目次
バルカンの星のもとに 楽団カチューシャ
華の昭和名歌200 第  :悲しき街角 デル・シャノン(Del Shannon)
華の昭和名歌300 第 :ライオンは寝ている The Tokens(トーケンズ)
華の昭和名歌300 第 :ハウンドドッグ エルヴィス・プレスリー
華の昭和名歌300 第 :ダイアナ ポール・アンカ
華の昭和名歌200 第  :恋の片道切符 ニール・セダカ
華の昭和名歌300 第 :ボーイ・ハント(原題 Who's Sorry Now?) コニー・フランシス
華の昭和名歌200 第  :悲しき足音(Footsteps ) スティーヴ・ローレンス
華の昭和名歌200 第  :太陽はひとりぼっち  ミーナ
華の昭和名歌300 第 :ほほにかかる涙 ボビー・ソロ
華の昭和名歌200 第  :サンライト・ツイスト(Go-kart Twist)ジャンニ・モランディ
華の昭和名歌200 第  :ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama) 飯田 久彦
華の昭和名歌300 第 :月影のナポリ 森山 加代子
カントリーロード J. Denver
華の昭和名歌300 第 :マサチューセッツ ビージーズ
華の昭和名歌200 第 :ローハイド(Rawhide) フランキー・レイン
華の昭和名歌300 オールディーズ 第  :サマーワイン  ナンシー・シナトラ&リー・へイズルウッド
華の昭和名歌200 第  :悲しき天使 メアリー・ホプキン(カヴァー 森山良子 他)

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華の昭和名歌200 第  :サンライト・ツイスト(Go-kart Twist)ジャンニ・モランディ

 私は、基本的には、演歌・歌謡曲系の人なので、オールディーズの分野は、面映く、困惑気味。けれど、私の思春期とほぼ同時代の文化。見渡すと、すこし違う切り口から喋れるようなので、この分野も、10年くらい掛けて、完成したいと思っています。宜しく、どうぞ。気を永く、お持ちくださいますように。
 さて、この曲は、当時、人気アイドルだった、カトリーヌ・スパーク主演のイタリア映画「太陽の下の18歳」(Diciottenni al sole)の挿入歌、1963年の秋に大ヒット。本来の主題歌は、ジミー・フォンタナの映画同名曲。そのB面が、この曲(原題は「ゴーカート・ツイスト」)なのだ。日本でのヒット当時、ラジオやテレビから、よく流れてきた。この曲は、底抜けに明るい、生の喜びの歌なのだろう。が、私はその底に、哀愁を感じてしまうタイプなのだ。モランディの歓喜に満ちた歌声の部分と、反対に何度か挟み込まれる、喪失感に満ちた歌唱が、心に響くのだ。エジレジーレ バァイ、この核のフレーズが、心に響くのだ。
E gira e gira e vai E non frenare mai 
E gira e gira e vai E non fermarti mai
Mettiti il casco esatta sul go-kart
E vai e vai col go go go-kart
E ballerai il twist del go-kart
Twist go-kart and twist go-kart
(ほら、回って回って ぜったいブレーキを踏まないで ほら、回って回って ぜったい止まらないで ヘルメットをきちんとかぶって ゴーカートをどんどん走らせるんだ ゴーカートのツイストを踊るんだ ツイスト、ツイスト、ゴーカートのツイストを)
(収集プロフィール)
ジャンニ・モランディ(Gianni Morandi、1944~ )イタリア・ボローニャ(Moagidoro説あり)生まれの歌手兼俳優。現在も数々の歌謡祭やTV等で活躍をしている。
1944年12月11日イタリアで生まれ、1962年にデイトタイム(Andavo a cento all’ora)でデビュー 。’64年に初来日,帰国後イタリアで「貴方にひざまづいて」(In ginocchi da te)が大ヒットしました。この後もファンの皆さんならすでにご存知だと思いますが出す曲全てといっていいほどヒットしました。66年に、「貴方にひざまづいて」で共演したラウラ・エフリキアンと結婚。2児をもうけるが、79年に離婚、現在アンナとの間にピエトロという男の子(7歳)がいます。日本には過去4回来日しています。
*かたすみでひっそりと・より
1962年 太陽の下の18歳の挿入歌「サンライト・ツイスト」が日本でヒット。
1964年 「貴方にひざまづいて」カンタジーロで優勝、「愛をあなたに」バラのフェスィバルで優勝。
1965年 「君なしには生きられない」カンタジーロ準優勝、ちなみに優勝者はリタ・パヴォーネ「ルイ」
1966年 「貴方にひざまづいて」日本で上映、「8月15日の夜」カンタジーロ優勝
1968年 「キメラ」カンタジーロ準優勝、ちなみに優勝者はカテリーナ・カセルリ「愛の面影」
1969年 「雨が降ってきた」カンツォニッシマ優勝
1970年 「あなたへの愛」カンツォニッシマ優勝
1971年 「カプリッチョ」でカンツォニッシマ準優勝ちなみに優勝者はマッシーモ・ラニエリ
1972年 「青春の汗」でサン・レモ音楽祭初出場
1976年 「愛の水辺」第7回世界歌謡祭参加
1987年 「Si Puo Dare Di Piu'」日本語タイトル「もっと、もっと」サン・レモ歌謡祭優勝 Morandi,Ruggeri,Tozzi のベテラン3人で歌う。
1995年 「In Amore」バラバラ・コーラと組んでサン・レモ出場2位
2000年 「Innamorato」サン・レモ音楽祭3位 
*やっぱ、夏の歌でトップクラスにランキングするのは・・・エジレジレバイだ。
*ジャンニ・モランディが歌った「サンライト・ツイスト」です。エジレジレバイと歌う歌詞が、何かジリジリする夏い暑を感じさせました。
E gira e gira e vai. E non fermarti mai.
E gira e gira e vai. E non fermarti mai.
*Mixed Moss 雑多な苔・より
そのなかで、唯一例外的に印象に残った歌が、ジャンニ・モランディの歌った1962年のヒット曲「サンライト・ツイストGo-Kart Twist」である。イタリア語だから何を言っているのかさっぱりわからなかったが、とにかく軽快で楽しい歌だと思った。
(ぜったいブレーキを踏んじゃダメ ゴーカートを走らせるだけさ そしてゴーカート・ツイストを踊るんだ ツイスト、ツイスト、ゴーカートのツイストを きみがしなくちゃいけないのは ぐるぐる回って、アクセルを踏むこと そして叫んで、ツイストを踊ること ゴーカート・ツイストを これがツイスト これがツイスト これがゴーカートのツイストさ!)
他愛もない歌詞だが、モランディの声はそれにふさわしく乾いていて心地よい。サウンドの薄っぺらさもこの歌にふさわしい。しかし、作曲はいまでは映画音楽の大御所になっているエンニオ・モリコーネ。モリコーネはこの頃けっこうポピュラーソングを書いている。これも40年以上昔の歌とは思えないぐらいよくできていると思う。映画もヒットし、ツイストが大ブーム。
☆1962年のイタリア映画『太陽の下の18才』の挿入歌として作られ、当時まだ新人だったジャンニ・モランディによって歌われ大ヒットとなった曲。タイトルのとおりツイストの軽快なリズムを使い、それでいて哀愁あるメロディーラインも持ち合わせていて良くできた曲。
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最終更新日 : 2011-12-07 21:51:57

華の昭和名歌200 第  :ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama) 飯田 久彦

 オリジナルは、米国歌手の、ジーン・ピットニー。(それ以前からあったのかは、不明)例に依って、漣健児氏の、訳作詞が素晴らしい。ピットニーのほうも、たくさん聴いたが、サビや強調するところが、日本人の感覚とは違い、不思議で楽しかった。
 飯田は、私の思春期の前後、とても人気のあった歌手である。すこしニヤケ顔だったが、わりとハンサムで、スマートだった。ただ、必要以上に、身体をくねらせて、踊っていた記憶がある。唄は、特に上手いとは思えなかったが、当時の機器の性能を考慮すると、かなりの実力があったのだろう。その後、テレビなどの表舞台からは、徐々にフェードアウトしていったが、裏方に転じ、プロデューサーとして、大成功したのだという。とまれ、人生の成功者となったのは、その強靭な精神に敬意を表すべきであろう。
 あの子は ルイジアナ・ママ やって来たのは ニューオリンズ 髪は金色 目は青く
本物だよ ディキシークィン---/スクスク ドドンパ チャチャチャ 踊ろうよディキシークィン---- 
(収集プロフィール)
飯田 久彦(いいだ ひさひこ、1941- )は歌手・音楽プロデューサー。東京都出身。芝浦工業大学工学部中退。現在はエイベックス取締役。歌手時代の愛称はチャコ。
自称"歌い手くずれ"。坂本九の薦めで歌手としてデビュー、瞬く間にスター街道を昇りつめトップスターの座を射止めるものの、70年代に裏方であるディレクターへの転身を図る。松崎しげるの「愛のメモリー」をきっかけに、ピンクレディー/桜田淳子/小泉今日子など、アイドルのヒットに貢献。90年代には、プロデューサーとしてSMAPや河村隆一を担当し、現在テイチクの代表取締役社長と、世にも稀な経歴を誇る人物だ。
歌手としては、61年に米国歌手デル・シャノンの名曲「悲しき街角」で世に出る。この曲は、英詞を日本語訳した洋楽ポップス・カヴァーの先駆となるのと同時に、大ヒットも記録。続く、「ルイジアナ・ママ」(これもカヴァー)も連続して大ヒット。その親しみやすい容貌から、"チャコ"の愛称で親しまれ、コンサートの行われた日劇では、ファンが会場を二重に取り囲んだという逸話もあるくらいの人気者であった。しかし70年代には、時代の流れと共に歌謡曲へシフトしていき、その人気も下降線を辿る。そこで、裏方へと転向するのである。
多くの歌手が、一度でもスターの座から転げ落ちると、二度とそこには昇れないのだが、飯田は、裏方としても再度成功を収めた。後にも先にも、例がない存在だろう。
 略歴
1961年 - 『悲しき街角(Runaway)』で歌手デビュー。
1962年 - 『ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama)』が大ヒットとなるが、その後人気が低迷。
1975年 - 日本ビクター入社。ディレクターとして松崎しげる、ピンク・レディー、小泉今日子らを担当
1988年 - ゲームミュージックのアルバム『ナムコット ゲーム ア・ラ・モードVol.2』の収録曲「恋のダーク・ホース」(ゲーム『ファミリージョッキー』のアレンジ曲)にて、久々にマイクを取る。
1990年代にはプロデューサーとして活動。
1999年3月 - ビクター専務取締役に就任
1999年6月 - テイチク代表取締役社長に就任
2005年6月 - テイチク代表取締役会長に就任
2006年11月 - エイベックス取締役に就任
 逸話
大ヒット曲『ルイジアナ・ママ』のサビ、「from New Orleans」の発音が巻き舌のため、当時の視聴者には「ホニオリン」(または「ロニオリン」)と聴こえたという。後年、ナツメロ番組で歌った際には「フロム・ニューオリンズ」と、日本語英語で聞き取りやすい歌い方をしていた。
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最終更新日 : 2011-12-07 22:23:42

華の昭和名歌300 第 :月影のナポリ 森山 加代子

  私が子供のころ、彼女は、その当時のメディア(白黒テレビやラジオ、商店街の流す音楽、週刊平凡・明星など)で、大活躍していた。坂本九やパラダイス・キングなどとともに。当時の機器の性能でも、彼女の歌唱は素晴らしく、私は、森山はいずれ大歌手になると、思っていた。ところが、ある時期から、彼女は、マスコミにほとんど姿を見せなくなった。長い間、不思議に思っていたが、8年後「白い蝶のサンバ」で復活。それによって、その理由がハッキリとした。彼女は、ある大手芸能プロから、契約満了で独立したのだが、そこからプロモーションが、うまくいかなくなってしまったのだ。理由は、すこし違うが、最近では、鈴木あみの話題があったように、こういうケースは、複雑な問題を孕んでいるのだ。森山は、その間、キャバレーなどの地方のドサ回りがほとんどで、声を荒らしてしまった。運よく復活はしたが、森山は、大歌手になるための、重要な時期を失ってしまった。古いしきたりや独自のルールは、理解できるが、考えてみれば、気の毒であり、またとても怖いことだ。スケールは小さくなるが、黛ジュンも、同様のケースといわれている。
 (詞・曲 F.Migliacci・B.De Filippi 訳詞・岩谷 時子) 
 そしてお月様 ねェ彼を帰して---チンタレラデイルナ あの人を街で----
(収集プロフィール)
森山 加代子(もりやま かよこ、1942- )は、北海道出身の歌手。
 略歴
1960年代を中心に活躍し、洋楽をベースとしたコミカルなイメージのヒットソングを多く持つ歌手である。ニックネームは「かよチャン」。
札幌のジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされて、デビュー。1960年、デビュー曲「月影のナポリ」が50万枚を売り、いきなりの大ヒット。続く「メロンの気持」「月影のキューバ」などヒットを連発。また新人としては異例の早さで同年のNHK紅白歌合戦に初出場した。以降洋楽をベースにしたコミカルな歌を何枚もリリース。特に1961年リリースの「じんじろげ」は強烈な歌詞と共に、流行語にもなったほどでもあった。
数年の低迷期を経て、27歳で結婚。
結婚後の1970年にリリースした「白い蝶のサンバ」は従来のイメージをガラリと変えたポップな歌謡曲であるが、これも大いにヒット、ミリオンセラーとなる。
現在も、舞台やショーで歌手として活躍している。
 主な曲
「月影のナポリ」(ザ・ピーナッツとの競作)
「メロンの気持」
「月影のキューバ」(洋楽『MAGIC MOON』カヴァー)
「じんじろげ」 (作詞 渡舟人、作曲 中村八大)
「ズビスビズー」 (洋楽『ZOO BE ZOO BE ZOO』カヴァー)
「パイノパイノパイ」(オリジナルとは歌詞が違う)
「可愛いベイビー」 (中尾ミエのバージョンでも有名な曲)
「白い蝶のサンバ」 (作詞阿久悠、作曲井上かつお)
「レモンのキッス」
など
 紅白出場曲
第11回 1960年(デビュー年)
月影のキューバ
第12回 1961年
シンデレラ (訳詞 みナみカズみ)
第13回 1962年
五ひきの仔ブタとチャールストン
第13回 1970年(8年ぶりの出場)
白い蝶のサンバ
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最終更新日 : 2011-12-14 01:43:53

カントリーロード J. Denver

デンバーの歌唱には、野太さと土着的な味わいがあり、オリビアの歌唱には、素直でスマートな明るさがある。聴き比べると、この曲への思いが深まるようだ。日本語の歌詞は、素朴な移行する感覚が、郷愁と鬩ぎあうような。また、青空と、広大な大地が見えてくるようなポジティブな志向がいい。
(作詞・作曲:B. Danoff, T. Nivert & J. Denver 日本語詞:鈴木麻実子、補作:宮崎駿 昭和46/カバー:オリビア・ニュートン・ジョン)
 カントリーロード この道 ずっとゆけば
 あの街に続いてる気がする カントリーロード
 一人ぼっち恐れずに 生きようと夢見てた
 さみしさ押し込めて 強い自分を守っていこう
 カントリーロード この道 ずっとゆけば
 あの街に続いてる気がする カントリーロード
 疲れたたずむと 浮かんでくる故郷の町
 丘をまく坂の道 そんな僕をしかってるーーー
 Country Road
1. Almost heaven, West Virginia,
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River.
Life is old there, older than the trees,
Younger than the mountains, blowing like a breeze. 
  (Refrain:)
  Country road, take me home
  To the place I belong,
  West Virginiaーーー
(収集プロフィール)
ジョン・デンバー(John Denver、1943年12月31日 – 1997年10月12日)アメリカ合衆国のシンガーソングライター。
略歴
ニューメキシコ州ロズウェル出身。ドイツ系の家庭に生まれる。数多くのヒット曲を生み出し、1970年代のフォークソングにおいて中心的な役割を果たした。
*親しみやすい曲調と、繊細で情感あふれる歌詞が特徴。コロラド州アスペンのリオグランデ州立公園には、デンバーの作品で、コロラド州の公式な州歌となっている「ロッキー・マウンテン・ハイ」の歌碑が立っている。
最大のヒット作Take me home, country roadsはオリビア・ニュートン=ジョンにカバーされたほか、日本ではスタジオジブリの映画『耳をすませば』の主題歌(映画ではオリビア・ニュートン=ジョンのカバー曲を使用)として使われた。
オー!ゴッドなどの映画に主演したほか、テレビドラマなどの出演もある。
1997年10月12日、米国内ツアーを終えて、カリフォルニアで休日を過ごしていたが、自ら操縦していた飛行機の墜落により事故死した。
2014年にハリウッド殿堂(Hollywood Walk of Fame)のレコーディング部門の2531番目の殿堂入りしたことが明らかとなった[3]。
主な作品
以下の作品は、デンバー自身のオリジナルまたは共作として発表されたもの。
フォロー・ミー (Follow Me) 1969年
悲しみのジェット・プレーン (Leaving on a Jet Plane) 1971年
故郷に帰りたい (Take Me Home, Country Roads) 1971年
さすらいのカウボーイ (I'd Rather Be A Cowboy) 1973年
ロッキー・マウンテン・ハイ (Rocky Mountain High) 1973年
太陽を背にうけて (Sunshine on My Shoulders) 1974年
緑の風のアニー (Annie's Song) 1974年
バック・ホーム・アゲイン (Back Home Again) 1974年
すばらしきカントリー・ボーイ (Thank God I'm a Country Boy) 1975年
マイ・スウィート・レディ (My Sweet Lady) 1977年
*二木紘三のうた物語より
1971年に発表されたジョン・デンバーの出世作。どさ回りを続けていた3人の若者が、この歌で一挙に全米に知られました。3人とも、1度もウェストヴァージニアに行ったことがないまま、この歌を作ったというエピソードは有名です。田舎出身の私としては、日本語詞より原詞のほうが心に沁みます。アパラチア山地の谷間にひっそりたたずむ、住人がみな顔見知りといった感じの小さな町が浮かんできます。アメリカ版ふるさと演歌といったところでしょうか。
ジョン・デンバーは、70年代に、『ロッキー・マウンテン・ハイ』などのヒット曲で人気カントリー歌手の地位を確立。1997年10月12日、カリフォルニア州モントレー空港を、自分の操縦する単発の自家用軽飛行機で離陸後、墜落して死亡しました。


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最終更新日 : 2015-05-10 23:51:45

華の昭和名歌300 第 :マサチューセッツ ビージーズ

私がこの曲をはじめて聴いたのは、お祭りで呼ばれた、友人の家でだった。ソフトな唄いぶりと、ほのかな哀愁と、演歌・歌謡曲系とは別種の、淡く心地よい望郷。けれど、それらが纏まると、深い聴後感を残す。ほかに、ホリデイやディスコ系のナンバーも傑作。

 Feel I'm goin' back to Massachusetts, Something's telling me I must go home. And the lights all went out in Massachusetts The day I left her standing on her own.----
(マサチューセッツに帰りたい気持がする 何か帰ったほうがいいって言っているみたいだ マサチューセッツの灯りはすべて消えた 彼女の1人残してきた日に)

(収集プロフィール)

ビージーズ(1963~ 、: Bee Gees英国王領マン島生まれのイギリス人の三人兄弟を中心に構成された、男性ボーカルグループ。1963年にオーストラリアよりレコードデビューし、1973年からは米国を中心に活動。1955年から2003年まで息の長い活動を続け、「Massachusetts」「Holiday」「How Deep Is Your Love」「Stayin' Alive」「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝し、グループとしての活動に終止符を打ったが、2009年から活動を再開した。2012年5月20日、ロビン・ギブが死去。

デビュー以前からオーストラリア時代まで

ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンモーリス二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、イングランドマンチェスターに移る。

1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には、後にハーマンズ・ハーミッツのリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。1958年、父の仕事の都合に因り家族7人(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレスリー、末っ子アンディ)でオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ1958年3月5日-1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。ここで兄弟は、小遣い稼ぎに唄うようになる。最初のグループ名はラトルスネークス(Rattlesnakes)、その後、ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ(Wee Johnny Hayes & the Bluecats) になった[3]

そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ(Bill Gates,マイクロソフト創業者とは別人)に紹介される。紹介者は、レーサーのビル・グード(Bill Goode)。ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)から彼らのグループ名をBee Geesとつける。1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになり、1963年にフェスティバル・レコードより『三つのキッス』でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的規模の人気を博すこととなる。 英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響を強く受けた。

メンバー紹介および第一期 - 第三期黄金時代から1980年代末まで

ビージーズはギブ3兄弟を中心に結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となった。全員共通してボーカルを担当。

1966年にはオーストラリアで最優秀ボーカルグループに選ばれ、翌1967年2月、シングル『スピックス&スペックス』が全豪NO.1ヒットしている頃、オーストラリアでの大人気に着目したビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、自らが経営するNEMSエンタープライズに入社したての新人ロバート・スティッグウッドをオーストラリアへ赴かせ、ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。

イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリアクイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948年生れ)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングに度々参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945年生れ)をリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より『ニューヨーク炭鉱の悲劇』でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコードアトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。

以後、「ラヴ・サムバディ」、「ホリディ」、「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、1968年に「ワーズ」、「ジャンボー」、「獄中の手紙」(初の全米TOP10入り)「ジョーク」(同じく全米TOP10ヒット)、同年末にヴィンスがプロデュサー業に転向するため正式に脱退、翌1969年春、3rdアルバム『オデッサ』、シングル「若葉のころ」を発売間もなくロビンがソロ・シンガーになるべく独立(シングル「救いの鐘」は英国のみでヒット)、同年夏シングル「トゥモロウ・トゥモロウ」を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇してしまう、これによって2人となったビージーズは「想い出を胸に」を全英TOP10に送り込むも、翌1970年春先にシングル「I・O・I・O」、アルバム『キューカンバー・キャッスル』発売直後の兄弟喧嘩に因って空中分解。その後、それぞれソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は固い結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。

10月に再スタート第一弾アルバム『2Years・On』を発売、翌71年1月にシングルカットされた「ロンリーデイ」を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)とし続くシングル「傷心の日々」は念願の全米No.1となるが、アルバムセールスは低調だった。コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの1972年春、初の来日公演(日本でもアイドル人気だった1969年に予定されていたがメンバーの脱退などの諸問題で、延び延びとなっていた)寸前に解雇される。

1973年に、マネージャー兼プロデューサーでもあるロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードへ移籍し、アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)でかっては、ヤング・ラスカルズなどを手掛け華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年~ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラを付けていた)からリズム主体のファンキーなサウンドへと脱皮を図ったものの、ファンからは「売れるためにサウンドを変えた」と猛反発され、翌1974年のアルバム『ミスター・ナチュラル』も不発に終わる。

1975年に芸能生活20周年記念アルバムでもある『メインコース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウエイの夜」がディスコブームに乗り、全米大ヒット。これより第三期黄金時代の幕開けとなる。以後も、ダンスナンバーを中心とするコンテンポラリー路線を手掛け、1978年には半年以上も彼らが手掛けた楽曲がNo.1を占めるなどの快挙を達成(ビートルズ、シュープリームスカーペンターズ以来)。1981年のアルバム『リビング・アイズ』がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、数多くの全米ヒットを生み出す。

1987年にワーナー・レコードに移籍し、アルバム『E・S・P』よりシングル・カットされた「You・Win・Again」は、全英TOP10ヒット。1989年には、シングル「One」が久々に全米TOP10ヒットになるものの、Rolling Stone誌では"Unwelcome Back Band"と酷評される。モーリス死亡後はロビンは再結成の意向はないと表明したが、現在では必ずしもこだわってはいない、とのこと。

サタデー・ナイト・フィーバー&ステイン・アライブ

ディスコで大人気を誇っていたビージーズのナンバーを大きく取り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が、1977年に公開された。1998年にミュージカル版もロンドンで製作され、翌年にはブロードウェー公演も果たし、日本公演は2003年新宿コマ劇場で行われた。続編である映画『ステイン・アライブ』もヒットする。

業績・受賞

全世界で2億3,000万枚を超えるレコードを売り上げており、現在に至るまでビートルズエルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンポール・マッカートニーと並んで、音楽史上最も成功した上位5組に数えられる。彼らの楽曲は古くはエルヴィス、近年はデスティニーズ・チャイルドといった日本においても知名度の高いアーティストらによってカバーされている。1971年から1979年にかけて米国ビルボードチャートに9曲のナンバーワンヒットを送り出した[4]1978年3月には、製作に携わった4つの楽曲が上位5位にランクインした。この記録は、ビートルズが1964年4月に上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。1977年の最終週から1978年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占し続けた。イギリスに於いては、ビートルズの28曲に次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。1997年に、アーティストの殿堂とロックの殿堂[5]、2001年にはボーカルグループの殿堂、2004年9月20日にダンスミュージックの殿堂入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録した。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。

 主な曲

  • ニューヨーク炭坑の悲劇 - The New York Mining Disaster 1941 (1967年)
  • ラヴ・サムバデ - To Love Somebody (1967年) - 全米17位, 全英41位
  • 誰も見えない - I Can't See Nobody (1967年) - 日本に於いては「ニューヨーク炭鉱の悲劇」のB面
  • マサチューセッツ - Massachusetts (1967年) - 全米11位, 全英1
  • ホリデイ - Holiday (1967年) - 全米16位(日本に於いては「マサチューセッツ」のB面)
  • ワールド - World (1967年) - 全英9位
  • ワーズ - Words (1968年) - 全米15位, 全英8位
  • ジャンボー - Jumbo (1968年) - 全米57位, 全英25位
  • 恋するシンガー - The Singer Sang His Song (1968年) - 全米116位(日本に於いては「ジャンボー」のB面)
  • 獄中の手紙 - I've Gotta Get A Message To You (1968年) - 全米8位, 全英1
  • ジョーク - I Started A Joke (1968年) - 全米6位
  • 若葉のころ - First Of May (1969年) - 全米37位, 全英6位 - 日本では同名のドラマ『若葉のころ』(1996年、TBS)の主題歌となっている。
  • トゥモロウ・トゥモロウ - Tomorrow,Tomorrow (1969年) - 全米54位, 全英23位
  • 想い出を胸に - Don't Forget To Remember (1969年) - 全米73位, 全英2位
  • イフ・オンリー・アイ・ハッド - If Only I Had My Mind On Something Else (1970年) - 全米91位(シングルとしては日本未発売)
  • アイ・オー・アイ・オー - IOIO (1970年) - 全米94位, 全英41位
  • ロンリー・デイ - Lonely Days (1971年) - 全米3位, 全英33位
  • メロディ・フェア - Melody Fair (1971年) - 映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として、日本でのみシングル・カットされ大ヒット。(オリコン3位)
  • イン・ザ・モーニング - In The Morning (1971年) - 映画『小さな恋のメロディ』の主題歌として日本でのみシングル・カットされた。(オリコン36位)
  • 傷心の日々 - How Can You Mend A Broken Heart (1971年) - 全米1
  • 過ぎ去りし愛の夢 - Don't Wanna Live Inside Myself (1971年) - 全米53位
  • マイ・ワールド - My World (1972年) - 全米16位, 全英16位
  • ラン・トゥー・ミー - Run To Me (1972年) - 全米16位, 全英9位
  • アライヴ - Alive (1972年) - 全米34位
  • 希望の夜明け - Saw A New Morning (1973年) - 全米94位
  • ひとりぼっちの夏 - Wouldn't Be Someone (1973年) - 全米115位
  • ミスター・ナチュラル - Mr Natural (1974年) - 全米93位
  • シャレード - Charade (1974年) - 全米103位
  • ジャイブ・トーキン - Jive Talkin (1975年) - 全米1位, 全英5位
  • ブロード・ウェイの夜 - Nights On Broadway (1975年) - 全米7位
  • ファニー - Fanny(Be Tender With My Love) (1975年) - 全米12位
  • ユー・シュッド・ビー・ダンシング - You Should Be Dancing (1976年) - 全米1位, 米R&B4位, 全英5位
  • 偽りの愛 - Love So Right (1976年) - 全米3位, 米R&B32位, 全英41位
  • ブーギ・チャイルド - Boogie Child (1976年) - 全米12位, 米R&B31位
  • 宇宙の片隅 - Edge Of The Universe (1977年) - 全米26位
  • 愛はきらめきの中に - How Deep Is Your Love (1977年) - 全米1位, 全英3位
  • ステイン・アライヴ - Stayin' Alive (1978年) - 全米1位, 米R&B4位, 全英4位 - 日本ではホンダ・オデッセイのCMソング(2008年~)に使われている
  • 恋のナイト・フィーバー - Night Fever (1978年) - 全米1位, 米R&B8位, 全英1位
  • 失われた愛の世界 - Too Much Heaven (1979年) - 全米1位, 米R&B10位, 全英3位
  • 哀愁のトラジディ - Tragedy (1979年) - 全米1位, 米R&B44位, 全英1位
  • ラブ・ユー・インサイド・アウト - Love You Inside Out (1979年) - 全米1位, 米R&B57位, 全英13位
  • 愛のパラダイス - Spirits(Having Flown) (1979年) - 全英16位
  • 愛はトライアングル - He's A Liar (1981年) - 全米30位, 全英82位
  • リヴィング・アイズ - Living Eyes (1981年) - 全米45位
  • ウーマン・イン・ユー - The Woman In You (1983年) - 全米24位, 米R&B77位, 全英81位
  • よりそう二人 - Someone Belonging To Someone (1983年) - 全米49位, 全英49位
  • ユー・ウィン・アゲイン - You Win Again (1987年) - 全米75位, 全英1位
  • E.S.P. - E.S.P. (1987年) - 全英51位
  • クレイジー・フォー・ユア・ラヴ - Crazy For Your Love (1988年) - 全英79位
  • オーディナリィ・ライヴス - Ordinary Lives (1989年) - 全英54位
  • ONE - One (1989年) - 全米7位, 全英71位
  • シークレット・ラヴ - Secret Love (1991年) - 全英5位
  • ペイイング・ザ・プライス・オブ・ラヴ - Paying The Price Of Love (1993年) - 全米74位, 全英23位
  • 誰がために鐘は鳴る - For Whom The Bell Tolls (1993年) - 全米109位, 全英4位
  • 甘い経験(パート1) - How To Fall In Love Pt.1(1994年) - 全英30位
  • アローン - Alone (1997年) - 全米28位, 全英5位
  • もうこれ以上愛せないほど - I Could Not Love You More (1997年) - 全英14位
  • スティル・ウォータース・ラン・ディープ - Still Waters Run Deep (1997年) - 全米57位, 全英18位
  • ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン - This Is Where I Came In (2001年) - 全英18位

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最終更新日 : 2013-07-29 01:05:36


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