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 沢は薄汚うすよごれた、それがただ一つの荷物である、小さな手提げかばんをじっと見つめながら、あおい顔で、うなだれて下を向いた。
 そのとき、さっといい、さっと鳴り、さらさらと響いて、小窓の外を舞い通る…冷たい着物のすそが、すらすらとの葉に触れながら…高い山をかけて星のきらめいている空へ軽く飛ぶような音を聞いた。
 しきりに吹いた秋の風は、夜にはその姿を現して、人に言葉を掛けるらしい。
 夜の初めには、その声さえ、さびしい中にもなつかしい感じがあった。
 さて、今聞こえるのもその同じ風の声である。
 けれども、深夜に聞く秋の声は、夜中に誰かがひそひそと門の前をく足音とほとんど同じだ。夜の初めの人通りは、家の中にいる者にとって、それが誰であっても知り合いのようなものである。が、夜がけてからの足音は、かたきのように思われるほどの大きな違いがある。特に、恋をしていない―人を待ちがれる思いの絶えた―一人旅の途中、山奥の家にいる沢は、枕元に吹き来る風に自分をおそおうとする殺気を感じた。
 ところで…沢が寝ているこの座敷は―その家も―夜の初めに入った旅籠屋はたごやではない。
 あの、小女こおんなが来て、それから按摩の現れたのは、蔵屋くらやという旅籠屋だが…今泊まっている…こちらは、鍵屋かぎやという…このとうげに向かい合って建つ二軒の旅籠のうちの、峰を後ろにして、がけ木立こだちかげまったさみしい方の家である。一方、前の蔵屋は裏手がずっとひらけていて、向こうの谷で区切られるが、そのあいだにはわずかだが畑があった。
 峠にはこの二軒以外に、ほかの建物は納戸なんども馬小屋もない。これは昔から同じだという。
「峠でお泊まりでごぜえましょうな。」
 ふもとから十四五ちょうのぼった、崖の上にある、古い、薄暗い茶店ちゃみせで休んだ時、裏に鬱金うこん色に染めた木綿もめんの布を張ったしまのちゃんちゃんこを、肩衣かたぎぬのように着て、店先につつしんで座っていた、みすぼらしい耳に輪数珠わじゅずを掛けた白髪しらがじいさんに、そう言われたあとに聞いたのだった。そこには、き物として目の部分を二つえぐり取った熊の皮が拡げられて、さらに木の根をくり抜いた大火鉢おおひばちが置いてあった。
 店の裏口の向こうは、山の峰が雲を吐き出しているかのように、霧が早くも充満して、みきなかばをその霧でおおわれた、三抱みかか四抱よかかえもあるとちの大木が、すくすくと立ち並んでいた。
 名の知られた栃木峠とちのきとうげよ!そこへたどり着くにはふもとから一日かかった。のぼるに従い、はじめは谷にその栃の木のこずえを見下ろしていたが、やがては崖に枝を交差させているのが目の前に現れ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包んで、しばらくの間、みちは夜のように真っ暗になった。…梢を吹く風は、雨のように木の下のやみへ降り落ち、草の小径こみちを、清水が音を立てて四方八方へ走り流れていた。
 行く手のはるか先に、ちらちらと燃えながら進む炎が、煙ではなく白いしぶきを飛ばしたように見えたのは、駕籠屋かごやが振り動かす昼間の松明たいまつであった。
 やっと茶店に辿たどり着くと、その駕籠は軒下のきしたに置かれていたが、沢が腰を掛けた時、白い毛布けっとくるまった病人らしい男を乗せると、ゆらりとかつがれ、すたすたと行ってしまった…
 峠を越えるこの山路やまみちは、もう以前から旧道となっており、あまり通る者もなかった上、鉄道が開通してからは、ほとんど利用されなくなり、いのししおおかみもまた出るようになったと言われている。その年、はげしい暴風雨あらしがあって鉄道が不通になり、新道しんどうもずたずたに崩れたため、旅客りょかくは皆ここを辿たどったのであるが、それもその一時期だけのことで、再び人通りはなくなり、今はもう、仲間におくれたかりが雲を越す思いで急ぎ通るだけになっている。…
 座敷に上がってすぐの所に、客を迎える顔を見せている爺様じいさまの、そのやつれた姿には、旅の途中で休息するところとは思えない、墓所はかしょの茶店のおもむきがあった。
旅籠はたごはな、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒だけでござんしてな。」
「どちらへ泊まったらいいだろうね。」
 と沢が尋ねると、
「それは、」
 と爺様は皺だらけの手をひざへ組んで、うつむいて口をもぐもぐさせて、
「鍵屋へは一人も泊まる者がござらん。なんや知らんが、怪しい事がある言うてな。」


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