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頁の向こうに/圓眞美

 フローリングは窓越しの陽射しを受けて暖かい。お尻をつけて坐り込み、爪を切る。裸足の両足で開いた本を押さえ。足裏に乾いた紙の感触。指の形に沿って爪切りを動かしてゆくと、弓形に切られた爪がぽつんと頁のあいだに落ちる。一枚爪を切るたびわたしは頁をめくる。

 ふいに名前を呼ばれて顔を上げた。彼だ。爪を切っているの。ううん。本を読んでいるの。ううん。

 それきり彼は困った顔をして黙り込んだ。本当に訊いてほしいことを彼は訊かない。わたしもまた黙り込み、爪を切る作業を再開した。一枚切る、頁をめくる。切る、めくる。切る。めくる。切る。彼の視線はずっと、うなだれた頸筋に感じている。

 すべての爪を切り終えればわたしは本を閉じて彼の前に立つ。明日仕事に行く電車のなかで読んでみて。とても面白い本だから。わたしは猫撫で声で本を彼の胸に押しつける。あいだに挟まった爪が頁を貫き、ちくりと彼の胸をも貫く、そんな妄想を抱く。そう、それは本当に莫迦げた妄想だ。けれども確かに彼は、痛みを堪えて顔を顰めた。


青磁/立花腑楽

 闇の中で、微かな呼吸音が聞こえる。

 卓子の上の水差しが喘いでいた。

 すっくと立つシンメトリーの緊張感、そしてセラドンの禁欲的な色彩が、空間を静謐に切り取っている。

 しかし、よくよく見ると、すらりと柔らかい稜線を描く首筋が、妙に扇情的に感じる。釉薬の下の陰刻も、乙女の柔肌を走る血管のようで、ひどく生々しい。

 

 水差しが喘いでいた。

 瀟洒に括れた小さな水差口から、すぅっ、はぁ……、すぅ、はぁ……と、吐息が細く長く滴っている。それは重く、病的な臭気を孕んだ吐息だった。

 酷い胃病を患った人間の口臭に酷似している。過剰に分泌された消化液が、胃壁を爛れさせる臭いだ。

 

 幾星霜も身の内に抱えた虚無が変質し、どろりどろり、水差しの内面を侵食している。

 水差しは苦痛に身悶えすることもできず、ただ諾々と、饐えた病臭を吐き出し続けていた。

 

 すぅっ……はぁぁ……。

 不意に、呼吸音が深くなった。

 周囲の闇に、より一層、濃い病臭が混じったかと思うと、釉薬に濡れた水差しの表面が、ぬらり、輝きを増したような気がした。


渦/五十嵐彪太

「渦潮に飲み込まれたい」

 と、隣の女の子が言う。

 学校で瀬戸内海の渦潮の話を聞いた、その日の帰り道だった。そんなのダメだよ、死んでしまうよ、としか僕は言えなかった。

 けれども、隣の女の子は僕の声は聞こえなかったようで、渦潮渦潮と繰り返し呟いていた。

 次の日、隣の女の子は、自由帳にぐるぐると渦巻きばかり描いていた。

 さらに次の日、プールの時間に自由帳を大事そうに抱えていた。先生に、自由帳は置いていきなさいと言われても離さなかった。準備体操をしている最中に、隣の女の子は自由帳を抱いたままプールに飛び込んだ。プールの水ははぐるぐると渦を巻き、隣の女の子もぐるぐると渦に巻かれていた。凄い轟音。

 そのうち女の子は渦の中心に沈んでいき、プールは静かになった。プールの中に、隣の女の子はいなかった。

 準備体操が終わって、プールに入る。もう少しで、五十メートル泳げるようになるんだ。


独唱/白縫いさや

 鉄格子の不揃いに切り取られた鉄棒が鉄琴に似ていることに気付いたのは、空を自由自在に飛ぶ夢を見た日の朝だった。

 石室の冷たい床に素足で立つ。ほんの少し背を伸ばして窓の鉄格子を爪で弾くと、キン、と鈍い金属音がした。隣の鉄棒はさっき弾いたものより少し短く、同じく鳴らしてみると甲高い音がした。B♭だった。

 私は歌を歌える。

 背筋が凍えるような、それは確かで静かな興奮だった。潰れた声帯を私だけの楽器に再生させ、日がな一日私は私の歌を無人島の空一杯に響き渡らせる。


賑やかな食卓/圓眞美











 僕と彼女は二十フィートのテーブルを挟んで向かい合い、食事をする。













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