目次
0、訳者の前置き
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一.伯爵波漂(ハピョ)の生い立ち
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二。伯爵波漂の結婚
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三.波漂の伝染病感染
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四、波漂の死と蘇生
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五.ここはどこだ
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六.暗闇での苦闘
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七.暗闇の中での光明
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八.暗闇からの脱出
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九.古着屋
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十.主人の述懐
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十一.変わりように驚く波漂
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十二.裏切りを見た波漂
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十三.怒りに震える波漂
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十四.二人の会話に歯ぎしりする波漂
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十五.魏堂の勝手な言い分
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十六.復讐の固い決意
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十七.ひとまずパレルモへ
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十八.波漂を見破る船長
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十九.照子の貞淑ぶり
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二十.変装に精を出す波漂
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二十一.立ち居振る舞いも変える波漂
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二十二.捕まった海賊カルメロネリ
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二十三.財宝の使用を許された波漂
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二十四.警察署長の訪問
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二十五.いよいよネープルへ
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二十六.ネープルのコーヒー館にて
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二十七.波漂をけなす魏堂
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二十八.那稲に会わせたがる魏堂
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二十九.会うのを断る波漂
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三十.魏堂の家を訪れた笹田伯爵
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三十一.那稲に会わされた笹田伯爵
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三十二.那稲と話をする笹田伯爵
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三十三.嫉妬する魏堂
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三十四.魏堂の話に耐える笹田伯爵
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三十五.星子に会う笹田伯爵
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三十六、星子をいたぶる魏堂
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三十七.魏堂達を暗に告発する皺薦
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三十八.魏堂を安心させる笹田伯爵
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三十九.那稲を愛さないように求める魏堂
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四十.波漂に似ているのを危惧する那稲
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四十一.魏堂に知られないように親愛を示す那稲
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四十二、星子を心配する笹田伯爵
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四十三、笹田伯爵に那稲を頼む魏堂
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四十四.危篤になった星子
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四十五.目を見せてと頼む星子
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四十六.老僕に見破られた波漂
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四十七.魏堂の手紙に憤慨して見せる那稲
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四十八.那稲に妻になれと言う笹田伯爵
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四十九.那稲に愛をささやかれた笹田伯爵
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五十.目を見せてと言う那稲
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五十一、幽霊ではないかと驚く那稲
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五十二、嵐の中で憂さを晴らす波漂
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五十三、復讐の序曲
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五十四、修道院に避難する那稲
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五十五、ピストルの手入れをさせる波漂
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五十六、魏堂の乗る馬車の到着
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五十七、胸騒ぎを訴える魏堂
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五十八、13の数字に沈むパーティー
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五十九、盃を投げつける魏堂
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六十、決闘を申し込む笹田伯爵
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六十一、介添人を断られ困る魏堂
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六十二、自室に戻る笹田伯爵
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六十三、那稲に会えず苦悩する魏堂
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六十四、決闘場に着いた笹田伯爵
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六十五、サングラスをはずす笹田伯爵
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六十六、笹田伯爵を恐怖の目で見る魏堂
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六十七、貴方は誰だと聞く魏堂
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六十八、波漂に謝り事切れた魏堂
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六十九、いよいよ那稲を憎む波漂
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七十、魏堂が死んだことを聞き安堵の色を見せる那稲
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七十一、魏堂に全財産を贈られて喜ぶ那稲
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七十二、笹田伯爵の指を見て気絶する名稲
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七十三、本当は若いと見抜かれた笹田伯爵
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七十四、リラの素直さをうらやむ笹田伯爵
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七十五、那稲の魏堂への手紙
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七十六、那稲の緻密さにあきれる波漂
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七十七、リラと瓶造を結ぶ決意
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七十八、ネープルに戻った波漂
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七十九、結婚式の準備にいそしむ二人
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八十、飼い犬を撃ち殺させた那稲
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八十一、羅浦船長に再会した笹田伯爵
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八十二、外国に密かに送ってくれと頼む笹田伯爵
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八十三、那稲に嫌みをを言う笹田伯爵
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八十四、素晴らしい宝石を那稲に約束する笹田伯爵
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八十五、婚礼の夜宝石を見に行くことにした那稲
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八十六、瓶造に睡眠薬を飲ませる笹田伯爵
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八十七、墓倉で何かを仕組む笹田伯爵
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八十八、那稲の美しさに息を呑む笹田伯爵
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八十九、那稲の冷静さに感心する笹田伯爵
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九十、町中の人を饗応する笹田伯爵
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九十一、那稲とダンスする笹田伯爵
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九十二、開始の十一時の鐘の音
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九十三、波漂の姿に戻る
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九十四、辻馬車で墓倉へ
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九十五、どこなのか不安がる那稲
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九十六、やっと墓倉の底へ
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九十七、素顔見せる波漂
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九十八、恐れる那稲
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九十九、助けを求める那稲
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百、必死に逃げようともがく那稲
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百一、波漂にしがみ付く那稲
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百二、もう一度愛してと頼む那稲
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百三、短剣を奪う那稲
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百四、どうした那稲
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百五、どこかが崩れ真っ暗に
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百六、那稲の最後
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百七、アメリカで再起を期す波漂
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奥付
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                 (一)

 

 読者よ、私は鬼(おに)である。人は死ねばこれを鬼(き)と言う。私は一度死んで生き返った者だから鬼(き)である。人にして鬼(き)、鬼(き)にして人、思えば恐ろしい私の鬼生涯(きしょうがい)、試しに、私の故郷のイタリア、ネープル府(ナポリ)に行って、伯爵波漂(ハピョ)はどうしたかを聞いて見よ。異口同音に波漂はすでに死んでいると答えるだろう。

 役場の戸籍帳を調べてみても波漂は去る八十四年(1884年)の激烈な悪疫にかかり死んだことを知るだろう。私はすなわちその死んだ波漂なのだ。戸籍上、法律上はまったくの死人だが私はまだ生きてこの世にいる。当年とって年齢は三十才である。身体健全な一人の男子として現にこの通り、筆を取って自分の鬼生涯を書き表しつつある。顔には男盛りの血色を留め、眼はさえて星のようだ。ただ異なることは、頭の髪の毛だけだ。

 もとは漆のように黒く、東洋の人かと間違われるほどだったのが、今は雪のように白くなってしまって、ただ一筋の黒い毛を捜すことも出来なくなってしまった。三十にして白髪頭(しらがあたま)になってしまったこと、これが私が他の人と異なるところで、そのほかは何の変わりもない。

 会う人は誰一人として私の白髪を不思議に思わない人はなく、ある人は遺伝かと尋ね、ある人は何か非常に心配事でもあって白くなったのかと聞き、また、ある人は赤道直下のような暑いところを旅行したために白くなったのではと聞く。私はただ笑って何も答えない。答えたとしても絶対信じる人はいないと思うからである。私の黒髪が白くなったのは一度死んだからだが、生き返ったのと同じくらい不思議なことだ。

 今はただ親切な医学士にその白くなった理由を聞かれ、答えないわけにはいかなくなった。私は黒髪が変じて白髪となったその一年間の事を、思い出すまま書き記そうと思う。いや、思い出すまでもなくその一年間の事は一刻も忘れることは出来ない。この後百年が千年経ったとしても忘れることは絶対ない無いだろう。

 読者の皆さん、私はイタリア第一の富豪とまで評された伯爵・霏理甫羅馬内(ヒリポ・ロウマナイ)の一人息子、伯爵波漂です。私の生まれた家はネープル(ナポリ)の港にのぞむ景色の良い丘の上にありました。生まれて間もなく、母に別れ、十七才まで父の手で育てられましたが、父もその年に亡くなりました。わずか十七才で莫大な財産の持ち主になったので知り合いの人々は心配して、彼は必ず酒色にふけり、親が残した財産を浪費してしまうだろうなどと言ったが、私は色にも、酒にも、博打(ばくち)にも、その他のおごりにもふけることがなかった。

 だからと言って、あまりの倹約家と笑われるのも嫌だったので、ただ財産相応に暮らした。若い娘を持つ親たちは折にふれ時にふれ私を招待したが、私は読書と友人のほかには楽しみはなくたいていは断って招待には応じなかった。私が読んだ書物の中には女を悪者のように書いたものが多く、あるものは夜叉であると言い、あるものは男の心を麻痺させる毒薬だと書いたものもあった。

 私はむしろ、女を見て危険な者のように思い、そんな者を相手にするより安心してうちとける男友達と交際したほうが無難だと心の内に決めていた。人が来たら喜んでこれと交わり、来なけ


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れば一人書を読んで古人を友とした。今思い返してもこれほどの楽しみはない。

 友達のうちで特に親しかったのは、私と同年齢で同じ学校を卒業した、魏堂(花里魏堂(はなざとぎどう))という男だ。彼は私が裕福なのと引きかえ、何の財産もなく、しかも私と同じように幼いとき父母を失い、ただ、ローマに一人の叔父がいるだけだった。叔父の仕送りで生活をしていたが、これでも生活を支えるには足りず、学校を卒業した後は絵を習い、上手にはならなかったが、少しは画料を得る身となった。

 特に私が彼を愛し、必要もない絵を描かせて高い値で買い取るなどして、それとなく十分に保護を与えたため、別に生活に不自由と言うこともなく、社交界にも立交じるだけでなく、彼は特に容貌良く生まれつき、女かとも見えるほどなので、私とは違い、婦人社会との交流もあり、いつも私に向かって女の事を説きすすめた。
 言葉巧みに言い回して、人生の幸福は女の愛のほかには有り得ずと言い、ほとんど私の心を動かすほどだったが、私は彼が帰った後で、再び古人の書を読むと、もとの冷静な心にもどり、「魏堂よ、魏堂よ、私は君と交友する以外には楽しみはいらない」、と一人叫び、本心からそのように思っていた。有り体に言えば、この頃の私と魏堂との間ほど親しみ合っている友達は世の中にまたとないことだったと思う。

 しかしながら人の心ほど移りやすいものはなく、心移れば楽しみもまた変わり、行動もまた変わって行く。私がこのような静かな月日を送っている内にも、私は知らず知らずに心が移る時を迎えていた。忘れもしない八十一年(明治十四年)、五月も終わろうとしている頃である。

 魏堂はローマの叔父の所に行くと言って、一週間ほどの留守となり、私はただ一人家にいてほとんど退屈に耐えられなくなり、昼過ぎから小舟をナポリの港に浮かべ、日暮れ頃まで湾の中をこぎ回っていた。

 そのうち疲れを覚えて港に舟を付け、陸に上がって、我が家に帰ろうとしていると、その道にどこから聞こえて来るともなく、すばらしく妙なる歌声が聞こえてきたので、私は恍惚として聞き惚れながら歩くうち、声は次第に近くなってきて、やがて道の角を一つ曲がると、私はすぐ目の前で五,六人の少女たちが、音楽教師かと思われる一老人に引き連れられて、歌ったり、笑ったりしながら、楽しそうに戯れているのを見た。

 読者よ、私は実にこの時まで、女にも心を奪われてみるものだとは思ってもいなかった。この時初めて、今までの愚かさを悟った。女、女、女ならでは人生の楽しみはないと、魏堂が言っていたのはこのことかと思い出すのも忘れて、私はそのうちの一人に見入った。

 妙なる声で歌う一人、これは人かこれは天女か、群いるなかにただ一人、輝くばかりに美しいその面影、その年十六はすでに、十七にはいまだし、何かしらの眼、何かしらの唇、古人が毒薬と評したのは、まだこの女が生まれる前だったからだろう。確かにそれに違いない。世間の女は皆毒薬だが、この女はただ一人その毒を消す気付け薬か。

 私はその姿を見るだけで、二十年来の味気ない浮き世から、天国に生まれ出た心地がした。手が舞うのも知らず、足が踏むのも知らず、人が怪しんで私の姿を見ているのもすべて気にせず、眼中にはただその可憐な姿があるだけだった。


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