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義血侠血(ぎけつきょうけつ) 現代語訳

 

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 越中高岡えっちゅうたかおかから倶利伽羅峠くりからとうげの下の石動いするぎという発着所まで、四里八町の間を行き来する定時発の乗り合い馬車がある。
 料金が安いため、大部分の旅客は人力車を見捨ててこれを利用した。車夫はその不景気の原因として馬車会社をうらんで、人と馬との争いが次第に激しくなっており、どうにか顔役の仲裁により、互いの営業を妨げない風を装っていたが、実際は機会あるごとにしばしばめ事を生じていたのだった。
 七月八日の朝、始発の馬車の乗客を集めようと、下僕げぼくの小僧は待合所の門前で鈴を打ち振りながら、
「馬車はいかがですか。とても安くって、人力車くるまよりはようございます。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
 きんきんとしたその声は鈴のよりも高く、静かな朝のまちに響き渡った。ちょうどそこを通りかかったいきな女が歩みを止めて、
「ちょいと小僧さん、石動いするぎまでいくら?なに、十銭だって。ふうん、安いね。その代わり遅いんだろう」
 沢庵たくあんを洗い立てたような色の、染め直した編片アンペラの古帽子の下から、下僕はきょろきょろと目を輝かせて、
「ものはためしだ。まあお乗りなすってください。人力車くるまより遅かったらお代はいただきません」
 こう言っている間も、彼の手に握られている鈴は絶えず鳴り響いた。
「そんなえらそうなことを言って、本当だね」
 下僕は自信満々な様子で、
うそと坊主のあたまは、言った(結った)ことはありません」
「なんだね、小生意気こなまいきな」
 微笑ほほえみながら、女はこう言い捨てて馬車へ乗り込んだ。
 その年頃としごろは二十三、四、外見はあえて満開の花の色を隠し、清楚せいそ浅緑あさみどり葉桜はざくらおもむきを見せている。色は白く、鼻筋が通り、まゆに力強さがあって、目つきにいくらかのすごみを帯びた、見るからに涼しい美人である。
 これは果たして何者だろうか。髪は束ねてくしに巻きつけ頭の上に留め、素顔に自信があるので口紅だけをさしている。服装は、将棋しょうぎこまを大きく散らしたこん色の縮織ちぢみおり浴衣ゆかたに、唐繻子とうじゅす繻珍しゅちん表裏おもてうらにした昼夜帯ちゅうやおびを、端を垂らしてゆるく結んで、空色の縮緬ちりめん蹴出けだしをほのかにのぞかせ、素足に歯の薄い吾妻下駄あずまげたを履き、絹張りの日傘ひがさ更紗さらさの小包みを持ち添えている。
 身なり素振そぶりはいきで活発で、人を恐れない様子は、世間にまれ、場慣れして、普通の扱い方では思い通りにできない魂の持ち主であることを表わしている。思うに、彼女の雪のようなはだには、獰猛どうもうな竜が勢いよくほのおを吐く刺青いれずみが彫られていることだろう。少なくとも、その左のかいなには、枕を並べて寝る男の名が刻まれているはずである。
 馬車はこの怪しい美人で満員となった。発車の号令は割れんばかりにしばらく響いた。先ほどから待合所のえんにもたれて、一冊の書物を開いている二十四、五の若者がいる。彼は紺の無地の腹掛けをし、股引ももひきの上によごれた白地の小倉織こくらおりの背広を着て、ゴムのほつれた深靴ふかぐつき、つばの広い麦藁むぎわら帽子を後ろに傾けてかぶって、広げたひざの間に入れた、茶褐色ちゃかっしょくちぢれ毛の太ったたくましい犬の頭をでながら、一心に読書していたが、このとき鈴のを聞くと同時に身を起こして、ひらりと御者台に乗り移った。
 彼の姿は貴公子のように上品であり、態度はおごそかで、そこから自然と生き生きした気質がにじみ出ていた。みすぼらしく日に焼けた顔も、よく見れば清らかな目の上にくっきりと眉がかかり、人並みではない立派な容貌である。馬のひづめの巻き上げるちりにまみれてむちを振るう種類の人間とは、どうしても思えなかった。
 御者は書物を腹掛けのかくしに収め、革紐かわひもを付けた竹の握りのむちを手に取って、ゆっくりと手綱たづなさばきながら身構えた。そのとき、一台の人力車が南より走り来て、疾風のように馬車の横をかすめ、またたくうちに遠ざかって一点の黒い影となってしまった。
 美人はこれをながめて、
「おい小僧さん、人力車くるまより遅いじゃないか」
 下僕が答えるより先に、御者はきッと顔を上げ、かすかになった人力車の影を見送って、
「吉公、てめえまた人力車くるまよりはええと言ったな」
 下僕は憎めない表情で頭をいて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
 御者は黙ってうなずいた。それと同時にむちが鳴り、二頭の馬は高くいなないて一直線に駆け出した。不意を食らった乗客は、席に座っていることができずほとんど転がり落ちそうになった。奔馬ほんばちゅうけるように走り、見る見るうちに人力車を追い越した。すると御者は馬の速度をゆるめ、人力車に先を越されないくらいにゆったりと進行させた。
 車夫は必死になって、『おくれてたまるか』とあせったが、馬車はまるで背後から月の光を受けて生じた自分の車の影のように、一歩を進めるごとに一歩進んで、追えども追えども先にでることはできず、次第に力が衰え、息が上がって、『もうだめだ、倒れてしまう』と思ったとき、高岡から一里離れた立野たてのの駅へ来た。
 この街道かいどうの車夫は組合を設けて、乗り場ごとに交代する形をとっていたため、今この車夫が馬車におくれて、あえぎ喘ぎ走るのを見ると、そこで客待ちしていた仲間の一人は、手につばしておどり出て、
「おい、兄弟きょうでえしっかりしなよ。馬車の畜生め思い知らせてやらあ」
 と言い放つと、いきなり二人で引くための綱を梶棒かじぼうに投げ掛けたので、疲れた車夫は元気を取り戻して、
「ありがてえ!頼むよ」
合点がってんだい!」
 そう言いながらもう引き出した。二人の車夫は勇ましく互いに呼び合いこたえ合いながら、急に驚くべき速度で走り始めた。やがて町はずれの狭く急な曲がりかどへの到達を争うように見えたが、人力車はわき目もふらずに突進して、ついに馬車を一歩先んじた。
 車夫は一斉いっせいに勝ちどきをあげ、勢いに乗じて二歩を抜き、三歩を抜き、玉が転がり踊るように軽快にますますせて、二、三げんの差をつけた。
 先ほどまで人力車を後方に眺めて、ひどく得意そうだった乗客の一人が、
「さあ、やられたぞ!」と身悶みもだえして騒ぐと、車中の誰もが同感の顔つきをして、こぶしを握る者や、床を踏みつける者、さらに下僕をしかりつけてしきりに喇叭らっぱを吹かせる者もいる。御者は縦横にむちを振るって、激しく手綱をさばいたので、馬の背からはすくい取れるほどの汗が激しく流れ落ち、くつわをかませた口からは、一袋の木綿もめんくらいもありそうな白泡しろあわが溢れ出した。
 こうしているうちにも車体は上へ下へと揺れ動いて、あるときはつまずき、あるときは傾き、ちょうど風に巻き上げられる落ち葉か、早瀬にもてあそばれる浮き木のような状態である。乗客は前にのめり後ろにのけぞり、左右にくずれて、片時かたときも安心できず、『今にもこの馬車は引っくり返るだろうか、それとも自分の身体からだが投げ落とされるのか。いずれにしろ、怪我けがをしないでは済まないだろう』と、老いた者は震えおののき、若い者は目を据えて一点をじっと見つめて、わずか一秒先のことを心配した。
 こうして七、八町の間を競争したが、幸いに事故はなく、馬車はどうにかまた人力車を追い抜いた。乗客は思わず手を叩いて、車体も揺れるほど喝采かっさいした。下僕は勝ちどきの喇叭を吹き鳴らして、後れた人力車に向かって手招きしながら、踏み段の上で飛び跳ねた。ひとり御者だけは喜ぶ様子もなく、注意して馬に気を配りながらけさせた。
 あやしい美人は満面にみを浮かべて、激しく上下動する席に安心したように座っていた。それを見た隣の老人は感心して、
「おまえさんはずいぶんお強いですな。よく落ち着いていられますね。平気なものだ、男勝おとこまさりだ。それに引き換え、私などはまるで意気地いくじなしだ。それもそのはず、何しろもう五十八ですからな」
 その言葉の終わらないうちに、馬車は凸凹路でこぼこみちを踏んで、『がたくりん』とつまずいた。親爺おやじは横向きになぎ倒されて、半分禿げて天辺てっぺんくぼんだその頭は、『どさり』と美人の膝を枕にする形となった。
「あれ、あぶない!」
 と美人はその肩をしっかりと抱いた。
 親爺おやじはむくむくと身を起こして、
「へいこれは、これはどうも申し訳ありません。きっとお痛かったことでございましょう。どうかゆるしてくださいましよ。いやもう、意気地はありません。これこれ馬丁べっとうさんや、もし若いしゅさん、決して引っくり返るようなことはないでしょうな」
 御者は振り返りもせず、力をめたむちを一つ馬に加えて、
「わかりません。馬がつまずきゃそれまででさ」
 親爺おやじは目をまるくして狼狽うろたえた。
「いやいやとんでもない、『ころばぬ先のつえ』だよ。ほんとにお願いだ、気をつけておくれ。若い人と違って年寄りのことだ、ほうり出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、ゆっくり走らせてもらおうじゃないか。ねえ皆さん、どうでございます」
「船に乗れば船頭まかせ。この馬車にお乗りなすった以上は、私に任せたものとして、安心してもらわなければなりません」
「ええい、とんでもない。どうして安心などできるものか」
 あきれはてて親爺がつぶやくと、御者ははじめて振り返った。
「それで安心ができなけりゃ、御自分のあしで歩くんですな」
「はいはい。それはどうも御親切に」
 親爺は腹だたしそうに御者の顔をこっそりと見た。
 馬車に後れた人力車は次の乗り場でまた一人を増して、後押あとおしを加えたが、それでもまだ追いつかなかったため、車夫たちがますます発憤してもだえるように走っていると、松並み木の中ほどで、前方より空車からぐるまを引いて来る二人の車夫に出会った。それとすれ違う時、綱を引いていた一人が、
「頼む、手を貸してくんねえか。あのぼろ馬車の畜生を追い越さねえと」
と血をくような声を振り絞ると、
「こっちの顔が立たねえんだ」と他の一人が叫んだ。
 競争を好む連中は、『よし』と言うなりその車を道ばたにてて、総勢五人の車夫が急ぎに急いで駆けたので、二、三町行かないうちに敵に追い着き、しばらくは相並んで互いに一歩を先んじようと争った。
 そのとき、車夫はいっせいにときの声をあげて馬を驚かせた。馬はおびえて躍り狂った。馬車はこのために傾いて、いまにも乗客を振り落としそうになった。
 恐怖、叫喚きょうかん騒乱そうらん、地震のときの惨状が馬車の中に起こり見られた。冷静に落ち着いているのは、ひとりあのあやしい美人だけである。
『すべてを自分に任せろ』と言った御者は、風波に翻弄ほんろうされた汽船が、間もなく深い深い海の底に沈没ちんぼつするという危急に際しているにもかかわらず、蒸気機関はまだ広々としたおだやかな波を切り進んでいるかのような平常心で、その職務を尽くしているかのように、ゆったりと落ち着いて手綱たづなあやつっている。競争者におくれも先んじもせず、すきがあれば一気に勝負を決しようと、にらみ合いながらぎょし行くその様子は、この道に精通した達人らしく、非常に頼もしく見えた。
 けれども、いま現に起こっている危急の中で、御者のこの頼もしさを理解したのは、わずかに例の美人だけだった。他の乗客は見苦しくもあわてふためいて、さまざまな神と仏の名が一人ひとりの心の中でいのられた。美人は、この騒乱の間も、終始御者の様子をじっと見つめていた。
 こうして馬車の四つと人力車の二つ、合わせて六つの車輪はまるで一本の軸に取り付けられて回転しているかのように、二台は相並んで福岡ふくおかという停車場へ着いた。ここに馬車の休憩所があり、馬に水を飲ませ、客に茶を売るのを例としていたが、『今日だけは素通りだろう』、と乗客はそれぞれ心の中で思った。
 ところが、御者はこの店先に馬を停めたのである。『しめた』と、車夫は急に勢いを増して、手を振り、声を上げ、好き勝手に侮辱ぶじょくして駆け去った。
 乗客が歯軋はぎしりをしながら見送っているうちに、人力車は遠ざかり、一団の砂煙すなけむりに包まれて、とうとう視界の外へ消えた。
 旅商人たびあきんど風の男は最も苛立いらだって、
「なんと皆さん、しゃくさわるじゃございませんか。大人気おとなげないけれど、こういう行き掛かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁べっとうさん、早く馬車を出してくれたまえな」
「それは確かにそうですけれどもな、私のような老人は実のところどうも賛成できかねます。第一、何と言いますか、恐ろしくて下腹が痛くなりますのでな」
 と遠慮がちに訴えるのは、美人の膝を枕にした親爺おやじである。馬は群がるはえあぶとの中で悠々と水を飲み、下僕は木陰こかげの腰掛けに大の字に寝転んで、むしゃむしゃと菓子を食っている。御者は上がり口に腰を下ろして巻煙草まきたばこくゆらしながら茶店のかみさんと話をしている。
「こりゃすぐには出発しそうもない」と一人がつぶやくと、その向かいにいた田舎いなか女房らしいのが、
「いやに憎らしく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者はますます我慢できなくなって、
「ところで皆さん、あのとおり御者も頑張がんばったんですから、お互いにいくらか酒代さかだいはずみまして、もうひと頑張りしてもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
 彼はすぐに帯に下げた蝦蟇口がまぐちを取り出して、中の金を探りながら、
「ねえあなた、ここであんな風になまけられてしまったら、『仏造ほとけつくって魂入たましいいれず』ですよ、冗談じゃない」
 そして、自分の出した銅貨三銭を手始めに金を集め始めた。帽子を脱いでその中に金を入れ、それを人々の前へ差し出して、彼は全員に義捐金ぎえんきんつのったのである。
 いさんで飛び込んだ五銭の白銅貨があるかと思うと、しぶしぶ捨てられた五厘もある。ここの一銭、あそこの二銭、と集まり、合わせて十六銭五厘になった。
 美人は片隅かたすみにいて、この募金に最後に応じた。金を入れる帽子が巡回して彼女の前へ来たとき、募金の世話人は言葉を丁寧にして挨拶あいさつした。
「とんだお付き合いをお願い申しまして、どうもお気の毒様でございます」
 美人は軽く会釈えしゃくするとともに、手を帯の間へ入れた。そして、小さな和紙で外を包んだ深紅しんく塩瀬織しおぜおりの紙入れを開いて、彼女は無造作むぞうさに半円銀貨を投げ出した。
 近くで見ていた親爺はひどく驚いて顔をそむけ、世話人が頭をいて、
「いや、これはお釣りが足りない。私もあいにくこまかいのが…」
 と言いながら腰の蝦蟇口がまぐちに手を掛けると、
「いいえ、いいんですよ」
 という美人の言葉。
 世話人はあきれて叫んだ。
「こんなに?五十銭!」
 これを聞いた乗客は、ただでさえ、『この怪しい美人は一体何者だろう』と目を付けていたのに、今また婦女子おんなには似つかわしくないこの気前のよさを見て、いよいよ底気味悪く疑わしく思った。
 世話人は帽子を揺り動かして金を鳴らしながら、
「全部合わせて金六十六銭と五厘!大変なことになりました。これなら馬は駆けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意をしていた。世話人は集めた酒代さかだいを紙に包んでそこへ持って行った。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒代さかだいだよ。六十六銭と五厘あるんだ。なにぶんひとつ奮発してな。頼むよ」
 こう言って彼は気軽に御者の肩をたたいて、
「隊長、これだけあれば一晩遊べるぜ」
 御者は横目で紙包みをながめ、興味なさそうに答えた。
「酒代で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘をふところに持っているだけの下僕は驚き、また惜しんで、何か言いたそうに御者の顔をながめた。好意を無駄にされた世話人は腹を立てて、
「せっかく皆さんが下さるというのに。それじゃいらないんだね」
 馬車はゆっくりと進み出した。
「いただく理由がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。頑張り賃だ。まあ野暮やぼを言わずに取っときたまえってことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに無断で入り込もうとした。彼はかたこばんで、
「お気持ちはありがたいのですが、決められた賃銭のほかに頑張り賃をいただく訳にはいきません」
 世話人は押し返された紙包みを大事そうに持ちながら、
理由わけ糸瓜へちまもないだろう。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものをもらって申し訳ないと思ったら、もうひと頑張りしてさっきの人力車くるまを追い抜いてくれたまえな」
「酒代などはいただかなくっても、十分頑張っています」
 世話人は嘲笑あざわらった。
「そんなえらそうな口をいたって、約束が違やどうしようもない」
 御者はきッとした顔で振り返って、
「なんですと?」
「この馬車は人力車くるまより早いという約束だぜ」
 世話人の言葉に、御者はおごそかに答えた。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、このねえさんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒代をお出しなすったのはこの方だよ。あの人力車くるまより早く行ってもらいたいと思えばこそ、こうして莫大ばくだいな酒代もはずんだのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻息荒く世話人は御者の背中を指で突いた。彼は一言もいわず、世話人は非常に得意だった。美人はふざけるように責めた。
馬丁べっとうさん、ほんとに約束だよ、どうしてくれるんだね」
 こう言われても、まだ彼は押し黙っていた。そのくちびるを震わし動かすはずの力は、かわりに彼の両腕に一気に流れ込み、馬がひづめを突然高く上げたかと思うと、車輪はそのやぼねが見えないほど激しく回転した。乗客は再び地上の波にられて、浮いたり沈んだりのつらい目にった。
 全速力で馬を走らせて五分後、前方はるかに競争者の姿を見ることができた。しかしながら、あまりにも離れていて、容易に追いつくことはできそうもなかった。そのうえ、到着地の石動いするぎはもう間近まぢかに迫っていたのである。今ここで一気に追い越さなければ、結局競争に負けることになるほかなかった。可哀相かわいそうに、過度に走らされて疲れ果てた馬は、力なさそうにれた首を並べて、むちで打って走らせても、その足は重く地面からなかなか離れなくなっていた。
 何を思ったのか、御者は地上に下り立った。乗客が『これは一体何をするつもりだろう』と見ている間に、彼は手早く、一頭の馬を解き放って、
「姉さん、すみませんが、ちょっと下りてください」
 乗客は顔を見合わせて、このなぞを解くのに苦しんだ。美人が彼の言うとおりに馬車を下りると、
「どうかこちらへ」と、御者は自分の横に立つ馬のそばへ彼女を招いた。美人はますますその意図を理解できなかったが、それでも彼の言うとおり進み寄った。すると、御者は一言もいわずに美人を引っかかえて、ひらりと馬にまたがったのである。
 驚いたのは乗客だ。乗客は本当に驚いた。彼らが千体の小さな仏像のように顔を突き合わせ、あんぐりと口を開けて、おそらくはにもることはないであろう、この不思議なろくでもない光景に目を奪われているうちに、馬は奇怪な御者と、奇怪な美人と、奇怪な挙動とを乗せてまっしぐらに駆け去った。車上の見物たちはようやく我に返ってざわざわと騒ぎ出した。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょうな」
「へえ、それはなぜでございますか」
「客の逃げたのが乗り逃げ。今は御者の方で逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の親爺は頭を振りながらつぶやいた。
「そんな洒落しゃれを言っている場合ではない。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 どうすべきかとまゆを寄せた先ほどの世話人は、自分ではいい考えが浮かばずに腕を組みまわりを見回して、
「皆さん、どうお思いになります?こりゃただごとじゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駆け落ちですな。どうもあの女がですな、ただのねずみじゃないだろうと目をつけていましたが、こりゃあまさにそうだった。それにしてもいい女だ」
「私は急ぎの用をかかえている身体からだだから、こうしてのんびりぼんやりしてはいられない。ぜひともこの小僧に頼んで、一匹の馬で運んでもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、金を出して、あのざまを見せられて、置き去りをくうやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとにふざけた真似まねをする野郎だ。小僧、早く馬車を出してくれ」
 下僕は途方に暮れて、先ほどから車の前後にちょろちょろと出没していたが、
「どうもお気の毒様です」
 と言っただけである。
「お気の毒様は知れてらあ。いつまで我々をこうしておくんだ。早く出してくれ、出してくれ!」
「私ではまだよく馬が動きません」
「生きているものなのに動かない訳があるものか」
臀部けつっぺたを引っぱたけ、引っぱたけ」
 下僕は苦笑にがわらいしながら、
「そんなことを言ったってどうにもなりません。二頭引きの車ですから、馬が一匹じゃ引ききれません」
「そんならここで下りるから金を返してくれ」
 腹を立てる者、無理を言う者、つぶやく者、ののしる者、迷惑する者、これら乗客の不平は下僕一人の身に集まった。彼はさんざんに責め立てられてとうとう涙ぐみ、その場にいることができなくなって、仕方なく馬車の後ろに身を縮こまらせた。乗客はますます騒いで、相手のいない喧嘩けんかに狂った。
 さて一方、御者は一直線に馬を飛ばして、雲をかすみと一目散に走ったので、美人は生きた心地もせずに、目を閉じ、息をらし、五体を縮めて、力いっぱい彼の腰にすがり付いた。風はしゅうしゅうと両腋りょうわきに起こって毛髪は逆立ち、道はまるでかわのように見え、濁流が脚下にほとばしる気がして、自分の身体からだはまさに空中を転がっているように思われた。
 彼女は本当に死んでしまうに違いないと思った。するとしだいに風が止み、馬が止まったと感じると同時に、昏倒こんとうして気を失った。これは御者が彼女を静かに馬から助け下ろして、茶店の座敷へかつぎ入れたときのことである。彼はこの女の介抱かいほうを店のあるじの老女に頼んで、自分はそのまますぐ、再び疲れた馬にむち打って、もと来たみちを急いで戻っていった。
 間もなく美人は意識を取り戻し、ここが石動いするぎのはずれであることに気付いた。御者はすでにいない。彼女はその名を老女にたずねて、金さんという人だと知った。その人柄ひとがらを問うと『真面目で正し』く、その品行ひんこうを聞けば『学問好き』、との答えだった。


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 金沢を流れる浅野川あさのがわ河原かわらは、毎晩繰り返される納涼の人出のために熱気がこもってきた。この時節を待って、諸国から入り込んだ見世物師らは、広い河原も狭く感じられるほど小屋を掛け連ねて、猿芝居さるしばい娘軽業むすめかるわざ山雀やまがらの芸、剣の刃渡り、き人形、名所ののぞきからくり、電気手品、盲人相撲めくらずもう、評判の大蛇だいじゃ天狗てんぐ骸骨がいこつ、手なし娘、子供の玉乗りなど、いちいち数えることができないほどになった。
 その中でも特に大評判、大当たりとなったのは、たき白糸しらいと水芸みずげいである。太夫たゆう滝の白糸はまだ若い一八、九の美人で、その技芸は彼女の美貌とぴったり合って、市中の人気は山のように高かった。そのため他の見世物がみな夕方の開場であるのに対し、この水芸だけは昼夜二回の興行がなされた上、客はどっと詰めかけてどちらも必ず大入りとなった。
 時刻はちょうどそれが始まる午後一時、拍子木ひょうしぎが一打ちされ、お囃子はやしが鳴り止んだ。口上こうじょうが自分で言うところの『口下手くちべたなもの言い』を発揮して芸の前置きを述べ終わると、たちまち起こるゆったりとした三味線とにぎやかな笛の旋律せんりつに合わせて、この一座の一番の太夫たゆう、滝の白糸が静かにゆっくりと歩み出た。高島田にったまげに白く太い元結もとゆいを掛けて、顔にはべに白粉おしろいをこまやかに塗って桃の花の色気をよそおい、朱鷺ときの羽のような薄桃色の縮緬ちりめん単衣ひとえに、銀糸で波を刺繍ししゅうした水色の絽織ろおりかみしもを着ている。彼女がしとやかに舞台中央に進んで、一つ礼をすると、待ち構えていた見物は声々にわめいた。
「いよう、待ってました大明神だいみょうじん様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう、金沢荒らし!」
「この男殺し!」
 そんな喝采かっさいの声の中で彼女はゆっくりと顔を起こし、感情をこめてかすかに笑った。口上は扇をげて一つ咳払せきばらいし、
「皆様!お目の前に立たせましたのは、この一座の一番の太夫たゆう、滝の白糸でございます。お目見めみえが済みましたので、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初ちょっと試しに御覧に入れますのは、つゆにじゃれつくちょうを表しました、『花野のあけぼの』でございます。さあ始まった、よいよいよいやさて」
 さて、太夫がなみなみと水を満たしたコップを左手ゆんでに取って、右手めてには黄白こうはく二本の扇子せんすを開き、『やっ』と掛け声して水と扇子を交互に投げ上げると、一対の蝶が露を争いながら、縦横上下に追いつ、追われつ、しずくもこぼれず翼もとまらず、太夫の手にも戻らずに、空中に美妙な文様を織りなした。このきたみがかれた芸と同時に、『今じゃ今じゃ』と、木戸番きどばん濁声だみごえを張り上げてわめきながら、外面おもての幕を引き上げたとき、演芸中の太夫はふと外の方に目をやったかと思うと、何かに心を奪われたらしく、突然左手のコップを取り落とした。
 口上は狼狽ろうばいして走り寄った。見物はその失敗をどっとはやした。太夫は受け止めた扇を手にしたまま、そのひとみをなお外の方に凝らしたまま、つかつかと土間へ下りた。
 口上はますます狼狽して、どうしていいかわからなかった。見物はあきれ果てて息をひそめ、その場にいるすべての者が頭をめぐらして太夫の挙動を見守った。
 白糸は群れ座っている客を押し分け、き分け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
 とあわただしく客用の出入り口から走り出て、首を伸ばして何かを目で追った。その視線の先には、御者風の若者の姿があった。
『何事が起こったのか』と、見物が白糸のあとからどろどろと乱れ出てきた騒ぎに気付いて、その男は振り返った。白糸はそこではじめてその顔を見ることができた。彼は色が白くいきだった。
「おや、違ってた!」
 こうひとりごとを言って、太夫はすごすごと小屋の中へ戻った。


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