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僕が「勝手に副読本」を書く理由

グレイトフル・デッドのライブを初めて見たのは1981年、UCバークレーのグリークシアターだったと思う。


それ以降、ガルシアが亡くなりデッドライブが行われなくなるまでの十数年間、僕と仲間たちはベイエリアで開催されるライブに足繁く通い続けることになる。毎年年末に行われるニューイヤーズ・イブ・コンサートは勿論、年に数回サンフランシスコ・ベイエリアで行われるデッドのライブは僕と仲間たちにとって欠かすことのできない重要な「祭り」になっていた。


昨年そのデッドをマーケティング視点から分析した「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」がアメリカで発刊されたことを知り、すぐに英語版を取り寄せた。届いた本のデザイン、手に持った時の軽さや紙質にアメリカならではのほのぼのとした懐かしさを感じたが(注:米国版は日本版と装丁が全く異なります)、一番感動したのは、ページをめくるたびにこれまでの生活や仕事で何となく感じていたいくつもの疑問が次々に晴れていったことだ。「これ、これ、これです!」とまわりの人たちの肩を片っ端から叩きたくなるような爽快感。こんな爽快感を書籍から感じたのは初めてだ。


僕自身長い間マーケティングに関わる仕事をしてきたので、ビジネスに携わる多くの日本人、特に起業した若い人たちにこの本を読んで欲しいと思ったのだが、同時に、この感覚をデッド体験のない人が理解し共感するのは難しいのではないかとも考えた。というのは特に、デッドの場合「体験する」ことで得られる要素があまりにも多いので、時代的な背景も含め、デッド体験を構成する「それ以外」や「その回り」の要素を知ることができれば、たくさんの人がより深く、この本が持つ価値をわかってもらえるだろうな、なんてことをぼんやりと思っていた。
 
実はちょうどこの頃、著者の奥様でこの本の翻訳者でもある渡辺由佳里氏と偶然ツイッターで知り合っており、ツイッター上で数回やりとりしていた。ただし話題はデッドとはまったく無関係で、アメリカで暮らす日本人が共通して悩んでいることや暮らしの知恵的なことがほとんど。例えば「家を魚臭くせずにオーブンで魚を焼く方法をお教えします」みたいなことだった。その後「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」が糸井さん監修で日本でも発刊されることを知った。以前から多くの名作コピーとともに「ほぼ日」その他の活動で糸井さんのファンではあったが、その糸井さんがデッドにからんだ本を監修してくれるなんて夢にも思っていなかった。
 
すでに話題になっているこの本を手に取るであろう起業した若者達は僕の回りにもたくさんいる。でも時代背景を知らない彼らがデッドを理解できるのだろうか、ちょっと風変わりなビジネス書と片付けてしまわないだろうか、なんてことをぼんやりと考えている時、思いついたのが僕自身が「副読本」を書くことだ。特にシリコンバレーにおいて創業され世界に大きな影響を与えている企業や人々に対して、グレイトフル・デッドがどれだけの影響を与えてきたのか、それを伝えるべきではないのか。そのためにも「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」を補完するような参考書があったら、ヒッピーの時代を知らない若者達にもより深くデッドの時代とそのパワーを理解してもらえるのではないか。
 
さらにそれが紙を使った出版ではなく、デッドらしい「フリー」の「電子出版」であればもっと良いだろうし、まさにそれがデッドを体験しマーケティングに携わってきたものとして、僕自身が今やるべきことのように思えた。そんなことを今活動を共にしている「ロッカクLLC」の仲間に相談したところ全員一致で大賛成。こうしてロッカクスタッフの協力を得て副読本を書くことになった。


運命的なデッドマーケティング本との出会い、しかもそれが糸井さん監修であることに感謝しつつ、僕が心から愛するグレイトフル・デッドとその時代に関するあんなことやこんなことを、少しでも多くの人にわかってもらえるように書いてみようと思う。それにしても、、、70年代の終わり頃から20年近くもの間サンフランシスコ・ベイエリアに暮らすことができたのは、僕の人生最大の幸運。あらためてグレイトフル・デッド、そして僕の人生の師であるジェリー・ガルシアに感謝。


サンフランシスコへ

僕が大学に入ったのは、激しかった学生運動も一段落してキャンパスもすっかり平和になり、学生達が積極的に学生であることを楽しむようになっていた頃。クルマ、スキー、スケートボード、サーフィンなどアメリカ西海岸からやってくる明るく楽しそうなアソビの情報が学生たちの話題の中心だった。


ギターが唯一の趣味だった僕は、ロック、ジャズ、フュージョンなど、いろいろなジャンルのバンドに掛け持ちで参加し、練習とライブに明け暮れる日々を送っていた。そして大学生活も終わりに近づき、自分の人生について思い悩むべき時期がやってきた。「成績も最悪だしちゃんとした就職はほぼ無理。だいたいサラリーマンになるのは気が進まないし、そうじゃない生き方がどこかにないものか、、、」とぼんやりと考えていた時、ある偶然から友人とサンフランシスコで商売するという話が持ち上がった。団塊世代であれば「アメリカで一旗!」「起業して社長に!」というような熱い想いを抱くのかもしれない。しかし熾烈な競争を勝ち残ることを求められた団塊世代の次の世代である僕たちは、心のどこかで、人生なんて気楽に生きていかれるもの、と甘く考えていた。


アメリカ行きはアメリカ留学経験がある友人と話しているうちに出てきたアイデアだったが、食っていかれる程度に稼げるならそれで良いんじゃない、という程度のほんとに軽いノリ。決して大きな成功を望むわけではなく、むしろ個人商店、アメリカ的に言えば「スモールビジネス」を始めるつもりだった。不思議なことにこのアイデアはとんとんと現実になっていき、半年後には親から借りた少しばかりのお金を持って生まれて初めての飛行機に乗り、初めての外国サンフランシスコに到着していた。


でも世の中甘くはなく、なんとかなるだろうという期待は次々に打ち砕かれていき、数ヶ月過ぎた頃、計画はみごとに失敗。しかしもともと商売したくてアメリカに来たわけじゃない。また失敗に終わるまでの段階で多くの知り合いもできていた。そうした人たちの助けも借りて、何とかぎりぎり生活費を稼げるようになっていたので、このまま気楽にここで暮らして行かれればそれも良し。なるようになる、余計なことは考えないようにして、そのままずるずると僕はアメリカでの暮らしを続けた。


やがてビザもなくなり正真正銘の「不法滞在者」になってしまうのだが、その頃そんな日本人は周囲に少なからずいたので「不法」という状況に真剣に悩むこともなく、それでも漠然とした不安は持ちつつも、楽しい毎日が過ぎていった。そんな時に出会ったのがグレイトフルデッドだった。ただ残念なことに、その時にはこの幸運な出会いに気付くことはなかったし、この出会いが20年後の自分をどこに連れて行ってくれるのかなんてことを想像することもなかった。僕はただ単にロックコンサートに行っただけだ。


ところがあと数年で60歳になろうとしている2011年の今になって初めて、この時のデッドとの出会いが自分の人生にものすごく大きな影響を与えていたことをはっきりと自覚することになった。この時のデッドとの出会いがあったからこそ、今の自分がここにこうしていられる。あの時、コンサートに行っていなかったら僕の人生はまったく違うものになっていた。おそらくは想像したくない人生になっていたであろうことを、今ははっきりと自覚できる。



それでも今日までの人生を毎日デッド的に過ごしてきたわけではない。特に20年以上続けた米国生活を終え、苦労して取得した永住権も捨てて完全に東京で暮らすようになってからは、もうグレイトフルデッドという名前が頭に浮かぶこともほとんどなくなっていた。せいぜいiPodからシャッフルされて偶然聞こえてきたデッドの曲に懐かしさを感じる程度。忙しい東京の仕事と暮らしのなかで、いつの間にか僕にとってデッドはずいぶん遠い存在になっていた。


人は日々の暮らしのなかで次々といろいろな分かれ道に出会う。その都度、右に行くか左に行くかという判断を繰り返して人生を歩いてゆく。これまでの人生で無数にあったであろう曲がり角で、僕はなぜあちらではなくこちらを選んだのか。僕の人生の中でもその判断に影響を与えるものは少なからずあったのだろうが、僕に取ってはデッド体験がその最大のものであったことは確かだ。何回も繰り返すが、間違いなくデッド体験は僕自身と僕の人生に大きな影響を与えている。デッド体験を新しいビジネスに活かしてきた人も無数にいる。1981年のグリークシアターはなんて素敵な、感謝すべき出会いだったのか。そのことにあらためて気付かせてくれたのもこの本「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」だった。

 



Around & around

さて前置きが長くなったがここからが本筋。この数年、漠然と感じていたことがある。それは、もしかしたら自分が若かった頃に時代が戻ってきているんじゃないか、という感覚だ。もちろん時代は常に変わり続けているが、それが今、自分の知っている時代に戻ってきているのではないか、と感じるのだ。


もしかしたら社会が進化するオーバルコースのようなものがどこかにセットされていて、その現在位置がこの数年でスタートラインに近いところまで戻ってきた、ということなのだろうか。ファッションの世界では10年ごとに流行が繰り返すというのが一つの定説としてあるが、ここで言うのは単なる繰り返しではなくむしろ一段高いところに上るためのジャンプボードのようなものを、ぐるっと一周回ったところで見つけた、みたいなイメージだ。しかもそのジャンプボードにどうも見覚えがある。知ってるぞ、この感覚、、、。


そんな漠然と抱いていたイメージが、偶然出会った「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」を読み進むうちにどんどんクリアになっていった。これだったんだ!これだよ、これ! もともとシリコンバレー(北カリフォルニア)で活躍するほとんどの人が若い頃には例外なくヒッピー的な暮らしをしていたわけで、デッドの世界にどっぷり浸っていたか、大きな影響を受けていたことは確かだろう。そして彼らが若い頃経験していたはずのデッドとの原体験、あるいはデッド的な世界やその時代との関わり方などが彼らの思考のルーツにあると考えれば、いろいろなことが明快に見えてくる。時代はいまジャンブボードを使ってオーバルコースの一段上にある新しいコースに飛び移ろうとしている。


そのことに気付かせてくれたのがこの本「MARKETING LESSONS FROM THE GRATEFUL DEAD」。ここには次の時代を生き抜くためのヒントがたくさんある。


ライブはパーティ

記念すべき人生初のデッド体験となったグリークシアターはカリフォルニア州立大学バークレー校(UCバークレー)構内にある野外劇場だ。ライブが始まるのは夕方で、当時僕が住んでいたサンフランシスコからは湾をはさんで車で約30分程度のところ。

 

午後早めに家を出てベイブリッジを渡ってバークレーの街に入り大学に近づいていくと、今日が何か特別な日であるという雰囲気がすでに周囲に充満している。デッドマークのついたTシャツを着て道を歩いている人々の数がどんどん多くなってくる。デッドステッカーが貼られたクルマの数もハンパじゃない。街角のあちらこちらでお香やデッドがモチーフになったサイケデリックなTシャツやワッペンを売る露店が開かれている。路上ライブを始めているやつらもいるし、そのまわりでくるくると踊り始めているダンサーもいる。

 

30年前の僕はこの初のデッド体験を「まるで夏祭りみたい」と感じたことを、高揚した気分とともによく覚えている。それまで僕にとって、日本でのコンサートやライブは確かに特別な日ではあるものの、見に行くもの、あるいは聞きに行くものだった。ところがこの日、バークレー大学付近はまるで「教祖さまの生誕日を祝おうと、熱狂的な信者が各地から集まりつつある聖地」のようだった。実際、デッドとデッドを取り巻くいわゆるデッドヘッズの関係を「信仰の無い宗教」と呼ぶ人もいる。

 

言うまでもなく、彼らは特別な思想や主義に従ってここに集まっているわけではなく、単に「ここに来れば楽しいことが起こる、楽しい時間を過ごせる」ということを経験として知っている人たちなのだ。ここが一般のロックスターとデッドが違う点なんだと思う。その意味では、僕がグリークシアターで感じた「祭り」や「高揚感」はまさにデッドライブそのものだったと思う。グレイトフル・デッドというバンドの真の価値を知るためにはライブに「参加すること」、言い換えれば「祭りの輪に加わること」が重要なポイントになっているのだ。

 

祭りで有名な街、たとえば岸和田などには祭りだけを楽しみに一年を過ごす人がいるようだが、デッドヘッズとデッドライブの関係も似たようなものだ。イスに座ってロックスターの演奏を見る・聞くのではなく、グレイトフル・デッドをご神体とする「祭り」がデッドのライブであり、デッドというバンドの価値を知るための重要な「場」なのだ。そろいの衣装を着て神輿を担いだり、それを囲んではやし立てたり、踊りの輪に参加したり、縁日の露店を冷やかしながら散歩したり、というのが祭りの楽しみ方だと思うのだが、デッドのライブでの楽しみ方もまったくそのままだ。


「ヒッピースタイル」→「新しいビジネスモデル」

デッドライブは「祭り」と言ったが、もう少し厳密に表現すると、それはむしろ巨大な「パーティ」だろう。「祭り」は通常「Feast」や「Festival」と訳されるが、デッドライブの場合はそれとはちょっと違う。「パーティ」の規模が巨大になったものというイメージの方が近い。住宅事情の違いもあるが、当時のサンフランシスコでは、僕の周囲でも何かにつけてパーティが開かれ、そこには料理やビールワイン同様にライブバンドが不可欠な存在だった。当時僕らが暮らしていたところは、僕たちが住める家賃レベルなのでごく普通のカリフォルニアの家だったが、そこで仲間とひらく程度の、日本的に言えばホームパーティであっても、時にはリビングルームや裏庭にドラムまでセットして、いくつかの素人バンドが演奏するということも少なくなかった。そこで演奏するのはもちろん仲間がやっている素人バンドだ。

 

僕はそののちマンハッタンに引っ越したが、さすがに東部の都会では普通の家でバンドが演奏するようなパーティはほとんどなかった。マンハッタンから少し離れた郊外地域にはアメリカらしい恵まれた住宅環境が整っているので、そこではカリフォルニアと同じような規模のパーティもあったのかもしれない。ただやはり気風のようなものが西と東とではまったく異なっている。特に当時のサンフランシスコ・ベイエリアには音楽と生活が切り離されることなく、常に密接につながっている自由な気風が満ちあふれていた。

 

その意味でグレイトフル・デッドはまさにサンフランシスコで生まれたバンドだ。パーティという場において何よりも自分たちが楽しみ、同時にバンドに最も近いファンである友人たちも、パーティという場に参加することで、日常的に音楽を楽しむことができた。そのパーティが単純に大きくなって、グリークシアターのような会場でのライブへと進化していき、さらに隣町へ、そして隣の州へと広がっていったのがデッドのライブだ。

 

普通はそうした規模的拡大のどこかの過程で、ミュージシャンは「プロ」になることを意識するようになる。「プロ」であるからこそ、パーティ感覚でいつまでも遊んでいるわけにはいかない、ビジネスとして成り立たせるために何かを変えなければ、、、と考え始めるものだ。その結果、音楽そのものを切り出して流通させる既存のビジネスモデルにのせるために、演奏を完全な形でスタジオで録音して固定化し、パッケージ化する。その方がいつでも同じレベルに「完成された」音楽を聴かせることができる。それが音楽ビジネスであり、プロミュージシャンのあるべき姿であり、より多くの売り上げを上げ、音楽ビジネスで成功するための最善の方法とされていた。

 

そんな完成された音楽を大量に販売するビジネスモデルに則って成長しようとする音楽業界の流れの中にあっても、デッドはこれまで自分たちが演奏して、仲間たちと共に楽しんできたスタイルを変えずにすむ方法はないか、と模索したのだろう。いわゆる「プロ」的なやり方とは違う新しいやり方はないのか、と考えたんだと思う。いやもしかしたら、ごく自然に自分たちが嫌なこと、ちょっと違うんじゃないかと思うことを避けてきただけなのかもしれない。パッケージ化された音楽からは「参加」という楽しみ方が失われてしまう。そうした大切な空気をパッケージに閉じ込めてしまったら、それはもはや「祭り」でも「パーティ」でもない。そうじゃないやり方で、より多くの人と音楽を楽しみたいと、工夫を重ねてきたのに違いない。


そうした思いをいろいろな形で工夫し、実験していった結果が、ライブ演奏をビジネスの中心に据えるという、デッドならではのビジネスモデルとなっていった。切り取られパッケージされた音楽だけを流通させてきた既存の音楽ビジネスに対する、カウンターカルチャーとしての音楽ビジネスのビジョンがここから生まれたのだ。

 

いままでそうだったから、こうやってきたから、この方がうまくいく、この方が利益が出しやすいという理由でむやみにパッケージ化されたくはない。スタイルを変えずに済む自分たちなりのやり方を見つけたい、ということだろう。忘れちゃいけない、なにしろ彼らはヒッピーなのだ。




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