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1

「僕は……何度君の死に顔を見るんだろうね?」

男は、外の窓枠に片手をあずけ、部屋の中を見つめながら呟いた。

天井まである観音開きの窓はぴったりと閉じられ、不規則に歪みのある窓硝子には、ひし形や長方形にかたどられた重厚な木枠がはめ込まれている。紅殻色に染められた別珍のカーテンは、黄金色のタッセルに絞られ、たっぷりとしたドレープを作っていた。

窓の外は、上弦の月明かりだけが青白く光り、外気は冷涼感のある香料が漂ったように、ひんやりとしている。

男は変わらず、部屋の中をみつめていた。その瞳は翡翠色に怪しく光り、整った眉はすっきりと美しい。緩いウェーブの黒髪は、額にはらはらと揺れ、白いシャツの上にアルスター外套を袖だけ通し、ボタンの外された胸元からは、陶磁器のように青白い肌が覗いている。

 屋内の中心には赤みがかったマホガニーブラウンの天蓋付ベッド、脇には同素材のサイドテーブルがある。テーブルの上には、丸いガーゼ缶、机からはみ出すように置かれた、白いエナメルメッキ製の四角い容器。その中には、ガラス製の注射器と右側から薬品名の書かれた琥珀色の薬瓶、それに駆血用の黒い皮バンドが入っている。

サイドテーブルのすぐ上の壁には、水鳥が首をもたげたような形の真鍮のランプがはめ込まれ、チューリップ型をしたウランガラスの傘からは、淡い光が落ちていた。

 ベッドには年老いた女が横たわる、呼吸はしていない…。両目じりと口角の周りに深い皺が何本も刻まれてはいるが、若いころの美しさを、容易に思い浮かべることができる。

 その表情は、今にも優しく話しかけてくるのではないかと思うほど、穏やかで優しい。

 白衣を着た五十代の医師は、ベッドの脇に立ち、年老いた女の手を左手で持ち上げ、掌を上に向かせると、右の人差し指で手首の内側に触れた。

 足首まである綿の看護服を着た二十代の女は、医師の真後ろに立ち、肩口からその様子を窺っている。目には涙が溢れそうだった。

 医師の左隣には、光沢のあるチャコールの三つ揃えを着た五十代の男が立っている。男は、左半身をベッドのほうへ乗り出し、両目からあふれる涙を拭いもせずに、年老いた女と医師を交互に見つめていた。

 その男の左隣には四十代位の女、男の二の腕に右の掌を押し当て、あふれる涙をシルクのハンカチで受け止める。

ベッドの足元を回り込むように三歳から十歳位の洋装の子供達が5人、むこう側に四十代くらいの男女がふたり。部屋の入口近くには、使用人らしき男女5人が、ベッドに横たわる主人を見守っていた。

医師はほんの微かな律動さえ伝わらなくなったその手首から、人差し指を離した。手のひらを返しその腕を身体の脇にそっと納める。そして、首にかかった聴診器を、左手だけで押し広げて、両耳に掛けると、右手に持ったチェストピースを、女の胸元へ当てた。やはり…彼女はもう此処にはいなかった。

医師は背筋を伸ばし、もう一度そこに横たわる女を見つめると、微かな声とともに一息吐き、横で身を乗り出していた男に向かって、小さく首を横に振った。

それが合図であったかのように、ベッドの周りにいた全員が、せきを切ったように声をあげて泣いた。

入口付近にいた使用人たちも、寄木細工の床に崩れ落ち、床に押し当てた手の甲に自分の額を乗せ、むせび泣いた。

こういった光景を、何度も見てきているはずの医師の目にも、涙がにじんでいた。

それまでせき止められていた看護服の女の涙も一気に溢れだした。

屋外から部屋の中を見つめていた男は、頭上の桟に軽く指をかけ、虚ろな表情で呟いた。

「君はいつも…瞬く間に、僕の前から消えてしまう…」

 部屋の中では、時間とともに落ち着きを取り戻し始めたそれぞれが、お互いを励ましあい、これからの事をポツリポツリと語り始めた。

 別れの儀式の終わりを悟った医師は、目頭を押さえながら、ゆっくりとベッドを回り込み、部屋の窓へと向かった。 

 医師は、たった今解き放たれた魂を送りだすかのように、観音開きのノブを回すと、ほんの少しだけ窓を開けた。

 外にいた男は、壁を背にし、空を見上げながら懇願する…。

「僕を…思い出して…」


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最終更新日 : 2012-06-23 01:37:13

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息が…できない。

肺の奥からゴボゴボと粘り気のある液体が鼻や口へと逆流し、すべての気道を塞いでいく。逆流が収まると、わたしの鼻と口には、チューブが差し込まれ、その液体が吸い上げられていくのだ。何度も…何度も。

『もう…やめて』

液体が気道を塞ぎ切ったときに、完全に呼吸は止まってしまう…でも辛くはないのだ。すぐに心地よい闇が、私をつつみ込んでくれるから…。

自分のすべてをその闇に委ねる…もう何も考えなくていい。ただ無の世界へとわたしを導く、その誘惑の扉は…すぐそこにある。

わたしは、扉に手を伸ばす。

しかし…再び引き戻されてしまうのだ。いったい、何度繰り返すつもりなのだろう?

 恍惚と闇にとけ込もうとするわたしを、地獄へと引き戻す。

また始まった…わたしを守る膜が破られ、ざらついた不愉快な空気に晒される。

 いったい何度目だったろう。遂に…遂に止んだのだ、わたしを痛めつける拷問が。

 すると同時に、わたしの中の、あらゆる感覚が、一つずつ閉じてゆく…ゆっくりと。

気道を通るざらついた空気の感覚。ベタベタと身体にまとわりついていた液体の感覚。

目を閉じていてもなお、差し込んでくるギラギラとした光。刺激と血液が混ざりあう不快な臭気。あたりを取り巻くイラつくほどの緊張感、すべての感覚を閉じようとしたその時、わたしの感情を波立たせる、不可思議な気配を感じた。

 なんだろう…。

 わたしの、この死への欲望すらこじ開ける、この不可思議なオーラ。

恐怖?

愛情?

怒り?

憐れみ?

赦し?

そのすべて?

 わたしは好奇心に負け、うっすらと目蓋を開ける。

ぼんやりと人影が見えた。

滲んだ視界でもわかる。

美しい…。

おとこ?

おんな?

天使?

悪魔?

死神…そうだ。

美しい…死神だ。

性別など無い。

死神の虚ろな瞳は、わたしを注意深く見下ろしている。

自分の唇に、ひと差し指を押しあてたまま、何かを呟いているようだ。

 何かを迷っているのか…わたしを見下ろす瞳は、何度もきつく閉じられては見開かれた。決断しては迷う。死神はまるで、それを繰り返しているかのようだった。

「……」死神が何かを呟く。

何…? 何を言っているの?

わたしはしばらくの間、ぼんやりと死神を見つめ、何を言おうとしているのかを探った。

「……」聞こえない…死神の声に神経を集中する。

 だめだ…何を言っているのかは解らない、おそらくこの国の言葉でもない。

 何を考えあぐねているのだ。

死神ならば迷わず手を下せばいい。もともとそれが…わたしの望みなのだから。

なかなか決断を下さない死神に嫌気がさし、再び闇の中へ身を委ねようとしたその時、死神がわたしの唇に、自らの人差し指を押しあてた…微かに震える指の感触。

唇の隙間から、何かがじわじわと入り込む。

舌をつたい…喉の奥…肺の奥まで…したたり落ちてくる、この何か…。

きっと…わたしの望みは、叶えられたのだ。

わたしは再び目蓋を閉じ…『死』と言う名の救いを待つ。

しばらくすると、漂っていた不可思議なオーラが消えた。

死神が去ったのだ…役割をはたして…。  

入れ代りに辺りを埋め尽くしたのは…あのイラつくほどの緊張感。同時に襲ってきたのは、これまでで最悪の…あのチューブの拷問だった。

あの死神は何をしたの? わたしを『死』へと導いてくれたのではなかったの? 

苦しい…あの不愉快な空気の感触が喉を引っ掻き回す。 

ようやく、長い拷問が終わった…いや、始まったのか?

 なぜならそれは…わたしをあの心地よい闇から引きずり出し、そしてもう…それを味わわせてはくれないのだから。わたしにとって、それは拷問と同じことだ。

 わたしは絶望の中、ゆっくりと覚醒した…人間としての生を受ける為に。

笑顔に涙をためて、私を見つめるこの人は…父親だ。そして、驚きの表情で感心しきりの老人は、病院の婦人科医だ。

 父親は、私を抱き上げると部屋を出た。月明かりに照らされた廊下を、小走りで突き当りまで行くと、一枚の引き戸を開けた。

「生き返ったんだよ! もう大丈夫!」

 わたしを抱いた腕を傾け、ベッドに横たわる母親と、傍にいた姉にそっと見せた。

「何なの? この…この瞳の色は!」

生まれたばかりのわたしの瞳は、こげ茶と濡れ羽色のような緑の…オッドアイだった。

驚愕する母親に、父親がしきりに何かを説明している。みかんほどの小さな顔は、チアノーゼが薄れてきてはいるものの、薄紫色に澱んでいる。小さな顔には通常サイズのパーツがはめ込まれ、色の違う左右の瞳。まるで…禍々しい生き物のようだったろう。

姉の葉子は、口をオーの形にし、眉屋根を寄せ、目を見開いたまま何も言えずに立ち尽くす。まるでアニメでみた恐ろしい妖怪を、実際に目撃したかのようだった。

 母親は、なぜ生かした? と言わんばかりに、大きく目を見開いたままだ。

 そうなのだ、わたしを生かしたのは父なのだ。

わたしは、生まれて一~二時間以内に、おそらく死んでしまうだろうと、医師に告げられた。それでも何か策はないのかと、食い下がる父に医師は言った。  

肺に充満し、酸素を遮断している、血液と羊水を、根気強く、少しずつ除去すれば、あるいは可能性があるかもしれない、それでもその可能性は一桁だと。

 父は医師に言われた処置を四十時間以上続けた。血の混ざった羊水を少しずつ…少しずつ。  

永遠に続くかと思われたその苦行に耐えられず、父は数分気を失ってしまったのだ。

そして、わたしが大量に羊水を吐き出す音で目を覚まし、一気にあふれ出たそれを、一心不乱に取り除いたのだ。わたしの肺が、自らの力で、空気を取り込めるようになるまで…。

 だが、その後の医師の診断も心休まるものではなかった。長時間まともに酸素が送られていない脳には、おそらく障害が出るであろう。手足もまともに機能しない可能性がある。先行きは極めて絶望的だと。

 母親は半狂乱になった。もともと差別的な考えを持つこの人にとって、そういう人間は、自分の子供に、相応しいとは言えないからだ。

 母親は、何とか子供を処置できないかと、しきりに医師を説得し始めた。  

しかし医師は言った。数時間前ならばそれも出来たかもしれない…しかし、今こうして呼吸を始め、生きようとするこの子に、わたしができることは、生きる手助けをすることだけだと、母親の頼みを頑としてはねつけた。 

 母親は望まない子供の誕生と、叶えられない望みと、これから始まるであろう世間からの好奇の目、自分に降りかかった不幸を呪い、病室の天井を睨み付けたまま動かなくなった。

 そんな母親を覗き込み、姉はやっと言葉を絞り出して言った。

「こんな子…ママが可哀そう…」

 そんな母親たちの態度などものともせず、父はわたしの顔を覗き込む。

この世の何よりも愛おしいという…愛情あふれた笑顔で。

これがわたしという人間の…最初の記憶だ。


2
最終更新日 : 2012-06-23 01:39:48

3

それは、その年の桜が散り終わった頃の事だった。

いつものように、家のそばの公園で、幼稚園からのバスを待つ母親がいた。

「おかえり」母親はわたしに一瞥して言った「どうもありがとうございます」母親がバスに添乗していた先生に挨拶をすると、バスは次の待合場所へ向かって走って行った。

「ルナ、悪いけど帰ったら留守番していてくれない?」母親は家へ帰る道すがら、わたしにそう言った。

「うん」わたしは、両腕を胸の前で組み、スタスタと歩く母に、小走りで付いて行く。

 家に帰ると、母親は早速出かける準備に取り掛かった。わたしは、カバンと制服をポールハンガーに掛けてから、手を洗い、キッチンに用意されていたバームクーヘンをつまんだ。

「五時になれば、葉子がピアノ教室から帰って来るから。それまでは誰が来ても絶対に玄関は開けないでね」わたしが冷蔵庫から牛乳を出していると、後ろから母親が言った。淡いグリーンでさらさらとした生地のワンピースを着て白いハンドバックを持っていた。

「わかった」わたしはコップに牛乳を注ぐと、またテーブルに着いて残りのおやつを食べ始めた。

「それじゃあ、私は六時までには帰るから。家から出たり、火を使ったりしないで頂戴」母親は、事務的にわたしに注意事項を言い渡すと、玄関へ向かった。

「いってらっしゃい」わたしは首だけ振り向いて母親の背中に向けて言った。

 わたしはおやつを食べ終わると、二階の自分の部屋に行き、このあいだ買ってもらった、続き物の絵本を読みだした。読み進めていくと、前の巻で登場した、はちみつ嫌いのクマの話が出て来た。わたしは前の巻が気になりだし、納戸にある本棚の中を探し始めた。目に着くところを探してみたが、本はなかなか見つからなかった。わたしは本棚から数歩下がって上を見上げた、すると最上段に目当ての絵本を見つけた。わたしは姉の勉強机から椅子を持ち出して、本棚の前に置くと、それを踏み台にして絵本に手を伸ばした。絵本を引っ張り出そうとするが、なかなか絵本がスライドしてこない。よく見ると、絵本の上に包装紙にくるまれた箱が乗っていた。手に届くギリギリの高さにそれはあり、わたしは指先だけでその箱をずらして絵本を取ろうと、つま先立ちになりながら手を伸ばし、暫くその箱と格闘していた。

 すると突然、わたしの指の上をかすめて箱が落ちてきた。わたしは思わず自分の頭を抱えその箱を避ける。『ガチャン』と床の上で何かが割れたような音がした。

 わたしは恐るおそる椅子から降りて、箱を持ち上げる。中からはガラガラと破片が移動する音が聞こえてきた。

 どうしよう。箱には赤いリボンが掛けられていた。これはきっと姉のバースデープレゼントだ。そして姉の誕生日は明日…。わたしが恐怖に青ざめていると、玄関の開く音が聞こえた。

 姉が帰ってきたのか? いや、まだ五時まで二時間以上あるはず。わたしは音のする玄関へ向かった。そこには仕事を早く終えて帰ってきた父が立っていた。わたしは箱を抱えたまま、わんわんとと泣きじゃくった。父はわけが解らず、わたしの抱える箱をその手に取った。また箱の中の破片がガラガラと移動した。父は何が起きたのかすぐに察したようだ。

「お母さんはどうした?」父はわたしを優しく抱いて、ポンポンと背中をたたきながら言った。

「お出…かけした。六時に…帰るって。お姉ちゃんはピアノ」わたしは泣きながら答える。

「よし! お姉ちゃんが帰って来るまでに、新しいのを買いに行こう」父はわたしの顔を覗き込むと、両の親指でわたしの涙を拭った。「大丈夫。新しいのを買って秘密にしておけばいい」

 わたしは父と二人、包装紙を頼りに駅傍にあるデパートへ向かった。デパートの案内係に箱の中の破片を見せると、陶磁器で出来たフランス人形のようだと言う。売り場の係を呼んで中を見てもらい、同じものを用意して貰う事が出来た。

 わたしと父は、同じ包装紙に同じリボン、中身の壊れていない箱を手に入れた。

「お父さんは切符を買ってくるからここで待っていなさい」コンコースの中にある喫茶店で、プリンアラモードに夢中になっているわたしに、父が言った。

「うん」わたしは、添えてあったメロンを口に頬張りながら返事をした。

 わたしがプリンを突きながら外を眺めていると、母親が歩いてくるのが見えた…書道教室の先生と一緒だ。そうか…教室の用事があったのだ。わたしは母親をずっと目で追っていたが、二人は、駅に隣接するビルの中へ入ると、エレベーターの中へ消えてしまった。

 わたしは切符を手に戻ってきた父に、今あったことを話した。

「お母さんが? あの建物の中に入って行ったのか?」父は信じられないと言う顔で聞いた。

「うん、エレベーターに乗って行っちゃった」わたしは見たままを話した。

「見間違えたんじゃないのか?」わたしは、父に疑われているようで何だか悔しかった。

「お母さんだよ。行くときに着ていた薄緑のお洋服と白いバックだったもん。それに習字の先生だって、何回もあったことがあるから、間違えないよ」わたしは自信を持って答えた。

 その次の日、姉の書道教室が禁止になった。

姉は、泣いて抗議した、それもその筈だ。姉の書いた作品が賞を取り、ほかの受賞者の作品とともに教室のギャラリーに飾られ、次の日曜日には、ちょっとした受賞パーティーが開かれることになっていたからだ。

 母親は、わたしが父に何かを告げ口し、それを父が勘違いして、書道教室が禁止になったのだと言った。姉は、またしても疫病神に邪魔をされたとわたしを罵った。父のいる前で…。

 父は妹への暴言を叱り、直ぐに書道教室から道具を引き払って来るよう姉に言った。姉はどうしても母親に付き添ってほしいと懇願したが、聞き入れられなかった。その代り、わたしを一緒に連れて行くよう言われ、渋々わたしを連れだって、隣町の書道教室まで行ったのだ。

 書道教室の先生は、きれいに表装された姉の作品を渡しながら言った。才能があるのに残念だと。パーティーでお披露目するはずだった着物が見られなくて残念だ…とも。

 先生にさよならを言ったあと、姉は表装され綺麗に丸められた自分の作品を見つめながら、口をへの字に曲げて、つかつかと大股で歩いて行った。わたしは走ってついて行く。

「待って」わたしは、姉に向かって声をかける。

姉は振り返ってわたしを見ると、競歩選手のように肩を揺らしながら、急ぎ足になって、わたしと距離をとった。隣町からの帰り道が分からないわたしは、怖くなって必死に姉を追いかけて走った。

「お姉ちゃん!」大声で叫ぶ。

姉は振り返ってわたしを見ると、さらスピードを上げて走り出し、大通りを突っ切ろうとしたその時。

轟音と共に直進してきたトラックは、姉を、布人形のように、宙へ舞いあげた…。

姉の十歳の誕生日は、姉の命日になったのだ。


3
最終更新日 : 2012-06-23 01:41:19

4

母親は、葬儀にも出られない状態でしばらく入院していた。鎮静剤によって、なんとか人としての形を保っているようだった。一週間後退院してきた母親は、わたしを見るなり言った。

「お前が死ねばよかったのに!」

 父は、何という事を言うのか! と叱りつけたが、母親は、なぜ叱られるのか解らないといった顔付きだった。

「お前の命と引き換えに、葉子が連れていかれたのよ! お前は死ぬ運命だったのに…そうよ。この人が悪魔と取引したのよ!」母親はわたしのあごをつかみながら言った。「お前のこの目…これは悪魔の仕業だったのよ!」そう言い終わると父を睨み付けた。

「ルナ…お母さんは今病気なんだよ、本気にしたらダメだ」そう言うと父は、錯乱状態の母親を部屋へ連れて行った。 

 母親は、一日の大半を自室で過ごした。何をするわけでもなく、ただじっと宙を見つめているだけだった。時折部屋から出てきた母親が、わたしを見ると必ずこう言った。「葉子を返せ! この悪魔!」もちろん家事などできるわけもなく、小さかったわたしを、親類に預けたほうが良いのでは? という話もあったのだが、わたしも父も、二人で出来るだけ頑張ろうと決めた。

 母親が退院してから半年ほどたった頃だろうか、話があるからと、父がわたしの部屋にやって来た。

「ルナ。お母さんの為に、お姉ちゃんと同じ学校に行ってみないか?」

「え?」わたしは正直、父の提案に面食らっていた。

「良くも悪くもお姉ちゃんは、お母さんの生き甲斐だった。お姉ちゃんが死んでしまった今、お前がお母さんの生き甲斐になってあげる事は出来ないかな? このままでは、お母さんの病気も治らない気がするんだ…もちろん、お前が嫌だと言うならば、無理は言わない」

 父の言っていることはわかった…。

ただ…わたしが、姉の代わりに成りえるのかが、疑問だった。

「お父さん。お父さんは、お母さんのことが好き? お母さんに元気になってもらいたい?」

「もちろん、大好きだよ。だから心配なんだよ」

「そう…」

「お前は…お母さんのこと…」

「ううん。お父さんがお母さんのことを好きなら、わたしも…。いいよ、頑張ってみる」

 父が母親のことで苦しんでいるのならば、わたしに選択肢は無い。父のために母親に希望を与える努力をしよう、その時…そう決意した。 

 母親が通常の生活を送れるようになるまでは二年を要した。

きっかけはやはり…わたしが、姉と同じ私立小学校の受験をパスしたことからだった。母親に僅かでも希望を与えられるのではないか…という父の考えは、正しかったようだ。嫌ならばやめてもいい、と父は言ったが、母親の幸福と父の幸福がイコールであるならば、わたしの幸福もイコールで繋がれる…当然異論はない。

それまでのわたしは、母親にとって、ただの空気でしかなかった。いや…空気ならば、まだ必要とされる。わたしは、彼女にまったく必要とされていなかったのだから、空気にすら劣っていただろう。しかし、父の言うように、姉の人生をトレースしはじめると、母親はわたしに興味を持ち始めた。その頃からは、母親の言い付け通り、左目に黒色のコンタクトレンズを入れるようにもした。その後は、バレエに、ピアノ、茶道、剣道、絵画教室に通わされ、どれもそこそこにこなし、姉のように賞も取った。

教師や同級生の親にも好かれたし、近所の知り合い、親戚の集まりなどでも、褒められることが多くなった…わたしは、そうする為の術を生み出していたのだ。

初めに相手が自分に求める物を、見つけ出し、それを絶え間なく与え続ける。あとは何もせずとも、偽薬効果が続いて行く…自分も他人も傷を負わない為の、ある種の防衛本能だ…。

そしてこの虚構の中で、母親は徐々に息を吹き返していった。わたしは、母親の望むままに、良家の子女が通うような学校を、エスカレーター式に卒業し、大手企業に就職する。しかし、就職内定までが、母親がわたしに期待をかけるピークだった。大学を卒業すると、そこから母親のわたしへの興味は、徐々に失われていった。

 

 母親から解放されたわたしは、父と過ごすことが多くなっていた。休みの度に一緒に旅行にでかけ、お互いの誕生日には旅行をプレゼントし合った。結局父とわたしで行くのだから、違いは費用をどちらが出すか…と言う事だけなのだが。

 わたしが二十五歳の誕生日の時、父は北海道旅行をプレゼントしてくれた。往復寝台車で行くと言うものだった。わたし達は車で一週間をかけて、ぐるりと北海道を一周した。雪道は二人とも不慣れで、おっかなびっくりの旅行はとても楽しかった。帰りの寝台車のレストランでは、お祝いのディナーもついていた。 

「誕生日おめでとう」父はワイングラスを傾けながらわたしに言った。

「ありがとう…いいの? こんな大奮発して、お母さんに叱られない?」

「いいんだよ。ルナだってそろそろ結婚する年だろう? そうなったら頼んだってお父さんと旅行なんてしてくれなくなるんだから…いまのうちだ」

「勝手に決めつけないでくれる? それに…何より相手がいないわ」わたしは、ごくりとワインを煽った。

「ルナ…お父さんはとっくに覚悟しているから、本当の事を言っても大丈夫だぞ」父は、バツの悪そうな顔をこちらに向けながら言った。

「じゃあ言うわ…とりあえず今日まで、付き合った男の人は一人もいないわ」わたしは、さらにワインを煽りグラスを空にした。父は呆気に取られている。

「まさか…そりゃあお前は、習い事や勉強でいろいろ忙しかったかもしれないが、社会人になってもう四年だろう? そろそろ何かあっても…」父は不安そうな顔で、わたしのグラスにワインを注いでくれた。

「何かって…考えてもみてよ、わたし毎日ほぼ定時で家に帰ってきているでしょう。それに休みごとに、父さんとどこかに出かけているのよ。どこで彼氏を作るの?」

「いままで食事に誘われたり、休みの日に誘われたりした事は無かったのか?」父はまるで、哀れな女に気付かうように、遠回しにこれまでのわたしの男関係を探って来た。

「会社に入って最初の頃はよく誘われたけど…そのうち誰も誘わなくなった」

「なぜ?」

「その度ごとに全部断ったから」

「どうして?」

「興味ないからよ…煩わしいし」

「煩わしいってまさかお前、女が好き…とかじゃあ?」

「やっ! やめてよ! そんなわけないでしょう?」思わずワインがこぼれそうになった。

「だったら何で…」父はすがるような目をわたしに向けた。

「変に取らないでね…わたしもう疲れちゃったのよ。人に合わせたり、気を遣ったり、相手が何を考えているのか? 何が好きで、何に傷つくのか…。人付き合いには必ず付いて回る事でしょう。そう考えると、一人の方がずっと楽なの。父さんといる方がずっと楽しいし」

「うーん。父親としては喜ぶべきなんだろうけど。お前をそんな風に疲れされたのは…きっと父さんのせいだな」やっぱり…父の瞳はみるみる後悔の色に染まっていった。

「もうっ! だから変に取らないでって言ったのに…コレがわたしの本性なのよ。やっと自分の好きにやれるようになったんだから、放っておいてくれればそれでいいの」

「だったら…お前の好きにしなさい。父さんは孫の顔が見たいとか…そう言うわがままは言わないから」父は努めて優しい表情を作って言ったが、落胆の影は、はっきりと見て取れた。

「それ…言っているのと同じよ」わたしは二杯目のワインを一気に空けた。

 それでも父は、理解してくれたようだ。それ以来そういう話題が出たことは無かったからだ。


4
最終更新日 : 2012-06-23 01:42:22

5

そんな…わたしの唯一の理解者であった父は、いま病院のベッドの上で、眠っている。

父はこの夏、スキルス胃癌と診断されたのだ。診断を受けてからまだ二カ月だが、残された時間はあと僅かしかない…。

しかし父は、晴々とした気持ちで、この闘病生活を送っている。会社を売却したお金と、自分の生命保険金で、わたしたちが暮らしていくのに、充分なお金を残して逝けるからだ。今の自分にこれ以上良い死に方はないと思っているらしい。

『いいか、経済的な不安もない。看病の為に、長いことお前たちに迷惑をかけることもない。死ぬ前に別れを言うことも出来るし、その為の準備もできる。こんな良い死に方は、他に無いぞ』そう言ってわたし達を元気付けた。

 一週間ほど前から、父の一日のほとんどは、鎮痛剤による眠りが占めるようになっていた。緩和病棟の担当医は、残された時間は三日あるか無いかだと言う。こんなに気持ちよさそうに眠っているのに…。

わたしは緩和病棟の個室に置かれたソファに、ゆったりと座り、穏やかに眠る父を見つめていた。少し開けた窓から、金木犀の香りが漂っている。そろそろ熱冷ましのタオルを取り替えようか…。ゆっくりと立ち上がり、父の額にのせてあったタオルを取り、額から髪をすくように撫でた。やはりタオルは暖かくなってしまっていた。わたしは個室に備え付けられた洗面室でタオルを冷やそうと、扉を開けようとした…その時、それまで浅い呼吸で静かに眠っていた父が、ヒューっと大きく息をついた。

振り返ると父は、荒い呼吸で大きく目を見開き、何処とも無く、あたりを見回していた。

「父さん、どうしたの?」わたしは父の顔を覗き込む。目が…見えていない?

「すいません、先生を!」わたしはナースコールのボタンを乱暴に押しながら言った。『わかりました』すぐに緊張感のある声が返ってきた。

「父さん!」わたしはもう一度呼んだ。

 ゆっくりと声のする方に、顔を傾けた父は、安心したように微笑む。

パタパタとドクターシューズの音が聞こえると、すぐに病室のドアが開いた。「どうしました?」担当医は看護師二人とともに駆けつけ、ベッドの脇へ陣取った。

「目が…」わたしは父の顔を覗き込みながら言った。医師は持っていたペンライトを、父の眼球にスッとあてると、コクリと頷いて、わたしを見て言った。

「お母様は?」

「今は…まだ家にいると思います。」

「急いで連絡してください。」

「わかりました」

 わたしはバックから携帯を出し、母親の携帯ナンバーを探した。

「もしもし、母さん? 父さんが…」

『えっ? 待って、待ってて!』すぐに携帯が切れた。わたしは父のもとへ戻る。

「父さん! 今母さんが来るよ。頑張って!」

「…った。」

「何?」

「よかった。」

「何が?」

「あの時…お前を救えてよかった。」

 わたしは膝間付き、父の手をきつく握った。握り返す握力はもう父には残っていない。

まるで…水の中にいるようだった。

視界がぼやけて何も見えない。

声も…出せない。

あの時。

父はどうやって、死神からわたしを護ったのだろうか?

わたしが生まれたあの日、病院にいた死神は、今またここに居るのだろうか?

ならば、父を護る術を教えてほしい。どんな取引に応じてもいい。命がほしいのならば、それと引き替えてもいい…。

父の呼吸が再び浅くなってきたのに気づき、わたしは医師を見た。目が合うと、医師は首を横に振った。

もう一度父を、覗き込んでみた。父の目はただ空をさまよっている。さらに呼吸が弱くなってきた。

医師が脈を取り始める。

待って、まって…。

父さんが死んでしまったら、わたしを愛してくれる人は、わたしを護ってくれる人は、この世の中には、もう誰もいなくなってしまう。お願い…父さん、わたしを置いて逝かないで。

わたしは心の中で絶叫していた…あの死神への懇願だった。

お願いです! 父さんを…連れて行かないで!

数分後…途切れ途切れになっていた…父の呼吸が止まった。

医師は、左のポケットからペンライトを取り上げると、もう一度父の眼球を照らす。

「十四時三十六分です。残念です」頭上から、父の死を告げる医師の声が聞こえる。

母親が駆け込んできた。

何か叫びながらわたしを押しのける。

わたしは,よろける様に立ちあがると、自分の両腕を擁きながら、すでに亡骸になった父をいつまでも見つめた。

母親が泣き叫ぶ。

看護師たちはその光景に涙する。

わたしは…妙に冷めていた。

父はもう、此処にはいないのだと、不思議なくらいハッキリとわかる。

涙の乾いた瞳に映っているのは、まるで芝居の一場面だ…そして父にも、わたしにも、もう語るべきセリフは残されていない…舞台袖から芝居が終わるのを待つだけだ。

わたしは、なんだか息苦しくなり、ゆっくりと部屋の窓に向かい、扉を全開にした。病室の中は、絶頂を迎えた金木犀の香りでむせ返った。


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最終更新日 : 2012-06-23 01:43:34


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