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覚りの真相

覚りとは何か

 そもそも覚りとは何か? それを説明したい。

 覚りとは目覚めることである。何から目覚めるかと言うと、この世の虚妄から目覚めるのである。この世の真相は、世人が見ているようなものではない。覚るとそれの真相が見え、種々さまざまな虚妄が消滅する。

 消滅するものの中でもっとも重要なものが「識別作用」である。と言うのは、人々(衆生)はこの識別作用があるために苦悩しているからである。

 たとえば手でテーブルを強く叩くと音がする。人々にとってその音は不快なものとして感じられるであろう。しかし、よく考えてみるとその音自体には人を不快にするような特別な何かがあるわけではない。ただ机を叩いた音がしただけの筈である。実際、机を叩いた音は机を叩いただけの音に過ぎない。覚るとそれがまったくそのように聞こえ、不快感を生じたり、その音に驚いたりすることがなくなる。それで覚ったことによって識別作用が消滅したと分かるのである。

 この識別作用は、いわゆる六識(眼耳鼻舌身意)それぞれに影響を与えている。覚るとそのすべてについて識別作用が消滅する。すなわち、外界との接触によって起こるそれぞれの識について人を不快にするような識別作用だけが消滅するのである。

 ここで、「人を不快にするような識別作用だけが消滅する」という点が重要である。認識作用自体が消滅するのではなく、不快なものだけが消滅する。これは本当に不可思議なことであるが、覚ると実際にそうなるのである。ただし、同時に人に快を与えるような識別作用もほぼ終滅する。したがって、覚ると飛び上がって喜ぶような快を味わうことはできなくなる。それでも不快なものが一掃されるのは素晴らしいことである。それで覚りの境地を”楽”と称するのである。

 覚ると、この世は余計なものだらけであることが分かる。それどころか、この世のほとんどすべてが余計なものなのだと気づく。たとえば、子供が大人になったとき、子どもじみた玩具の数々がもうどうでもよいガラクタに映るようなものである。すでに覚った人にとって、衆生が喜ぶようなものは喜ぶに足りないものと映る。また、衆生がそれを無くしたと言って悲しんでいるようなものも、実は悲しむに値しない下らないものだと知るのである。

 もちろん、この世のすべてが下らない、不要なものだと映るのではない。必要なものは必要なものだと分かる。ただし、そのようなものでもどうしてもそれがなければならないかと言われれば別に無くてもよいもの、他のもので充分に代替できるものだと知っている。それゆえに、覚った人は特定の何かにこだわらない。たとえば釘を打つのにはハンマーが最適であることは当然のことであるが、ハンマーが無くても他のものを適切にその代わりにして釘を打つことができるようになるようなものである。

 また、衆生は人間関係で多くの苦悩を受けている。しかしながら、覚った人は人間関係で苦悩することがない。全人類がいわば我が子か家族になったような対応ができるようになる。心の中に巣くっていた悪を完全にとどめているので、何かと敵対することがない。敵対することがないので無敵(敵がいない)である。それで未来を危ぶむような不吉なことがない。不吉なことは多く人間関係から現れるものだからである。

 覚った人は、憂いがなく、過去のことを思い出して悲しんだり、未来のことがらについてあくせくすることがない。ただ現在のことがらについてだけで生きている。なぜそうなるのかと言えば、過去はすでに過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来していないと如実に知るからである。現在の安らぎは過去のことがらすべての結果であり、過去を変える必要がない。未来のことは今現在何をどのように計らおうともそれに従ったものとはならないことを知っている。すべては結果オーライとなり、思惑など抱かなくても最善・最良・最高の結果となることを知っている。なぜそうなるのかは説明できないが、覚った人の行為は必ずそのようになるのである。これは本当に不可思議なことであるが、それがそうなる境地が覚りの境地であることは確かである。

 覚った人は、死を超克している。死の恐怖はなくなり、来世を願うこともない。この世においても、すでに為すべきことを為し終えていることを知っている。衆生世間に楽しみがあることは知っているが、その楽しみはすでに自分を心から楽しませるものとはならないことを知っている。けだし、真の楽しみは安らぎ(=ニルヴァーナ)であることを如実に知っているからである。これは痩せ我慢ではない。余計なものがない楽しみを知り、世間の人々が余計なものを抱え込んでいるゆえにかえって苦悩に喘いでいることを見るからである。


覚りの解釈

 覚りとは何であろうかと覚ったあとで考える。それが覚りの解釈である。覚りの境地は、覚る以前にはまったく知らなかった境地である。本来、世俗の何かに似ているとか似ていないとは言うこと自体ができないものである。それでも敢えて覚りを解釈するとすれば以下のようになるだろう。

 もちろん、覚りの解釈など本来は不要である。そんなものを知らなくても覚る人は覚るだろうし、それを予め知っていても覚らない者は覚らないだろう。それでもここに覚りの解釈を述べる気になったのは、これを知ることによって少しでも覚りに近づく人もあるかも知れないと思ったからである。

 さて、衆生にとって覚りとはどのようなものだと考えられているのだろう。一般によく見受けるものの一つは「覚りとは何か重大なものを身につけることである」という見方である。しかし、覚りの実際はこれとは正反対である。覚りとは「余計なものが無くなって、すべてが明らかとなるもの」だからである。

 端的に言えば識別作用の滅がそれである。識別作用の滅を見たからには、心を含め、身体の中にある何かが無くなったと考えるのが通常の理解だろう。仏教では、その無くなったものを名称と形態(nama-rupa)と呼ぶ。なお、これらが同時に消滅するのが本当の覚り(慧解脱)であるが、形態(rupa)だけが消滅する場合がありそれを形態(rupa)の解脱、あるいは身解脱と呼ぶ。また識別作用の滅には至らないが言葉によって起こる苦悩の消滅を見る場合がありそれを名称(nama)の解脱、あるいは心解脱と呼んでいる。

 これらをたとえて言えば、壊れた弦楽器があり聞くに堪えない音を出していたとしよう。楽器そのものを完全に粉砕消滅してしまうのが慧解脱である。楽器の本体と言うべき重要な部分を破壊してしまうのが形態(rupa)の解脱である。弦をうまく張って綺麗な音がでるように調弦したのが名称(nama)の解脱である。もちろん、完全なのは慧解脱である。形態(rupa)の解脱は、もうそれが音を出すことはないので慧解脱と近いが、そこにまだ楽器の残骸が残っているという点で違いが認められる。名称(nama)の解脱は楽器を本来の姿で用いることであるが、調弦されているとは言えうっかり不快な音を出す恐れが残るという点では不完全な解脱である。

 ところで、覚りによって無くなる二つのもの、すなわち名称と形態(nama-rupa)とはそもそも何なのであろう。構成概念として考えたとき、名称(nama)は言語や文化の基底を為すものと考えられ、形態(rupa)は人間としての魂(元型:アーキタイプ)や情念、本能などを司る諸機能の土台とでも言えそうである。つまりこれらこそ人を人として見せているものの本体なのであろう。覚るとそれらが適宜に消滅するわけであるから、覚った人は根本的に人としては数えられない存在となる。

 人々(衆生)は、名称と形態(nama-rupa)ゆえに人として生活している。しかし、この二つのものがあるゆえにありとあらゆる苦悩が襲いかかるのであることを知らない。ただ、これら二つのものを滅した覚者だけがこれらこそ苦悩の本体となるものであると知っている。そしてこれら二つのものがなくても何ら困ることはなく、むしろそれによって人格の完成を見るのだと知るのである。そして、それゆえにもろもろの如来は覚りを勧め、苦悩からの解脱を説く。名称と形態(nama-rupa)とを残りなく滅ぼすことを目指して修行せよと説くのである。

 子供達にとって子どもじみた玩具が宝物であり、他愛のない遊びに興じることが人生のすべてに見える。しかしながら、その子供達も大人になったならば、他愛のない遊びに興じることには楽しみを見い出せなくなり、子どもじみた玩具も捨て去ってしまう。大人には大人らしい本当の趣味の世界が広がっており、仕事に精を出すことに喜びと楽しみとを見い出すようになるからである。それと同じく、覚った人はニルヴァーナという大いなる楽しみがあり、信仰と功徳という宝がもたらされ、智慧によって生きる最高の生活を送る。そうして世俗の楽しみをすべて捨て去ってしまう。それと同時に、一切の苦悩と憂いをも捨て去るのである。


覚りの前後に起こること

 修行者にとって、覚りはまるで突然に訪れる。しかしながら、実際にはある種の予兆が確かに存在している。
 
 修行者において、覚りは一瞬に完成する。しかしながら、実際には覚った後でしばらくの間は覚りの余波とも言うべき一風変わった現象が現れることがある。
 
 まず覚りの前、期間にして2~3日前からもうすぐ覚りが訪れるような妙な気分になる。実際には、それは覚りということとは無関係なことなのであるが、こころの奥ではそれが覚りに関連したものだとまるで分かっているかのような感じである。こんな言い方しか出来ないのは、その予兆が覚りの予兆であったと分かるのが覚った後のことであるからである。つまり、覚りの予兆は覚りが完全に為し遂げられた後にあれがそうだったと確定する性質のものなのである。たとえば、重い風邪などにかかっている人がいわゆる病状の峠を越えたとき、もうすぐよくなりそうな気がふとするであろう。峠を越えた確証はないが身体全体の感覚からそう思うのである。そしてそれがまさしくそうだったことは病気が完全に治ってから分かることである。それと同じく、覚りの前にもうすぐ覚りが訪れるに違いないという独特の感覚が起こる。私(=SRKWブッダ)の場合、覚る3日ほど前の朝に『何か分からないけれどもうすぐ覚れる気がする』と家族に口に出して言ったほどである。
 
 細君(涼風尊者)の場合には、ちょっと劇的だった。その日は車で二人で買い物に行った。帰って来て駐車場に車を止めてふと車の後を見ると500円玉が落ちている。そこは駐車場の端っこであり人が滅多に通る場所ではない。しかも直ぐ見れば分かるように落ちていた。もしもその場で落としたのならば、落とし主が直ぐに見つけるに違いない場所だ。それでこう思った。これは諸天の計らいなのだろう。丁度細君になけなしの500円を借りていたところだったので、返金するつもりで細君に差し上げた。実は、私にとって500という数字は特別な因縁があるようだ。と言うのは、覚る直前に見た夢の中に500円という値段が出てきていたからだ。割愛するがそれ以外にも500という数字にまつわることが私にはある。つまり、縁起がいいので細君にあげたというのが本当のところだった。そして、それは実際に縁起のよいものとなった。その500円玉を拾った日に、それを細君に差し上げた2~3時間後に細君が形態(rupa)の解脱を果たしたからだ。この場合の予兆は本当にはっきりとした不思議なものであった。単なる感覚ではなく物理的な現象として現れているからである。
 
 さて、次に覚った後に起こることを述べよう。覚るとすぐに識別作用の滅が実感される。これはすでに述べた。それ以外に、覚った後しばらくの間いろいろと面白いことが起こる。それが面白いと感じるのは、覚り以前に抱いていたいくつかの誤った覚りの概念が、滅びる時に最後の光を放つかのように現実的な感覚として現出するからだ。
 
 具体的に言おう。たとえば覚ると他心通を生じるということを、私は覚り以前において仏教的な知識として知っていた。しかし、私が抱いていた概念はまるで超能力的なもので、遠くの人々が考えていることがその人のことを念じれば分かるというようなものだった。すると覚った後しばらくしてそれが実際にあるかのような気がした。会社の同僚が今何を考えているのかを読みとり、向こうが私に電話をかけたいと考えているというような気がした。そこでこちらから電話をかけてみると、相手は別に私に電話をかけようとしているわけではなかった。「何か急用ですか?」相手はそう応えた。それで、この感覚は自分の妄想に過ぎないと分かったのである。なお、本当の他心通とは「目の前にいる人も、遠くにいる人も、その人の心が完全に分かる」ということである。具体的には、目の前にいる人の心は天眼通によって、遠くにいる人の心はひろがりの意識を通じて知ることになる。
 
 また、自動書記という現象が取りざたされることがある。自分の意志とは無関係にまるで自動的に霊からの通信を書き殴るというものである。これも覚った後で起きた。ただし、私の場合には霊からの通信という形ではなく、ある文字を紙に書こうとするとその文字の形に机の面が凹んでいて、その凹み通りにボールペンが字をなぞっていくという感覚だった。つまり、自分の個性的な字を書くのではなくその凹みが示す予め指定された形の字しか書けなくなるのである。しかしもちろん、机に文字の形の凹みなどは存在していない。が、本当に机の面が文字の形に凹んでいるように実感されたのである。
 
 さらに、人々の前世の名前が分かるような気がしたり、ある歌の歌詞を全世界の国の言葉に翻訳する能力が身に付いたような気がしたりした。もちろん、それらは皆デタラメなのだが、その時には本当にそれが出来る気がしたものである。
 
 これらの面白い、一種笑うべき現象は、自分の心の中に残っていた濁りのようなものなのだろう。それらが沈殿する前に最後のあがきを示した。たとえばそのように考えると何となくつじつまが合う。ただし、これらの現象は数日間で消え去ってしまうので心配はいらない。敢えて注意するならば、覚った直後は余り公的には行動しない方が賢明だと言うことである。しばらくは自分だけで覚りの余韻を噛みしめるくらいで丁度よい。

覚りの階梯

 覚りはいかなる段階の説にも従わない。これは真実であるが、覚りには階梯があると言う。すなわち、預流・一来・不還・阿羅漢(仏)である。また、心解脱と慧解脱を区別する。これはどういうわけであろうか? それについて述べたい。

 
 そもそも覚りの階梯があると言うのは、実際に覚った人に違いが見られるからであろう。正法にしたがい、智慧によって解脱した完全な解脱と、どうやら完全ではない解脱があるのを見て、階梯というものを立てるに至ったと考えてよいだろう。
 
 さて、現代・現在・現時点における解脱者は私を含めて3人しか知らない。すなわち、カッシー長老と涼風尊者とSRKWブッダである。また、現代・現在・現時点において仏弟子だと認められる人々が数人いるだけである。それぞれの人を階梯と言う観点から見れば次のようになると考えられる。(2011年12月現在)
 
 預流向...数人...初歩的な公案の通過
 預流果...3人...基礎的な公案の通過
 不還向...1人(カッシー長老)...名称(nama)の解脱(初期の心解脱)
 阿羅漢果..1人(涼風尊者)...形態(rupa)の解脱
 ブッダ...1人(SRKWブッダ)..名称と形態(nama-rupa)の解脱(慧解脱)
 
 これらの階梯は、ブッダを除いて固定化されたものではないと思われる。つまり、どの階梯にいる人も最終的にはブッダ(慧解脱)に達し得ると考えてよいだろう。と言うのは、私自身最初に心解脱を生じ、次いで観の完成を見て、さらに慧解脱したからである。もちろん、これは誰もがそうなることを保証するものではない。不還果や阿羅漢果の場合には死んだのちもうこの世には戻ってこないからである。
 
 なぜ覚りの階梯を生じるのかについてはその理由は分からない。それぞれの修行者の気根の違いとしか言えないだろう。男で生まれる人もあれば、女で生まれる人もある。それと大して違わないことだと思える。もちろん、前世の徳行の多寡などを持ち出す必要もない。それがどうであろうと、現世で達した階梯が自分の功徳の実質なのだと認めるしかないからである。
 
 もちろん、修行者はブッダ(慧解脱)の階梯を求めるべきである。慧解脱こそが完全な解脱であることは疑いがないからである。

懺悔

 『懺悔(さんげ)とは、懺とは死ぬまで犯さぬこと、悔とはこれまでの過ちを知ることである。 』 (六祖壇教)

 まさしくこの通りなのであるが、その具体的なこと、それがどのように修行者に起こるかは分かり難いであろう。

 懺悔は、修行の途中で起こることではなく覚りの刹那に起こることである。修行者は懺悔するゆえに解脱すると言っても過言ではない。修行者は解脱したゆえにその懺悔が懺悔として完成する。これが実際に起こることである。したがって、それ以前において修行者が懺悔と称するものはすべて懺悔の範疇には入らない。

 たとえば子供が大人になったとき、自分が大人になったと知り、子供に逆戻りすることはあり得ないと覚知するだろう。それがいわば懺にあたる。また、自分が大人になったと知ったとき、ついこの間まで自分が子供だったと知るだろう。それがいわば悔にあたる。これが懺悔の一つの有り様である。これはいわば客観的な観点による懺悔の理解である。

 そして、実は懺悔にはもう一つの有り様がある。それはいわば主観的な観点による懺悔の理解である。そしてそれこそが修行者が実感する懺悔に他ならない。解脱の瞬間、修行者にはある思いがよぎる。その思いはまるでふと思いついたものであるが、自分にとってあり得べき究極の思いであると実感されるものである。その思いの質や賢愚は問わない。まるで馬鹿げた思いに思えても、それが智慧にもとづく真実の想起であるならば、それこそが懺悔を為し遂げる原動力となる。すなわち、修行者はその思いにまつわって懺悔し、そのまるで懺悔だとは意識しない懺悔が悪を完全にとどめることになるのである。次いで解脱が起こる。

 このように、懺悔は覚りの道において重要な、決定的な行為を担っている。しかも修行者は、懺悔しようとして懺悔してはならない。結果的に真の懺悔を為し遂げたとき、その時に限り解脱は起こるのである。

 また、懺悔は信と結びついている。自分を信じ、さらに相手を信じるゆえに、懺悔は為し遂げられるからである。


帰依

 前節では、懺悔について述べた。そして、懺悔によって解脱が起こると書いた。

 ただし、実際には懺悔と同時に帰依を生じる。実のところ、懺悔によって解脱が起こるのか、帰依によって解脱を生じるのかは判然としない。ただ、覚りの刹那、これら二つがあることは事実であり、これら二つがあることによって解脱が起こると見てよいだろう。
 本節では、帰依について述べる。
 さて、懺悔は、功徳と関係があるものである。一方、帰依は信仰と密接である。すなわち、信仰の究極が、帰依であるからである。

 帰依とは、それ以降の人生をすべて仏道修行に充てるという決心である。

 したがって、覚り以前において帰依することはできない。帰依は、頭の中で行なうものではないからである。口で『帰依します』と言ったところで、帰依したことにはならない。帰依は、覚りを生じるまさにその直前に、その刹那の一瞬に為される、仏法への真の傾倒・没入を指す言葉である。

 人は、ことに臨んだそのときに「法の句」を見い出す。その一瞬に、善知識を見い出せば慧解脱が起こり仏となる。また、その一瞬に、三宝に帰依すれば身解脱が起こり阿羅漢となる。

 ことに臨んだそのときは、因縁によって出現する。それで、これを一大事因縁と呼ぶ。すなわち、一大事因縁によって智慧を見れば仏となり、三宝に帰依すれば阿羅漢果を得るということである。

 誰であろうとも、容易に帰依することはできない。仏教を篤く信仰していて、旦那(ダーナ)である人、さらにはすでに修行を積んだ立派な修行者であったしても、それだけで帰依を生じることはできないからである。

 全財産を三宝に布施・供養したところで、帰依とはならない。たとえ三宝に命を捧げても、それは帰依とは言わないのである。

 帰依は、自分を活かし、自分も三宝も輝かせるものである。この輝きによって帰依者には解脱が起こり、三宝は光を増す。帰依し終わった人は、出家者であり、〈道の人〉とも呼ばれる。帰依し終わった人は、ふたたび世俗に戻ることはできない。帰依し終わった人は、諸仏の誓願に生きる人、あるいは諸仏の誓願にしたがって生きる人となっているからである。

 くり返しになるが、帰依は信仰の究極の相である。正しい信仰を持ち、保ち、励む人は、必ず仏法に帰依することができるであろう。その時、その瞬間が到来するまで、修行者はゆっくりと邁進せよ。


覚りの機縁

 覚りの機縁を得て、それをものにした人は発心する。発心すれば一気に覚りへと近づく。覚りは、遠からず起こるであろう。発心した人にとって、今世での覚りは、ほとんど約束されたようなものである。

 
 通常、覚りの機縁は予想もしない思いがけないところから現れる。そもそも、覚りの機縁となる人が見知った人であるとは限らない。その時だけ出会い、その時点ではそうとは知らずに別れて行くことも当たり前のように起こる。事実、私(=SRKWブッダ)自身、覚りの機縁はまさしくそのようであった。今となっては、その人の顔も名前も覚えていない。初対面であったし、二度と会うことはないであろう人だからである。探そうにも、探しようもない。
 
 その一方で、すでに見知った人が覚りの機縁となる場合、好悪の感情を超えてそれは起こる。別に何とも思っていない人が覚りの機縁となることは普通のことであり、敵さえも機縁となることがあるだろう。もちろん、ごく親しい人が機縁となることも少なくないだろうが、そのような時でもそれは思いがけなく起こるだろう。実際、釈尊時代のテーリーガーターやテーラーガーターには、そのような例が散見される。
 
 今世で覚りを達成するには、この覚りの機縁を生じて発心しなければならない。しかしながら、血眼になってその人を探しても見つかる筈もない。覚りの機縁を恣意的に喚起することは、決してできないからである。ただ、仏道に勤しむこころある人は、きっとこの機縁を生じて発心するであろう。信仰篤き人は、必ず覚りの機縁を生じる。これは、おそらく間違いないことである。