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はじめに

あなたの目の前にいる人。

あなたの隣にいる人。

出逢えたこと全てが、小さな小さな、奇跡なのです。

時代は流れていく。

この時代で、この国で。

この県で、この街で。

この、場所で。

あなたの大切な人が、気の合う友人が。

楽しくて明るい場所が。

存在していることが、当たり前ではないのです。

1つ間違えれば戦争の時代だったかもしれません。

1つ間違えれば、地球がなくなる前日だったかもしれません。

あなたがいて、誰かがいる。

そのことに幸せを抱いたことは、ありませんか―――?

ある日の朝A


あくる日、瞼をゆっくりと開くと、携帯のアラームが鳴っていた。アラームにしているオルゴールの音が辺りに響き渡り、今まで静寂にあったこの部屋をぶち壊す。
まだ、目覚まし時計ですら機能していないこの時間に鳴る携帯の音に、心地よいという感情を忘れ、やがて、うっとおしいと感じるほどになっていた。
まだ機能していない頭の中でも、今日という日にちが、何を表しているのか容易に分かる。
俺は、携帯の電源ボタンを軽く押すと、ぼんやりとその画面を眺める。
「お父さん、ご飯だって」
目の焦点が合っていない俺に、今年小学五年生になる娘が呼びに来た。俺は、生返事をすると、開いていた携帯をパチンとゆっくりと閉じた。
―――きっと今年もあいつらは、あの墓に集まるのだろう。
あれからもう、二十六年の月日が経ったというのに、あいつらは懲りずに彼の墓へと足を運ぶのだ。
よくやるよ、まったく。
俺は苦笑いを浮かべながら、むくりと起き上がると、床に足をつく。そして、ベッドの脇にある棚の引き出しを開けた。
一つのアルバムを取り出す。見れば、中学二年のときの俺と、その隣で微笑むあいつの姿が映っている写真が入っている。
あいつはいつもそうだった。何が楽しいのか幸せなのか分からないけど、いつも微笑んでいるのがあいつのクセと言ってもよかったし、特徴でもあった。
アルバムをパタンと閉じて、ベッドから立ち上がる。そして、棚の上にアルバムを置いた。
―――そう。それは、今から丁度二十六年前の、二〇〇〇年丁度の六月のこの日。あいつは死んだ。まだ、十五歳という若さで。

俺は思い出す。まだ、あいつが生きていた頃を。まだ、「ありがとう」とか「さよなら」も言えない自分を。悲しみに暮れていたあの日々を。優しかった、あいつの笑顔を―――。


始まりと終わり

 平成十二年。
その年の六月、長く続いた雨が止んだその日。
僕は、死にました。
原因は交通事故によって受けた打撃、多量出血。
僕は、死んだのだ。

 


静岡県は、恵まれた土地である。
北にそびえる日本一高い山の見晴らしは、女富士と呼ばれるほど、人々を魅了し、南に広がる海からは、大量の海産物が引き上げられ、毎日新鮮な魚介類を口にすることが出来る。
気候も、寒すぎず、暑すぎず、住みやすい環境を維持している。
オレンジ色の電車が走る鉄道を併走する一帯は、所謂閑静な住宅街である。近年では、背の高い建物や、見知らぬ店舗がめっきり増えたが、一歩街の奥へ入れば、未だ尚、豊かな自然が辺りを占領するこの一帯を、人々は「富士の町」と呼び、親しんでいる。
北にある大窓へと視線を向ければ、富士山が一望できるこの病院は、僕と弟が生まれた場所だった。幼い頃、母親が新たな生命を生み出した場所を、僕は昨日のように思い出していた。
病院から見えた自然公園は、いつの間にか幅の広い、音楽を奏でるホールへと姿を変えていた。
そんな町の風景をぼんやりと眺めながら、僕は、ふと、自分の記憶を呼び覚ましていた。しかし、どうもここに来るまでの過程を覚えていないのだ。僕の記憶が一時的に抹消されていることも、僕の身体が水のように少し透明がかっていることも、僕自身が宙を浮いていることも。
僕には、理解しがたいこの事実に、いわば、現実逃避をしているのである。
空は青いし、遠くに見える海はいつも通り青くて、北の大窓には日本一の山が薄れることなく、鮮やかに君臨している。「快晴」、まさにその言葉が当てはまる世界だというのに、僕の心は悲しみに満ちていた。
僕の耳には、悲鳴に似た、泣き声しか聞こえない。
目の前には怒っているのに、どこか悲哀を帯びた表情をしている父。何がなんだか分かっていない、まだ小さな弟。そして、幼馴染の翔子が泣いていた。
空はこんなに青くて、海はいつも通りの青さで、何隻もの船が、漁業をするために、船を沖に出している。いつもと変わらない日常なのに、僕は僕ではないのだ。


遡ること数分前、目を覚ました僕は、真っ白な空間にいることに、酷く驚愕した。少し前までは、幼馴染の翔子と、親友の託也と一緒に、学校からの帰り道を歩いていたというのに、僕の記憶は少しの間ブツリと糸が切れるように途切れていたのだ。
途切れた記憶を探していると、耳に聞こえたのが、悲鳴に似た泣き声だった。幼馴染の翔子が、大粒の涙を流しながら、泣いていたのである。
そんな翔子を目に映した僕は、首を傾げた。
―――どうしたの? 何で泣いているの? 何か、悲しいことがあったの?
僕が翔子の肩を叩こうとした瞬間だった。
―――え…?
僕の手はいとも簡単に彼女の肩をすり抜けた。
酷く驚愕した僕は、自分の掌を見た。僕の手は心なしか薄く、そして感触がまったく感じられない。掌の向こう側にある翔子の身体が容易に見える。
そして、翔子の目の前にあるものも。
 翔子はそれに向かって泣いていた。それは、僕だった。白い布を被されているが、その隠れきれていない部分ですぐに分かった。
 毎日学校へ行く前の洗顔する際に鏡で見ていた顔の輪郭。髪の毛。この間の家庭科の授業でエプロンを作る際に全身鏡で見た、僕の全身。
すべてが当てはまる目の前の死人。これは、僕しかいない。他の誰でもない。目の前の死体は、北谷徹平。僕自身なのだ。

 

親族が続々と集まる中、僕の死亡理由を問う人は、後を絶たなかった。実の息子が目の前にいるのに、動くことのない悲しみを抱えた父親は、口を開くこともできない。ただただ、唇を噛み締めては、揺れ動く瞳を、瞼で覆わないようにこらえているだけ。
そんな父親を見かねた親戚の叔父さんが、僕が死んだときの話をしゃべり始めた。淡々と、脈絡のないその口調。
僕は、彼の言葉で思い出すのだ。そう、僕の失った記憶のパズルの欠片。



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