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洗髪


夜に髪の毛を洗っています。

石鹸の泡は薫の後ろ髪を抜けて、背中へと滴っていきます。


すると薫は背中がにょきにょきと伸びていくような感じがして、気持ちが悪くなりました。


もちろん風呂場にいる薫は、少女の背丈のままに身体を洗っています。立ち上がったところで、湯気に濡れた天井との距離が変わるわけでもありません。


ですが、洗われている「薫」は刻一刻と大きくなっているのです。


石鹸をつけた手で髪の毛を撫でるにつれ、薫はだんだんと高くなり、天井にぶつかり、風呂場全体を満たしそうな恐ろしさを感じました。


そして徐々に身体を春闇に溶けこませながら、薫は恐ろしさの奥底に、密かな悦びをも感じていたのです。

夜店

目が覚めると、薫は列車に乗っていました。

あたりは真っ暗でした。時折踏み切りを通るときだけ、2、3秒線路の周りがぼおっと映し出されるのですが、それ以外はただ闇のなかを走っているのです。


少し過ぎると、薫は闇にも本当に黒い部分と、少し薄暗いだけの部分とがあることに気がつきました。薄暗い部分はざわざわ音がすることからすれば、たぶん、山なのでしょう。そして本当に暗い部分は、目を凝らしても何も見えないことからすれば、おそらく海なのです。


それに気がつくと、列車は海沿いを走っていることが分かりました。海沿いを、トンネルを出たり入ったりしているのです。


そして幾たびかのトンネルを抜けると、国道の脇に店があかるく佇んでいるのが、薫の眼に飛び込んで来ました。


列車が通り過ぎたのは、ほんの僅かの間なのに、薫にはその店の造りから売っている品物まで、まるで手に取るようにくっきりと見えました。


店先にはみかんが売られ、店の中では細々とした日用品が置かれていました。田舎によくある何でも屋のようでしたが、人影はありませんでした。もっとも丸きり無人というわけでなく、店の奥には人の気配がありました。

店の周りには道路と、ポストのほか、何もありませんでした。道路の少し先はまあるく闇に消えこんで、上は黒い空で、後ろは色の違う黒い海がすぐそこまで迫っていました。まったくの闇のなかに、その店だけが浮かび上がっていたのです。

それを目にしたとたん、薫はなにかを思い出しました。忘れてはならないことだったのですが、流れていくうちに忘れてしまった、遠い約束です。でもそれが何の約束なのかは、一向に思い出せないのでした。

すぐそこまで出掛かった記憶なのですが、薫はもどかしさをどうすることもできず、ただ列車の振動に身体を傾けるのでした。そしてそれまで遠かった海鳴りが、次第に大きくなって、列車ごと飲み込んでしまうのを感じていました。

街の灯

もう何時間たったでしょうか。ただ外のエンジン音だけが聞こえる音でした。

薫は窓扉を開けて外を見ようとしましたが、真っ暗で何も見えませんでした。


機内は八割くらい埋まっておりましたが、全員眠っており、灯りも話し声もありませんでした。ただ薫だけが暗いキャビンに取り残されていました。


喉が乾いた薫は、水を頼もうとしましてコールボタンを押したものの、誰も来ませんでした。不思議に思った薫は立ち上がると、機内を歩き回りましたが、やはり乗務員はどこにも見当たらないのです。


あきらめて薫は自分の座席に戻りましたが、そこには別の人が座っていました。薫はどくように頼もうとしてその人の顔を覗きましたが、暗くてはっきりしません。ですが眼が合うとその人は口を切りました。


「お母さん、ひさしぶりですね」

「・・あたし、子供なんていないわよ」
「そんな悲しいこと、言わないでください。ぼくは百年前の息子じゃないですか」

そう言われると何だか薫はその気がして、遠い昔に、そんな子供を産んだことがある気がしました。

「ああ、そうだった・・かしら」

「思い出してもらえてうれしいです。今日はお別れにまいりました」

「お別れ?」
「長らくお世話になりましたが、もう会うことはないでしょう」
そう聞かされると何だか悲しいような気がして、薫は窓に視線を移しました。

すると先程の真っ暗とはうって変わって、下には目ばゆいばかりの宝石が散乱しておりました。そこは確かに薫が百年前にこの子と過ごした街だったのです。


そしてこの飛行機はそこに向かっている途中だったのです。飛行機は急降下して、いつか薫が子供をつれて歩いた川沿いの遊歩道迄見えました。でも街は思い出せても、なぜだか子供の顔も名前も甦っては来ないのです。


「ではさようなら」

「待って、あなた、どこに行くの?」
「いえ、ぼくはどこにも行きません。行くのはお母さん、あなたなのです」

とたんに薫は百年前の出来事を思い出しました。百年前、自分が息子を川に流したことを思い出したのです。あの凍てつく冬のよる、人目を憚りながら、薫はまだお腹のなかにいたこの子を流したのです。


「おお、おお」と薫は声にならない声を出しながら手で顔を覆いました。その向こうで子供は言いました。

「お母さん、その手でしたね、ぼくを胎内から引きずり出したのは」
「おお、おお」
「その指でしたね、ぼくと母さんを繋ぐ臍の緒を千切ったのは」
「おお、ああ」
「その掌でしたね、ぼくのまだかたちを成していない首をへし折ったのは」
「ああ、ああ」

すっかり思い出しました。薫は手に残るこの子の首の感触さえ、思い出しました。その外では街の灯りがいよいよ大きく、あやしく光を増していくのでした。

ジョッキの王

夜なのです。

薫は商店街のアーケードを歩いていました。お店はもうだいぶ閉まっていて、人通りもほとんどありません。

道には布団が持ち出されては、男どもが堂々と寝ていました。なかには寝ながら新聞を読んだり、ラーメンをすすったりしているのもいます。焚き火している輩までいます。

そしてその間をすっすっと、業務用の自転車が器用にすり抜けていきます。自転車はとあるお店の正面に着くと、乗り手は店のなかに消えました。

見ていた薫は釣られてお店に入って行きました。

所狭しと置かれているのは、やかん、湯たんぽ、如雨露、針金などでした。
(ここは・・・金物屋だわ)
と薫は思いました。そして壁に掛けられた、銅製のジョッキを手に取りました。

ジョッキには一面に鏨(たがね)が打ち付けられた跡があり、薫はそれを指でなぞりながら、魚の鱗のようだわね、などと思っていました。

思っていると、お店の奥のほうが騒がしくなりました。そこで薫はジョッキを元に戻して、奥に進みました。奥はガラス障子が張られており、その向こうから音がするのです。普通、そこはお店のプライベートエリアなのですから、薫は障子を開けるのをためらいました。

けれども音はますます大きくなるばかりで、(こんな騒音だもの、ひょっとしたらお店の人に何かあったのかも。障子を開けて確かめなくちゃ)と薫は自分に言い聞かせて、開けてみました。

するとそこは外なのです。しかも夜だったはずなのに太陽が出ていて、お昼なのです。明るい日の下で、法被を来た人たちがお神輿を担いで騒ぎ立てていました。

(お祭りだ、お祭りだ)

そう思うと、薫はすっかり楽しくなって、神輿に駆け寄りました。振り返ると先ほど障子がぽつんと見えて、蛍光灯が淡く点いているのが見えました。確かに薫はついさっきまでそこにいたはずなのですが、今こうして見てみると、それは何か遠い異国の出来事のように感じられました。

万国旗が縦横に張り巡らされた街路を、神輿が進んで行きます。金木犀の街路樹が、次々に過ぎていきます。どおんどおんと、花火のような音がします。

行列はますます盛んになり、薫は押し出されて神輿の前に出ました。そしてちらりと見ると、神輿の中に座っていたのは、紛れもない薫でした。その薫の手のひらの中には、あのジョッキが包まれていたのです。

その瞬間、薫はすべてを思い出しました。ですが何を思い出したかは思い出せませんでした。ただ迫り来る洪水のような雑踏のなかで、いよいよジョッキはにぶく光るばかりなのでした。

黒い塔

薫は路地を歩いていました。

あたりはすっかり日が暮れて、墨のような闇がたれこめていました。そして闇を透かして、ときどき小さな灯りがちかちか瞬くだけなのです。

その闇に照らし出されて、はるか頭上には巨大な塔が立っているのが見えました。あまりに大きすぎて、最初薫はそれが塔というより、巨人か化けものかのように思えたほどです。

塔は下が大きく膨らんでおり、半分ほど上に行ったところで急激に細くなり、あとは飴細工のように星に向かって引き伸ばされていました。

まわりは暗くてその全体像ははっきりとはしませんでしたが、塔のあるところだけは真っ暗で、薄明るい夜空から浮き上がっていたので、そうと薫には分かったのです。

薫は路地から路地へと伝い歩いていましたが、そのたびに塔の姿が見え隠れしていました。「廃院」と張り紙されたタイル張りの産婦人科を過ぎると、その窓ガラスに映っていましたし、コンクリート床に直接食卓を置いた大衆食堂の屋根の上にも、覗けていました。

そうして歩き続けましたが、塔は近くも遠くもならず、ずっと薫の背後に立ち続けているのです。

薫が見上げると、塔の上から1/3ほどのところで、赤いランプが点いているのが分かりました。ランプは一定のリズムで点滅を繰り返していましたが、それはクジラの鳴き声のように遠く響きました。

その海のようなリズムのなかで、塔はしだいに得体の知れない化けものに広がって行き、薫の背後に迫りました。

けれども薫はそれを怖いとも思わず、むしろ待ち望んでもいるように歩を早めるのでした。


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