目次
ESSAY-1
001 三岸節子展を観る
002 満開のドラゴンフルーツ畑
003 20年前を覚えていますか?
004 映画 『ダウン・バイ・ロー』の魅力
005 枇杷の種は健康の素
006 ドラゴンフルーツの赤
007 バレーボーラー高橋みゆきのイタリア挑戦
008 瑠璃色のサルスベリ
009 北の街の芸術家たち
010 イエガーとオースチン、その後
ESSAY-2
011 「黄金むらさき」って知ってますか?
012 昭和30年代の銀座を訪ねて
013 総選挙を前に思うこと
014 図書館で考えたこと
015 『9・11生死を分けた102分』を読む
016 脳は変わってきたのか?
017 「ジョンがオノのように冷ややかで、
018 「松蔭、晋作、龍馬は死んで、
019 「満州の広野を驀進する特急「あじあ号」
020 「細菌戦部隊という非人間的なテーマ
ESSAY-3
021 「おかしいじゃないか!
022 「もし、ヒトラーが今の日本に突然出現し、
023 「肉を食べるときは、気合いを入れて食べる。
024 「いずこへ去りしか、まぼろしの光?
025 「政治的手腕とは、
026 「表現できないものは
027 「そして友人を失ってみて初めて、
028 「どこで人生を終えるか
029 「寝室を出る時から、
030 「二十歳のころ、
ESSAY-4
031 「一体全体、自分たちを何様と
032 「友あり、道あり、誓いあり、
033 「夜が来るなんて、
034 「ようやく彼は言った──
035 「楽しい。苦しい。きもちいい。
036 「形ある無しを問わず、何かをこの世で手に入れたら、
037 やっと、庭に出て
038 「マルクス主義の社会的政治的展開
039 「言葉を用いるべきときではなかった。
040 「街角に帽子を持って立ち、
ESSAY-5
041 「教育」「いのち」「暮らし」
042 「だから夢なんて
043 「いつも青空だけを見つめて
044 「弾いたメロディは弾かない。
045 「結局のところ人間と人間の関係には
046 「ありがとうございます、
047 「お父さん」
048 「ペリーを証人第一号として
049 「クソッタレの世の中は
050 「朝起きて、本屋に行って、(Part-1)
050 「朝起きて、本屋に行って、(Part-2)
ESSAY-6
051 「自分が最低だと
052 「人間は考える葦ではない。
053 「アメリカ国民は失敗した(Part-1)
053 「アメリカ国民は失敗した(Part-2)
054 「パンは肉体に必要だが、
055 「きょう、私は、バッグに(Part-1)
055 「きょう、私は、バッグに(Part-2)
056 「嵐を通らずに咲いた桜はない」
057 「資本主義は審判にかけられており、
058 「自分がどんな病気にかかろうと、
059 「私はモラルのチョッキを
060 「春は名のみの風の寒さや
ESSAY-7
061 「ああ良い気持だ。
062 「少年よ大志を抱け。
063 「ばかやろう!(Part-1)
063 「ばかやろう!(Part-2)
064 「まず年寄りになりましょうよ。
065 情熱の強度について(Part-1)
065 情熱の強度について(Part-2)
066 「映画を見ることで、(Part-1)
066 「映画を見ることで、(Part-2)
066 「映画を見ることで、(Part-3)
067 「空気のさわやかさ、水の冷たさ・・・。
068 「自転車はブルースだ。
069 「自分が本当にやりたいと思うこと
070 「嗚呼、もしーーと考えずにはいられない。

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001 三岸節子展を観る

 

 

 

 平塚ビーチに友人を訪ねた。真夏のビーチバレーコートで久しぶりにボール拾いをした。幾分、暑さも和らいだ一日。あまり汗もかかず、すがすがしい気分を味わった。

 その帰り、平塚市美術館に立ち寄った。ちょっと気になっていた三岸節子展を覗いた。いつも思うのだが、画集と実物との差異に愕然。特に三岸の色と言われる赤の色彩には圧倒された。晩年の幾点かの「花」に描かれた赤よりも、70歳代に描いた「雷が来る」や60歳代の「ヴェネチアの家」の赤がいい。

 そんな中で、いちばん心に残ったのは、8年近くアパートの窓から眺めながら描けなかったエッフェル塔が、にわかに雷雲でかき曇ってきた瞬間に絵筆を取ったという「エッフェル塔」。赤は一切使われていないが、画集では絶対に伝えきれない現物のすごさがあった。残された筆致に、画布と格闘した作家の精神が刻み込まれているのが、素人のわたしにもよくわかる。

「三岸節子の作品に近づくと、火傷をしそうだ」と、よく言われるのだそうだが、94歳まで描き続けたエネルギーに触れ、元気をもらった気分。鈍行列車に乗って帰ってきた。

 

  今日のビタミンP:「幸せ・・・それは私が決して気にしてこなかったことです。たとえ蹴っ飛ばされて

も、私は私がやりたいことをやるべく試みてきました」[ニキ・ラウダ=元F1レーサー]

 


002 満開のドラゴンフルーツ畑

 

 

 

 きのう、”元気をもらった”と書いて、思い出した人がいる。M氏といった。スポーツカメラマンだった。それが「元気がもらえないスポーツは、もう撮れない」と、石垣島に移住してしまった。

 それから5年。家を建て、土地を買い、今は農作業に精を出す毎日と聞く。でも、カメラは手放したわけではないようだ。忘れた頃に、沖縄の空や海の写真が送られてくる。最新の写真が、この満開のドラゴンフルーツ畑。実は赤と白と黄色があり、切ると、白地に黒ゴマをまぶしたように黒いタネが特徴の果物だ。おいしいが、茎には鋭いトゲが無数にあって、痛い。

 彼とは、バレーボールの仕事で、たくさんの土地に行った。オーストラリアのキャンベラ、アメリカのアトランタ、スペインのアリカンテ、イタリアはフィレンツェ、ローマ、ミラノ、フェラーラ、クネオ、モデナ等々。

 この頃は、再び、マスコミを賑わすようになったバレーボール(ただし、女子のみ)。今秋11月にはグラチャンという国際大会もあり、再びテレビに釘付けになる日々が続くのだろう。

 だが、96年から2000年にかけてのバレーボールの低迷期、「こんなプレーしかできなくて、元気をもらいにくるファンに対して失礼だ」 何度も憤っていた彼の言葉を今も鮮明に思い出す。人気は出たけれど・・・、果たして、元気はファンに伝わっているか? 11月が来れば、それが確認できるはず。だが、まだまだ彼の怒りを収めるまでにはなっていない。

 

  今日のビタミンP:「サヨナラじゃない。手を振ったのは、彼らが私の人生の一部であり、私も彼らのもの

だからさ」[A・J・フォイト=元インディ・レーサー]


003 20年前を覚えていますか?

 

 

 

 群馬県・御巣鷹山に日航機が墜落し、坂本九ちゃんら520人が亡くなって20年目。今日(8月12日)がその日だというニュースに耳を傾けながら、月日の流れの早さを思う。あのとき、自分はどこで何をしていたのか? 

 2001年9月11日は鮮明に思い出すのに、1985年の8月12日は思い出せない。

 当時、自分は、とある雑誌社の編集部にいて、テニス雑誌を作っていたはずだが、その年のウィンブルドンで誰が優勝したのかも思い出せない。

 それで、資料『情報コミュニケーションの100年』を引っ張りだしてみると、1985年は、こんな年だったことになる。

1月 横綱北の湖が引退

3月 つくば科学万博

3月 日本人エイズ患者第一号認定

4月 電電公社と専売公社が民営化され、NTTJTとしてスタート

5月 男女雇用機会均等法成立

6月 松田聖子、神田正輝、2億円結婚式

9月 シートベルト着用が義務化

11月 プロ野球ドラフトで、桑田が巨人、清原が西武入り

 明瞭に思い出すことができるのは、実際に行ったつくば万博と、桑田の巨人入り。あとは記憶に残っていない。

 ちなみに、この85年には、マイクロソフトが「ウィンドウズ1.0」を発売し、日本語ワープロソフト「一太郎」も発売になっているが、わたしはまだパソコンを持っていなかった。前年の84年にアップルが「マッキントッシュ」を発売していたが、今も愛用のMacを手にすることになるのは、それから6年もたってからだった。

 ついでだから、もう少し書いておく。この85年には、ゲームソフトの「スーパーマリオブラザーズ」が任天堂から発売されている。本格的なファミコン時代の幕開けだった。それが翌86年の「ドラゴンクエスト」発売、88年の「ファイナルファンタジー」発売へと続き、89年のゲームボーイ発売(任天堂)へと発展した。

 この85年という年はまた、現在の情報革命の端緒となる幾つかの技術が開発された年でもあった。まず、日本板硝子によって光ファイバーが作られ、光ファイバー通信に成功。8mmビデオとCDROMも商品化された。東芝が10万円を切る廉価ワープロ「ルポ」を発売したのもこの年であり、翌86年には日本でもパソコン通信が始まった。

 

  今日のビタミンP:「立ち上がって、アイスクリームソーダを買いに街角まで歩いてゆけるというのが、どん

なにすばらしいか……キミは知っているかい」(SN・ベアマン)


004 映画 『ダウン・バイ・ロー』の魅力

 

 

 

 何ヶ月ぶりかで、東京にいる土曜日。午前中、すぐ近くの区立中央図書館で調べものをしたあと、久しぶりに映画を観た(DVDで)。観たのは、『ダウン・バイ・ロー』と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』。そのあと、高校野球を見て、1日が暮れた。

 映画は2本とも、ジム・ジャームッシュ監督の初期の作品で、出世作といっていいものだが、好きなのは、両作品に共通するロビー・ミュラーのカメラワーク。特に『ダウン・バイ・ロー』の町並みや河畔をなめるように追うシーンが、ジョン・ルーリーのけだるいような音楽と重なって心地いい。このシーンとその音楽を確認するために観るようなところがある。

 両作品とも、主演は音楽も担当しているジョン・ルーリーだが、わたし自身は、あまり好きな俳優ではない。脇役だが、ルーリーが収監されている牢獄に3人目の人物としてやってくるイタリア移民の青年(ロベルトと言ったか?)に、いちばん好感を持っている。

 物語は、ぽん引き容疑で捕まったチンピラとワナにはまって収監された元ディスク・ジョッキーと誤って人を殺してしまったイタリア人旅行者の脱獄劇だ。三人三様の個性のぶつかり合いが好テンポで続き、飽きさせない。無事脱獄に成功した3人だが、一人(イタリア人)は突然恋に落ちた女性とその地に留まり、一人は道の分岐点で左の道を、もう一人は右の道を歩き始めて、物語は終わる。

 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のほうも、ルーリーの音楽が効いており、三者三様の再出発で終わる。その、人生の可能性と非確実性を暗示して終わるところが好きなところだ。「明日は誰にもわからないけれど、歩き出さなければ」という気持にさせる。

 

  今日のビタミンP:「動いてこそ人間です。人は動きながら死ぬべきです。動くのをやめると不幸になりま

す」(ジャック・ブレル=シャンソン歌手/78年没/ベルギー)


005 枇杷の種は健康の素

 

 伊豆・下田から少し南下した田牛(とうじ)の入口にあるアーネストハウスに菅野邦彦さんを訪ねた。平日ということもあってか、下田駅から田牛への道路に海水浴客らしい姿は少なかったが、ヘミングウェイのファーストネームを取って名付けられたホテルのテラスには、去りゆく夏を惜しむかのように、多くの若者たちの姿があった。

 ジャズファンなら、「スガチン」の名で知られる菅野邦彦さんの名を知らない人はいないだろう。ジャズが日本のミュージックシーンで活況を迎えた60年代、70年代に六本木「ミスティ」、青山「ロブロイ」で一世を風靡した名ピアニストだ。当時、60枚以上のLPがリリースされた。

 その菅野さんが黒鍵付きの現在のピアノに限界を感じ、みずから考案し製作した、黒鍵なしの、日本に2台しかないピアノが、このアーネストハウスに置かれている。

 そのピアノを前に、この黒鍵なしのピアノによる演奏会を開くのが夢だと語る菅野さんの顔は少年のように輝いていた。

 ブラジルに放浪の旅に出たまま7年余、日本の音楽シーンから消え去り、帰国後もピアノから離れてしまったため、伝説の名ジャズピアニストと呼ばれた菅野さんは、今70歳。近年、やっと演奏を再開して、今は月2回、東京・恵比寿の「サンマリノ」に元気な姿を見せているが、この黒鍵なしのピアノ演奏こそ、最大の夢なのだ。

 それにしても、目の輝きと肌の色つやは、とても70歳とは思えない。そのことを聞くと、枇杷の実をスライスし、粉末にして、それを飲むようになってから、風邪はもちろん、病気らしい病気はしなくなったと言われた。日がな一日、海に潜り、気が向いたらピアノの前に座るという日常と枇杷が元気の源らしいのだ。

 枇杷といえば、皮膚病に悩まされていた父が、枇杷の葉のお灸で、きれいに治してしまったことがあって驚いたものだが、伊豆でも枇杷の薬効は評判なのだと聞いて、その効能を改めて調べてみたいと思った。

 もちろん、下田まで菅野さんを訪ねたのは、別の仕事の話があってのことだが、この枇杷の話が最大の収穫だったかもしれない。

 

●今日のビタミンP:「わたしたち日本人には、遊びにもルールや技術があるというコンセプトが、ひどく欠けている」



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