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 数日後、千佳子から電話がかかってきて、家に行ってもいいかというので、本当はサークルに行くはずだったのをキャンセルして私は並んだマニキュアを眺めながら、彼女が来るのを待っていた。声が、震えていた。泣いているに違いない。彼のことで泣いているに違いない。
 東海林さんを見たのは一度だけ。一度だけ、彼と千佳子が待ち合わせをするコンビニについていったことがある。その頃はまだ、千佳子は東海林さんの話を自分からしてくれることもあった。
 二人ならんで雑誌を立ち読みして、数十分すると不意に目の前のガラスを指先でつつく音がしてはっと顔をあげると、夜の中に浮き上がるように男の人がいた。私は千佳子について外に出る。
「友達の、ひいちゃん。で、東海林さんです」
「こんばんは。いつもひいちゃんの話はチカから聞いてるよ」
 紺色のジャケットに白地に灰色のストライプシャツを来た東海林さんは普通のサラリーマンという感じで、可もなく不可もなくという印象だった。予想していたよりも年上に見え、コンビニの明るすぎる光の中で東海林さんもその隣に立つ千佳子も、顔色は悪く見えた。
「それじゃ、僕たち行くね。これからもチカと仲良くしてやってよ」
「やめてよ」
 千佳子は恥ずかしげに東海林さんに触れ、はにかみながら彼についていって車に乗っていった。遠慮気味に手を振る彼女を私は見送り、しばらくして胸が痛いような、苦しいようなたぶんもっと激しい嫌悪感みたいなものが、自分の中で渦巻いていることに気づいて泣きたくなった。勝ち誇ったように見えた東海林さんと、それを嬉しげに諌める千佳子と無様に取り残されたような私。自分が馬鹿でなんの根拠もない醜い考え方をしていることは分かっていたけれど、それに打ち勝てないほどの嫌悪感だった。
 その後に、東海林さんは奥さんと子どもがいて、千佳子との付き合いは不倫だということを知った。何度も別れろと言ったけど、千佳子は何も答えないようになってそして、私たちにとってそのことはタブーになった。

「ひいちゃん」
 ベルを押すこともなく、彼女は私の名前を呼びながら部屋に飛び込んできた。目は赤く充血していて、鼻の頭もほんのり赤い。たぶんそれは、寒さのせいだけじゃないだろう。ずるずる鼻をすする千佳子は黙ったままで、気まずくて上手く声がかけられない。東海林さん関係だとわかっているからこそ、何も言えないのだ。
「爪、見せて」
 一目散に向ったドレッサーから除光液とマニキュアをもってきた千佳子は、電気のついていない台所のテーブルにそれらを並べてイスに座る。私はコーヒーを入れたカップを置きながら向かい側に座った。リビングからの灯りが逆光になって、千佳子の表情はまったく読めなかった。
「はがれかけてるでしょ、もうすぐ」
「うん、だけど――」
「見せて」
 強い口調だった。こんなにも張り詰めた顔をする子だったろうか。相変わらず、ずるずる鼻をすするのでティッシュの箱を差し出してみたけれど使う気配もなく、千佳子は黙ってコットンに除光液を含ませると私の指先からマニキュアを拭い取っていく。静かだ。変にうす暗い部屋の中で、千佳子は私の爪に顔を近づけているから手元はもっと暗い。
 何を言うべきか、いくら逡巡してももっと気まずくなってしまうような言葉しか思いつかない。私は千佳子が好きで、力になりたいのに言えばもっと彼女を傷つける。千佳子の求める言葉は、一体なんだろう。私はどうしたら、彼女に必要としてもらえるんだろう。
 十本の爪はすっかりすっぴんになって、彼女は真っ赤なマニキュアの瓶を手に取った。以前それを塗ったことがあったのだけど、あまりにもけばけばしかったのでつけてみて二人で笑ってやめてしまったものだった。
「ねえ」
 瓶を開けると、シンナーを薄めたみたいな匂いが漂う。そんな近くで嗅いで大丈夫なのかと思うほど、千佳子は下を向いてハケを入念にならしている。赤いマニキュアはここから見るとどす黒く見えて、なんだか薄気味悪い。彼女はそのまま続ける。
「私、どうしたらいいと思う?私が悪いのもわかってるの。でも、すごく、どうしようもなく会いたいときがある。声が聞きたいときがあるの。でもそんなわがまま聞きたくないって言われて、私だって言いたくなくて」
 千佳子はそこまで言うとまた鼻をすすりながら、私の右手の親指から赤いマニキュアで染めていく。ひと塗り、ふた塗り、すっぴんだった爪は綺麗に真っ赤になっていく。厚塗りだな、と思う。匂いで少し頭がじんとする。
「……なんで」
 口を開くと、千佳子の指がぴくりと止まってまた動き始めた。彼女が私の言葉なんか待っていないことはよくわかっていたけれど、言葉が咽喉につまって窒息死するぐらいなら、と思ったのだ。人差し指、中指、薬指。真っ赤になって、毒々しい色になった私の爪は、悪い魔法にでもかかったみたいな色になる。毒リンゴを売りつけそうな魔女の色。
「なんで別れないの?」
 完全に千佳子の指は止まった。そして次の瞬間、指に冷たさを感じ、とそれが彼女の涙だと気づいた。何も言わない。舌先にわずかな痺れを感じながら、私は言葉を口にする。わかっている。こんなことを言ったところでどうにもならないことも、彼女が本当は頑固だということや人の意見を取り入れられないこと、殊に自分が正しいと思っていることやのめりこんでいるものについては何も聞けないことぐらい。
 なのに言わずにはいられないのだ。涙が見たくないだけ。誰かのために涙を流す千佳子を、見たくないだけ。結局それは自分のため。気持だけがからまわる。
「そんなの、わかってるでしょ千佳子は。不倫じゃん。不倫だよ?相手には奥さんも子どももいるんじゃん、わかってんじゃん。結局遊ばれてるだけなのに。わかってんでしょ?それなのに、いいようにいわれて付き合って我慢して、意味わかんない」
「ひいちゃんにはわかんないよ、わかるわけないじゃん」
「そうだよ、わかるわけないじゃん、だって本当にわかんないもん。何が楽しいの?」
「言って良いことと悪いことがあるし、ひいちゃんに何か言ってほしくてここに来たわけじゃない!」
「じゃあこなきゃいいじゃんか!」
 ばしん、とテーブルを叩くと除光液のボトルも、マニキュアの瓶も、コーヒーの入っていたマグカップもがしゃん、と一斉に音を立てた。除光液のボトルはごろごろ転がって床に落ちてしまった。リビングに向いている私の顔はきっと千佳子に丸見えだけど、逆光になっている千佳子の泣き顔は私には見えない。不公平だ。
 千佳子が大きく鼻をすすった。
「……怒鳴んないでよぉ……好きだもん、しょうがないじゃん、好きだもん」
 う、と千佳子は泣きだした。マニキュアの瓶も倒れる。ごとん、と意外にも重々しい音がした。泣きたいのはこっちだ、と思っているとみるみる涙が目に溜まってきて、こらえればこらえるほど鼻がつんとしてまた涙を呼び寄せる。ばか、と声に出さないで言った。自分にか、千佳子にか、よくわからない。こんなにも気持は伝わらない。何一つ。
 千佳子はその場に伏せてしまい、私の指は中途半端に染まったままだった。マニキュアの瓶を手にとって、左手でハケを持ち右手の小指に塗ってみる。けれど、涙があふれているからかそもそも不器用だからか、小指の爪からマニキュアははみ出してただのペンの落書きのようになってしまった。もう一度バカ、と小さくつぶやいた。相変わらず、千佳子は泣いている。

 

END


この本の内容は以上です。


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