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 命の一つ一つには、
 それぞれに一つ一つのココロがある。
 それは内なる宇宙。
 何人にも侵されない、秘められた精神の庭。
 内なる世界と外なる世界は呼応しあい、
 互いを組み合わせることによって、
 互いに支え合い、破滅を避けている。
 この存在が、どんなに多くの迷える人を、
 自ら励ましてきたことか。
 
 だが、この存在は、
 残酷に命と命を隔てるものでもある。
 愛し合う二人も、所詮は二人。
 別れはいつか、平等に、冷厳にやってくる。
 永遠の愛は、永遠の固定化、永遠の合一。
 そして、虚無に等しい。

 それでも、永遠を願うココロが、いた。

 傷つくだけのココロなんか、いらない。
 ココロなど壊れてしまえばいい。
 私は、物言わぬ物体になりたい。
 ――こんな別れを迎えるのなら――。


 なぜか私は今、私の生きた時代について書き残したいという、激しい思いに駆られている。
 しかし、
『私の中で時間が前後して、食い違う部分もあるかも知れない』
 自分が、我ながら限りなく頼りない。
 なにより私自身、もう記憶が定かではないのだ。
 生まれた瞬間も分からず、こうして生を終えようとする今、私の心は次第に、未来も過去も混然とした世界に漂い始めているような気がしている。
 もしかしたら、私は今、生まれて、過去に向かい人生を歩むのかも知れない。
 人ひとりひとり、その思い描く可能性それぞれに世界があり、無限に広がっているという説がある。今の私も、その可能性のひとつか。そう考えると、私自身は一体何者なのだろう。時間の主体でもないし、時間の末節にいて、もう一人の私を見ているのか。定義するのは難しい。
 ただひとつ、確かに言える事は、
 ――終戦と同時に、その存在を抹消された、
   防空巡洋艦 〈綾瀬〉
   私は、その艦の砲術長だった。
   いや、砲術長だ――。

.

 ついこの間まで、『未来へ羽ばたく二十一世紀の扉を開け、光り輝く時代が始まる』といった謳い文句が巷に溢れ、世紀末だのミレニアムだのと、世間は何か浮かれ気分だった。
 だが、いざ幕があがってみると、いくら世紀を跨ぐと言っても、昨日と今日で何がどう変わるはずもない。いつの間にかまた、相変わらずサラ金と激安商品のコマーシャルが繰り返し流れるようになっている。
 未来社会の象徴のように取り上げられる『ロボット』と『火星旅行』も、ようやく二足歩行のロボットが自動車会社のマスコットとして作られたものがあるだけで、火星のほうは旅行どころか、せっかくの宇宙ステーション・ミールの放棄が決まってしまった。しかし、子どもの頃に夢見た便利なツールは、気が付けば当たり前のように身の回りにある。
 日々の暮らしにさほど変化はなくても、振り返ってみる過ぎ去った時代は誰にとってもドラスティックで、未来は逃げ水のように、実態の知れない先だからこそ光り輝いて思えるものなのかも知れない。
 
 窓の外に見える街路樹の木々に、まだ春の息吹は感じられない。硬い芽がしがみつく細い枝は、寒空に向かってただ頼りなく揺れている。
 僕は、長い時間パソコン画面を見続けたせいでゴロゴロする目をしばたかせて、戸外の風景を眺めた。広い通りを挟んだ向かい側に、ほぼ完成した市ヶ谷の防衛庁舎が見える。
 この雑居ビルのオフィスで、戦史と戦闘記録のデータベースを更新・再構築する作業に取りかかって、もう四ヶ月になる。時折、向かいの防衛庁から出向してくる管理官のもと、数人のSE・システムエンジニアと一緒に仕事をこなす毎日だ。
 防衛庁が、六本木から市ヶ谷へ移転する計画は、かなり前に決まっていた。だが着工後に、江戸時代の尾張藩上屋敷の遺構が発見されたりして、工事はなかなか進まなかった。
 そうこうしているうちに、『ドッグイヤー』と呼ばれる技術の劇的な進歩で、今までのデータベースはすっかり陳腐化してしまった。早急に更新しようにも、納める建物さえいつ出来上がるかハッキリしないため、受注業者が二転三転した。そのあげく、僕のような小さな人材派遣会社に属するSEにも、仕事が回ってきたのだった。
 膨大な資料のうち、最近のものはつい半月前の不審船騒ぎから、最古に至っては戦国時代の頃まで遡る。旧海軍・旧陸軍が各々保存していたものを、陸・海・空・各自衛隊の戦史編纂室が、互いに共通性のないデータベースにしてしまっていた。それらを整理・統合して、一本のデータベースにするのが僕達の仕事だ。
 僕の分担は、一番分量が多く解析困難な太平洋戦争の部分で、それも今日で殆ど終わる。
 あとは、他のスタッフの分との繋ぎを調整し、一本化するだけだ。
 ホッと一息ついた時、この〈綾瀬〉に関する記述が目に止まった。
 それは、今まで見落としていたのも不思議ではないほど目立たない、戦史資料の差分ファイルだった。日本が経てきた歴史の、もう一つの姿を示しているようでもある。そしてそれは、秘匿扱いになっていた。
 データベースの立ち上げのため、僕もある程度、秘密文書を読むのを許されている。防衛庁関係に限らず、このような仕事をしている以上、秘匿事項に触れることは少なくない。
 仕事上知り得た秘密の厳守は、事前の契約の際に誓約していて、その分、報酬も多い。
 『秘密』はそれが秘匿とされる所以、人々を守るという見地から、知ったとしても口にしてはならない代物だ。墓場まで背負って行かなければならない荷物のようなもので、少なければ少ないほど良い、と僕は思っている。
 そんな僕が、なぜかこの〈綾瀬〉という艦名と、『限りなく自分が頼りない』という一節に、激しく心を突き動かされた。『墜ちゆく人に、今僕が手を差し伸べなくてどうする』といった妙な切迫感に急かされて、どうかすると文字を読み進むのさえ、もどかしかった。
 記録の前後から見て、これは防空巡洋艦〈綾瀬〉の砲術長でだった、大崎少佐という人物の手記から再現された文書であることが分かった。
 僕は、『艦』についてそれほど詳しくはないので、分からない用語は戦史編纂室のデータベースの陸海軍用語・隠語集を使った。それに、個人の日記のようなものであるため、心情のみで客観的ではない箇所や、戦闘の激しい時期は抜けたり日付さえ明確でない部分もある。そこは内容から推測したり、すでに出来上がりかけている太平洋戦史のデータベースを参照して読み進んだ。

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