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 一.

 

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――東の国の洒落た言い回しを理解する機微が彼の国の者どもに備わっているかどうかは知らぬ。

 一人の娘が歩いている。名は風香という。風に乗って香る腐臭の甘く芳しいことに名は由来する。十の花の香りよりも甘く、蜂蜜のようにねっとりとした香りである。その匂いを嗅げば誰もが振り返る。あの芳しい娘御は何者だろうと気に掛ける。そうしていよいよ声を掛けてみれども反応がなく、顔を覗き込んでみて、ぎゃっ、と腰を抜かすのだ。腐れば腐るほど芳しくなる性質はなるほど稀有である。

 風香嬢は吐瀉物やごみにまみれた路地裏を歩いている。一歩一歩に渾身の力を込めて歩いている。曇天の薄暗い空の下を徘徊している。ずるり、ぺちゃり、という音はぼろの靴が石畳と擦れたり、同時にむき出しの肉と踵が叩きつけられたりする音である。前のめりの体躯はいかにも屍人らしい。両腕を前に突き出すやり方が世界の東西に共通する屍人の典型的スタイルであると知られているが、風香嬢はそうではなく、両腕を肩からだらりと垂らしたまま歩く。全体的にガスを含んでいるのでいくらか体が浮腫んでいるように見えるが、元が細身の少女であったので、かえって健康的にも見えなくはない。もっとも、後姿だけであろうが。黒色のショートボブは色艶を失って久しいものの代わりに波打つウェーブを得て、それはそれで似合っていて愛らしいものである。元は真っ白だったワンピースも雨風に晒された結果、若干くすんだ灰色になってしまっている。袖の辺りが黒ずんでいるのは腐汁によるものである。

 読者諸君においては色々抱く疑問に感じるところもあることだろう。一、風香嬢は何者か、二、風香嬢はどこから来たのか。三、風香嬢はどこへ行くのか。四、先刻より訳知り顔で喋るお前は何者か。これらの問いに順番に且つ簡潔に答えれば以下の通りである。愛すべき宝である、知らぬ、知らぬ、風香嬢を愛好する者の集まり、である。

 我々のうちの誰が最初に風香嬢を発見したのかは、もはやわからぬ。我々は各々が風香嬢と運命的な出会いをし、風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げるという唯一絶対の共通目的の下に連帯しているのである。我々はこの絶対的な目的にのみ規律される。硬直化した組織にありがちな賞罰を伴うルールも階層的権力構造も要さない。我々は我々という呼称のみで我々のアイデンティティを表現することができる。この点において我々は洗練されているのである。風香嬢を先頭に、昼も夜も行進を続ける。晴れの日も、雨の日も。風香嬢が行く道こそが我々の歩む道である。どうぞ読者諸君は目の潰れるほど眉を顰めるがいい。我々とて風香嬢と我々の旅の魅力が容易に理解されるとは思わないし、そもそも理解されたいとも思わない。しかし、もしも、共感を得られるところがあればなかなか心強い。

 閑話休題。話を戻そう。

 風香嬢の旅はいよいよ東欧にまで至ったところであった。前日の昼ごろに国境を跨ぎ、夜半に都市部に入り、夜が明け間もなく東欧人が闊歩する大通りに侵入する。

 これほどの大人数の前に風香嬢が登場することは、少なくとも我々の大多数が共有する歴史の中では初めてのことであるため、今朝より我々は大変緊張していた。我々の緊張に反して路地裏の何と静かなことか。この辺りの住人にとっては太陽が天頂を跨ぐまでは夜の内であるようである。静けさ故に、間もなく訪れるであろう革命的瞬間に対する想像が促進される。結果、ますます緊張し、様々な感情や考えが嵐のように我々の内で暴れまわる。風香嬢が彼らの前に現れた時、風香嬢は間違いなく大衆の目を惹くだろう。その約束された未来が誇らしい反面、我々は同時に怯えもする。衆前に晒され辱められるかもしれない。我々はその可能性を恐れ、あるいはあらかじめ憤る。長身で裕福な西洋男子が風香嬢の心を射止め風の如く攫っていってしまう可能性も危惧する。風香嬢は我々の象徴であるが故に、風香嬢が失われることはあってはならないのである。我々はその可能性を最も恐れている。しかし我々は平和的であることを是としているのである。徹底的に見守ることを是としているのである。どのような事態にあっても、我々は決して暴力的な手段には訴えてこなかった。誇るべき歴史である。

 日が昇るにつれて空を覆う厚い雲は途切れ、雲の切れ間から差し込む光が路地裏を照らしていく。風香嬢が行く跡には腐汁の足跡が点々と残る。これはすなわち旅の軌跡である。いつ始まったとも知れぬ軌跡の途上で、我々は我々を形成していったのだ。はじめは数えるほどであった我々も今や背後数メートルにわたって群れを為す集団に成長したのだ。

 喧騒が近付く。近付くほどにここがいかに静かであったかが改めて強調される。嵐の前の静けさよ、と我々の一人が呟きほくそ笑んだ。

 路地裏の出口は眩い光で満ち満ちている。そこを抜ければ人があるだろう、車があるだろう。魔術や神秘を太古に追いやった者らが作りあげた文明があるだろう。それらは皆、今日この日まで、ソンビとはグロテスクで生理的に厭悪すべきものであるという前時代的な固定観念に囚われてきたであろう者たちあるいは前時代的固定観念の象徴である。風香嬢の存在が我々にとってそうであったように、彼らにとっても風香嬢の存在は革命であるに違いない。然らば驚嘆を以て我らが風香嬢を迎えるべきである。

 

 旧き世の者どもよ、剋目せよ!

 

 かくして風香嬢は光の中に飛び込んだ。眩い光が風香嬢の輪郭を融かし、影が背中の一点に収束していく――その背中が光に完全に隠れるまでの数秒間を我々は息を止めて見守った。花の香りがふっと遠のいたような心地がした。この瞬間が、一つの区切りであることを我々は同時に理解した。風香嬢と我々はここまで来たのだ、という達成感がある。

 しかしこれは決して終わりではない。またここから全てが始まるのである。風香嬢がどこまで行くのか――我々はそれを見届けなくてはならない。そのためだけに我々は我々以前の社会生活の全てを捨ててきたのだから。ある者には仕事があり、養うべき家族もいた。読者諸君よ、愚か者、と嗤いたければ嗤うがいい。嘲るがいい。我々は我々になるために生まれてきたといっても過言ではないのだ。我々の魂は常に風香嬢と共にあるのである。

 耳を澄まさずとも聞こえてくる……。

 嬌声めいた阿鼻叫喚よ!

 まったく愉快、痛快、爽快である。革命的にして楽しい宴は今まさに始まったのだ。

 さあ、我々も行こう。

 我々は東欧の街を行進するべく、誇りに満ちた一歩を踏み出すのである。


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 二.

 

 風香嬢は四車線の中央を闊歩する。車も人も風香嬢から一定の距離を作り、遠巻きに風香嬢と我々の行進を眺めていた。風香嬢は、かつて仏国にいたという農民の戦乙女よろしく、勇ましく道を拓いていく。風香嬢が行けば自ずと道が拓けていく。我々は風香嬢が切り拓いた道を行く。

 まだいささか冷たい春風の吹く太陽の下を、大手を振って歩くのはまさしく爽快の一言に尽きる。我々のうちの調子の良い者らが七色の紙吹雪を振り撒く。笛を吹く。このように風香嬢の行進をは祝福される。

 しかしこれだけ派手にあらゆる意味での社会的規範や常識や良識を逸脱すれば、道徳と規範の塊が我々の前に立ち塞がるのもまた時間の問題であった。

 我々を追い抜いた公僕の車が三台ほどドリフトを利かせつつタイヤをけたたましく鳴かせつつ風香嬢の前に停車し、のっぽとでぶっちょが踊り出るや否や異国の言語で罵声を捲し立て始める。が、無論、我々に通じるはずがない。ましてや風香嬢には音が通じているかも怪しい。

 立ち止まる気配のない風香嬢に公僕どもは慌てふためき、腰から下げたピストルを引き抜いた。

 暴力的な牽制に我々は徹底的なブーイングを試みる。しかしその銃口が我々に向くと、元来人畜無害な我々は脆くもその暴力的牽制に怯んでしまう。

 怖れを知らぬは唯一風香嬢である。風香嬢は生者の論理にはそもそも関知しない。風香嬢は風香嬢の行く道を行くのみである。風香嬢は車両の間の隙間へ向かって歩を進め、通り抜け、再び拓けた道を行くのである。風香嬢にとっては公僕の車両など突然目の前に現れた障害物以外の何ものでもない。路傍の石と変わりない。このような障害に対しては避けて通れば済む話以上の何ものでもないのである。このようにして風香嬢の前では公僕の権威の一切が無視される。反抗ではない、無視だ。ただののっぽとでぶっちょに過ぎない彼らがふてぶてしくいられるのはその制服に裏打ちされた権威があってこそである。その権威が元来実体を持たないものであることを、風香嬢はまざまざと示して見せる。至極愉快である。至極痛快である。至極爽快である。風香嬢の在り方は我々のような元来ひ弱な者どもには大変輝かしく見えるのだ。

 すれ違いざまに香った風香嬢の芳しく濃厚な腐臭が公僕の鼻腔を通じて脳を麻痺させたらしく、彼らは蕩けたような顔をしている。こうなれば我々とて恐るるに足らぬ。公僕を避け、車両を踏み越え、風香嬢の背後十メートルに続く。

 我々が通過した後には踏み荒らされて凹凸と汚れの激しい車両が三台あるのみである。公僕どもはもういない。あるのは我々である。

 

 かくして我々の第一歩は比較的平和裏に達成されたものと判断できよう。あの暴力的牽制はいただけないが、結果的に怪我人がなかったことで溜飲を下すことにする。

 その後、風香嬢と我々は二時間ほど四車線を行進し、風香嬢と我々は大通りを外れた。今は夜更けである。長く続く田園風景の一本道を風香嬢を先頭に、その後ろ数十メートルを細く長くなった我々が追従している。

 月灯りの下の風香嬢はやはり日中よりも生き生きとしているように見える。死者に“生き生き”という表現が不相応であるならば、“潤っている”と言い換えよう。銀色の光が風香嬢を包み、夜風に乗って花の香りが流れ、その香り列の末尾までに行き渡る。土は柔らかく虫の音は細やかに。不穏な気配は微塵もなく、夜さえ明けなければ永遠にこのまま行けるところまで行けることだろう。

 至福である。

 我々は風香嬢のすらりと伸びた赤黒い指をいつまでも眺めていたかった。眺めるに飽き足らず、たとえば爪の剥げた指をそっと両手で包んでやりたい劣情にもほんの少し駆られることはあった。我々の秘めたる欲情を列記すれば、それは十人十色である。風香嬢に並び、その柔らかな手を取り指を絡めたいと思う者がいる。肩を抱き寄せ、風香嬢に一時の安らぎを提供したいと思う者もいる。午後三時のカフェテラスでエスプレッソを嗜みたいと思う者もいる。黒ずんだ唇を優しく食み、内腔に舌を這わせ、ぷくぷくに膨らんだ風香嬢の舌と絡ませたいと思う者もいる。あるいは風香嬢と床を共にし、肉体的調和を通じて精神的な融合を果たしたいと欲する者もいる。しかし我々は我々であるからこそこの尊い関係を維持できるのだと思えば、一人の男になることを抑えることができるのだった。自制は美徳である。

 夜が明ける頃には次の街に着くだろうか。問いは直ちに我々の列を縦断し、末尾まで行って返ってくる頃には秒単位の正確な計算結果が我々全体で共有されている。これは多様性の賜物である。

 

 明くる朝の朝刊の第二面は風香嬢に関する話題であった。まずまずの戦果である。昨晩からの新入りが早速記事を翻訳し、例によって情報のフローが我々を一往復する頃には我々は記事の要約を共有しているのである。

 その要約は、以下の通りである。

 A通りに突如出現した正体不明の一群、その先頭に立つのは齢僅かの東洋人の少女である。目撃者の談によれば、少女の衣服はぼろぼろで、皮膚は融け、肉は削げ、文字通りの意味でゾンビであったという。こう記した上で記者は以下のように述べている。21世紀のこの時代ゾンビなどとはまったくただのファンタジーである――このように一笑に付し、一応仮説と断った上で更に以下のように述べている――おそらく悪ふざけの一環に違いないだろうが、ただしこれだけの大衆の目を欺いた点を鑑みれば大変手が込んでいたことは認めざるを得ないだろう。そして記事は風香嬢と我々の行先に触れ、その行先に相当する市街の住民は十分警戒されたし、という旨の内容で締めていた。

 実に、中身のない記事であった。我々は紙とインクの無駄であると嘲った。少なくとも記者自身は風香嬢の存在を信じていないようだった。己の目で見たものを伝えないジャーナリズムがどの面を下げて真実を語るというのか。

 我々の経験上マスコミによる風香嬢の記述は、自然科学の常識に囚われた結果、往々にしてありのままの風香嬢を認めない傾向にある。最も多いのは今朝の記事同様、手の込んだコスチュームプレイであるという解釈であり、言い換えればそれが一番もっともらしい答えなのだろうと推測できる。この認識はおそらく我々がどれだけ真摯に風香嬢の存在を訴えたところで変化しないだろうし、逆に風香嬢がまさしく生ける屍である証明が要求されることになるだろう。生と死を定義し、それらが同時に成立している状態を証明できなければ、風香嬢はゾンビであるという命題そのものが偽であったと判断され、風香嬢を言語的に描写することの正当性を失う。しかし文字通りの生ける屍という状態を定義し弁別できる尺度を我々は持たない。そのため実証主義者どもは、それ見たことか、と言わんばかりの得意顔で鼻を鳴らすことだろう。宗教家もまたきっとおそらく教義上の理由で存在を否定するだろう。その他色々な立場の者どもがそれぞれの理由でこれまでの常識に馴染みのない風香嬢を否定するだろう。全ては自分たちの常識を前提とするが故の話である。まったくもって愚かしいことであった。

 現に、風香嬢は、存在する。

 これ以上の存在証明がどうして存在しようものか。

 人というものはおかしなもので、目の前の現実と己が信じる常識との間に乖離が生じた時は往々にして、己の常識を反省する前に現実に対する解釈を歪曲させる。あれは何かの間違いである、あるいは例外である、故に自分の常識を否定するものではない。このように頑なであるからこそ守れるものがある一方、見失うものがあることは大抵の場合は気付かれない。我々が風香嬢に惹かれる理由の一つはそういうところにあるのかもしれない。すなわち、“常識外れ”が大手を振って歩く姿を発見することあるいは発見してしまったことで、その“常識”自体が外れたものであったことに気付かされるのだ。世界はかくも広い――新たな視点は常に我々に新鮮な感動と興奮を提供するのである。ならばもはや風香嬢という存在が己の常識の中でいかに非常識的であったかを論じている場合ではない。新鮮な感動と興奮をままに味わう方がよほど生産的ではないだろうか。

 風香嬢は行く。

 夜明けが訪れる。鮮烈な朝日が風香嬢の背中を照らし、影が標のように西へ西へと延びている。その背中に我々は心の内で呼び掛ける。

 行けよ、行け。

 その腐った足で行けるとこまで行けよ、風香嬢。


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 三.

 

 風香嬢と我々の旅路は中欧を越えたところに差し掛かった。街を抜け、川を渡り、山を越えた。歩けるところは全てが道である。

 行く先々で風香嬢は人々を驚かせ、時に悲劇的な暴力的牽制の憂き目に遭うこともあったが、最終的には何者も風香嬢を阻むことはできなかった。牽制に遭遇する度に我々も肝を冷やした。しかし、二時間一話で完結する勧善懲悪の物語よろしく最後は風香嬢の勝利で幕を閉じるのである。その度に我々は同志を獲得し我々はより大きな集団へ成長していく。

 これから語るのは、数多の勧善懲悪物語の中のエピソードの一つである。数あるエピソードの中でもこれを選んで語ることにしたのは、このエピソードが我々の風香嬢と我々自身に対する考察を深めるきっかけになったからである。しかし我々は決してこのエピソードのもう一人の主人公には感謝することはないだろう。

 語るにあたっては一抹の苦々しさを感じずにはいられないが、それでも語るべきエピソードであると信じているので語るのである。

 だが、一度だけ、口汚い言葉で罵ることが許されるのならば、我々は口を揃えてこう叫びたい。

 ネクロフィリアなンざ漏れなく例外なくく全員くたばッちまえ!

 異論は受け付けよう。

 

 我々の色眼鏡が多分に含まれていることを前置いた上で言うことであるが、風香嬢は大変可愛らしい。

 たとえば時折見せる物憂げな横顔。目尻から垂れる汁は涙のようにも見える。その涙を己が人差し指の背で拭ってやりたいものだと我々の誰もが思っている。だが、そのような妄想が下賎で低俗であるとラベリングされる根拠が、風香嬢と我々の間の十メートルの空白にある。その空白は我々が風香嬢に近付けるぎりぎりの距離である。その絶対的な隔たり故に風香嬢は高次の精神的象徴に昇華されるのである。

 たとえ我々が風香嬢の前に立ったとしても風香嬢は我々を見ないだろう。涙を拭ってもそもそも涙を流しているとすら思っていないだろう。思うという感情的行為すらもそこにはなく、我々の目を通じてかろうじて“在る”という限りなく消極的な動詞が適用されるのがせいぜいである。そのような在り方を指して孤高と呼ぶのは必ずしも適切ではない。風香嬢は我々にとっての象徴であるが、風香嬢自身は何かしらの行為の主体ではない。風香嬢はレンズである。レンズを通して我々は我々が知り得ない世界を垣間見る。しかし同時に、その背中を見つめる度に我々は何とも言えず心を締め付けられるような甘美な痛みに襲われるのである。これは恋であるか。断言しよう。恋である。我々の誰もが泣きたくなるような恋をしているのである。

 儚く、幽か。そして力強く。

 上記のような言葉に集約することが適切かどうかはわからない。しかし、我々が信じる風香嬢の魅力を語る上では、このような精神性に対する言及を欠かすことはできないのである。

 精神性。

 読者諸君は、どうかこの単語を手元の紙にメモするなりして常に念頭に置いていてもらいたい。くどくどと論じなければならぬほどに、このキーワードは重要なのである。

 

 さて、本題に移ろう。

 小雨の降る夕暮れであった。そこは人通りの少ない住宅街の一角で、狭い通りを挟んで立ち並ぶアパート群は一様におんぼろで、ドットのパネルのように虫食いで各々の窓は灯りを孕んでいた。足早に駆ける人がおり、慌しく洗濯物を取り込む人がいる。暗がりに加えて雨が風香嬢の香りと気配を殺しているせいか、風香嬢は誰にも気付かれなかった。誰もが自分のことで精いっぱいであるようだった。

 辺りはますます暗くなり、人の通りもほとんどなくなってくる。代わりに街灯がジ、ジ、と鳴り始め、間もなくその役割を果たそうとしていた。

 雨が風香嬢を濡らす。髪は水気を取り戻し、頬にぴたりと張りついていた。ワンピースも水に染みて黒ずみ、ふくらはぎを水滴が伝う。道に迷った仔犬のような――そんな風にも見える。

「お嬢さん」

(その声を聞くや、我々は現地語を解するものを数人先頭に立たせて同時通訳を試みる。例によって伝言ゲーム式情報伝達法を用いてリアルタイムでの情報共有を行った。)

「傘も差さずに歩いては風邪を引いてしまいますよ」

 風香嬢に語りかけたのは一人の初老の紳士である。スーツに帽子にステッキに豊かで白い口髭と、絵に描いたような紳士である。その身なりはこれからコンサートに向かうことを我々に予想させた。

 このように風香嬢が人に話かけられることは決して少なくはない。しかしいずれの場合も、風香嬢がただの美少女ではなくれっきとした死体であることが分かった時点で、不届き者たちは早々に退散してしまうのが常であった。

 だが。

「屋根のあるところまでご案内しましょう」

 差していた傘を半分差し出したところで紳士の手が止まる。驚きをもって風香嬢を上から下まで舐めるように眺める。風香嬢は我関せずという風で歩を進めていく。すれ違いざま、風香嬢独特の香りが踊った。

 紳士は一言、信じられない、と呟いた。みるみる間にその目に邪な光が宿っていく。

「お急ぎのようですな、車をお貸ししましょう」

 紳士、もとい淫猥で肉体的性欲に忠実な獣は己の半身が濡れるのも構わず傘で風香嬢を雨と周囲の目から守る。間もなく薄暗い住宅街から抜け出すと、通りに停めてあった高級車の形をした牢へ風香嬢を促した。そしてすっかり風香嬢を閉じ込めてしまうと自身もまた運転席へ乗り込み、とても紳士的とは呼び難い動作で車を走らせ、たちまち他の車の中に紛れてしまう。

 あっという間の出来事であった。しかし我々には十分な時間であった。外見的特徴や車のナンバープレートという客観的証拠から獣の氏名や住所等の社会的情報を明らかにし、風香嬢に対する行動的特徴から車で向かう先にあたりをつけることなど、我々にとってはさほど難しいことではない。

 我々は期間限定的な指揮官を速やかに定め、風香嬢の安全を確保し再び旅路へ回帰させるという暫定的目標の達成に関する一切の権限を承認した。指揮官殿は簡単な挨拶と所信を表明した後、収集された情報と予想を基に、ハコという意味での組織を形成し、各々のボックスに人員を配分し、情報のやり取りに関する取り決めと、各小隊に許される裁量の境界を設定した。

 諸君らの健闘を祈る、以上。

 かくして我々は夜の街に散開する。

 

 風香嬢発見の一報がもたらされたのは散開からわずか十分後のことである。場所は郊外にある獣の邸宅であった。

 我々は続々と目標の邸宅に集結し、正門、裏門、ガレージと退路になり得るところを優先的に制圧した。同時に先行隊が邸宅の探索を開始し、まもなく二階の寝室に風香嬢が軟禁されていることが明らかになる。木に登り、窓から中の様子を伺った一人によれば、風香嬢は出口を探して部屋の中で円を描いている、とのことだった。

 以下の描写は、視覚的描写については窓の外から観察する者からの、音声的描写については部屋の外で待機する者からの、各々の報告を合成してなされたものである。もしも描写に多少の悪意が感じられるとすれば、それは一次的には観察者自身の非公正性によるものであるが、二次的にはその非公正的報告を修正することなく受け入れた我々の暗黙的総意によるものである。

 

 獣は隣室から酒瓶とグラスを持って現れると、椅子に荒々しく腰掛け足を組んだ。真っ白なバスローブから生える腕や脚は毛むくじゃらで、清潔感に著しく欠ける。獣は手酌でグラスに赤ワインを注ぐ。そうしてグイッと一息に杯を仰ぐと、まったく愉快で仕方ないといった風に一つ高笑いをする。次いで二杯目に手をつける。

 檻に閉じ込められ、人工の灯りに晒される風香嬢からはあらゆる神秘的なヴェールが失われていた。あるのはかつては美しくそして聡明であったであろう美少女の腐乱死体である。垂れた前髪が眼窩の窪みを隠している。かろうじて残る歯がむき出しの顎に刺さっている。客観的に見れば醜い魔物と形容せざるを得ないだろうか。

 獣はそんな風香嬢を、頬杖を突きながら下から上まで眺め、その瞳に嗜虐的性向の光を浮かべていた。

 やがて淫獣はおもむろに立ち上がる。そっと風香嬢に寄り添い、肩を抱く。太くこわばった指がワンピースの上から風香嬢の肩に沈んだ。獣は風香嬢をベッドに腰掛けさせる。風香嬢はそんな束縛から逃れようと身じろぎをするが、その素振りは決して荒々しくはなれず、かえって獣の興奮を誘うばかりであった。

「逃げてはいけないよ、レディ……」

 囁くような、猫なで声。

 獣は肩に抱いた腕を解き、腐汁と蛆の踊る指で風香嬢の髪を梳く。顕わになった黒色の耳に口を寄せた。獣の陰茎は逞しく勃起し、股間に世界で最も下品な円錐を形成させる。なるほど立派なtiny towerである。

 これらの一挙一動に対する我々の反応たるや筆舌し難いものがある。ただ一言、真っ白になるほどの怒り、と述べれば読者諸君は我々の胸の内を過不足なく察することができるものと信じている。我々に対する言及はこの程度に留め、今はまだ叙述を続けねばならない。

 淫獣は風香嬢の手を取り、己の腿の上に乗せた。そして開かれた股間へ風香嬢の赤く爛れた手を導く。が、一物には触らせない。腿の内側を腰から脚先にかけて、脚先から腰にかけて、幾度も重ねた手を往復させる。風香嬢のふっくらとした愛らしい手が汚らわしいふぐりに近づく時には獣は中空を仰ぎ、今にも泣き出しそうな顔で口をへの字に曲げ、部屋の外にも漏れ出るほど大きくそしてだらしない嘆息を零すのだった。獣の興味は、普通の女性と比べれば明らかに特徴的である外見的特異にしか向けられていない。風香嬢の何が貴いものであるかなど、獣には決して気付かれない。この男はただの盛った猿である。半世紀遅れの思春期である。哀れで惨めなその半生に同情しないこともない。

 一方、一連の行為の間、風香嬢はがらんどうの瞳に胡乱な光を湛えていた。徹底した無関心っぷりであったし、風香嬢自身、自分が今何をされているかに関する考察も持たないだろう。風香嬢を支配するのは、ただ、ただ、再び旅路に戻りたいという本能的欲求であった。風香嬢はそれのみを欲している。それ以外は何ものも欲していない。風香嬢の振る舞いはかような本能的衝動によってのみ決定される。

 ところでこのような光景――すなわち、初老の男性が半屍人の少女を強姦しようとしている様子――を一般の者どもが見たら何と思うだろうか。非現実的にして非常識的な事象が折り重なるこの光景、かろうじて「狂っている」と呟くのがせいぜいではなかろうか。

 だが我々に先立つのは前述の通り憤怒である。それは、神聖なる我らが風香嬢が今まさに穢されようとしていることに対する宗教的憤怒というよりは、無垢にして純粋そしてあどけなく愛らしく貴い我らが風香嬢が今まさに淫らな大人の悪意に一方的に凌辱されようとしていることに対する道徳的憤怒である。

 眼前の光景は、道徳的に、誤っているのである。絶対的に誤っているのである。

 淫猥な獣が風香嬢を凌辱する様々な手段を持ち、かつ、それらを実行する能力があるのに対して、風香嬢はその大きく損なわれた体を以てして己の身を守る手段に著しく欠いている。風香嬢は暴力を伴う強制的行為に対しては抗うことができない。強者から弱者に対する一方的な行為、という構図がそこにある。それ故、我々が風香嬢に味方し風香嬢を守ることは道徳的にも正しいのである。そのために全てを捧げることを改めて決意することができたのである。

 そして何よりも、一連の行為の間、風香嬢の精神性は決して傷つけられなかった。それは必ずしも風香嬢が意識するところではなかっただろうが、いずれにせよ風香嬢の精神的純潔は守られたのである。旅への飽くなき欲求が風香嬢の本質的な魅力であるならば、風香嬢はその欲求を保ち続けた。我々が恋した背中は失われなかった。

 風香嬢に意図するという能動的な行為は認められないにせよ、ある種の比喩として、風香嬢は我々が風香嬢に期待するものを守ったのだ。それだけで我々は救われたのである。その恩義は返されなければならぬ。我々は風香嬢を護る騎士とならねばならぬ。ここで騎士にならねば何のために我々は男子として生まれたというのか。心に秘めた大剣が、眩く、眩く、光り輝く。我々は風香嬢に恋したあの瞬間から風香嬢に剣を捧げることを誓ったのである。

 指揮官殿の合図!

 刹那、我々は黒い竜巻となる。枠ごと窓をぶち壊し、扉を粉砕し、獣を風香嬢から引き剥がし、それでも有り余るエネルギーを部屋中のたとえばデスクに、カーテンに、ベッドに、飲みかけのワインボトルとグラスに叩きつける。獣には呻くことすら許さない。我々の暴力的本能の凄まじさに我々自身が驚くほどであった。

 破壊し、粉砕する――その快楽に溺れる寸前、指揮官殿から攻撃中止の命令から下る。幸いであった。壊れた窓から吹き込む雨風が我々の火照った頭を冷やしてくれた。そうして改めて室内を見回してみれば、惨状と呼ぶに相応しい惨憺たる有様が広がっている。獣はベッドから離れた部屋の隅で丸くのびていた。時折、ぴく、ぴく、と震えていた。

 風香嬢はしばらく儘に徘徊した後、裏門から脱出することに成功した。十分に邸宅から離れたところで指揮官殿は目的が達成されたことを確認し、期間限定的組織の解散を宣言し、己の地位と権限を返上し、そして我々のうちの一人に戻った。組織解散後も慣性で我々の足並みは揃っていたが、緊張が解けるにつれて我々の行軍は再び集団のぞろぞろとした動きに戻っていく。

 風香嬢の背後十メートルの距離も再び保たれた。

 雨は未だ止まない。小雨は先刻と同じく風香嬢の気配と香りを殺していた。

 静かだった。

 まだ出来事から一時間も経たないというのに、夢だったのかと錯覚するほどであった。

 しかし夢まぼろしではないことは、我々自身が最もよく知っている。一度自覚された剣はしっかりと鞘に納められ、白銀の刃の眩さは決して忘れることができないものとなる。その輝きの強さは我々の誇りの高さと同値である。

 我々はかつて風香嬢を悪意に満ちた手から救うべく共闘した。その記憶は我々が我々であることをより明確に定義する。すなわち以下の通りである。

 我々は風香嬢を慕い、風香嬢に従順である。その関係性においてはとりわけ精神性を重視する。そして風香嬢を脅かす者に対しては暴力的措置を講じること可能である。

 今回の件を通じて我々は我々が思っていた以上に物理的が力を持っていたことを学習した。これは、今後、過剰な暴力的牽制や具体的な事件への対抗手段となると同時に、我々の暴力的性向を助長しかねないものである。我々がもはや一定の力を持つ集団であることに対する責任と相応の義務を自覚せざるを得なかった。我々はもはや単一の目的にのみ規律される集団ではいられないのかもしれない――確信に近しい予感であった。

 このような反省を残し、かくして二時間一話のドラマよろしくこのエピソードの幕はとじられるのである。

 

 このエピソードが我々にとって特に重要な点は、風香嬢と我々の関係を再考させると同時に我々自身のあり方それ自体のターニングポイントとなった点である。これは冒頭で述べた通りであった。

 しかし、実を言えば、もう一点大きく変わらざるを得ない点があったのである。くしくも“我々”はその時その事に気付くことができなかったのだが。


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四.一

 四.

 

 それから数週間後、風香嬢と我々はとうとう欧州の最西端の国に至った。特に東欧に入ってからは一貫して進路は西を向いていたわけであるが、地理的限界により間もなく風香嬢と我々は今後の進路を再検討せざるを得なくなる。しかしそれは風香嬢の決めることである。風香嬢の行くところが我々の目的地である。もっとも、それよりも喫緊の検討課題があったわけだけれど。

 思えば風香嬢と我々は幾度も夜を跨いだ。星が流れ、月が喰われるのも見た。複数の季節を経験した。愉快な時期も、不快な時期もあった。もはや我々の歴史は一言では語り尽くせぬほどに長いものになっていた。

 途中、我々から脱した者もいた。あるいは我々に参加して間もない者もいる。もはや我々の内で誰が最古であるかもわからない。旅の出発点もわからない。

 ながい旅路である。

 本当にながい旅路であった。

 日夜、雨風に晒され続けてきた風香嬢の体は、確実に風化していたのである。

 

 交代する雨天と晴天、容赦ない日光、加えて潮風。

 近日の気候を描写すれば以上のようになる。風香嬢の腐った体に追い討ちをかけて痛めつけるには十分であった。

 指先から絶えず滴る汁は雨の残りであるのか風香嬢自身のものであるのかわからなかった。鴉は絶えず風香嬢の頭上を旋回していた。風香嬢が放つ香りに誘われた虫も多い。風香嬢の体に巣食った蛆どもが続々と成虫になる。風香嬢の運動によって遅らせられてきた腐敗もいよいよ限界であるようだ。我々は、基本的には風香嬢を背中からしか見ない。しかし、そこからでもここ数日は急激にその背中が小さくなっていることがわかった。

 そしてとうとう――。

 ぼとり、という音がする。風香嬢の左腕が肩から千切れて落ちたのだ。落ちた衝撃で左腕からは蛆と黒いのが放射状に広がり、黒いのは霞のように宙へ舞い上がる。

 肉だと思っていたのはほとんど蛆であり、蛆が散開すると残ったのは穴だらけの皮と華奢な骨だけであった。

 我々は風香嬢の一部を拾い、木箱に納める。驚くほど軽かった。

 

 風香嬢の腕の欠落は、風香嬢の体が限界に達していることを象徴するものである。我々はそのことを自覚せずにはいられなかった。葬送めいた重苦しい雰囲気が我々を覆う。

 それでも風香嬢は前へ行く。だが、腕を失い、体のバランスを取ることが一層難しくなったようである。一度転べばきっともう立ち上がれないだろう。脚だってもはやいつもげてもおかしくない。

 何がそこまで風香嬢を駆り立てるのか――今さらその問いを立てるのは愚かである。

 問うべきは、あとどこまで風香嬢は行けるのか。風香嬢にはあとどれほどの時間が残されているのか。

 そして、我々はどうするべきか。

 朽ち行く風香嬢を朽ち行くまま見届けるか。あるいは積極的に介入するべきか。介入するにしても、我々が風香嬢の杖となり脚となって旅の継続を支援するか、あるいはもういっそ休ませてやるべきか。

 いずれ訪れるであろう終末に対する態度については、我々の内では表立っては論じられてこなかったものの、誰もが考えていたことであった。口にすれば論じざるを得なくなるし、論じれば風香嬢の二度目の死を意識しなければならなくなる。しかし風香嬢の体の限界が具体的な出来事となって明らかになったことで、いよいよ我々は紛糾する。我々が取り得る選択肢は複数あり、それぞれの選択に従って派閥が形成される。各々の主張は以下の通りである。

 第一は、風香嬢に対しては一切介入することなく、我々が元来共通して持つ、風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げる、という目的に忠実であろうとする原理主義派である。彼らは徹底して風香嬢の影となることを是とした。彼らは、風香嬢と我々の間の十メートルの空白こそが風香嬢と我々の関係を象徴するものであり我々を我々たらしめる要因であると信じている。故に風香嬢自身に対する一切の干渉は無礼であり、むしろ風香嬢に触れようとする一切を遠ざけることにこそ――彼らの言葉を借りれば――我々の風香嬢に対する貢献の余地が残されているのである。(ところで大きな共通目標という点では依然として我々は我々であり、その点については派閥を横断して合意が形成されている。しかしここでは便宜的に各派閥を客観的に捉える意味で“彼ら”と呼ぼう――しかし、このような呼称を用いらざるを得ないこと自体が、もはや我々という集団がかつてとは変容してしまったことを象徴するものである。)

 第二は、風香嬢の杖となり脚となり、風香嬢の旅の継続を支援する立場を取る目的支援派である。彼らは風香嬢の意――そのようなものがあると仮定する――を汲み取り、そのためには単なる影を脱却して例外的自発的行動を取ることもまた必要であると主張する。彼らに言わせれば、原理主義派は頭の凝り固まった融通の利かない者どもである。

 第三は、一般的常識に立ち返り、道義的観点から述べて一刻も早く風香嬢を安らかに眠らせることこそが正しく優しいことだと主張する安眠派である。

 無論、三者はいずれも間違ってはいない。間違ってはいないからこそ結論が出ない。そして結論が出ない決定的な理由は、風香嬢自身の意思が明らかにならないためである。もっとも、元来意思という理性的な判断があるかどうかも疑わしい存在に、ある意味比喩として“風香嬢の意思や目的”を設定してしまった我々自身の落ち度でもある。どのような議論をしても論理的に合意を導くことは不可能であると我々は自覚していた。しかし、それでも我々はやはり己の信念に基づいて各々の立場を主張せざるを得なかった。

 ところで着目すべきは、各派閥の構成である。全体を10とすれば、原理主義派は5、目的支援派は4、安眠派は1である。差し当たって、十メートルの空白を飛び越えて風香嬢に介入するかしないか、という判断をするにしても丁度五対五で勢力が拮抗するという状態であった。

 そしていよいよ興味深い点は、各派閥の構成員の属性である。簡単に言えば、安眠派の1と目的支援派の一部は、かつて我々が淫獣に対して制裁を下した事件以降に我々に加わった者たちだったのである。目的支援派に加わる者らもほとんどが我々が東欧に到達してから参加した者たちである。東欧以前から我々に参加し、ながい歴史を共有する者らは総じて原理主義派であった。参加時期毎の世代分けと、主張に基づく分類はほぼ一致するのである。我々がもはや単一の目的によって同一化することのできないことを示す決定的な証拠であった。いつしか我々は利害調整という人為的な操作を必要としていたのであった。そのことに今の今まで気付かれてこなかったのは、腕の欠落という目を背け難い具体的なきっかけが生じるまでは、山あり谷あり様々あれど結局“最後はどうにかなってきた”からである。

 だが、我々にはもはやのんびり利害調整をしている時間的余裕もなかった。我々の関心は共通して風香嬢に向いているが、その風香嬢自身に残された時間自体が残り僅かなのだ。我々の内部の対立は、いわば風香嬢の残された僅かな時間の使い方を巡る、時間の争奪戦である。

 かくして我々は互いを牽制し合うようになる。自ずと派閥単位で行進を行うようになる。風香嬢が転びそうになった時には、飛び出しかける目的実践派と安眠派を原理主義派が後ろから羽交い締めにする始末である。残された僅かな理性のおかげでかろうじて暴力沙汰にならないだけで、状況としては文字通りの一触即発であった。なまじ戦闘経験を持つがために、特に原理主義派と目的実践派は「その気になれば実力行使もできる」と思っていた。穏便ではない。かつて我々が憎んだ暴力的牽制は今や我々自身が我々自身の同志の動きを抑制し支配する手段である。

 我々は我々という結束を失おうとしていた。


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四.二

 このように風香嬢の背後では生臭い動きが続いていたのだが、当の風香嬢自身はといえば、やはりぽろぽろと体を失いながらも前へ前へと邁進するのである。そのひたむきさこそが、我々が我々を我々という括りで一つにすることをかろうじて可能にする最後の根拠であった。

 しかしそのひたむきさも、一つ見方を変えれば執着や妄執である。我々が恋する風香嬢は同時に前時代的な人々の常識を揺さぶる不穏分子である。

 特に旅の舞台を欧州に移して以降が顕著であった。結果的に今の今までは、そういった頭の固い者どもとの悶着は二時間一話完結型の勧善懲悪物語に昇華することが可能であったが、近頃はそれも難しくなりつつあった。そもそもこれまでが上手くいっていたのは、風香嬢と我々が彼らに対して取った戦術が不意打ちであったからだ。唐突に現れ、状況を相手に完全には飲み込ませないままその場から離脱する。このようなゲリラ戦法が主な風香嬢と我々の戦術であった。だが、風香嬢と我々は欧州に入ってもう久しい。インターネット上に風香嬢と我々に関する情報のデータベースが形成されるには十分すぎるくらいの時間と機会があった。対象に関する知識を獲得することは無知から生じる警戒や恐怖を緩和させ、場合によっては人をつけ上がらせるきっかけになる。知らなければこそ怖いものも、知ればただの動く死体である。ゾンビを大量虐殺する仮想体験は一部の者らの間では積極的に盛んに行われているものだ。なるほど、かつて我々が嘲弄したマスコミもこのような効用を持つものであった。

 事前の知識は前時代的人間どもに備えを提供した。だが、彼らの態度をいよいよ硬直化させたのは、既存のゾンビに対する偏見には限られない。風香嬢の容姿である。これは具体的な観察に基づくものであるからこそ、反論の余地がほとんどないのである。

 今や風香嬢の容姿は、女子供が泣いて逃げだすには十分なものであった。原因は前述の通りの気候である。腕がもげているのみならず、皮膚のほとんどが失われ、肉は虫や猛禽に喰われ尽くし、あるのは真白い骨である。歩く骸骨であるが完全に骸骨になりきらないのは、乾ききった黒髪と壊れかかったワンピースとすっかり底の抜けた靴と、肉体が損なわれてもそれでもなお失われない花の香りによるものである。骨自体が香りを持っていたのだった。

 もはや、ちょっと俯けば道行く人に気付かれなかった頃ではない。隠しても隠しきれない程度に風香嬢の体は二度目の死を具現化していたのだ。予算の額自体が宣伝文句になる類の超豪華サスペンスホラーでもお目にかかれないような、生々しいゾンビ。その姿を革命的だと言って喜び手を叩けた時代はもはや過去なのだ。過去なのであった。そう認識し直さざるを得ないのだ。たとえ我々がいくら悔しがろうとも。

 

 最後の街で我々を迎えたのは、U字型に展開した武装集団である。市街地からは少々離れたところではあったが、野次馬は十分にいた。その上空をヘリコプターがけたたましく旋回する。叩きつける風圧が風香嬢を転ばせないか、我々はひどく不安であった。

 風香嬢と我々の到着を待って、武装集団のリーダーと思しき男が、拡声器を通じて呼び掛ける。曰く、立ち止まり、警察の警告に従えとのことである。

 一度立ち止まれば向こう十数年は青空を拝めなくなることは間違いない。我々だけでも、現行の法に照らし合わせてみればお縄につくには十分な理由があった。たとえば跨いだ国の数だけの不法入国がある。ある国では公僕の車に損害を与えた。一応見かけだけは紳士的な男を集団で暴行を働いたこともあった。他にも、風香嬢が歩いた先がたまたま道路であれば、行進の間は車の通行を結果的には一時的にご遠慮願う形になったし、ある一つの観点からの迷惑という視点で考えれば余罪はおそらく我々の記憶の内を遥かに凌駕する量がある。無論これらは建前に過ぎない。本質的な動機は、非科学的な存在というエラーを排除し、秩序を再構築することである。

 しかし我々は彼らの呼び掛けに応えることができない。風香嬢はもちろんのこと、我々もまた我々という複数形の一人称でしか我々自身を表現することができないため、交渉の窓口となれる個人がいないのだ。かつてのように、速やかに期間限定的なリーダーを選出しようにも、今の我々は統一性を欠いている。我々が歯痒く口を閉ざしている間も風香嬢は行進し、風香嬢が行進すれば我々は後を追わざるを得ず、結果、彼らの呼びかけは無視されたという状況が形成される。発砲もやむなし、一触即発である。

 一歩、また一歩。風香嬢は武装集団の間にある僅かな隙間を目指し、歩く。空砲による牽制も風香嬢が歩みを止める作用はもたらさない。

 そしてとうとう――タン、と発砲音がした。撃ったのは風香嬢の正面に立つ一人である。

 しかし一見何の変化もないように見える。若者の勇気ある一撃は一体何に作用したのか。銃弾は確かに風香嬢の右足の甲を貫いた。膝を狙わなかったあるいは狙えなかったのは崇りや怨恨を怖れたためであろうか。

 いずれにせよ、肉体的損害を伴う暴力的牽制は風香嬢の行進を止めることができなかった。それがますます彼らの態度を硬直化させた。構えられた盾どもがぎゅっと圧縮され、そして風香嬢の足が止まる。止まった。

 突然の出来事であり、かつ、事象自体は些細であったため、一瞬その場にいた誰もがその重大性に気付くことができなかった。解釈はいつでも遅れてやってくるものである。

 風香嬢が足を止めた。なぜか。武装集団が緊張し、盾を密集させ、そして、風香嬢の道を閉ざしたからである。その先に道がないとすれば、その次に選択される動作は何か。方向転換および新たな道の模索である。

 瞬時に為された考察と構築された仮説は、ただちに検証された。すなわち風香嬢はおぼつかない足取りで以てその場で反対を向いたのである。結果的に彼らは風香嬢の進行を阻むという目的を達成したことになる。

 一方、風香嬢の方向転換は我々自身にとっても特殊な意味をもっていた。すなわち、皮肉なことにそれは、風香嬢が初めて我々の方を向いた瞬間であり、風香嬢と我々の対面であった。

 我々はその容姿はすっかり損なわれてしまっていることを改めて認識し直さざるを得なかった。風香嬢は元来、並んで立てばきっと成年男子の平均的な身体の肩か胸ほどにしか達さない程度の小柄な娘である。その娘がよくぞここまでひたむきにやって来たものである。今はもう顎の下にかろうじて肉片がこびりついているのみであった。

 衝撃は特に原理主義派において顕著であったようである。無理もなかろう。彼らが風香嬢に恋したときはまだ、風香嬢には多分に生前の面影が残っていたのだから。以来原理主義派は風香嬢の背中だけを見てきた。それに比べて近頃我々に参加した者らが一様に安眠派へと流れていったのもまた一定の妥当性がある。風香嬢の姿は痛ましいのである。憐憫を禁じ得ぬ程に、風香嬢はぼろぼろなのである。人間らしい感情というものがあるとすれば、それはこのような姿を見るにつけ、早く楽にしてあげたいと感じる心であるのかもしれない。だがそれは、これ以上痛ましい姿を見たくないという観察者自身の脆弱さの象徴でもあるのかもしれない。

 我々、特に原理主義派は初めて迷った。我々の内部で紛糾した時でさえ、個人単位では確固たる信念があった。だが今の混乱は個人内での葛藤である。

 我々は風香嬢に何を求めるのか。

 あるいは、風香嬢はどうしたいのか。

 ならば我々はどうするべきなのか。

 一番目の問いが直ちに二番目の問いに転換される辺りが我々の限界である。我々は我々の振る舞いの指針を風香嬢にしか求めることができない。我々の目的は風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げることである――その言葉の意味が根本から問い直されていた。

 我々は迷い、悩む。だがしかし、やはり解決の糸口を提供するのは風香嬢なのである。

 風香嬢は歩む。

 一歩、また一歩と風香嬢がこちらにやってくる。

 我々は二つに割れ、道を作った。

 その道を風香嬢は行く。

 すれ違いざまに残していく花の香りは骨それ自体から漂うものである。十の花よりも甘く、蜂蜜よりもねっとりとした濃い香りである。

 そして風香嬢は我々を通過し、再び我々に背を向ける形となる。我々はその背中に恋をしていた。死してもなお何かを追い求めるひたむきさに恋をした。決して、ただの無目的な徘徊ではあり得ないほどの真剣さがそこにはある。我々は風香嬢と同じ目線で風香嬢が見るものを見ることを欲した。そのことを我々は思いだす。

 風香嬢が行くから我々も行くのだ。

 これは主体性に欠けるものであるか。否、我々の明確な意思である。

 我々は風香嬢に恋をしたその瞬間から、風香嬢に魂を捧げたのである。

 だから、もしも我々が風香嬢に求めるものがあるとすれば、たとえ身勝手なものであってもやはり以下のものである。すなわち、どうか、最期まで我々が恋したままの風香嬢であって欲しい。

 

 その後の顛末は簡潔に述べることにしよう。

 結論から述べれば、我々は武装集団と衝突した。彼らが風香嬢を追って押し寄せたところを我々は一丸となって壁になったのだ。風香嬢の行く道を阻むものには何ものであれ対処しなければならないのだった。

 我々の出自がどのようなものであれ分類上は民間人であるので、極端に悲惨な事態には陥らなかったものの、やはり多少の怪我や我々の一部の拘束を伴った。多少の戦闘経験を活かす余地すらなかった。これらは初めからわかっていたことであり、それ自体はもはや問題ではない。我々の関心事は、一分一秒でも長く武装集団を引き留めておくことである。その一分一秒の分だけ風香嬢は遠くへ行けるのだから。

 

 読者諸君は冒頭で挙げた問いを覚えているだろうか。風香嬢はどこから来て、どこへ行くのか。そして風香嬢は何者なのか。それに対して我々は、前二つに関しては、知らぬ、と突っぱね、残りの一つについては我々が愛して止まない宝であると答えた。

 今なら我々がそのように答えた意図も解してもらえるだろうか。

 とどのつまり、風香嬢に関する属人的情報は問題ではないのである。冒頭で述べた通り、風香という名は我々が勝手にそう呼んでいるに過ぎない。科学的鑑定によって風香嬢の生まれや本当の名を知ることもできるかもしれない。風香嬢の一度目の最期の状況がわかるかもしれない。

 だが、それが一体何だというのか。

 我々は風香嬢の背中に恋をした。ただひたむきに何かを追い求める姿に恋をした。

 たしかに生前の風香嬢の死の際を知ることができれば風香嬢のことを情報としてより深く理解できるかもしれない。風香嬢の歴史を知れば、風香嬢の未練や、風香嬢が真に目指したものも推測できるかもしれない。しかし、そのような情報は風香嬢の本質に対する理解を助けない。

 このながい旅を通じて風香嬢は欲するものを得たのか――この問いに関心を持つのは風香嬢と心を重ね合わせ共感しようとする者である。

 しかしながく旅をすればするほど、この問いを問う意義は失われていく。

 

 ――行けよ、行け。

 ――その腐った足で行けるとこまで行けよ、風香嬢。

 

 この呟きが全てである。気取った言い方をすれば、我々は風香嬢の行くところを行くのみである。

 そして、旅の意義は回顧的に発見されるのである。意義はあらかじめ問われるべきものではない。

 間もなく旅の終わりを迎えた時、我々は豊かな余韻の中で旅路を回顧し、各々が独自のストーリーを読むだろう。



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