目次
第一章 テニスの頃
01 ウィンブルドンの思い出
02 初めてのオリンピック
第二章 F1サーキットにて
03 F1のファクトリーを訪ねて(1)イギリスの巻(その1)
03 F1のファクトリーを訪ねて(1)イギリスの巻(その2)
04 F1サーキットにて(1)アメリカGP
05 F1サーキットにて(2)ブラジルGP(その1)
05 F1サーキットにて(2)ブラジルGP(その2)
06 F1サーキットにて(3)サンマリノGP
07 F1サーキットにて(4)モナコGP(その1)
07 F1サーキットにて(4)モナコGP(その2)
08 F1サーキットにて(5)カナダGP
09 F1サーキットにて(6)メキシコGP
10 F1サーキットにて(7)フランスGP
11 F1サーキットにて(8)イギリスGP
12 F1サーキットにて(9)ドイツGP
13 F1サーキットにて(10)ハンガリーGP
15 F1サーキットにて(11)ベルギーGP
15 ステルビオ峠を目指して(その1)
15 ステルビオ峠を目指して(その2)
16 F1サーキットにて(12)イタリアGP
17 F1サーキットにて(13)ポルトガルGP
18 F1サーキットにて(14)スペインGP
19 F1サーキットにて(15)日本GP
20 F1サーキットにて(16)オーストラリアGP
21 F1のファクトリーを訪ねて(2)イタリアの巻(その1)
21 F1のファクトリーを訪ねて(2)イタリアの巻(その2)
22 スポーツの現場が好きだった訳
23 叶わなかったマガジン(月刊誌)創刊
24 “約束された世界”に生きる
25 耳から得たF1の感動(その1)
25 耳から得たF1の感動(その2)
第三章 少年サッカー時代
26 サッカー“清水の三羽がらす”マンガのその後
第四章 バレーボール全日本女子とともに(1)
27 バレーボール全日本女子を追いかけて(01)キャンベラ
28 バレーボール全日本女子を追いかけて(02)アトランタ
29 ビーチバレーの魅力を知った日
30 バレーボール全日本女子を追いかけて(03)上海
31 バレーボール全日本女子を追いかけて(04)カトヴィツェ
32 佐伯美香のビーチバレーデビュー戦(ペスカラ)
第五章 イタリアプロバレーリーグ・セリエAを行く
34 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(1)トレビソ
35 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(2)フェラーラ、モデナ
36 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(3)フィレンツェ
37 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(4)モンテキャリー
38 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(5)パドヴァ
39 イタリアバレーボールプロリーグ・セリエAを行く(6)クネオ
第六章 ブラジルにバレーを追って
40 ブラジルプロバレーリーグ・スーパーリーガを訪ねて(1)ポルト・アレグレ
41 ブラジルプロバレーリーグ・スーパーリーガを訪ねて(2)クリチバ
42 ブラジルプロバレーリーグ・スーパーリーガを訪ねて(3)リオデジャネイロ
43 ブラジルプロバレーリーグ・スーパーリーガを訪ねて(4)ジュンダイ
第七章 男子バレーの魅力
44 バレーボール・ワールドリーグ男子準々決勝にて(アリカンテ)
45 バレーボール・ワールドリーグファイナル4にて(ミラノ)
46 バレーボール競技そのもののおもしろさを実感した日(1998年世界選手権)
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01 ウィンブルドンの思い出

「IF YOU CAN MEET WITH TRIUMPH AND DISASTER AND TREAT THOSE TWO IMPOSTORS JUST THE SAME」

 ウィンブルドンのセンターコートに出て行く扉の上に、この文字を見つけてから、もう随分になる。

 ”もし、勝利と敗北に巡り会ったなら、この二つの詐欺師を同じように扱いなさい”

 人生と同じで、試合にはいい日もあれば悪い日もあるのだから、勝っても負けても落胆したり狂喜したりしないで、詐欺師にだまされたのだと思って、すぐに忘れてしまうのですよ、とでもいう意味だろうか? そんな風に解釈して納得しようとしたことを思い出す。

 この言葉がイギリスの詩人キプリングの詩『IF』の一節と聞かされ、以後何度か調べたが、結局その詩にはいまだに巡り会えないでいる。果たして、あの碑文は今もセンターコートへの入口に掲げられているのだろうか? 


 ウィンブルドンは1986年に、第100回記念大会を迎えた。それを記念して、別冊として大会レポート誌を出そうということになって、通訳のM女史を伴ってロンドンに飛んだのは、大会開幕の1週間前だった。

 大会までにやることがたくさんあった。まず、最初は大会の前週の女子トーナメントとして定着していたイーストボーン大会に行った。大会のトーナメントディレクターでイギリステニス協会での重責を負っていたバージニア・ウェードさんに挨拶し、ウィンブルドン関係者へのアテンドとイギリス人選手の紹介をしてもらうのが目的だった。それで実現したのが、当時イギリス人プレーヤーで女子No.1だったアナベル・クロフトとすでに引退を表明していたケイト・ブレーシャーという二人の女子選手への取材だった。

 広告タイアップで借りていた黒のミニ・クーパーでロンドンから南へ40分。ファーンズボロの町の白亜の城館のような二階建ての家がクロフト家だった。庭にはダークグリーンのレンジローバーが停まっており、テニスコートがあった。ブレーシャーの住む家はロンドン中心部から10分とかからないリッチモンドパーク沿い。こちらももちろんテニスコート付き。カナダのバンクーバー島を発見したバンクーバー公が住んでいたという築200年以上という館のグリーンの芝の上のテーブルでお話を伺った。

 

 この時の取材ではほんとうにたくさんの人から親切にしていただいた。そのことは、今でも忘れないようにしている。たくさんの古い写真をプリントしてくださったウィンブルドン博物館の資料室長さん。ボールボーイ事情をお聞かせくださったボールボーイの責任者さん。初取材にもかかわらずセンターコートの記者席に座らせてくれたプレス責任者さん。みんな、残念ながら名前を思い出せない。思い出せるのは、センターコートの芝の上を歩かせてくれた大会責任者のゴーリンジさんだ。ゴーリンジさんはいつも男女優勝者にウィンザー公が優勝トロフィーを渡すとき、テレビ画面に映るので、その元気そうな顔を見るのを楽しみにしていたが、ここ数年見られなくなってしまった。

 この大会で女子優勝者となったナブラチロワに優勝カップを渡した往年の名プレーヤー、ゴッドフリーさんのお宅に伺ったのも、このときのことだ。1924年と26年の2回、ウィンブルドンチャンピオンとなったゴッドフリーさんは当時すでに90歳を超えておられたが、孫娘を膝に抱いたまま、お話を聞かせていただいた。スザンヌ・ランランに教えてもらったオーバーヘッドサーブを打ってネットに出て行くのが大好きだったというのもおもしろかったし、ウィンブルドンに優勝してもらったのがマッピン&ウェッジの5ポンドの商品券だけだったという話にもびっくりさせられた。今でも年に数回はラケットを振ると語るときの目の光りが強く記憶に残っている。


 大会は女子がナブラチロワが7回目の優勝を果たし、男子は19歳のドイツ人、ベッカーが2連覇して幕を閉じた。慌ただしく帰国すると、原稿書きと編集作業が待っていた。今もNHKの西門の前にあるワシントンホテルに泊まり込んで1冊の別冊が出来上がった。

 そして、少したった頃。なぜか走るとばかにひどく汗をかく。病院で検査すると、気管支肺炎という診断で入院させられてしまった。そうしてできた本は、今も本棚の片隅に鎮座している。


 いろいろなことがあったウィンブルドン大会初取材。だが、今まで誰にも語らずにきたことがひとつだけある。

 それは、大会も中盤にさしかかった土曜日の出来事だった。帰り支度をして、なぜかポシェットの中が気になって探ると、入れていたはずのパスポートが見当たらなかった。バッグはプレスルームに置いたりするので、それには入れず、必ず体から離さないよう腰に回したポシェットの中に入れておいたのだ。考えられるのは、昼食のために財布(小銭はポケットに入れていたが、大きなお金、お札はポシェットに入れていた)を出したときか、取材ノートを取り出すときに、くっついたかして、滑り出したのか?

 いずれにしても、考え込んでいても埒はあかない。慌てようが、もがこうが、ないものはない。とりあえず遺失物センターに行ってみたが、届けられたものの中に、それらしいものはないと言われ、連絡先を伝えて、ホテルに戻ったが、気分は晴れなかった。

 そんな姿を見かねたのだろう。知人の新聞記者がイギリス人の友人宅での夕食会に誘ってくれたのだが、かえって落ち込んでしまいそうだった。テレビで地元サッカーチームを応援しながらビールを飲み、歓声が上がる。そんな中で、一人黙っていて、雰囲気をぶちこわしにしてはいけないと心の中ではしきりに思うのだが、笑顔が作れなかった。

 それでも、結構長い時間を過ごした。その家をあとにするとき、一人の劇団員だという青年が何かを言ってくれた。

「別に、命を取られたわけじゃないんだからって、さ」

 件の記者が通訳してくれた。

 

 翌朝、とりあえず、もう一度遺失物センターを訪ね、なかったときは日本大使館に行こうと決めていた。まさか、出るわけはないと決めていた。ところが、「これでしょ」と差し出されたのが、赤い日本のパスポートだったのだ。前日、届けられ、すぐにプレスルームに行ったが帰ったあとだった、という説明だった。

 あのとき、あのパスポートがもしも出てきていなかったら、あの別冊は今も本棚にあっただろうか?

 時々、思う。その後、テニスだけでなく、F1、バレーボールと20年以上に渡ってスポーツシーンを追いかけただろうか? 

 名前も告げなかったというそのイギリス人(たぶん)に、今でも「ありがとう」と言いたいと思っている。



02 初めてのオリンピック

 ウィンブルドン取材から2年後の1988年のソウル・オリンピックが、初めてのオリンピック取材だった。

 オリンピック取材とはいっても、全競技が取材できたわけではない。このときは、テニス雑誌の編集部に所属していたので、取材種目はテニスに限定されていた。

 選手村とは別に取材陣用の記者村が造られており、そこに泊まっての取材。確か大会後には一般のアパートとして使用されることを前提として造られていた記者村の造りは2LDKで、そこを4人が使用するシステム。『ナンバー』編集部の記者とカメラマンが同室だった。

 

「アンニョンハシムシカ」

「カームサハムニダ」

「ヨボセヨ」

 これくらいは今でも覚えているのだが、一夜漬けのハングルではとてもコミュニケーションはとれず、宿舎の入口で話しかけてくれるボランティアの方たちとも、うまく交流ができなかったのが、今でも残念なこととして記憶に残っている。その後もそうだが、現地語でコミュニケーションを取るというのは、ほんとうに難しい。まあ、ほとんど無理なのだけれど、それでも現地語を少しでも覚えようとして、辞書片手でも進んで話しかけてみることの大切さを知るのは、もっとあとになってからだった。

 現在のように日韓の文化、経済交流が盛んな頃ではなかったが、ボランティアの通訳の方が日本文化を教えているという大学の助教授の方で、とても親切に面倒を見てくれ、ソウル市内でも有名だというテニスクラブの取材を手伝ってくださった。

 日本のテニス選手は上位進出できなかったが、その分、時間ができたので、柔道や水泳を見て回った。陸上競技場では瀬古選手と中山選手が飛び出していくマラソン競技を観戦したりしたが、どれも本来は入れないテニスのパスで入れたのが、今でも不思議な気持である。そのパスで、最終日の閉会式にも入場することができた。

 そんな取材の中で、ひとつだけ気になったのが、件の通訳嬢の次のような言葉だった。

「日本人記者になんかに、そんなに親切にしてやらなくてもいいって言う人がいるのよ」

 大会の中盤に用意されていた取材陣向けの38度線(休戦ライン)の無料見学ツアーについて教えてくれながら、こぼした一言だった。よく聞いてみると、日本以外の外人記者には案内をしているが、日本人記者にはわざわざ教えるまでもないという人達がいるのだという話だった。

 外国人プレスに混じって訪れた休戦ラインの上に建てられた板門店は壁を水色に塗られ、夏なのにとても冷たい感じを味わった。休戦ラインという線をまたいで展望台に上がり、北朝鮮の風景を遠くに眺めて、帰ってきた。緊張感は余り感じなかった。むしろ、韓国と北朝鮮が南北に分断されているのだということを実感させられたのは、帰途のことだった。途中の道路のところどころに分厚いコンクリートで固められた凱旋門のようなトンネルがあり、バスがそこを通過する。もしも、戦車が侵攻してきたとき、それを堰き止めるためにこれだけの厚さが必要なのだという説明を聞いた。

 オリンピックというと、今でも、あの厚いコンクリートの壁のトンネルを思い出す。


03 F1のファクトリーを訪ねて(1)イギリスの巻(その1)

 F1雑誌を作りたくて会社をやめ、有限会社を作ってF1速報誌『GPS(グランプリ・スポーツ)』を創刊したのが1989年7月だった。それから半年後の1990年1月、モータースポーツの聖地と言われるイギリスのF1ファクトリーを訪ねてイギリスを回った。

 当時、破竹の勢いだったマクラーレンのオーナー、ロン・デニス、車椅子の闘将と言われていたウィリアムズのオーナー、フランク・ウィリアムズ、中島悟獲得が決まっていたティレルのオーナー、ケン・ティレルの3人が企画のメイン。あとは、ベネトンのチーフデザイナーだったロリー・バーンと、オニックスのチーム監督マーティン・ディクソンが含まれていた。

 当時のF1は中嶋悟の参戦とアイルトン・セナの登場で日本でも人気が沸騰中であり、簡単に会ってもらえるとは思えなかったが、5人とも貴重な時間を割いてインタビューに答え、ファクトリーの中を撮影させてくれた。(ただし、マクラーレンだけ別でインタビューのみ。工場内の写真撮影は許してもらえなかった。)

 

 みんないい人ばかりだったが、その中でも、ウィリアムズさんとティレルさんにはとても親切にしていただき、その後、サーキットの現場でも、いろいろと教えていただくことになった。

 特にティレルさんには、感動させられた。ヒースロー空港から車で30分あまりのウォーキンにある工場を訪ねると、ティレルさんは入院中ということで不在。ところが、こちらの来所に合わせて今帰宅中という。待つこと30分ほどで、柔和な笑顔をたたえた大柄な男が姿を現し、握手を求めてきた。

 

 たぶんに、その年から中嶋悟の移籍が決まっており(まだ発表の前だった)、日本人プレスには丁寧な対応をしておきたいという思惑もあっただろうが、気がつくとインタビュー時間は2時間近くになっており、「入院中ということですから」と、時計を見てインタビューを切り上げた。

 いろいろとしていただいた話の中で忘れられないのは、「今シーズン、優勝するのは、どのドライバーと思いますか?」という問いに答えたティレルさんの言葉とそのときの目だ。

「そういう質問には答えられない。でも、こういうように君が聞くなら、答えることができるがね」

「どういうふうに、ですか?」

「マクラーレン・ホンダに乗ったらだよ。マクラーレン・ホンダに乗ったら勝てるドライバーをあげてくれというなら、あげてみよう」

 そう言って、彼は「プロスト、セナ、マンセル、パトレーゼ」と、指を折りながら、確か8人まであげていった。

「それでは、ティレルチームの今シーズンの目標は何ですか?」

「6位以内には何回かは入りたいということかな」

 そう言われても、それがトップチームがV10エンジンで戦う中で、V8気筒のコスワースで戦うチームの現実であるということを、まだ知らなかった。

 テニスの取材が長かったから、スポーツというものは絶対的にフェアな勝負の世界であって、実力のあるもの、努力して腕を磨いた者に勝利の女神がほほえむものという信仰があった。それは、モータースポーツの世界であっても、“スポーツ”と名が冠されているかぎり変わらないものだと。

「では、質問を変えます。優れたドライバーには、何が必要なのでしょう? 例えばテニスプレーヤーには、ボクサーのような反射神経とマラソンランナーのような持久力と宇宙飛行士のような神経システムが必要だ、と言われています」

「マクラーレンがこいつを乗せてみたいと思わせる才能、ということかな。つまり、マクラーレンに乗れる能力だよ。それが優れたドライバーに求められている才能なんだ」(次ページに続く)



03 F1のファクトリーを訪ねて(1)イギリスの巻(その2)

 一介の木材商から身を起こし、フォーミュラジュニア、F3F2を経てF1にたどり着き、ジャッキー・スチュワートを得て、ワールドチャンピオンにもなったティレルだったが、彼のチームは、ある時期の2シーズンを除くと、常に市販エンジンであるV8のフォード・コスワースのエンジンで戦い続けてきていた。コスワースは彼に言わせれば「基本的には20数年前のエンジン」だった。マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズといった巨額の資金を動かすV10のトップチームを前にすると、象に立ち向かうアリのような存在だったのだ。

「満足というのは、ロン(デニス)でなくては味わえないがね」

 と言いながら、ロン・デニスやフランク・ウィリアムズがジェット機やヘリコプターで乗り付けるサーキットに、自らマシンを積んだトランスポーターを運転してやってくる姿を見るたびに、応援したくなったものだ。

 しかし、そんなチームも、それから数年して、F1シーンから消えていった。

「時代にはさからえない」と、個人資本での戦いを諦めて、外部資本を投入し、ファクトリーも拡大し、待望のV10エンジンを得て、しばらく経ってのことだった。

「あふれるような情熱、信頼できるパートナー、そして、ごくわずかな資本でもって、あのジャグワーだってスタートしたんだよ」

 1924年生まれのティレルさん。ご健在なら、今年の5月で84歳になられるはずだ。

 

 ところで、最初の出会いから数ヶ月経ったサーキットで、モーターホームを訪ねたとき、ティレルさんは、こんな話をしてくれた。

「才能というのは4つある。アグレッシブに戦う勇気、マシンへのあくなき知識欲、エンジニアにマシンのことを的確に伝えることのできるコミュニケーション能力。そして、もちろんだが、持って生まれた才能というやつだ」


04 F1サーキットにて(1)アメリカGP

 雑誌創刊1年目は、地固めの時期と認識していたので、取材は部下とフリーランスの2人に任せ、もっぱら編集作業に明け暮れたが、2年目の1990年のスタートからグランプリレースの現場に足を踏み入れた。その最初の取材がアメリカGPだった。

 その後のアメリカGPは、インディカーレース“インディ500”で有名なインディアナポリス・スピードウェイで開催されるなどしているが、当時はアリゾナ州の州都であるフェニックスが舞台だった。

 フェニックスのダウンタウンを遮断して、金網で囲った市街地の中をF1マシンが走ると、周りの高層の建物に反響したエグゾーストノートがすさまじい爆音となって、跳ね返ってくる。

 そんな中を歩き回って、写真を撮り、プレスルームに戻ってモニターを見ながら、レースの進展を追うのだが、なかなか全容が掴みきれない。タイヤバリアーに突っ込んだマシンがあっても、わかるのはチーム名だけで、場所の見当がつかないのだ。これでは原稿にならないと焦ったものだ。

 2時間弱のレースは瞬く間に終わり、各チーム広報が配るレースレポートとドライバーのコメントを頼りに、何とか記事にして日本にファックスすると、もう深夜の12時を回っていた。

 

 そんな海外でのF1初取材だったが、そんな中にも、結構自由時間を作る努力をしていたのだなと思う。というのは、もう一人の取材記者と連れだって、「サザン・パシフィック鉄道の駅舎跡を見にカサ・グランデまで行ってみよう」ということになって、バスに乗って(1時間かかった)出かけた日があったからだ。

 その帰り、乗ってきたときと同じバス停で待っていると、カーキ色の上下に同じくカーキ色の帽子をかぶった警察官二人が車から降りてやってきて、パスポートの提示を求められた。ところが、ウィンブルドンでの苦い経験からパスポートはホテルに投宿すると同時にフロントに預けるようにしていたので、携行していなかった。つたない英語でいくら日本人で、これこれの仕事で来ていると言ってもわかってもらえない。特に悪かったのが、中心街に帰ってから買えばよかったのに、たまたま見つけたスーパーマーケットで大量に買い込んでいた水とジュース。二人とも、それを買い物袋に入れてぶら下げていた。こんなものを持って、どこに行くのか、というわけだ。

 そうこうしているうちに、中心街に戻るバスがやってきた。無視して乗り込もうとしたのだが、そのバスはすし詰め状態。どんなに押しても、まったく上がり込む余地がない。

 どうしよう、と思っていると、件の警官の一人が、人混みをかき分けてバスの中に潜り込んでいった。そして、しばらくすると、10人ほどの同じように日に焼けた小柄な男達を引き連れて、降りてきたのだ。「空いたから乗れ」と言うような合図を送ってきた。

 急いで乗り込み、無事に帰り着いたのだが、そのとき、降ろされた10数人は何だったのだろう? ということが帰ってからのプレスルームでの話題となった。停めてあった金網付きのトラックの後部に乗せられていたので、メキシコからの越境者か、越境者と疑われた人たちだったに違いない。




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