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 私が妻と別れたのは、今年の一月の事だった。
 結婚したのは四年前、三十歳の時だ。明るく快活で、ちょっとおっちょこちょいで可愛らしい、三歳年下の女を、私は心から愛していた。あぁ自分は彼女を幸せにする為に生まれて来たのだと、本気でそう思っていた。
 愛嬌のある顔立ちに若干の雀斑。笑うと笑窪が浮かぶのに、こちらまでじわりと嬉しくなったものだ。ごく平凡な家庭で生まれた、平凡な女だった。それは、私も同じ事だった。
 一昨年から本社勤務になり、ほぼ転勤をする可能性がなくなった事で、マイホームを買った。やがて新しく家族が増えるだろう事を考えて部屋数は多めに、小ぢんまりとした、けれど私達が二人で考えに考えて選んだ家だった。ささやかな庭には、妻が当時凝っていた家庭菜園が設けられた。不器用な彼女はちょくちょく失敗を繰り返しては悲鳴を上げていたけれど、それが可愛らしくて、日曜日の昼間から手を土で汚して夢中で作業している妻の背中を見守って、時々手伝うのが私の楽しみになった。妻の妊娠が発覚したのも、この頃だった。
 最初は微熱が続き、厄介な風邪でも貰って来たのかも知れないとぼやいていた。その内ものも碌に食べられぬようになり、妻が月経が来ていない事を思い出すに至って、漸く妊娠したのかも知れないと気付いて慌てて産婦人科に駆け込んだ。
 悪阻に苦しんでぐったりとしている妻の横で、私はおろおろとしてばかりだった。こんな時、男というのは本当に役に立たない。起き上がるだけで辛そうにしている日もあった。私はただ彼女が心配で、心配で、子供が出来た事はとてもとても嬉しかったけれどそれ以上に彼女の苦しみを少しでも肩代わり出来たらと、そんな事ばかりを考えていた。買い物に行かせるのも恐くて、会社に無理を言って残業はなるだけ減らして貰う事にした。いっそ仕事を辞めてずっと妻についていたいくらいだったのだが、それは本末転倒だと必死に自制した。
 更に数週間すると容態が落ち着き、その頃には母子手帳を発行して貰った。苦労は色々あるようだが、以前よりも遥かに血色の良い彼女の頬を見て、私は心底安堵していた。
 月を経るごとに、妻の腹は大きくなっていった。時々中で胎児が動いているのを感じる事も出来るようになり、妻と二人で子供の名前は何にしようかと、そんな事を話し合ってばかりいた。思えばこれが、幸せの絶頂期だったと言えるだろう。
 妻が急激に体調を崩したのは、六ヶ月目に入った頃だった。
 あの時期の記憶は私の中で朧気で、正直何が原因だったのか、私は未だに殆ど理解していない。ただ事実として言えるのは、妻は去年の五月に子供を流産したという事だけだ。彼女自身、一時生死の境を彷徨ったが、なんとか一命を取り留めた。
 しかしその時には既に、全てが崩れさっていた。
 妻は子供を産めなかった自分を責めて、責めて、責めた。私はそれよりも彼女の命の方が大切だったから、そう言って慰めようとした。しかしそれは、完全なる逆効果であったらしい。妻は私を軽蔑し、それまで確かにあった筈の愛情と絆は、夢か幻のように消え失せた。
 私は、彼女を理解しようと努力した。それは一方的な、私が私として考えるが故の自己満足だったのかも知れないけれど。けれど結果として、それは何一つ意味をなさなかった。
 妻は徐々に、精神の均衡を崩していった。私は仕事に没頭するようになった。互いが互いに辛く当たる日が続いた。二人の間は冷え切り、ついに最後まで判り合う事の出来ないまま、今年の一月に離婚する事になった。
 離婚してから私は、酒に溺れた。毎日毎日、仕事が終わってから浴びるように酒を飲んだ。一月、二月と、その生活は続いた。
 三月の終わりの頃、いつものように飲んだくれて帰っていた時、偶然私の前を歩いていたのは一組の親子だった。
 彼等はこれから始まる小学校での生活について話していて、それは鋭く私の胸を抉った。私の子供も、いずれはそうなっていた筈なのに――そう考えて私は初めて、生まれて来る筈だった自分の子供の性別すら知らない事に気付いた。
 何よりもその事実が、私を打ちのめした。私は胸の中で子供に謝り、妻に謝り、遅過ぎる愛の言葉を叫んだ。無様に、みっともなく、人目も憚らずに、道の真ん中で号泣した。
 それが眼に入ったのは、偶然だった。売れ残りなのだろう、店の前に置かれたワゴンの中に無造作に入れられた、小さなオルゴール――これを子供に買ってやる事が、もしかしたらあったのかも知れないのに。
 気付いたら私は、それを手に取ってレジへと向かっていた。買ってから渡す相手がいない事を思い出し、近所の施設へ送る事にした。児童養護施設ではなく老人介護施設に間違って送ったというのには後から気付いたが、今更かと開き直った。勝手に活用してくれるだろう。完全に身勝手な、自己満足の行為だったが、確かにその達成感は私の心を安らがせてくれた。
 それから毎月、ふらりと玩具屋に行っては何か一つずつ買うようになった。いずれ成長していったであろう子供を想って、対象年齢を少しずつ上げた。酒は飲まなくなった。一時期増えていた煙草も落ち着いた。離縁以来、全く連絡を取っていなかった妻の実家に、挨拶に行く事も出来た。今更何をという彼女の両親に、私はただ頭を下げた。
 そろそろ、あの日から半年になる。この前にはパズルを買った。日曜の快晴の日、私は新しい玩具を買いに行く為に、陽光の下に踏み出した。

この本の内容は以上です。


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