目次
「暇で忙しくて冷温停止しています」
結局のところ。。。
自己愛すなわち自己肯定してこそ
ロイターは「貧困率16%」と報道。米国の「富裕層1%」は分るが「99%」って何ですか?あえて。
2009年産のボジョレーヌーヴォー
続・ボジョレーヌーヴォー
メディアによる洗脳
資本主義は終わった!
インスタントコーヒー 一部の粗悪品に注意
Nescafe Classicのひどさ~東京品川のネスレ日本お客様相談室のかわばたさんが対応
差別
日本の外交力
自分で言うのも何だが。。。
欲望の代償~あるラジオ番組への投稿より
私が信じるのは理解していないからだ 
単純馬鹿から妹へ
孤独という病気
これが民主主義だー大衆を見下す反橋下氏側のいさぎ悪さ
独善に陥る左翼インテリもよくないが極右に走る大衆はさらに酷いー本来の健全な民主主義を
スマートTV? 元google氏が仰々しく語る馬鹿馬鹿しいものーわれわれはもうお子様ランチには飽きた
買い目は0、3、4ーナンバーズ3のストレートに初挑戦、ビギナーズラックはあるか
社会全体がギスギスしてきたような気がするー水清くして魚棲まず
「いつでもいい」という日本語が理解できない「病気」
精神病者が認知症者と暮らす
依存~生きるということ
twitter離れ
ひきこもり
トゥーマッチ
選ばないという選択肢ー最後の自由
存在証明としての情報・知識
人類は果たして進歩しているのか?
感謝
日本人だけが日本が嫌い??
時代
崩壊そして新生へ
本当のことなんて知りたくないー原発事故報道に求めるもの
いかなる主義も持たず
デモ取引用idを取得してみた「土日も取引可能!」fx
売ります「反逆のブッダーバグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡」30万円
所得税の最高税率引き上げわずか5ポイントという酷さ~首相官邸に怒りのメールを送ろう!
内閣府(政府税調)あての書簡
奥付
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トゥーマッチ

昔、何の話をしているときだったか忘れたが

私が「厳密に理解したいからだよ」と言ったら

そのときのパートナーから「厳密過ぎる」と言われた。

要するにその私の厳密さが彼女にとってはトゥーマッチだったのだろうが、

そういう私を無視できる人間は居ても、

真正面から受け止めて相手になれる人とは出会ったことがない。

この「過ぎる」ところが私の「病気」なのだろうが、

病気だろうが何だろうが私はそういう人間だ。

それを否定と言うか拒絶されても私にはどうしようもない。

たぶんその逆の性分の人だって同じだろう。

私が「厳密過ぎる!」という指摘を受けたのは約20年前のことだが、

基本的には私の性分は大して変わっていない。

歳を重ねて若干「ゆるく」なったかもしれないがだいたいにおいて同じだ。

したがって私にはパートナーどころか友人と呼べる人間はひとりもいないし、

家族からもほぼ部外者扱いされている。

もちろん私はその間もずっと薬も飲み続けており、

きちんとかどうかは正直分らないが治療してきたつもりだ。

何度も言うようだが要するに私はそういう人間であり、

また別の人はその人なりの性分というか人格を持って生きているのだと思う。

社会というのはそういうさまざまな人の集まりであるに過ぎないし、

一般論として言えば、

時にはトゥーマッチな人格を持った人だって生きているのだ。

当たり前のことだろう。


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選ばないという選択肢ー最後の自由

私たちに残された最後の選択肢は選ばないということかもしれない。

J.クリシュナムルティの「自我の終焉(the first and last freedom)」は1980年代に読んだ本であるが、私の精神性に大きな影響を与えた。たとえば「無選択の気づき」というキーワードは非常に重要な言葉である。そしてこの本の原題である"the first and last freedom"。つまり彼は強調する。「私たちが自由になるためには、まず最初に自由でなければならない」。そして無選択であることを保ち、気づきが重要であると。つまり私が作ったせりふ「選ばないという選択肢」という言葉は、もちろん論理的には矛盾しているわけだが、精神が自由であるためにはまず「選ばない」という実に中立的な立場が必要なのだ。そしてその選ばないということによる気づきこそが「最後の自由」であるのだと私は理解している。

たとえば自由(freedom)と勝手(liberty)は違うと言うが、何が違うのか?それはおそらく勝手は自我にしがみつくことであり、自由は選ばないということではないか?たとえば政治的に言えば、右翼であってもいいし左翼であってもいいということだ。そんなものは本質的には何の違いもないからである。思考は、つまり自我は常に選びたがる。どちらかでないと嫌なのだ。自由はどっちでもいい。どちらでもかまわないのだ。真に自由な精神は常に自由である。これは嫌だあれは嫌だとは言わない。それがつまり選ばないという選択肢であり、私たちに残された最後の自由ではないだろうか。つまりそれが気づきとなり、精神が自由であるということなのだ。クリシュナムルティはそう言っているように私には読めた。


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存在証明としての情報・知識

人はなぜ人に何かを薦めるのか。

当たり前だが要するに人は自分の価値観や見たものや聞いた事の体験を

他人に押し付けたがるのだ。

どういうわけかそれってついやってしまうことで、

いつの時代も同じだと思う。

もっともそれがなくなったら

情報というものの存在価値がなくなるってことか。

もし世界から情報知識がなくなったらどういうことになるのだろうか?

人間はもちろん、

あらゆる生命がなくなるってことか。

 

ある存在が自己の存在証明を示さなくなるってある意味恐ろしい。


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人類は果たして進歩しているのか?

たとえば「温故知新」という言葉がある。

そして「歴史に学べ」という言葉もある。

一方で「歴史は繰り返す」という言葉がある。

人類ははたして本当の意味で進歩しているのだろうか?

私にはそうは思えない。

なぜなら人々は相変わらず思考によってシステムを改善しようとしているに過ぎないからだ。

20世紀の巨人のひとりJ.クリシュナムルティは言っている。

「思考はわたしたちの問題を解決することができるだろうか」。

そういう「偉人」は私の知る限りでも古くは仏陀やイエスなど大昔から居た。

しかし私たちはいまだに「分って」いない。

何代にもわたって彼らの言葉を語り継いでも、

そんなものは彼らを理解するのに何の役にも立っていない。

なぜなら私たちはずっと思考の限界の中でしか動いてこなかったからだ。

いくら科学技術や「文明」が発達しているように見えても、

依然として私たちは「問題」を解決出来る「気づき」のないまま時を過ごしているのだ。


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感謝

感謝することは難しい。

威張ったり虚勢を張ったり、

存在を誇示したりすることは簡単だ。

ちょっと人と変わったことを言えばいい。

しかし素直に謙虚になってただ感謝することほど難しいことはない。

感謝とは祈りであろう。

そして祈りとは何かを願うことではない。

ただひたすら心が開いている状態のことだろうと思う。

心を開くことは難しい。

 

 

 



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