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「爪が大きいし指が長いからマニキュア似合うよね、やっぱ。千佳子にやってもらったん?」
「うん」
 亜美は中にまだ物がはいっているのに、大口をあけて笑う。下品でしょ、とたしなめてみてもやっぱり効果がない。それよりも、笑われたことが気になる。
「何よ」
「何でもないよ。仲良いなあって思っただけやん」
 そう言って、彼女は含み笑いをする。私はそれが嫌いだ。何、ともう一度聞いてみても亜美は答えないで箸を豚しゃぶに伸ばした。なんでこの寒い時期に豚しゃぶサラダなんかメニューにあるのか、彼女がそれを食べているのか私にはちょっとわからなかった。亜美は大きな口をあけて豚しゃぶとレタスを頬張っている。ドレッシングが口の横についていたので指で自分の口元をさすと、彼女は舌を出して口のまわりをぐるりと舐めた。リップと唾液で濡れた唇が変にぎらぎらと光って見える。
「ひいちゃんは、男よりよっぽど千佳子が好きなんね」
「何それ?」
「だってそうやろ?」
「亜美だって千佳子とは友達でしょ。授業一緒だったりすれば話したりとかするし」
 私は自分のうどんをつるりと吸いあげた。少し冷めてしまって粉っぽいうどんは咽喉を通るときに重々しさを残す。もう食べたくないな、と思って箸をおくと亜美はもういいの?と怪訝な顔した。いらない、と小さく言う。
「そういうんちゃうやん。あんたと千佳子って。ひいちゃんも彼氏つくりなあ」
「だからなんで?」
 自分でも語気が強くなっているのがわかった。亜美の表情も多少険しい。私たちはいたって冷静にやりとりをしているけれど、言葉の裏にはお互いに対する歯がゆさとわずかな嫌悪感と優越感みたいなものが入り混じっていた。何を言ったら負けになるのか、何を言ったら勝ちになるのか、それ以上にもっと感覚的ででも絶対的な、何かを私たちは探ろうとしていた。
「ひいちゃんはいつも千佳子の話になるとむきになる」
「そんなことない」
「そんなことあるよ。今もそうやん……結局千佳子は、都合ええもん。あたしそんな好きちゃうし、あの子のこと。別に興味ないけど」
 亜美は本当にそうらしく、最後の一口を口に放り込んでイスの背もたれにぐだっともたれかかった。目を細めて指先にあるらしいささくれを見つめている。私はうどんの丼を少し端に避けて、頬杖をついた。もうお互い、言うことがない――何も話したくないことのサインを送りあっている。けれど私は腑に落ちない。
「……ねえ、彼氏ってそんなに大事?作れ作れっていうけどさあ」
 もう話さないと思っていた私がそう続けたのが意外だったらしく、亜美はすっと目線だけを私に向けた。少し背もたれから上体を起こして、今度は肘をテーブルについてから指先をいじっている。
 私にだってもちろん彼氏がいたときもあった。高校生のときだって、大学生になってからも。それでも、男性といるのは気を遣うし息苦しくもあった。こうして亜美と御飯を食べたり、千佳子にマニキュアを塗ってもらいながらくだらない話をしているほうが楽だ。決して同性愛者ではないけれど、無理に彼氏を作ろうなんて気にはならない。だからだろうか。私が亜美や千佳子に対して感じるもどかしさとか距離感みたいなものは、彼氏がいないところからきているのか。亜美はうーん、と目線をくるくる動かしてから口を開いた。
「……人それぞれなんじゃないの。あたしは友達も彼氏もどっちも大切……だけど、ひいちゃんはどっちかっていうと友達派なわけやん、けど千佳子みたいなんとか……女の子の大半って彼氏とるやろ、つーか千佳子はさ都合よすぎやろ?好かんわ」
「何がそんなに嫌なの?」
 彷徨っていた彼女の視線が私に止まる。
「逆に千佳子の何がええの?わからん、ぜんぜんわからん。だってひいちゃん、あたしからしたらいいように使われてるだけやで。なんでわからんの?」
「そんなことない」
 亜美がわずかに身を乗り出してくる。眉間によったしわが、彼女の整った肌を醜く見せていた。
「千佳子、学科でも評判悪いねんで。彼氏との用事あるとすっぽかすやろ。ひいちゃんも前言ってたやんか。別にええねん、彼氏いるんは。けど、それで約束すっぽかすとか、友達いなくなるし、彼氏との用事のつなぎでしかないやんか友達とか、あの子にとって。だから使われてる言うてんよ」
 彼女の目力はすごく強い。意志が強いせいなのか、堀の深い顔立ちのせいか、そのどっちもか。亜美は私から目を離そうとせず、私の言葉を待っている。目をそらしてはいけないと思いつつも、見ようとしなかったことを目の前に突きつけられた気がして、どうしても亜美のことは見られなかった。丼の中をちらりと見ると、食べかけのうどんは随分伸びてしまっていた。
「つかわれてるとか、私思ってない」
 声が震えるのを押さえるので精一杯だった。できるだけ気丈に言ったつもりだったけれど彼女にどう聞こえたのかはわからない。
「……ごめん、きつくいいすぎた。せやからさ、彼氏が大事かどうかなんか人それぞれやし……彼氏が良いとか悪いこととかもないやん」
 うん、と気のない返事をしてしまった。
 十本の指の中でも一番はげてしまっている右手の人差し指のネイルをがりがりとこすってみると、大きな塊がベロリとはがれて、風にのってどこかにいってしまった。昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。ふっ、と亜美がため息をついた。


 数日後、千佳子から電話がかかってきて、家に行ってもいいかというので、本当はサークルに行くはずだったのをキャンセルして私は並んだマニキュアを眺めながら、彼女が来るのを待っていた。声が、震えていた。泣いているに違いない。彼のことで泣いているに違いない。
 東海林さんを見たのは一度だけ。一度だけ、彼と千佳子が待ち合わせをするコンビニについていったことがある。その頃はまだ、千佳子は東海林さんの話を自分からしてくれることもあった。
 二人ならんで雑誌を立ち読みして、数十分すると不意に目の前のガラスを指先でつつく音がしてはっと顔をあげると、夜の中に浮き上がるように男の人がいた。私は千佳子について外に出る。
「友達の、ひいちゃん。で、東海林さんです」
「こんばんは。いつもひいちゃんの話はチカから聞いてるよ」
 紺色のジャケットに白地に灰色のストライプシャツを来た東海林さんは普通のサラリーマンという感じで、可もなく不可もなくという印象だった。予想していたよりも年上に見え、コンビニの明るすぎる光の中で東海林さんもその隣に立つ千佳子も、顔色は悪く見えた。
「それじゃ、僕たち行くね。これからもチカと仲良くしてやってよ」
「やめてよ」
 千佳子は恥ずかしげに東海林さんに触れ、はにかみながら彼についていって車に乗っていった。遠慮気味に手を振る彼女を私は見送り、しばらくして胸が痛いような、苦しいようなたぶんもっと激しい嫌悪感みたいなものが、自分の中で渦巻いていることに気づいて泣きたくなった。勝ち誇ったように見えた東海林さんと、それを嬉しげに諌める千佳子と無様に取り残されたような私。自分が馬鹿でなんの根拠もない醜い考え方をしていることは分かっていたけれど、それに打ち勝てないほどの嫌悪感だった。
 その後に、東海林さんは奥さんと子どもがいて、千佳子との付き合いは不倫だということを知った。何度も別れろと言ったけど、千佳子は何も答えないようになってそして、私たちにとってそのことはタブーになった。

「ひいちゃん」
 ベルを押すこともなく、彼女は私の名前を呼びながら部屋に飛び込んできた。目は赤く充血していて、鼻の頭もほんのり赤い。たぶんそれは、寒さのせいだけじゃないだろう。ずるずる鼻をすする千佳子は黙ったままで、気まずくて上手く声がかけられない。東海林さん関係だとわかっているからこそ、何も言えないのだ。
「爪、見せて」
 一目散に向ったドレッサーから除光液とマニキュアをもってきた千佳子は、電気のついていない台所のテーブルにそれらを並べてイスに座る。私はコーヒーを入れたカップを置きながら向かい側に座った。リビングからの灯りが逆光になって、千佳子の表情はまったく読めなかった。
「はがれかけてるでしょ、もうすぐ」
「うん、だけど――」
「見せて」
 強い口調だった。こんなにも張り詰めた顔をする子だったろうか。相変わらず、ずるずる鼻をすするのでティッシュの箱を差し出してみたけれど使う気配もなく、千佳子は黙ってコットンに除光液を含ませると私の指先からマニキュアを拭い取っていく。静かだ。変にうす暗い部屋の中で、千佳子は私の爪に顔を近づけているから手元はもっと暗い。
 何を言うべきか、いくら逡巡してももっと気まずくなってしまうような言葉しか思いつかない。私は千佳子が好きで、力になりたいのに言えばもっと彼女を傷つける。千佳子の求める言葉は、一体なんだろう。私はどうしたら、彼女に必要としてもらえるんだろう。
 十本の爪はすっかりすっぴんになって、彼女は真っ赤なマニキュアの瓶を手に取った。以前それを塗ったことがあったのだけど、あまりにもけばけばしかったのでつけてみて二人で笑ってやめてしまったものだった。
「ねえ」
 瓶を開けると、シンナーを薄めたみたいな匂いが漂う。そんな近くで嗅いで大丈夫なのかと思うほど、千佳子は下を向いてハケを入念にならしている。赤いマニキュアはここから見るとどす黒く見えて、なんだか薄気味悪い。彼女はそのまま続ける。
「私、どうしたらいいと思う?私が悪いのもわかってるの。でも、すごく、どうしようもなく会いたいときがある。声が聞きたいときがあるの。でもそんなわがまま聞きたくないって言われて、私だって言いたくなくて」
 千佳子はそこまで言うとまた鼻をすすりながら、私の右手の親指から赤いマニキュアで染めていく。ひと塗り、ふた塗り、すっぴんだった爪は綺麗に真っ赤になっていく。厚塗りだな、と思う。匂いで少し頭がじんとする。
「……なんで」
 口を開くと、千佳子の指がぴくりと止まってまた動き始めた。彼女が私の言葉なんか待っていないことはよくわかっていたけれど、言葉が咽喉につまって窒息死するぐらいなら、と思ったのだ。人差し指、中指、薬指。真っ赤になって、毒々しい色になった私の爪は、悪い魔法にでもかかったみたいな色になる。毒リンゴを売りつけそうな魔女の色。
「なんで別れないの?」
 完全に千佳子の指は止まった。そして次の瞬間、指に冷たさを感じ、とそれが彼女の涙だと気づいた。何も言わない。舌先にわずかな痺れを感じながら、私は言葉を口にする。わかっている。こんなことを言ったところでどうにもならないことも、彼女が本当は頑固だということや人の意見を取り入れられないこと、殊に自分が正しいと思っていることやのめりこんでいるものについては何も聞けないことぐらい。
 なのに言わずにはいられないのだ。涙が見たくないだけ。誰かのために涙を流す千佳子を、見たくないだけ。結局それは自分のため。気持だけがからまわる。
「そんなの、わかってるでしょ千佳子は。不倫じゃん。不倫だよ?相手には奥さんも子どももいるんじゃん、わかってんじゃん。結局遊ばれてるだけなのに。わかってんでしょ?それなのに、いいようにいわれて付き合って我慢して、意味わかんない」
「ひいちゃんにはわかんないよ、わかるわけないじゃん」
「そうだよ、わかるわけないじゃん、だって本当にわかんないもん。何が楽しいの?」
「言って良いことと悪いことがあるし、ひいちゃんに何か言ってほしくてここに来たわけじゃない!」
「じゃあこなきゃいいじゃんか!」
 ばしん、とテーブルを叩くと除光液のボトルも、マニキュアの瓶も、コーヒーの入っていたマグカップもがしゃん、と一斉に音を立てた。除光液のボトルはごろごろ転がって床に落ちてしまった。リビングに向いている私の顔はきっと千佳子に丸見えだけど、逆光になっている千佳子の泣き顔は私には見えない。不公平だ。
 千佳子が大きく鼻をすすった。
「……怒鳴んないでよぉ……好きだもん、しょうがないじゃん、好きだもん」
 う、と千佳子は泣きだした。マニキュアの瓶も倒れる。ごとん、と意外にも重々しい音がした。泣きたいのはこっちだ、と思っているとみるみる涙が目に溜まってきて、こらえればこらえるほど鼻がつんとしてまた涙を呼び寄せる。ばか、と声に出さないで言った。自分にか、千佳子にか、よくわからない。こんなにも気持は伝わらない。何一つ。
 千佳子はその場に伏せてしまい、私の指は中途半端に染まったままだった。マニキュアの瓶を手にとって、左手でハケを持ち右手の小指に塗ってみる。けれど、涙があふれているからかそもそも不器用だからか、小指の爪からマニキュアははみ出してただのペンの落書きのようになってしまった。もう一度バカ、と小さくつぶやいた。相変わらず、千佳子は泣いている。

 

END


この本の内容は以上です。


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