目次
はじめに
はじめに
南北戦争 ~分離独立を巡る死闘~
1.南北戦争の背景
2.開戦前の見通し
3.1861年4月17日~27日 ワシントンの危機
4.1861年4月19日 アナコンダ作戦の開始
5.1861年7月21日 第1次ブル・ランの戦い
6.1862年4月6日~7日 シャイローの戦い
7.1862年3月8日~4月25日 ハンプトン・ローズの海戦
8.1862年3月~7月 半島作戦
9.1862年8月29日~30日 第2次ブル・ランの戦い
10.1862年9月17日 アンティータムの戦い
11.1862年12月13日 フレデリックスバーグの戦い
12.1863年4月16日~7月4日 ヴィックスバーグの戦い
13.1863年5月1日 チャンセラーズヴィルの戦い
14.1863年7月1日~3日 ゲティスバーグの戦い
15.1864年5月4日~ ピーターズバーグへの道
16.1864年5月4日~9月2日 アトランタへの道
17.1864年11月15日~ シャーマンの焦土作戦
18.1865年4月9日 南軍降伏へ
南北戦争会戦推移
.1861年7月21日 第1次ブル・ランの戦い
.1862年4月6日~7日 シャイローの戦い
.1862年6月26日~7月1日 七日間の戦い
.1862年9月17日 アンティータムの戦い
.1863年4月16日~7月4日 ヴィックスバーグの戦い
.1863年7月1日~3日 ゲティスバーグの戦い
.1864年5月5日~6日 ウィルダネスの戦い
.1864年7月20日~9月2日 アトランタ攻防
南北戦争将軍列伝
.ジョージ・B・マクレラン
.ジョージ・G・ミード
.ユリシーズ・S・グラント
.ウィリアム・T・シャーマン
.フィリップ・H・シェリダン
.ロバート・E・リー
.トーマス・J・ジャクソン
.ジョセフ・E・ジョンストン
.ネーサン・B・フォレスト
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17.1864年11月15日~ シャーマンの焦土作戦

 -南部後背地- ★シャーマン vs. ジョセフ・ジョンストン

 ピーターズバーグでリーが包囲されている間に、シャーマンは次なる焦土作戦の為の行進を始めた。ジョージア州、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州という、南部の主要州であり後背地である地域を、とにかく破壊して進むのである。

 11月15日、シャーマンは62,000の兵に100kmの幅をとらせ、まず大西洋岸への進軍を開始した。作物、家畜、工場、鉄道などを手当たり次第に略奪し、破壊していった。シャーマンは書いている。「われわれは土地を荒らし尽くし、牛馬は小麦やとうもろこし畑をあとかたもないほど食い尽くした。人々は我らの行く前に姿を隠し、後には荒涼として何もない。戦争とはどんなものか、知りたければ我々の後についてくるがよい。」

 12月21日には大西洋岸に到着。1865年1月には北に向かって出発し、3月25日までに680kmを進軍、ジョンストンの抵抗を蹴散らして焦土作戦を行った。南部諸地域はぼろぼろの状態となり、シャーマンは南部人に深く恨まれる事になった。



18.1865年4月9日 南軍降伏へ

 -東部戦線- ★グラント vs. リー

 1865年3月には、ピーターズバーグのリーの兵力は54,000になっていた。対してグラントの兵力は115,000であった。4月2日、グラントはついに南軍防御陣の中央を突破した。リーに残された唯一の望みは、退いてジョンストンと合流する事だけになった。

 その日の夜にリーの軍は密かにピーターズバーグとリッチモンドから脱出、リッチモンドには南軍兵の手によって火が放たれた。リーは30,000の兵を率いてなおも西へ逃れたが、4月9日にはシェリダン将軍によって西と南への退路も断たれてしまった。もはや抵抗は不可能となった。リーは、タオルで代用した白旗を掲げさせて、グラント将軍との会見を申し込んだ。

 4月9日午後、リッチモンドの西120kmのアポマトックスという町で、リーとグラントが会談した。リーは正装で、グラントはいつものだらしない格好であったが、かくも長い間勇敢に戦ってきた相手が降伏したので、悲しみに心もうち沈んでいたという。昔のメキシコ戦争時代の思い出話などをした後、降伏文書が取り交わされた。南軍の降伏を聞いて、北軍兵士たちは気が狂った様に喜び、はしゃいだ。グラントは言った。「戦争は終わった。反乱軍は、またわが国民になったのだ。」

 リンカン大統領は南部再建の為に寛容な政策を発表した。だが4月14日、リンカン大統領は南部出身の俳優に暗殺される。多くの人がその死を嘆き悲しんだが、中でも黒人たちの悲しみは筆舌に尽くしがたいものだった。南部の再建も中途半端なものにならざるを得なかった。

 南北戦争は、アメリカ合衆国の為にはどうしても必要な戦いであったと言えるだろう。リンカンが戦前に言った様に、「分かれた家は立つ事が出来ない。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家がながく続くことはできな」かったのだ。だが、南北戦争を引き起こす原因となった問題は、今でも完全に解決されているとは言えないのである。



.1861年7月21日 第1次ブル・ランの戦い

 -東部戦線- マクダウェル vs. ボーリガード★

 北軍司令官マクダウェルは、ブル・ラン川の渡河可能地点がすべて南軍におさえられている事から、主力を迂回させて敵の左翼を衝く奇襲作戦をとった。ところが指揮官も兵卒も戦闘未経験である事がたたって、進撃は遅れるし攻撃は南軍のエヴァンズに察知され、奇襲効果をまったく失ってしまう。マシューの丘での戦闘は12時頃に南軍戦線が崩壊したが、その南方のヘンリーの丘にジャクソン将軍らが到着しており、戦闘はそちらに移った。

 しかしその後マクダウェル将軍が「戦力の逐次投入」等の失策を犯したのに対して南軍には増援部隊が到着し、午後5時には北軍は総崩れとなり、算を乱してワシントンへの退却が始まった。しかし、南軍の足並みも乱れ、大量の捕虜を扱いかね、さらに遺棄された物資の略奪行為(開戦当初、戦費は自弁だったのでやむを得ない面があった)のため追撃は不可能となり、南軍の痛手も大きかった事から夜7時、戦闘停止命令が各部隊に通告された。この戦いでは「北軍は負けて軍紀が乱れたが、南軍は勝利して軍紀が乱れた」と言われている。


.1862年4月6日~7日 シャイローの戦い

 -西部戦線- ★グラント vs. ボーリガード

 シャイローの戦いは、グラントとビューエルの北軍部隊が合流する前に各個撃破を行おうという南軍の企図から生まれた。「平和な所」を意味するシャイロー教会付近に宿営、新兵訓練などを行っていたシャーマンらの北軍5個師団は敵の襲来をまったく予期しておらず、朝方南軍の攻撃を受けて朝食中の兵士らはコーヒーカップや皿を放り出して戦わねばならなかった。しかも運悪く新兵を中心とする師団が真っ先に攻撃を受けて遮二無二逃げまどった為、隣にいたシャーマンの師団も戦線を組めず、恥も外聞も構わないような撤退を行う。

 しかし南軍の方でも弾薬の欠乏や指揮系統の混乱が生じ、北軍に立ち直りの時間を与える事となる。激戦は夕闇が迫るまで続いたが、ボーリガードは翌日に北軍を川に追い落とすつもりで戦闘を中止させた。北軍にはビューエルの軍が増援として到着しつつある事を、交錯した情報の中で顧みなかったらしい。翌日早朝からはじまった戦いは、増員した北軍が損耗した南軍を押しまくり、ボーリガードは午後2時半過ぎに撤退を命令することになる。


.1862年6月26日~7月1日 七日間の戦い

 -東部戦線- マクレラン vs. リー★

 首都リッチモンドに肉迫する北軍に対し、リーは起死回生の大博打を打つ。それは敵将マクレランの慎重さを逆手にとり、リッチモンド前面には最低限にも満たない兵力を残し、北方からのジャクソンの援軍をも得て左翼で大攻勢を行うというものであった。攻勢予定時日は26日であったが、ジャクソン軍が到着せず、A・P・ヒルがじれて攻撃を行って撃退される。しかしマクレランは正面の陽動作戦に惑わされ、結局27日の大攻勢を許してしまった。

 マクレランは、将兵の反対を押し切って全軍にジェームズ川まで撤退する様命令。3ヶ月かけて築き上げた陣地などはすべて捨てる事になったが、防御しつつ戦う事には長けたマクレランはマルヴァーン・ヒルに堅固な砲列を築く。マクレランがこんなに急激に退却するとは思っていなかったリーの作戦計画は具体性に欠け、南軍はマルヴァーン・ヒルの戦いで恐ろしいほどの損害を出すが、結局はマクレランの性格に助けられ、マクレランは撤退。マクレランは総司令官の地位からおろされる事になった。



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