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第1話 夫婦の普遍的会話

 何があったのか、夫が薔薇の花束を抱えて帰って来た。
「どうしたの?」
 と、妻は花束を見て訊いた。
「見りゃ分かるだろう、薔薇だよ」
 脱いだ靴下をバラバラに床の上に放りだしながら、夫が憮然としてそう言った。
「そんなこと訊いてんじゃないわよ」
 と妻のほうも素っ気なく、台所で夫の夜食の準備にとりかかる。「いったいどういう風の吹き回しなんでしょうね。何か後ろめたいことでもあるんじゃないの?」
 ニワトリのささみを手で裂きながら、彼女はそれとなく言った。
「後ろめたいって、どういう意味だ?」
 と、ダイニングテーブルの前に坐りながら、夫が聞き咎めた。
「浮気したとか、どこかに愛人を隠しているとか」
「そんなもん、いるかい!」
「あら、いないの? この頃の若い女って、モラルも倫理感も欠如してるから、ホテルのディナー程度で簡単に男と寝るって話じゃないの。あなたも甲斐性がないのね。それともケチなのかしら」
 と言って妻はくすりと笑った。
「近頃じゃ、女房が夫に浮気をすすめるのが、流行ってるのか?」
 と嫌味を言う夫。「花を買って来ても、礼の一言もあるじゃなし……」
「だって理由もなく花買って来られても、薄気味悪いだけよ」
「理由もなし?」
「何かあるの?」
「何かあるの、ときたもんだ」
 と、冷蔵庫の中を覗きに行って、夫はビールを一本取り出した。「普通ねえ、結婚記念日を忘れたと言って、女房からガミガミ言われるのは夫の方なんだぜ」
「結婚記念日って? 誰の?」
「隣の家のために、わざわざ花束買っちゃ帰らんよ」
「うちは来月よ。なに勘違いしてんの」
「来月? 来月の何日だ?」
「二十九日」
「勘違いはそっちだぞ。十月でもなければ二十九日でもない。あれはまだ暑い頃だったから九月だ。九月の八日だ。八は末広がりで縁起がいいと、おまえのお袋さんが喜んだじゃないか」
「全くもう、ボケちゃって。秋風が立ってたじゃないの。あれは十六年前の十月二十九日ですよ。絶対に間違いないわ」
「十六年前だと? そらみろ、やっぱりそうだ。ボケてんのはおまえのほうだ。十六年じゃない。十五年前だよ。区切りがいいから、薔薇の花でも買って帰って、おまえの喜ぶ顔でも見ようと思ったんじゃないか」
 夫はグラスに注いだビールの泡が、噴きこぼれそうになったので、慌てて半分ほど飲み干した。
「これだわ。自分の結婚記念日も忘れて、全然関係ない日に花束買って来て、喜べなんて言われても、はいそうですかなんて言えると思う?」
 妻は夫の前の席に腰をおろして、目分のグラスにもビールを注いだ。「ま、どうでもいいじゃないの。九月の八日でも十月二十九日でも。十五年目でも十六年目でも。たいした違いはないわよ。あなたが今日だっていうんなら、今日だということにしときましょうよ」
「おまえも素直じゃないねえ。だったら最初からそう認めればいいんだよ」
「別に認めたわけじゃないわ。絶対に十月二十九日だったと思ってるもの」
「もういいよ。おまえと話してると頭がおかしくなる。九月でも十月でもかまわん。とにかく乾杯して、この話は終わりだ」
 夫婦はたいして面白くもなさそうに、グラスの淵を軽く合わせた。
「子供たちのお誕生日を覚えるのがやっとだもの。結婚記念日がいつだったかなんて、いちいち覚えていられないわよ」
「まあな。俺なんぞ子供たちの誕生日なんて、その日に教えられてやっと思い出すくらいだ」
「それにしては、九月八日が結婚記念日だなんて、よく覚えていたわね。それもこの十六年間ずっと忘れていた人が」
「ふっと記憶が立ち戻ったのさ」
「何かの記憶違いってことがあるわね」
「え?」
「誰かの誕生日と混同してしまったとか」
「誕生日って誰の?」
 と、夫は眼を瞬いた。
「わたしに訊かないでよ」
「じゃ誰に訊くんだよ?」
「彼女に訊いたら?」
「彼女?」
「顔色、変わったわよ」
「バカ言え。そんなもん居る訳ないだろ。いないんだから、顔色だって変わる訳ない」
「だめよ。結婚十六年の古女房の目は誤魔化せない」
「十五年だ。サバ読むな」
「勘や当てずっぽうで言ってるわけじゃないのよ。統計的事実でものを言ってるの。今日び結婚十六年にして妻以外に女が一人もいない男なんていたら、アチラの方が機能しないか、ホモだわね。
あなただって、日本中の男たちがしているようなことをしているだけなのよ。あなただけが例外ってわけじゃないし。わたしだってホモの妻とか、機能しない男の妻とか、後ろ指さされたくないわ」
「し、しかしね、違うんだよ、やっぱり」
 と、夫は鼻の頭に汗を浮かべた。「九月八日じゃないんだよ。七月七日の七夕生まれなんだ」
 妻はグラスを音がするほど強く置いた。
「誰が!? ……引っ掛かったわね」


 ‐了‐


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