書いた。聖求がなくても今現在の修行そのものは無駄にはならないとも書いた。それでも、聖求なき者が今世で覚る道はないのであろうか? 聖求なき者にとって、そもそも修行は成立しないのであろうか?

 
 結論を言わねばなるまい。聖求なき者はどうあっても今世で覚ることはないだろう。聖求はそれほど決定的な覚りの要因なのである。聖求なき者にとって、あらゆる道は閉ざされていて覚り(ニルヴァーナ)に通じていない。生まれつき全盲の人に景色を見よと言うようなものである。
 
 次に修行のことである。結論を言えば、聖求なき者にとって修行そのものが成立しないと考えるべきであろう。生まれつき全盲の人に絵を描かせて、それによって素晴らしい絵が完成するだろうなどとは決して言えないようなものである。無理なものは無理だと言わねばなるまい。
 
 聖求なき者の修行は成立しない。ならば聖求なき者はどうすればよいのか? 何ができ得るのか? その問いに答えなければなるまい。その答えは次のようなものになるであろう。
 
  『聖求なき者は布施・供養して旦那(ディヤーナ)となり、功徳を来世に廻向するしか覚る方法がない。』
 
 すなわち、聖求なき者は覚りの気根そのものを欠いていると言わざるを得ない。前世で功徳を積まなかったのだろうとその理由を言えなくもないが、それをどのように言ったところで詮なきことである。
 
 ただし、ここで留意すべきことは、たとえ覚りの気根を欠いていようとも修行者としての資質が疑われるものではないという点である。たとえば生まれながらに全盲で生まれたからと言って、その人を「人ではない存在」などと名指しして尊厳を損なうことは決してできないであろう。それと同様である。
 
 たとえ聖求があっても預流にしか達しない人もある。現世・現時点の聖求の有無によって覚り(=安らぎ)を願う人々を区別することなど本来できないことである。

聖求は喚起できるか?

 最初の節で「聖求なき者に聖求を与えたり喚起することは誰にもできない」と書いた。本当にそうなのであろうか? 結論を言えば、これはこの通りであるとしか言いようがない。

 
 では、「聖求なき者が自分自身で自分の聖求を喚起できるか?」 という問いならばどうだろう。
 
 これについては別の答えになるだろう。
 
  『聖求なき者が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。』
 
 これは、いわゆるその気になるということである。そして現在聖求を持っている修行者といえども、生まれながらに聖求を持っていたというよりも、むしろ仏教のことを聞き知ってその気になり、今世において聖求を持つに至ったというのが的を射た言い方かも知れない。
 
 また、ある人の場合、他の人が仏教の進んだ境地に至ったことを知って発心し、その発心と同時に聖求を持つに至ったという事実も認められる。(涼風尊者の例) 彼女は、明らかに最初は聖求がなかった。
 
 これはたとえば独身貴族を楽しんでいて結婚する気などさらさら無かった人が、乗り気でないお見合いに無理矢理出席させられたところ相手の人に一目惚れしてしまい、同時に結婚したいという気持ちをも生じたなどと言う場合に似ている。
 
 すなわち、自分自身によって自分自身の聖求を喚起することは充分にあり得ることであると言えよう。