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 六月の終わりに近付き期末テストが始まった。部活をやっていないから他の生徒に比べたら普段から気楽だけど、やっぱり午前中で学校が終わるのは嬉しい。
 期末テスト三日目はずっと梅雨の合間の晴れの日だった。でも湿度が高くて体が朝からずっとべたついている。テスト中、解答用のわら半紙が腕に張り付いてうっとうしかった。帰り道も、シャツが肌にくっついて気持ちが悪い。家に帰ったらとりあえずシャワー浴びたい、と思って家路を急いだ。
 マンションの前に行くと平日の昼間だっていうのに女が二人、エントランスのところで抱き合っていた。ぎょっとして立ち止まる。汗がこめかみから流れた。制服のシャツも湿った背中に張り付いていて気持ち悪い。でも、俺はその場から動けなかった。

 なぜなら片方は姉ちゃんだったから。姉ちゃんじゃない方は俺に背中を向けているのでわからないけれど、姉ちゃんよりも小柄で少し丸い。ちょっとデブ。ぽっちゃりっていうのか、そういう体型だった。姉ちゃんはぽっちゃりの首に顔をうずめて、何かぼそぼそ話している。俺はどうにか中に入りたかったけれど、二人が堂々とエントランスに続く自動ドアの前を陣取っているので抜けるにも絶対に抜けられない。そもそも、いくらレズビアンだって知っていても恋人と一緒にいる姉ちゃんに会ってしまったのが気まずい。
 ふと姉ちゃんが閉じていた目をあけて、うつむいていた視線を上げる。目をそらしておけばよかった。しっかりと目が合う。珍しく化粧をして髪の毛を後ろでひっつめた姉ちゃんは、俺を見つめたままぽっちゃりから腕をといた。それに気づいてぽっちゃりが振り返る。ぽっちゃりとも目が合った。
「おかえり」
「あの子、いとこの?」
「そうそう。おかえり、香」
「おかえり」
 姉ちゃんはいつもと同じ、ちょっと性格の悪そうな笑顔をこっちに向けた。ぽっちゃりもにっこり笑ってる。姉ちゃんとは正反対ですごい人のよさそうな顔をしてた。ふわふわの髪の毛と、白いけど健康そうに見える肌、女らしい白いワンピースの上から赤いカーディガンを羽織っている。でもやっぱりぽっちゃり。
 俺は返事をしないで大股五歩で二人の横をすり抜け、二人に目もやらないで自動ドアを抜ける。甘い匂いとタバコの匂いがしたけど、気にしない。そこからさらに大股五歩でエレベーター前に行って「上」のボタンを連打する。八階から音もなくエレベーターは降りてきて扉が開いた。
 乗り込み、四階のボタンを押して閉じるのボタンを押すすんでのところで姉ちゃんが一人で乗ってきた。扉が閉まる。
「挨拶ぐらいちゃんとしなさいよ」
「……うるせ」
「ガキだねーもう。今日あんたのご飯作ってっておばさんに頼まれてんの」
「は?なんで」
「午後のパート、朝になっちゃったんだって。うちも今、母さんいないし、ご飯つくってあげるからうち来なよ」
「いらない」
「ガキ」
 姉ちゃんはけっけっけと笑う。俺はなんか悔しくて、うつむいたまま四階につくまで何も言えなかった。
 結局、姉ちゃんの家で卵とチキンライスが完全に分離したオムライスを食べた。チキンライスの横に綺麗にたたんだ卵が寝かされているのなんか明らかにオムライスじゃないのに姉ちゃんはオムライスだって言い張った。上からべちゃべちゃにケチャップをかける姉ちゃんは、ちゃんと化粧をしてるから眉毛もあるしまつげも長いし頬もオレンジ色をしてる。もちろんキャミソールじゃないちゃんとした服も着てる。昨日テレビで見た、モデルに似てる気がした。たぶん、贔屓目ってわけじゃなくて姉ちゃんは美人だと思う。
「あんたさ」
 口の端っこにケチャップをつけた姉ちゃんはそれに気づかないまま、にやっと笑う。その顔は相変わらず悪魔だった。
「緊張してんでしょ。あたしの彼女見たから。あの子、香に会いたがってたんだよ」
「え、なんで」
 緊張しているのはちょっと図星だった。
「あたしがあんたのことよく話すから。いとこにちまっこいのがいて、あたしのこと意識しててかわいんだって」
「や、何言ってんの」
「実際そうでしょ?」
「違う」

 姉ちゃんはそれから何も言わないでにやにやしながらオムライスを綺麗に食べきった。俺はよくわからないまま、チキンライスと卵を交互に食べる。口の中ではオムライスの味がした。
 ごちそうさま、と口の中でもぐもぐ言ってから帰ろうとすると、姉ちゃんが俺を呼び止めた。玄関前で立ち止まる。
「渓(けい)くん、結婚おめでと。十月でしょ、式」
「うん」
 俺のことじゃないのにちょっと恥ずかしい。

 

 俺と母さんが苺を食べていた日、兄ちゃんに呼ばれて玄関に出てみると、兄ちゃんの後ろには彼女が立っていた。彼女は何度もうちにきたことがあるし、母さんとも仲良くている。兄ちゃんの彼女は姉ちゃんと違って正統派な女の子って感じ。兄ちゃんは彼女の横に立ち直して、真剣な顔で母さんを見た。
「俺たち、結婚する。今日、父さんがいないからまたちゃんと報告はしようと思うけど、由佳の予定がちょうどよかったから、先に母さんと香に言おうと思って。由佳のご両親にはもう挨拶は済ませたから、できれば顔合わせの日にちを決めたいと思って」
「ちょっと、馬鹿ね、あんたこんなとこでそんな話しないでも。由佳さんに失礼でしょうが」
 兄ちゃんはあ、そうか、と言って少し顔を赤くした。由佳さんはくすくす笑う。姉ちゃんとは違って、女の子らしい笑い方だった。

 それから五月中に両家の顔合わせってのをして、兄ちゃんと由佳さんは顔合わせの後に式場の予約に行った。ちなみに結婚までの期間、兄ちゃんたちは一緒に暮らすって言うので、ずっと実家に暮らしていた兄ちゃんは七月に入ったらここから出て行くって言っていた。
「あたしみたいなのが結婚式に出て大丈夫かねえ」
 姉ちゃんは壁にもたれながら、少し真面目に言う。
「なんで?」
「あたし、付き合ってるの女の子なんだよ?」
「……レズが結婚式にでちゃいけないって決まりでもあるわけ」
「ビアンは結婚できないんだもの。縁起悪いでしょう?」
 姉ちゃんは試すように俺を見ている。気がした。俺は答えないで、靴箱に寄りかかりながらスニーカーを履こうとする。でもいつもはすんなりはけるボロボロのスニーカーが今日は上手くはけない。姉ちゃんが後ろに立っているのは分かる。でも何も言わない。俺も何も言わない。苦戦してる間に鼻の頭に汗をかいた。
「香」
 スニーカーを履き終えて振り向くと、姉ちゃんは少し困ったみたいに笑ってた。いつもの悪魔みたいな笑い方じゃなくて、でも由佳さんやぽっちゃりみたいな笑い方でもなくて、荒んでるっていうのとさびしいっていうのと哀しいっていうのがないまぜになったような顔だった。
「別に、今日見たこと言ったって平気だからね」
「何それ、つまんねえ」
「あたしが彼女といたってことだよ」
「だからつまんねえって言ってんじゃん」
「香」
 玄関のドアノブをつかむと、つるりとした冷たさを感じる。首を少しだけひねって姉ちゃんを視界の端で捕らえようとするけど、焼きそばみたいな髪の毛がちらちら揺れているぐらいしか見えなかった。
「ありがとね」
 姉ちゃんの顔を見ないまま、俺は部屋を出た。バタン、と玄関が閉まってガチャっと鍵を閉める音もした。チェーンもかけろよな、と思いながら自分の部屋の前でポケットに手を突っ込んで鍵を探っているうちに、鼻の頭に溜まった汗がつつつと垂れて唇まで落ちてきた。しょっぱかった。


 十月の終わりに式があるっていうので兄ちゃんは時間ができるとうちに帰ってきてあーでもないこーでもないといっている。叔母さんいわく、どっちかっていうと新郎は結婚式の準備なんかはあまり積極的にやらないけど(叔父さんがそうだったのかは聞けない)、渓くんは几帳面だから、新婦よりも頑張ってるかもしれないね、ということらしい。たまに由佳さんもやってきて、母さんとなにやら話しては楽しそうに笑っていた。うちはますます幸せな家族なんだろうって言う気がしてくる。
 ちなみに、姉ちゃんに彼女がいるってことも彼女とマンションの前で抱き合っていたっていうことも父さんにも母さんにも兄ちゃんにも叔母さんにも言わなかった。言うつもりなんかなかった。あれから、たまにぽっちゃりをマンションで見かけることがあってぽっちゃりはニコニコしてこっちに話しかけてくる。でも、俺が答えられるのは精々こんにちはぐらいだった。うちのクラスの女子はあんな風にニコニコもしないし甘いにおいもしないし胸もでかくない。そしてぽっちゃりを見かけた夕方には、姉ちゃんはいつもベランダで気分よさそうにタバコを吸っている。最近は一日を通して肌寒いので、姉ちゃんはキャミソールの上からカーディガンを羽織っているし、下はパンツではなくスウェットを履くようになった。就職活動をしてるから、スーツのときもある。クマは相変わらずだったけど顔色はよかった。髪の毛はぱさぱさのやきそばだけど、最近ちょっと真っ直ぐになってる。姉ちゃんも今、幸せなんだろう。
「来週か、結婚式」
 その日も学校から帰ってきて洗濯物を取りに出ると、姉ちゃんは開口一番そう言った。
「うん。ちゃんとくるだろ」
「行くいく。結婚式は女の子の憧れだからね。渓くん忙しそう?」
「兄ちゃんは真面目だから」
 そうだね、渓くんと結婚したら面倒くさそうだななんて姉ちゃんが言う。俺は笑いながら洗濯物をソファに放って、コーヒーとカフェオレを入れたマグカップを持ってまたベランダに出た。日が落ち始めると風が急に冷たくなる。姉ちゃんがくしゃみをしたので、湯気の立つコーヒーのカップを差し出した。ベランダの下の街灯がぽつんぽつんとつき始める。
「あんた、彼女できた?」
「できない。女子きらい」
「じゃあゲイかよ」
「違う」
 姉ちゃんは、タバコの煙を吐き出しながらけっけっけと笑った。
「好きな子もいないの?部活の子とかいないわけ」
「部活やってねーし」
「ああそうだっけ。なんで部活やんなかったの」
「……帰宅部」
「部活じゃねえよ」
 また姉ちゃんは笑った。その横顔の向こうには綺麗な夕空が広がっていて、すごく綺麗だった。


 三日後。
 学校を出る時には曇り空で、雨が降りそうだったから少し急いで帰った。洗濯物は俺が管理するっていつのまにか決まっていたし、最近は姉ちゃんと話すのが日課みたいになっていた。嬉しそうな姉ちゃんを見るのは嫌いじゃない。
 俺がエントランスを抜けるとすぐにエレベーターがきて、ラッキーと思う間もなく開いた扉からぽっちゃりが飛び出してきた。顔をピンク色にしてぼろぼろ泣いている。俺の顔を見てびっくりしたみたいに立ち止まったぽっちゃりは、小さい子みたいに肩をひくひくさせながら泣いてた。俺を少し見て慌てたように肩からかけてたカバンから、白いハンカチを取り出して涙をふいた。
「……おかえりなさい」
「あ……ただいま……」
 エレベーターの扉が閉まる。乗り損ねたけど、他の階で誰もボタンを押す人はいないようで、エレベーターはそこから動かなかった。静かなホール全体に、ぽっちゃりの泣き声が響く。泣き声がでかいのか、ぼわんぼわんと声が何重にもなって飛び回っているようだった。何か言おうとしてみるものの、口は上手く回らない。ぽっちゃりは何度か顔にハンカチをあてて、ピンク色の顔を隠した。
 しばらく黙ったままでいたけど、ぽっちゃりは顔をあげて無理に笑顔を作ろうとしたらしい。眉毛も口も変な風にゆがんだへの字になっている。

「ごめんね、こんなとこ見せて。妃子ちゃんにもバイバイっていっといてくれる?」
「うん、わかった」
「はは、初めて会話したね。」
 ぽっちゃりはじゃあね、と小走りで去っていった。甘い匂いがふわりとした。

 部屋に帰り、カーテンの開いた窓に目をやると、どんよりと曇った空が目に入った。雨が降りそうだ、本格的に。かばんをソファに投げ出し急いでベランダに出る。と、白い煙が目の前一杯に広がった。突然のことだったのもあり思い切りむせる。目じりに涙も溜まる。それを見て、煙を吐き出した犯人はげらげら笑った。今まで聞いた中で一番怖くていやな笑い方をしていた。
「んだよっ……やめろよ姉ちゃん」
「ふん、ガキ」
 やっと目を開けて、目じりに溜まった涙をぬぐう。でもまだ目はひりひりして痛かった。そんな俺を見て姉ちゃんは兎みたいだね、という。ぼやける視界の端で捕らえたのは、相変わらずキャミソールにカーディガンだけを羽織った姉ちゃんだった。髪の毛は焼きそばみたいにぱさぱさはしてなくて、綺麗にまとまっていたけれどわずかな風にそよいでいる。化粧は薄い。ほっぺたに、白くてかさかさになった何かの跡が残っていた。タバコと、ビールの缶を持って、ベランダの柵に寄りかかっている。
「おかえり。とわ子に会ったんじゃないの」
 無表情の姉ちゃんは横目でこっちを見て、そう言った。一瞬誰かわからなかったけれどあのぽっちゃりの名前なんだってことはすぐにわかった。
「会った。妃子ちゃんにバイバイって言ってって言われた」
「ふうん……泣いてたでしょ」
「……うん」
「……あの子、弱いの。だから別れた」
 別れた。ただ言葉をぽんと投げて渡されたようで、意味がわからなかった。別れた?あんなに仲が良さそうで、幸せそうにしてたのに、別れた。
「え、なんで?付き合ってたんだろ?」
 何も考えないでこぼれた言葉だったけど、姉ちゃんは一気に眉間にしわを寄せて泣きそうな顔をした。聞いてはいけないことだったんだと後悔したけど、もう遅かった。姉ちゃんの細くて長くて冷たい指が伸びてくる。かさかさした指から、温かいものなんか何も伝わってこない。ただ冷たい。ふと、湿った風が強く吹いて洗濯物がはためく音を聞き、ああしまわないと、なんてことを思ったけど動けなかった。姉ちゃんの指は俺の頬をぎゅっとつねった。あまり痛くない、けれど伸びた爪が皮膚に刺さって針みたいにちくちくする。姉ちゃんはぼろぼろ泣いた。そこで初めて頬にできていた跡は涙の跡だったことに気づく。
「……幸せになれないから女じゃ駄目なんだって……男がいいんだって……なんであんたたち、あんたたち男は、そうやって、男ってだけで、そうやって女を愛することを、当然に思って、付き合うことも結婚することも当然に――」
 いつも掠れている声がもっと掠れてついでに震えて聞きづらい言葉になって、最後はもう言葉にもなっていなかった。ただ悔しそうに俺を見ている。何も言えない。
 そのとき、べちゃっと頬に大きな雨粒があたった。姉ちゃんの指を振り払うように空を仰ぐと、大きな雨粒が次から次へと振り込んでくる。姉ちゃんは手を引っ込めてまた柵にもたれかかるようにしていた。俺は急いで洗濯物を取り込む。あっという間に本降りになってきて、コンクリートのベランダが黒く濡れていく。
「姉ちゃん、ちゃんと部屋入れよ、風邪引くよ」
 窓から顔を出して、塀の向こう側にいるだろう姉ちゃんにそう声をかけてみる。さすがにこの雨でベランダに出て向こう側を覗くのはできない。姉ちゃん、と少し叫ぶように言うと、隣の窓が閉まる音がした。きっと中に入ったのだと思う。俺も引っ込んで窓を閉め、カーテンを閉めた。部屋は暗くなる。電気をつけないと、そろそろ帰ってくるだろう母さんに怒られると思いながら、でも部屋を出てすぐのところにあるスイッチまで歩く気には中々なれなかった。姉ちゃんにつねられた頬がまだ痛い。泣くほど痛いわけじゃなかったのに、目から涙が出てきた。いつぶりに泣いたのかもよくわからなかった。俺に告白してきたあの女子は、こんな気分だったのか、たぶん俺の方が惨めな気がする。そして、悔しい。ずる、と鼻をすするとつんと痛くて余計に涙が出てきた。

***

 

「寂しいでしょ、香。あたしがいなくなっちゃうんだもんね。すぐ帰ってくるからちゃんといい子で待ってんのよ」
「帰ってこなくていいよ」
「本当は寂しいのよねえ」
 姉ちゃんと母さんはそう言い合って笑う。父さんと叔母さんは二人でちびちびと日本酒をそそぎあって美味そうに飲んでいた。テーブルの真ん中には鍋。三月といっても夜は冷えるから、温かい鍋で室内も暖まってちょうどよかった。
 明日、姉ちゃんがマンションから出て行く。就職も決まって、四月から一人暮らしをするからだ。俺は近くの高校に進学したので、相変わらずこの家で暮らすのは変わりない。兄ちゃんも仕事のきりがついたら由佳さんと来るといっていたからもうすぐつくだろう。
 結局、姉ちゃんは兄ちゃんの結婚式には出なかったし、大学四年になった姉ちゃんは就職だなんだで忙しく、兄ちゃんと姉ちゃんはお互いもう一年半近く顔を見ていないことになっていて、兄ちゃんは引越しのときぐらい顔を見たいと言っていた。姉ちゃんはイケメンの顔が拝めるから嬉しい、なんて言っている。テレビを見ていていくらイケメンって人が出ていても嬉しそうにしないくせに。母さんがキッチンに行って、兄ちゃんがいないうちに苺を食べようと冷蔵庫から運んでくる間、隣に座った姉ちゃんは思い出したように俺の頬を触った。
「あんときごめんね。痛かったでしょ」
「別に」
 姉ちゃんの爪は綺麗に丸く切られていて、刺さりもしない。ついでにかさかさだった指先はつるつるしていて、もうぞわりともしなかった。
 ぽっちゃりと別れた次の日、学校から帰ってきてベランダを覗くと姉ちゃんはいつも通りタバコを片手にそこにいて、俺の顔を見て何も知らないという顔で「おかえり」といったのだった。緊張していた俺は少し拍子抜けして、でもほっとして「ただいま」と言った。
 それからぽっちゃりの話を始め、恋愛とかの話はしてない。学校の話をしたり、姉ちゃんの就職の話しをしたり、天気の話をしたり、家族の話をしたりする。姉ちゃんはタバコを吸い、ぼけっとしてたまに聞いてるか聞いてないかの返事をしてきた。いつも通りの姉ちゃんだった。それでよかった。

 鍋の食べすぎなのか体が妙に火照って寝苦しく、そっと居間へ行ってベランダに出た。冷えた風が体をさましてくれる。街中の立つビルには、たくさんの電気がまだともっている。製鉄工場の方もうっすら赤い。生まれてからずっとここに住んでいるから見慣れた景色といえば景色だけど、深夜なのに空はうっすら明るく星も月もあまり見えないのは残念な気がする。春とはいえ少し寒く、はっくしょんとくしゃみをすると、隣でがたっと音がした。驚いて首を伸ばしベランダを覗くと、姉ちゃんが小さなウッドチェアに座って目をこすっていた。
「姉ちゃんいたのかよ。風邪引くだろ、なんでそんなとこで寝てんだよ」
「香?あんたも何してんの……ねむい……タバコ吸ってたら寝ちゃったわ」
「明日早いんだろ。早く寝ろってば」
「うっさいな。あと一本」
 そう言って、膝においていたケースから一本取り出して火をつけた。暗い中、じわりと光るタバコの火は少し幻想的だった。姉ちゃんは立ち上がり、塀ぎりぎりまでやってきて、柵との角からこっちに身を乗り出してくる。
「危ないだろ、俺もそっち出るからそんな出てくるなってば」
「香ってさ、あれだよね、お母さんみたい」
「うっせーな」
「そんなんだと、変な女に引っかかるよ」
「うるさい」
「彼女できた?」
「いない」
「じゃあゲイかよ」
「好きな女はいる」
「お、新しい切り替えし」
 姉ちゃんはにやにやこっちを見て、タバコを吸う。俺は答えないまま、また空を見た。もう一度くしゃみがでる。鼻をずるずる吸うと、やっぱり鼻の奥がつんとした。あ、そうだ、と姉ちゃんは大きくつぶやいて、タバコを口から離した。
「タバコ、吸ってみる?」
「俺、未成年」
「何事も経験でしょう」
 姉ちゃんはくわえていたタバコをこっちに差し出してくる。俺がもらうまで待つ気のようだったから仕方なく手を伸ばす。指で挟むときに姉ちゃんの指と触れた。眠くて温度が高いからか温かい指だった。遠くでクラクションの間延びした音と、ブレーキの音がはっきり聞こえるほど静かだった。俺はそっと、タバコをくわえた。吸って、吐く。予想していたほど苦しくなく、味も少し苦い程度だった。
「吸えるでしょ?軽いのだから。それに間接キスだね」
「馬鹿じゃねえの」
 少し笑うとその振動で、指先からぱらぱらと灰が落ちた。



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