ライセンスについて

第1章 無料より優れたもの
Better Than Free
インターネットはコピー機である。いちばん根底のレベルでは、それを使う間の私たちの行動や文字や考えをすべてコピーしているのだ。インターネットのある場所から他の場所へメッセージを送ろうとすると、通信プロトコルに従って、その途中で何度かメッセージ全体をコピーすることになる。IT企業はこの絶え間ないコピーを促進する機器を売って大金を稼いでいる。コンピュータでひとたび生成されたデータの各ビットは、きっとどこかでコピーされる。デジタル経済はこのようにコピーの川を流れている。機械の時代の大量生産による複製と違って、これらのコピーは安いどころではない、タダなのである。

デジタル通信ネットワークというものは、できるだけ摩擦なくコピーを流すことができるように作ってある。たしかにコピーはとても自由に流れるので、インターネットは超配送システムであると考えることができる。超伝導の電線を電気が流れ続けるのと同じように、ひとたびコピーができると、それはネットワークを通じて永遠に流れ続ける。私たちはこの証拠を実生活で見ることができる。コピーできる物がインターネットに触れると、それはコピーされる。そのコピーは決してなくならない。ひとたびインターネットに流れた物を消せないことは犬でも知っている。
この超配送システムは私たちの経済や財産の基盤となっている。データやアイデアやメディアを即座に複製できるということは、経済の主要な部門、とくに輸出にかかわる部門を支えている。すなわち米国が競合優位性を持つ産業である。米国の富は、見境なくそして絶え間まなくコピーする非常に大きな装置の上に載っている。
前回のラウンドまでは、この経済における財産は貴重なコピーを売ることで築かれていた。だから無料のコピーが自由に出回ると既存の秩序の土台を揺るがす。私たちの最善の努力を複製することが無料であるとしたら、私たちはどうやって前進すればよいのだろう? 要するに、無料のコピーを売ってどうやってお金儲けをするのか?
私にはその答えがある。簡単に言えば次のようなことである。
コピーが超大量にあれば、それは無価値になる。コピーが超大量にあれば、コピーできないものは貴重で価値のあるものになる。
コピーが無料であれば、コピーできないものを売る必要がある。
さて、コピーできないものとは何か?
コピーできない性質のものはいろいろある。たとえば「信頼」。信頼はコピーできない。買うこともできない。信頼は時間をかけて獲得するものである。それはダウンロードできない。でっち上げることも偽造することもできない。(とにかく、長期的には。)もし他のすべてが同じ条件ならば、あなたは信頼できる人を相手にするほうを選ぶだろう。だからコピーで飽和する世界の中で、信頼は価値の増大する無形資産なのである。
信頼と同じように、コピーすることが難しい性質は他にもあって、このネットワーク経済において貴重な存在である。それを調べる良い方法は、生産者、製造者、創作者の目から見るのではなくユーザーの目で見ることであると私は考える。ユーザーの素朴な疑問から始めよう。無料で得られるものになぜお金を払うのか? 何かのバージョンが無料で得られるのにあえてそれを買うとしたら何を購入しているのか?
ネットワーク経済に関する私の研究によれば、無料でありうるものにお金を払うような無形の価値として、八つのカテゴリーがあると思われる。
実際のところ、これらは無料よりも良いもの8個である。八つのコピーできない価値。私はこれを「生成力」と呼ぶ。生成力のある価値とは、発生させ、成長させ、培養し、育成しなければならない性質または特性である。生成力のあるものは、コピーしたり、でっち上げたり、模写したり、偽造したり、再生したりすることができない。その場所で、時間をかけて、ただ一つしか生成することができない。生成力のある性質は、デジタルの世界で無料のコピーに付加価値を与える。すなわち、それは売ることができるものなのだ。
無料より優れた八つの生成力
即時性 -- 遅かれ早かれ、あなたは何でも欲しい物の無料コピーを見つけることができるだろう。しかし創作者がそれを発表した瞬間に、または、うまくいけば作った瞬間にあなたの受信箱にコピーが配送されてくるようなら、それは生成力のある資産である。多くの人は初日に映画館へ行って高いお金を払って映画を見ようとする。その映画は後になればレンタルやダウンロードによって、無料あるいはほとんど無料で見ることができるのに。ハードカバーの本には、ハードカバーという姿の即時性にプレミアが付いている。同じ品物でも最初の物には高い値がつくことがよくある。売れる性質としての即時性にはいろいろなレベルがある。たとえばベータ版が入手できるとか。ここではファンが生成力の過程に参加している。ベータ版は完全ではないのでたいていは価値が劣るのに、売ることができる生成力を持っている。即時性は相対的なものであり、だからこそ生成力がある。それは製品と消費者に適合しなければならない。ブログには映画や車とはまた違った時間の感覚がある。しかし即時性はどのようなメディアにも見受けられる。
個人化 -- コンサートを一般的な形で録音したものは無料だとしても、まさにあなたのリビングルームで完璧に聞こえるように調整を加えたコピー、つまりあなたの部屋で演奏しているかのように聞こえるものか欲しければ、たくさんのお金を払ってもいいと思うだろう。本の無料コピーのかわりに、あなたの今までの読書歴に応じて出版社が個別に編集してくれるものになるかもしれない。無料の映画にお金を払うとしたら、あなたが望む評価(暴力不可、汚い言葉OKとか)に応じて適切にカットしたものかもしれない。ふつうのアスピリンは無料でも、あなたのDNAに合わせて調整したアスピリンは非常に高価だろう。多くの人が言うように、個人化のためには創作者と消費者、芸術家とファン、製作者と使用者の間で継続的な対話が必要である。それは回数と時間がかかるので、たいへん生成力がある。人と人のつながりによる個人化はコピーできない。マーケティング専門家はこれを「粘着性」とよぶ。つながりの当事者たちはこの生成力のある資産に投資したことで結びついていて、乗り換えたりもう一度やり直そうとは思わないからである。
解釈 -- 古い冗談に「ソフトウエアはタダ、マニュアルは10,000ドル」というのがある。しかし冗談だとも言っていられない。レッドハットやアパッチその他いくつかの有名企業はまさにその通りのことをして稼いでいる。彼らは無料のソフトウエアに対する有料のサポートを提供する。単なるビットの集まりにすぎないコードのコピーは無料である。そしてそれはサポートと指導があって初めてあなたにとって有益なものになる。遺伝情報などは、この経路をたどると思う。今のところは自分のDNAのコピーを得ようとすれば多くのお金がかかるが、すぐにそうでなくなるだろう。実際に、あなたの遺伝子配列を得るためにお金を払おうという製薬会社がある。だから、あなたの遺伝子配列のコピーは無料であっても、それが何を意味するか、あなたが何をすべきか、それをどのように使うか、といった解釈をすること、いわばあなたの遺伝子のマニュアルは高価なのである。
信憑性 -- 重要なソフトウエアアプリケーションを無料で手に入れることは可能かもしれない。そして、もし仮にマニュアルは不要であったとしても、バグがなくて信用できて保証されていることを確認したいだろう。信憑性にお金を払うのだ。ロックバンド「グレートフル・デッド」の演奏はほとんど無限個と言っていいくらいあちこちに存在するだろう。なのにそのバンド自身から本物を買うということは、それがまさにあなたの欲しい物であること、すなわち、本当に「デッド」が演奏したものであることを保証する。芸術家たちは長年この問題を扱ってきた。写真や版画の複製は、その複製の価格を上げるために、作者による真正性の証印すなわち署名がついてくる。デジタル透かし等の署名技術はコピー防止の仕組みとしては機能しない。(コピーは超伝導という話、覚えてる?)しかし、関心がある人に対して信憑性という生成力のある性質を提供することはできる。
アクセスしやすいこと -- 所有というのは厄介なものだ。持ち物を整頓したり更新したり、そしてデジタル素材の場合はバックアップしなければならない。このモバイルな世の中では、それを持ち歩かなければならない。私を含めて多くの人は、自分の「所有物」を誰かに頼んで面倒見てもらえたらうれしいと思っている。「アクメデジタル倉庫」にお金を払えば、世界の音楽をいつでもどこでも取り寄せることができる。そのほか、映画や写真も(自分のもの、他の写真家のもの)、本やブログについても同様。アクメは何でもバックアップして、創作者にお金を払い、私たちの欲しい物を届けてくれる。私たちはそれをどこからでも、電話で、PDAで、パソコンで、あるいは大画面テレビで取り出すことができる。これらの材料の大部分は無料で手に入れることができるのだが、それを自分で面倒見て、バックアップして、更新して、整理することを考えると、長期間保有するためには、無料ということにはますます魅力がなくなってくる。
具体化 -- 根本的にデジタルコピーには実体がない。ある作品の無料コピーを取ってきて、画面に映すことはできる。でも、それを高解像度の巨大画面で見たいとは思わないか? もしかして3Dで? PDFも良いけれど、同じ文章が白い綿のような紙に印刷されて、それを革で製本したものを読むのも素敵だ。とっても良い気分だ。あなたが好きな無料ゲームの中で、35人の他人と一緒に同じ部屋で住むのはいかがなものか。さらなる具体化には終わりはない。今は高解像度画面にひかれて大きな劇場へ足を運ぶかもしれないが、明日にはそれがあなたのホームシアターに導入されているかもしれない。しかしいつの時代にも、消費者が持っていないような新しくてめちゃくちゃすごい画像表示技術が出てくる可能性はある。レーザー投影、ホログラフィック表示、それにスタートレックの「ホロデッキ」とか! そして、生演奏の音楽ほど実体を伴って具体化できるものは他にない。音楽は無料だが、生身の人間の演奏は高価である。この公式は音楽家だけでなく著述家にまで当てはまるようになりつつある。本は無料だが、生の講演は高価である、と。
後援 -- 視聴者は創作者にお金を払いたがっていると私は確信している。ファンは芸術家、音楽家、著述家などに対して、評価のしるしとしてご褒美をあげたい。それによってつながりができるからだ。ただしお金を払うのは、支払いが非常に容易で、手頃な値段で、しかもそのお金が創作者に直接恩恵を与えると思われる場合である。最近注目を集めたロックバンド「レディオヘッド」の実験では、ファンが無料コピーをもらうかわりに、彼らの欲しい物にお金を払ってあげるということで後援という力を実証した。理解のあるファンと芸術家との間の漠然としたとらえどころのないつながりは結構な価値があるものだ。「レディオヘッド」の場合はダウンロードごとに約5ドルだった。視聴者が満足感だけでお金を払う例は、他にもたくさんある。
見つけやすいこと -- 前述の生成力のある性質は独創的なデジタル作品に内在しているのに対して、見つけやすいということは、多くの作品の集合体に対してもっと高いレベルで出現する資産である。価格がゼロであることが作品へ注意をひきつけるのに役立つわけではない。実際には時として妨げることさえある。値段がいくらであっても、作品は見られない限り価値がない。未発見の名作など無意味だ。何百万冊もの本、何百万曲の歌、映画、アプリケーションプログラムやら何やらが私たちの注意を惹きつけようとしていて、しかも大部分が無料である中で、見つけられるということには価値がある。
アマゾンやネットフリックスのような巨大集積業者は、視聴者が好きな作品を見つける手助けをして商売しているような部分がある。彼らは「ロングテール現象」という良いニュースを生み出した。みんな知っているように、それはニッチな視聴者とニッチな作品を結びつける。ただし、残念ながらロングテールが良いニュースであるというのは、巨大集積業者のほか、出版社やスタジオ、レコードレーベルのような大規模な中間レベルの集積業者についてのみ言えることである。創作者自身にとっては、ロングテールなんてどうでもよいニュースだ。しかし見つけやすさを発揮するためにはそれなりのシステムが不可欠であり、創作者は集積業者を必要とする。だからこそ出版社やスタジオやレーベル(まとめてPSLと略す)は決して消滅しない。これらの業者はコピーを流通させるために必要なのではない。そんなことはインターネットでできる。むしろPSLの役割は、その逆にユーザーの注目を流通させて作品に集まるようにすることである。可能性の大海の中から、PSLはファンがつながりたいだろうと思われる創作者の作品を発見して、育成し、磨きをかける。批評家や評論家のような仲介者も注目を伝達する。ファンたちは、この見つけやすさのために用意された多段階の機構を利用して、無数の作品の中から価値あるものを発見する。才能を見つけ出すことによって(間接的には創作者に)お金が儲かる。紙の出版物「TVガイド」は何年もの間、そのガイド対象である三大テレビネットワークの収益を合わせた以上にお金を儲けてきた。この雑誌はその週に放映される良い番組を視聴者に案内し紹介する。番組には値段がない。視聴者にとっては無料である。このように無料の業界において、巨大集積業者のほかにも多くのPSLが、生成力のある性質やら見つけやすさを売って金もうけをしていることはまず間違いない。
これら八つの性質は新しいスキルを必要とする。無料コピーの世界での成功は、流通に関するスキルからは生まれない。それは「空中の巨大コピー機」が面倒見てくれる。知的財産権や著作権にまつわる法的スキルもあまり役に立たない。秘蔵や希少性のためのスキルでもない。それよりもこれら新しい八つの生成力のために必要なのは、豊富さが共有という態度を生みだすこと、気前の良さがビジネスモデルとなること、マウスのクリックで複製できない価値の育成が不可欠であること、などに対する理解である。
要するに、このネットワーク化された経済ではお金はコピーという経路を通らない。お金は注目という経路を通るのであり、注目は行きと帰りの双方向の経路を持っている。
注意深い読者はここまでの議論で、一つ明らかな不足があることに気づいているだろう。私は広告について何も言わなかった。無料のパラドックスに対するほとんど唯一の解決策が広告であると広く考えられている。私が見る限り、無料を克服するために今まで提案された解決策のほとんどは、何らかの広告手段に関連している。広告は注目が通る経路の片方だけにすぎないと私は考える。長い目で見れば、それは、無料の物を売って金儲けをする新しい方法の一部でしかない。
いや、それはそれとして。
広告のつまらない皮の下で、これら八つの生成力はどこにでもある無料のコピーに価値を与え、それを広告するだけの値打ちがあるものにする。これらの生成力はすべてのデジタルコピーに適用できるが、それだけでなく、コピーのための限界費用がゼロに近づくようなコピーなら何でも適用できる。(私のエッセイ「技術は無料になりたがる」"Technology Wants to Be Free"を参照されたい。)素材産業でさえも複製のコストはゼロに近くなりつつある。したがって素材についても、デジタルコピーと同様になるだろう。地図はちょうど境界を超えたところだ。遺伝学はもうすぐ。機械類や小型機器(携帯電話など)もその方向へ向かうだろう。医薬品はすでにその位置にあるが、彼らはそのことを誰にも知られたくない。錠剤を作るのにコストはかからない。私たちは薬の信憑性と即時性にお金を払っている。やがては個人化にお金を払うようになるだろう。
生成力を維持することは工場で複製を作るよりもずっと難しい。まだまだ学ぶべきこと、解明すべきことは多い。あなたが解明できたら、ぜひ私に知らせてほしい。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/12121626.html)
(原文: Better Than Free)
第2章 千人の忠実なファン
1,000 True Fans
よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。
しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。
爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?
一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。
芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。
「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華 再発売 高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。

ロングテールの水平な直線で売上を増やすためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。
控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。
千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。
重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。
つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。
あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。
しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。
デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。
ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか? 明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。
もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。
三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャー*1による場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。
最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。
「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。Suck.com*2の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien)*3は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」
このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。
1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (Street Performer Protocol)*4というものである。
大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」
読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。
2004年には、ローレンス・ワット=エバンス*5という作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエイン*6、シャロン・リーとスティーブ・ミラー *7、ドン・セイカーズ*8などがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジ*9は同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲーム*10を作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。
「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。
支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (Fundable)*11 はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。

ファンダブルのサイトから一例を示す。
アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。
千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家ジル・ソビュール*12は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)*13は次のように伝えている。
寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。
「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者ルース・タウス*14が英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。
[*14] http://books.google.com/books?id=eDb1GI3Nr-cC&pg=PA96&vq=The+Value+of+Culture:+On+the+Relationship+Between+Economics+and+Arts&source=gbs_toc_r&cad=0_0&sig=9QEYLk6aBQ9Cv39M2AuDDYFQ7NI#PPA99,M1
創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/12799892.html)
(原文: 1,000 True Fans)
第3章 チューリング化
Turing'd
長年にわたって、私はさまざまな分野の専門家と仕事をする機会に多く恵まれてきた。あらゆる活動が計算機技術のおかげで画期的に変化している。しかしすべての分野がそれを受け入れているわけではない。一部の科学者、免許制の専門家や職業人は新しい技術にアレルギーを持っている。ある種の専門家には画期的な技術を歓迎しやすい傾向があるのはなぜか、最近ひらめいた。最新技術を取り入れたがる部類の専門家は、その専門分野がすでに「チューリング化」されていることに気がついたのだ。
私たちは多くの作業や職業について、人間だけができると信じてきた。道具や言語を使うこと、絵を描くこと、チェスをすること。それが今では一つ一つチューリング化されつつある。計算機が人間を負かしている。人間より上手になっている。

今までのところ、算術計算、スペリング、飛行機の操縦、チェス、タスクスケジューリング、溶接などは確認済みだ。みんなチューリング化されている。
計算機科学者は一緒に仕事する相手としてすばらしい。概して新しいものを全然恐れないからである。彼らはずっと昔にチューリング化されている。自分たちが以前していたことの多くは、今では計算機の方が上手にできることを熟知している。これに対して医者は一般に新技術を受け入れようとしない。彼らの仕事は計算機では代用がききにくいからである。多くの生物学者も同様。
生物学の中でもすでにチューリング化された分野がある。たとえば系統発生学、すなわち異なる種がどのように関連しあっているかという系統樹を研究する学問である。つい最近まで誰も信じなかったことであるが、系統樹を明らかにすることについては、最も賢くて造詣の深い人間よりも計算機の方が上手であることがわかっている。つまり系統発生学者はチューリング化されていて、新しい物事のやり方に対して開放的なのである。

その一方で分類学者や野外生物学者は、計算機には人間のように生物を認識したり分類したりすることができないと今でもまだ信じている。おやおや。彼らはそろそろチューリング化されようとしている。医者もそうだ。
自分がひとたびチューリング化されると、人間にしかできないと思われていた他人の職業が計算機でもできるということを容易に信じられるようになる。人生のいかなる場面でも、画期的変化をもたらす技術を受け入れられる。
あなたはチューリング化されていますか?
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/13122515.html)
(原文: Turing'd)
第4章 物のインターネットにおける四つの段階
Four Stages in the Internet of Things
新しい流行語「グラフ」は、便利だが使い古されたネットワークやウェブという言葉にとってかわるかどうか。私はそんな賭けはしない。(ニコリともしない人がよく口にする「ブログ」という言葉が負けることになら賭けてもよいが。)いや、それはどうでも良い。ティム・バーナーズ=リーによる「ジャイアント・グローバル・グラフ」*1と題する短い投稿では「グラフ」という言葉をいい感じで使っている。これは私の知る限り、セマンティックウェブの最も優れた概説である。それはセマンティクスについて語っていないから、ということもあるのだが。
彼の話のポイントを別の言葉で説明しておく価値がありそうだ。彼のエッセイに出てくる以下のテーマは、「セマンティックウェブ」や「ウェブ3.0」についての私の考えの概要でもある。
第1段階
現在の通信革命の第1段階は、計算機を結びつけることであった。この結びつきをネットワークのネットワーク、すなわち「インターネット」と名づけた。それは有用でもあり退屈でもある。電話機のない電話システムとでもいうような感じのものだった。航空便の予約をしようと思えば、せいぜい航空会社の計算機に接続するくらいのことしかできない。この新しいシステムの熱心な参加者は、開放性に向かって一歩踏み出す必要があった。インターネット上の計算機は他人のデータパケットを転送しなければならない。大きな枠組みで見れば、ビットの製造元は自分のパケットを自由に制御することはできない(そこが電話システムと違うところ)。
第2段階
デジタル通信の第2段階は、文書やページを結びつけることだった。これがウェブである。ここでは航空会社に接続するのではなく、希望する航空便のページまたは文書に接続することができる。システムをずっと役に立つものにする分解能の向上があったのだ。そして、この競技場で競技するためには、競技者はそのページを開放して共有できるようにしなければならなかった。パスワードでページを隠すことはたいてい失敗する。多くの初心者が誤って試みるように、自分の文書に誰がリンクしてよいかを制限することもできない。文書の内容が少しだけコピー・アンド・ペーストされることや、サーチエンジンがインデックスのために全部コピーすることも認めなければならない。これが開放への第2歩である。しかしつながりの価値が一般に広く認められるようになっていた。
第3段階
いま私たちは第3段階初期の終わりにいる。ここで起こっていることは、まず計算機の結合と共有があり、次に文書の結合と共有、そして今ではその文書の中にあるデータの結合と共有が行われている。文書が述べていることの主題と意味を共有し結合しようとしている。航空会社の計算機に接続するかわりに、また航空便のページに接続するかわりに、私たちは航空便の情報そのものに直接つながることができる。データは単体化されて、ウェブ上のどんな装置でも読むことができる形になっている。うまくやれば、データをウェブそれ自体に理解させるようにすることができる。データを英語ではなく一般的なセマンティック形式で表現しておけばよい。その汎用的形式はデータベースの中に存在するような物だろう。実際のところ、この段階はワールド・ワイド・データベースと考えることができるかもしれない。

世界中のデータにアクセスすることは自由をもたらすことであり、XML, RSS, API, RDF, OWLなど多くの3文字技術で可能となった。これらはウェブ上でデータを伝達して共有するための標準技術である。ウェブサイト同士の間でRSSによってコンテンツが飛び交うことで、驚くほど多くのことが可能になった。そのほかに、ひどく真価を認められていない技術がAPIである。このゲートウェイのおかげで膨大なデータのアーカイブを安全に共有することができる。普通のネットワークの効力を使って、データの秘めた力を解き放つ。使えば使うほど価値が上がる。前の二つの段階と同じように、人々は共有の恐怖を克服しようと奮闘している。データを共有することは計算機や文書を共有するよりは身近に感じられる。しかし、いかにしてデータを共有するかを理解することは、次の段階でのウェブの目的である。次の段階で真に価値があるものは、強い結合や強いつながりによって、あるいは自分の貴重なデータを自由に(妥当な範囲で)公開することによって得られる価値に基づくものである。そのことを理解し開放できる人が最も多くを得る。
ここで、ティム・バーナーズ=リー自身が述べていることを紹介しておく。
共有の魅力的でない面は、制御できなくなることである。ネット、ウェブ、グラフ、それぞれのレイヤーにおいて、実際、私たちは大きな便益と引きかえに、何らかの制御について譲歩してきた。あなたのデータを他人のデータと結びつけることは、その意味で開放することである。とは言っても権利のない人にデータを与えるのではない。仲間のサイトからデータにつながるようにすることである。あるいは他のアプリケーションからデータに結合できるようにすることである。
第4段階
ところで、私はこの第3段階が歴史の終わりだとか物語の終わりだとは考えていない。(私は三つの何々という形の歴史については懐疑的である。)四つめの段階がその先に見えると思う。第4段階は物それ自体を結びつけることに向かう。ある物に関するデータがすべてその物に組み込まれていてほしい。ある場所のデータがその場所自体に埋め込まれていてほしい。あなたは実際には航空会社の計算機に接続したいのではない。航空便のページや航空便のデータでもない。航空便そのものにつながりたいのだ。理想的には飛行機に、自分の座席に、あるいは発着時刻に組み込まれた処理と生のデータにつながる。これらの物とサービスの複合体が私たちが「航空便」と呼んでいるものであり、それにつながるようになる。私たちの究極の要望は、物のインターネットである。
セマンティックウェブ
物のインターネットにおいては、私たちの作る物は何でもほんのわずかのつながりを含んでいる。できるのはまだ先だが、そういうものを作れると私は信じている。データのインターネット、すなわちワールドワイドデータベースは今まさに胎動しているところだ。私の知る限りでは、これはみんながセマンティックウェブと言っているもののことである。なぜならば、共有するためには情報を自然言語から抽出して、それぞれの要素に分解して、それにタグをつけてデータベースに入れなければならない。この基本的な構造によって、何千通りもの新しい方法で意味のある(セマンティックな)情報の分子を再構成することができるようになる。それは、平面的で注釈のない元の文書のままでは不可能である。
この共有可能なデータを抽出することは、みんながウェブ3.0と言っているものだと思う。このバージョンのウェブ世界圏では、データが波のように押し寄せ、流れて、ウェブサイト群に広がっていく。一つの大きなデータベースの中のように、あるいは一つの大きな機械の中で起こっていることのように。私のサイトはアリスとボブから絶え間なくデータを取ってくる。そして、そのデータを新しい(セマンティックな)方法で構造化して付加価値を加える。つぎに私は自分がそのようにして整理した一連のデータを流して、誰かが生データとして使えるようにする。このデータの生態系は、すべてのデータが共有や公開されていなくても、開かれた輸送システムと合意のあるプロトコルによって動いていく。
セマンティックウェブ、ワールドワイド・データベース、ジャイアント・グローバル・グラフあるいはウェブ3.0によって、見かけ上かしこそうなサービスを無数に作ることができる。各ウェブサイトに誰が私の友人であるかを何度も教える必要はない。一度だけで十分だ。文章に私の名前が出てきたら、ウェブサイトはそれが私だと知っている。私の町はウェブ上でも、別の言葉ではなくその町名で定義されている場所となる。この普遍性が私の町に関する言及において、その町に関する実際の情報へのリンクを可能にする。見かけ上かしこそうなウェブの性質は、ウェブはより多くのことを「知ろうとする」ことによる。それは意識的にではなく、プログラムによってであるが。ウェブ上に現れる概念や項目は、基本的に今のところはそういうことはできないが、相互に指し示しあってお互いのことを知るようになる。

細部には問題がある。どのプロトコルが勝ち残るか、どの標準が普及するか、どの会社が多数派を制するか。これらは未知数である。政策も問題である。財産としての文書と計算機は、財産としてのデータよりもはるかに問題が少なかった。データを所有することは難しい点が多い。さらに同一性というとらえどころのない概念がある。ウェブはあなたが常にあなたであると知っているとして、あなたは誰なのか? 個人へのサービスの代償が、全面的な個人の透明性であるならば、それは全面的な個人の監視とは何か違いがあるのか?
このような賢さは人々をうろたえさせる。人間とはまったく違う物であるのに、それは何でも知ることができて、さらにまたそのことについて何でも知ることができる。この事実は多くの人に抵抗を感じさせるだろう。でも私は子どもたちがそれを気に入ってくれると期待している。
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/13494910.html)
(原文: Four Stages in the Internet of Things)

達人出版会