第2章 千人の忠実なファン
1,000 True Fans
よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。
しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。
爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?
一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。
芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。
「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華 再発売 高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。

ロングテールの水平な直線で売上を増やすためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。
控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。
千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。
重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。
つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。
あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。
しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。
デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。
ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか? 明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。
もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。
三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャー*1による場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。
最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。
「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。Suck.com*2の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien)*3は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」
このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。
1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (Street Performer Protocol)*4というものである。
大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」
読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。
2004年には、ローレンス・ワット=エバンス*5という作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエイン*6、シャロン・リーとスティーブ・ミラー *7、ドン・セイカーズ*8などがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジ*9は同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲーム*10を作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。
「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。
支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (Fundable)*11 はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。

ファンダブルのサイトから一例を示す。
アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。
千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家ジル・ソビュール*12は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)*13は次のように伝えている。
寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。
「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者ルース・タウス*14が英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。
[*14] http://books.google.com/books?id=eDb1GI3Nr-cC&pg=PA96&vq=The+Value+of+Culture:+On+the+Relationship+Between+Economics+and+Arts&source=gbs_toc_r&cad=0_0&sig=9QEYLk6aBQ9Cv39M2AuDDYFQ7NI#PPA99,M1
創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/12799892.html)
(原文: 1,000 True Fans)
第3章 チューリング化
Turing'd
長年にわたって、私はさまざまな分野の専門家と仕事をする機会に多く恵まれてきた。あらゆる活動が計算機技術のおかげで画期的に変化している。しかしすべての分野がそれを受け入れているわけではない。一部の科学者、免許制の専門家や職業人は新しい技術にアレルギーを持っている。ある種の専門家には画期的な技術を歓迎しやすい傾向があるのはなぜか、最近ひらめいた。最新技術を取り入れたがる部類の専門家は、その専門分野がすでに「チューリング化」されていることに気がついたのだ。
私たちは多くの作業や職業について、人間だけができると信じてきた。道具や言語を使うこと、絵を描くこと、チェスをすること。それが今では一つ一つチューリング化されつつある。計算機が人間を負かしている。人間より上手になっている。

今までのところ、算術計算、スペリング、飛行機の操縦、チェス、タスクスケジューリング、溶接などは確認済みだ。みんなチューリング化されている。
計算機科学者は一緒に仕事する相手としてすばらしい。概して新しいものを全然恐れないからである。彼らはずっと昔にチューリング化されている。自分たちが以前していたことの多くは、今では計算機の方が上手にできることを熟知している。これに対して医者は一般に新技術を受け入れようとしない。彼らの仕事は計算機では代用がききにくいからである。多くの生物学者も同様。
生物学の中でもすでにチューリング化された分野がある。たとえば系統発生学、すなわち異なる種がどのように関連しあっているかという系統樹を研究する学問である。つい最近まで誰も信じなかったことであるが、系統樹を明らかにすることについては、最も賢くて造詣の深い人間よりも計算機の方が上手であることがわかっている。つまり系統発生学者はチューリング化されていて、新しい物事のやり方に対して開放的なのである。

その一方で分類学者や野外生物学者は、計算機には人間のように生物を認識したり分類したりすることができないと今でもまだ信じている。おやおや。彼らはそろそろチューリング化されようとしている。医者もそうだ。
自分がひとたびチューリング化されると、人間にしかできないと思われていた他人の職業が計算機でもできるということを容易に信じられるようになる。人生のいかなる場面でも、画期的変化をもたらす技術を受け入れられる。
あなたはチューリング化されていますか?
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/13122515.html)
(原文: Turing'd)
第4章 物のインターネットにおける四つの段階
Four Stages in the Internet of Things
新しい流行語「グラフ」は、便利だが使い古されたネットワークやウェブという言葉にとってかわるかどうか。私はそんな賭けはしない。(ニコリともしない人がよく口にする「ブログ」という言葉が負けることになら賭けてもよいが。)いや、それはどうでも良い。ティム・バーナーズ=リーによる「ジャイアント・グローバル・グラフ」*1と題する短い投稿では「グラフ」という言葉をいい感じで使っている。これは私の知る限り、セマンティックウェブの最も優れた概説である。それはセマンティクスについて語っていないから、ということもあるのだが。
彼の話のポイントを別の言葉で説明しておく価値がありそうだ。彼のエッセイに出てくる以下のテーマは、「セマンティックウェブ」や「ウェブ3.0」についての私の考えの概要でもある。
第1段階
現在の通信革命の第1段階は、計算機を結びつけることであった。この結びつきをネットワークのネットワーク、すなわち「インターネット」と名づけた。それは有用でもあり退屈でもある。電話機のない電話システムとでもいうような感じのものだった。航空便の予約をしようと思えば、せいぜい航空会社の計算機に接続するくらいのことしかできない。この新しいシステムの熱心な参加者は、開放性に向かって一歩踏み出す必要があった。インターネット上の計算機は他人のデータパケットを転送しなければならない。大きな枠組みで見れば、ビットの製造元は自分のパケットを自由に制御することはできない(そこが電話システムと違うところ)。
第2段階
デジタル通信の第2段階は、文書やページを結びつけることだった。これがウェブである。ここでは航空会社に接続するのではなく、希望する航空便のページまたは文書に接続することができる。システムをずっと役に立つものにする分解能の向上があったのだ。そして、この競技場で競技するためには、競技者はそのページを開放して共有できるようにしなければならなかった。パスワードでページを隠すことはたいてい失敗する。多くの初心者が誤って試みるように、自分の文書に誰がリンクしてよいかを制限することもできない。文書の内容が少しだけコピー・アンド・ペーストされることや、サーチエンジンがインデックスのために全部コピーすることも認めなければならない。これが開放への第2歩である。しかしつながりの価値が一般に広く認められるようになっていた。
第3段階
いま私たちは第3段階初期の終わりにいる。ここで起こっていることは、まず計算機の結合と共有があり、次に文書の結合と共有、そして今ではその文書の中にあるデータの結合と共有が行われている。文書が述べていることの主題と意味を共有し結合しようとしている。航空会社の計算機に接続するかわりに、また航空便のページに接続するかわりに、私たちは航空便の情報そのものに直接つながることができる。データは単体化されて、ウェブ上のどんな装置でも読むことができる形になっている。うまくやれば、データをウェブそれ自体に理解させるようにすることができる。データを英語ではなく一般的なセマンティック形式で表現しておけばよい。その汎用的形式はデータベースの中に存在するような物だろう。実際のところ、この段階はワールド・ワイド・データベースと考えることができるかもしれない。

世界中のデータにアクセスすることは自由をもたらすことであり、XML, RSS, API, RDF, OWLなど多くの3文字技術で可能となった。これらはウェブ上でデータを伝達して共有するための標準技術である。ウェブサイト同士の間でRSSによってコンテンツが飛び交うことで、驚くほど多くのことが可能になった。そのほかに、ひどく真価を認められていない技術がAPIである。このゲートウェイのおかげで膨大なデータのアーカイブを安全に共有することができる。普通のネットワークの効力を使って、データの秘めた力を解き放つ。使えば使うほど価値が上がる。前の二つの段階と同じように、人々は共有の恐怖を克服しようと奮闘している。データを共有することは計算機や文書を共有するよりは身近に感じられる。しかし、いかにしてデータを共有するかを理解することは、次の段階でのウェブの目的である。次の段階で真に価値があるものは、強い結合や強いつながりによって、あるいは自分の貴重なデータを自由に(妥当な範囲で)公開することによって得られる価値に基づくものである。そのことを理解し開放できる人が最も多くを得る。
ここで、ティム・バーナーズ=リー自身が述べていることを紹介しておく。
共有の魅力的でない面は、制御できなくなることである。ネット、ウェブ、グラフ、それぞれのレイヤーにおいて、実際、私たちは大きな便益と引きかえに、何らかの制御について譲歩してきた。あなたのデータを他人のデータと結びつけることは、その意味で開放することである。とは言っても権利のない人にデータを与えるのではない。仲間のサイトからデータにつながるようにすることである。あるいは他のアプリケーションからデータに結合できるようにすることである。
第4段階
ところで、私はこの第3段階が歴史の終わりだとか物語の終わりだとは考えていない。(私は三つの何々という形の歴史については懐疑的である。)四つめの段階がその先に見えると思う。第4段階は物それ自体を結びつけることに向かう。ある物に関するデータがすべてその物に組み込まれていてほしい。ある場所のデータがその場所自体に埋め込まれていてほしい。あなたは実際には航空会社の計算機に接続したいのではない。航空便のページや航空便のデータでもない。航空便そのものにつながりたいのだ。理想的には飛行機に、自分の座席に、あるいは発着時刻に組み込まれた処理と生のデータにつながる。これらの物とサービスの複合体が私たちが「航空便」と呼んでいるものであり、それにつながるようになる。私たちの究極の要望は、物のインターネットである。
セマンティックウェブ
物のインターネットにおいては、私たちの作る物は何でもほんのわずかのつながりを含んでいる。できるのはまだ先だが、そういうものを作れると私は信じている。データのインターネット、すなわちワールドワイドデータベースは今まさに胎動しているところだ。私の知る限りでは、これはみんながセマンティックウェブと言っているもののことである。なぜならば、共有するためには情報を自然言語から抽出して、それぞれの要素に分解して、それにタグをつけてデータベースに入れなければならない。この基本的な構造によって、何千通りもの新しい方法で意味のある(セマンティックな)情報の分子を再構成することができるようになる。それは、平面的で注釈のない元の文書のままでは不可能である。
この共有可能なデータを抽出することは、みんながウェブ3.0と言っているものだと思う。このバージョンのウェブ世界圏では、データが波のように押し寄せ、流れて、ウェブサイト群に広がっていく。一つの大きなデータベースの中のように、あるいは一つの大きな機械の中で起こっていることのように。私のサイトはアリスとボブから絶え間なくデータを取ってくる。そして、そのデータを新しい(セマンティックな)方法で構造化して付加価値を加える。つぎに私は自分がそのようにして整理した一連のデータを流して、誰かが生データとして使えるようにする。このデータの生態系は、すべてのデータが共有や公開されていなくても、開かれた輸送システムと合意のあるプロトコルによって動いていく。
セマンティックウェブ、ワールドワイド・データベース、ジャイアント・グローバル・グラフあるいはウェブ3.0によって、見かけ上かしこそうなサービスを無数に作ることができる。各ウェブサイトに誰が私の友人であるかを何度も教える必要はない。一度だけで十分だ。文章に私の名前が出てきたら、ウェブサイトはそれが私だと知っている。私の町はウェブ上でも、別の言葉ではなくその町名で定義されている場所となる。この普遍性が私の町に関する言及において、その町に関する実際の情報へのリンクを可能にする。見かけ上かしこそうなウェブの性質は、ウェブはより多くのことを「知ろうとする」ことによる。それは意識的にではなく、プログラムによってであるが。ウェブ上に現れる概念や項目は、基本的に今のところはそういうことはできないが、相互に指し示しあってお互いのことを知るようになる。

細部には問題がある。どのプロトコルが勝ち残るか、どの標準が普及するか、どの会社が多数派を制するか。これらは未知数である。政策も問題である。財産としての文書と計算機は、財産としてのデータよりもはるかに問題が少なかった。データを所有することは難しい点が多い。さらに同一性というとらえどころのない概念がある。ウェブはあなたが常にあなたであると知っているとして、あなたは誰なのか? 個人へのサービスの代償が、全面的な個人の透明性であるならば、それは全面的な個人の監視とは何か違いがあるのか?
このような賢さは人々をうろたえさせる。人間とはまったく違う物であるのに、それは何でも知ることができて、さらにまたそのことについて何でも知ることができる。この事実は多くの人に抵抗を感じさせるだろう。でも私は子どもたちがそれを気に入ってくれると期待している。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/13494910.html)
(原文: Four Stages in the Internet of Things)
第5章 コピーの盛衰
The Rise and Fall of the Copy
1900年代に蓄音機がインドネシア列島に到達して、ジョン・B・スムートら音楽学者がガムラン・オーケストラを録音したとき、ガムラン奏者は当惑した。ある場所で人気の曲は数週間の半減期で村々へ伝わっていく。なぜ演奏をコピーするのか? 新鮮な音楽を容易に聞けるのに、すでにすたれた曲の古くさい演奏をなぜ聞こうとするのか? 彼らの当惑を理解するためには、あなたの町に見慣れない外国人が現れたと考えてみれば良い。外国人が漆塗りの木箱をぱっと開く。あなたは木箱の取っ手を回しながら、豪華な料理を食べる。そして次の日に取っ手を回すと、ほんのつかの間、あのときの料理の味を再生することができる。新しい食事を楽しむかわりに、彼らは古いものを何度も何度も再生するよう勧める。

当時のガムラン奏者は困惑したが、今ならもっと驚くことだろう。デジタルの箱があれば、いつでもどこでも(ジョギングしながらでも、エレベーターの中でも、眠っている間でも)再生することができる。そして自分の持っているコピーを仲間や友人と共有して彼らに再生させることもできる。「コピーの文化(The Culture of the copy)」の著者、ヒレル・シュワルツは簡潔に述べている。「私たちは独自性を称賛し、そしてそれを複製する。」

音楽を録音するという行為は音楽を変えた。100年ほど前に蓄音機が世界中に広まるにしたがって、民族音楽は繰り返しに適する音楽へと変化した。録音した音楽は短くなり、旋律的になり、そして精密になっていった。最初に商業化された1890年代の録音シリンダーは、音楽を2分間しか録音できなかった。それから数十年後の録音装置でも、4分半収録できるだけだった。音楽家はそれに合わせて古い作品を切り詰めて短くした。また、蓄音機に適合するように短縮した新しい音楽を作った。初期の録音は増幅していない音声の振動そのものであったので、録音するときには歌手の大きな声は抑え気味にし、静かな楽器の音は強くするようになった。音楽学者のティモシー・デイは次のように述べている。録音の時代になると、ピアニストは今まで決してしなかったことをするようになった。「作品全体にわたって、八分音符と十六分音符をそれぞれはっきりと区別」しようとするのである。
技術のおかげで耳と音楽の距離が縮まった。録音以前の時代には、真剣な音楽愛好者たとえば新進作曲家は、好きな交響曲を一生のうちに1回以上聞くことができれば、それは幸運だったと言えるだろう。交響楽団のある都市に住んでいて、たまたまその作曲家のその作品を演奏してくれた場合にのみ、その曲を聞くことができる。その人の聞ける範囲で同じ曲がもう一度演奏されるまでには、通常かなりの時間を待たなければならない。
私たちは音楽といえばたいてい録音したものという時代に生きている。聞きたいと思う音楽をどこでもいつでも聞くことができるようになった。今日の音楽で録音と再生という性格に影響されていないものはない。蓄音機が発明されてからわずか10年ほど後の1902年にフレデリック・ガイズバーグがインドのカルカッタに着いたとき、インドの音楽家たちは録音された音楽を模倣することをすでに知っていて、「録音すべき伝統音楽が残っていない」と嘆いていたという。
音楽を変化させたのは録音だけでなく、再生技術のせいでもある。再生して聞く装置が開発されて、音楽を聞くという行為は寺院や教会、集会、講堂などでの集団体験から、車や寝室の中あるいはイヤフォンなどで遮断された場での個人体験へと変化した。個人化の技術により、音楽はますます個人的に感じるものになった。機械的なスピーカーが耳に近づくにつれて所有感は増大する。体に密着するウォークマンは、自分の好きなスタイルの音楽が自分だけの親密なものであると思わせてくれる。近い将来、小型耳栓のような再生装置や、骨伝導による音楽が実現するだろうし、またいつの日か、すべての必要な音楽が耳に埋め込まれてあなただけが聞ける「自分音楽」ができるかもしれない。
アメリカで最も技術的な洞察力のある歴史学者、ダニエル・ブアスティンによれば、カメラや蓄音機や電話をはじめとする複製技術によって、人生という漠然とした経験は、個別に消費される単位の羅列に分割されてしまった。「人生の瞬間瞬間は1回限りで取り戻すことができないという感覚は、収録して再生するという考え方に屈服した。」私たちは電子メールでもこの方向へ向かっている。今日の子どもがあと70年くらい生きていると、その人生の全て、すなわち写真や思索や手紙や電話での会話など自分が行った活動全部がサーバに保存されていて、孫たちがそのコピーを見ることができるようになっているかもしれない。
「コピーの降臨」における最初の局面は完全性である。音楽は録音による制限に速やかに適応した。コピーはどんどん増殖するが、その複製は厳密に行われて現実味を保っている。消費者主義が開花した前世紀に複製技術も同様に開花した。そこで消費者が消費したものは正確なコピーであった。
総計の数字は圧倒的である。米国で1年間に25億冊の本が販売されている。15兆ページ(そう、兆なのだ!)が紙にコピーされた。35億枚のCDまたはカセットのアルバムが作られた(1909年には2700万枚だった)。素材の世界では1020億個のアルミ缶が生産された。言うまでもなく、マクドナルドではハンバーガーが何十億個も売れている。コピーは安い。
しかし、音楽コピーの複製と転送は安いどころではない。それはタダなのだ。オンラインでの完全な複製と無限のオンライン転送のせいである。オンライン複製は蔓延し、恐るべき規模になっている。根絶への努力にもかかわらず、ファイルの共有は続いている。ファイル共有ソフトのライムワイヤー(LimeWire)は、2002年1月の1週間に、音楽共有ファンたちのマッキントッシュによって100万本もコピーされた。この新しいオンラインの世界では、コピーできるものは何でも無料でコピーされる。
あるものが無料になり、どこにでもあるようになったとたんに、その価値は逆転する。夜間の電灯が珍しい時代には、ふつうのろうそくで明かりをとるのは貧しい人たちであった。ところが電気がどこにでもあってほとんど無料になると、電球は安っぽく感じられ、ろうそくはディナーの席で豪華さを示すものになった。

この無限な複製の過飽和状態であるデジタルオンライン世界では、価値の基軸はひっくり返ってしまった。工業の時代にはコピーのほうがオリジナルより価値が高いことが多かった。(自分の台所にある冷蔵庫の「オリジナル」プロトタイプを欲しいという人がいるだろうか?)
さて、コピーが豊富で無料になった「素晴らしい新世界」においては、コピーは価値が低下し、ついには失脚させられる。真に価値があるのはコピーできないものである。今世紀の残りの期間は、コピーできないものを、あるいはコピーを除くあらゆるものの変種を、必死にさがすことが続くだろう。「コピー」は死んだ。「非コピー」バンザイ!
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/13768906.html)
(原文: The Rise and Fall of the Copy)
第6章 物質からの贈りもの
The Gift of Stuff
「技術」という言葉は物質を連想させる。原子でできた物。かたい物質。蒸気機関車、鉄の構造物、電話機、計算機、化学物質、シリコンチップ。この大量の物質が何世紀も前に初めて現れたとき、私たちはそれを素材革命だと考えた。しかしそれがもたらした変化は、実はエネルギーを自在に操る新しい能力によるものであった。かたい物質の魔力はエネルギーを保持したり、伝達したり、表示したりする能力に由来する。それは少量のエネルギーによる合図(信号)から、莫大なエネルギーを必要に応じて炸裂させること(カロリー)まで様々である。私たちが技術と呼ぶものは活発な物質であり、まったく新しい素材であった。その強固な意思は異質なものとして恐れられた。それ以来、技術は愛されると同時に憎まれる怪物となっている。
技術を改良していくにつれて、その存在感がいくらか失われた。私たちは技術が硬くて冷たいというのは偽装だと見抜くようになった。その本質は動作であると思い始めた。今日では技術といえばソフトウエアや遺伝子工学、仮想現実感、回線容量、監視エージェント、人工知能などのようなものと考えられている。どれもみな、つま先に落としてもケガをする物ではない。技術は力になった。名詞ではなく動詞になった。私たちを前へ投げ出したり、押し進めたりする、何か力強いもの。私たち人間だけでなく、私たちが属する生物世界をも押して動かしている。技術の動作はとても強く、その存在はあまりに動物的であるので、今では人間は技術が超越的な外来の力だと認識している。物事がうまくいかないときに非難されるものになっている。
実際には技術は物でもあるし、力でもあるし、それ以上でもある。私たちが創作したものは何でも技術なのだ。文章や絵画や音楽はどれも技術である。図書館は技術だ。複式簿記も民法もカレンダーや時計も、組織、科学全般、さらには農具や衣服、衛生施設、医学検査、人の名前、安全ピンも。それでは、技術でないものは何か? 私たちの頭脳から出てこなかったものである。私たちの頭脳から生まれたものはみな技術だ。
これは多くの人にとってはおそらく行き過ぎと思われるだろう。シェークスピアのソネットや、バッハのフーガがどうして原子爆弾やウォークマンと同じ枠組みに入れられるのか? 簡単な話だ。1000行の文字(HTMLページのコード)が技術なのであれば、1000行の英語の文字(ハムレット)だって同じはずだ。ロード・オブ・ザ・リングの映画から技術だけを別に取り出すことはできない。原作小説での文字による表現も、空想的な生物や風景のデジタル表現も、いずれも厳密な意味で技術によるものである。どちらも人間の想像力による作品である。どちらも観客を強く感動させる。
技術は思考の一形態である。技術は思想の表現である。西洋社会を動かしている洗練された法体系は、ソフトウエアの一種と見ることもできる。それは複雑なコードのまとまりであり、計算機の中ではなく紙の上で実行される。(理想的には)公正と秩序をゆっくりと計算する。法律とソフトウエアはいずれも人間の思想の表明であり、したがってこれらは技術である。技術評論家のウェンデル・ベリーは問う。「蒸気機関はどのように人間を向上させたか?」なかなか良いところを突いている。人間と機械の両者には何も共通点がなさそうである。しかしこの疑問への答えはこれだ。「何と比べて?」人間を向上させるような、人間の思想の表明はどこかにあるのだろうか?
それはたぶん存在するだろう。スターウォーズのレーザー、ガンジーの市民的不服従、いずれも人間の想像力の産物である。したがって両者は技術であるが、相違もある。全ての技術が同等とは限らない。ある思考はより良い思考である。さらに重要なことは、それ自体はくだらないものだったり、見当違いだったりする思考であっても、何か大きいものの一部としては意味があり、時にはより良い思考を得るために必要となることもある。思考は文脈によって異なる価値を持つ。
同様のことが技術にも言えると思う。
ウェンデル・ベリーも賛成するであろう答えは、法律という技術は人間を向上させるということである。法体系は人間に責任を持たせ、公正を要請し、不要な衝突を抑制し、信頼を醸成する。しかし法律には良い法律と悪い法律がある。ある法体系(法律という技術)は他の法体系より優れている。悪い法律に対する正しい反応は、法律をなくすことではなく、より良い法律を用意することだ。悪い考えに対する正しい反応は考えをやめることではなく、より良い考えを用意することだ。悪い技術に対する正しい反応は技術をやめることではなく、より良い技術を用意することである。
論理的に次に出てくる疑問は、ある特定の技術の価値を判断する方法をどのように改善(または創造)するかということである。私たちがより良い人間になるために技術はどのように手助けしてくれるのか? 実際に私たちはどのようにしてより良い技術を作るのか? 技術という言葉がウェンデルの示すようなこと、すなわち冷たくて硬くていやな物、蒸気機関、化学物質、機械類などを意味するならば、この疑問はうまくいくかどうかわからない。それが十分な大きさではないからだ。ウェンデルは技術を非常に小さく考えている。あまりにも小さすぎる。私の計算によると、技術の総計は文明と等しい。文明は技術である。技術は人間の想像力と発明の累積的労作の集合体である。
この計算方法によれば、ウェンデルの疑問は次のようになる。「文明・技術は人間を向上させる手助けをどのようにするか?」あるいは「技術が私たちに届けてくれる贈りものは何か?」
技術が与えてくれる進歩は通常なかなか見えにくい。あらゆる思考は逆転されうる。あらゆる技術は悪用されうる。技術がもたらす解決策は、同時に新たな問題をもたらす。思考や技術が強力になればなるほど、それは破壊的になる。技術がもたらすものが善悪差し引きゼロであれば、その贈りものは貧弱だ。しかし技術がもたらすものは、結局、いくらかの悪といくらかの善というよりもはるかに大きい。合計としては、さらなる可能性と選択を提供する。だからこそ私たちは技術に惹きつけられるのだ。
一般に、技術はあるものに関する別の考え方を人間に提供する。一つ一つの発明は、別の人生の視点、別の選択、別のあり方をもたらす。新しく発明した道具や素材や媒体は、人類が心や魂を表現する別の方法、真実を見極める別の方法を提供する。人間の状態を表現できる方法が多く考案されれば、自分の独自な立場を見つけ出すことができる人材層が拡大する。
私たちは多様性を重視する。人種、民族、視点の多様性は私たちが切望する目標である。子どもたちに(数ある中でも特に)持ってほしいものは選択である。他の何よりも、テクニウム<訳注:ケヴィン・ケリーの造語。この文章で論じているような広い意味での技術。>が私たちにもたらすものは選択である。他の何よりも、選択を作り出すものは技術(人間の想像力が現実化したもの)である。
通常は、新しい技術が古い技術を排除することはないが、時には従来の選択を減少させることもある。またある時には、期待したほど多くの選択肢を生み出さないこともある。このとき私たちの課題はできるだけ早く別の方法を見つけることだ。制限を生む技術の救済策は、解放のための技術である。
技術からの贈りものは、可能性、機会、思考の多様性である。もし技術がなければ、これらを得ることはほとんどない。私たちみんながすべきことは、選択を制約する技術をやめて、選択を解放する技術に置き換えることである。たとえば電話は常に機会と可能性を広げる技術であり、閉ざすことはほとんどない。DDTはいくつかの重要な可能性を開くが、他の多くを制限する技術である。遺伝子工学は広大な選択領域を切り開いてくれるが、しかしそれが他の多くのものを抑制する可能性も非常に広くかつ不透明である。
ウェンデル・ベリーの疑問に話を戻そう。技術はどのように人間を向上させるのか? それはこの方法しかない。すなわち、機会を提供することによって、である。生まれつきの独自の優れた才能を活かす機会、新しい思考や新しい精神に遭遇する機会、両親と異なる道を歩む機会、自分自身の独自なものを作り出す機会。
以下に述べることを指摘するのは私が最初だろう。これらの可能性は、まわりに何もない状態でそれ単独では、人間の幸福のためには不十分である。ましてや向上などありえない。選択はそれに対する案内があってはじめて良い効果を発揮する。しかし精神的な価値観を持っているならば、幸福になるためにあえて技術を必要とするのか? とウェンデルは言うだろう。すなわち言い換えれば、そもそも技術は人間の向上に必要なのか? これと同じ質問は、私が提起する拡大版の技術にも適用できる。文明は人間の向上に必要なのか? 私はテクニウムと文明は同じだと考えているからである。この質問に私はそうだと答えよう。テクニウムは人間の向上に必要である。特別な一部の人間は、たとえば、修道院の小部屋で制約された選択を、行者の洞窟でちっぽけな機会を、あるいは放浪の導師から制限された選択を得て、向上への道だと考える。しかし大部分の人間は歴史の大部分において、豊かな文明の中で大量の可能性が蓄積していることが人類を向上させると考えている。だからこそ私たちは文明・技術を作る。だからこそ私たちは都市や図書館を作る。それが選択を生み出す。
価値のない選択は得るところが少ない。それは確かだ。しかし選択のない価値は同様に面白味がない。
技術からの贈りものは可能性である。増加しつづける大量の多様性にもとづく可能性である。生物的な生命と同じように(多くの絶え間ない恐怖にかかわらず)、また多様性と同じように、私は、紛れもなく善良なものになる可能性が大いにあると思っている。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/14200219.html)
(原文: The Gift of Stuff)

達人出版会