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第一章はじめに(プロローグ)

世の中には、不思議なことがたくさんあるものです。けれど実際の所、自分の目の前とか、自身に関わることとか、起こりうる可能性となると、かなりその可能性は低くなるものですよね。

 TVでも、〝世にも奇妙な物語〟という番組がありますけど、つい見てしまうのは、それがやっぱり、ありそうでありえないフィクションの世界だからだと思うのです。

 実は私も、今だに不思議で、今だに気になるできごとを体験したことがあります。

 それは、一つ間違えば命に関わるという状況から助けられたというものでした。

 夏休みの時期になり、山登りをする親子連れが増えてくるのを見ると、どうしても気になって仕方ないのです。

 私の胸の中で、ずっとひっかかったままにしておくのは、何だか切ないです。

 だから、今が書く時なのだと、今が誰かに聞いてもらう、知ってもらう時なのではないでしょうか。

 〝私の話、読んでもらえますか?〟

 〝あなたはこの話を どう思いますか?〟


 私の名は、榊千恵。今は普通のオバサンですが、その体験をした時は、中学校の教員をやっていました。

 自分で言うのも何ですが、当時の私は、なりたての新米教師ながら、担任をもっていて、子供達のため、学校のため、熱血教師さながらに、毎日を過ごしていました。家に戻っても、わかり易い授業の進め方・やり方を研究し、担任している一人一人の生徒に気を配り、いじめにあう子や、仲間はずれの子がいないか、常に目を光らせ、躍起になっていました。頭の中は、常に学校のことばかりで、両親はこのまま嫁にも行かず、独身のままになるのではと、心配していたようです。

 けれども、そんな両親の心配をよそに、私にとって、子供達に関われる教育という仕事は本当に楽しく、生きがいのあるものでした。私はこの仕事を、天職だと信じきっていました。

 と、いいつつも、教職というのは、逆にやればやる程、自分の無力さを感じたり、壁にぶつかる問題にでくわすことも多いのです。子供の前での明るい先生と、ストレスや寝不足で、疲れ果てた自分とのギャップに、しだいに悩んでいきました。

 そんな時知り合ったのは、同じ職場のタカヒロです。野球部の顧問で、特にイケメンというのではありませんが、大学時代から山岳部に所属していただけあって、体格もよく、落ち着いた感じでした。ですから、彼が一つ年上だとは、思えませんでした。

 私も登山といえるものではありませんが、ハイキングコースとか、山道を歩くことがとても好きで、鎌倉山など一人でよく行ったものです。

 新人なりたて教師の、私のあまりにひどい状況を見かねたからでしょうか、突然タカヒロが、山登りに誘ってくれました。素直にとてもうれしかった!一人きりで山道を登り、ストレス発散とばかりに、〝バカヤロー〟なんて叫んでいた私の山登りは、タカヒロとのデートに替わりました。

 ある日のこと、いつも山を登る時は、タカヒロの登山仲間と一緒なのですが、その日はタカヒロと二人きりで、少し遠出をし、高い険しい山にチャレンジしました。タカヒロは学生時代からのベテランですから、私としては、安心してついていけます。

 実は私、小さい頃から、かなりの方向音痴で、よく道に迷って、遠まわりをしていました。よくあるのは、駐車場に入れたはずの車が、全くの逆の方向にあったり、一本道だというのになぜか右の方向に曲がって進んでいたりするのです。山登りなど、今思えば、一人でよく無事にやっていたものです。

 タカヒロと二人で、かなり険しい山道でしたが、眼下に広がる素晴らしい景色を堪能しつつ、いつのまにか時間のたつのも忘れて、登り切っていました。

 ふと気がつくと、タカヒロの姿がありません。自分の立っているその場所から、どっちに行き、どの方向へ帰るのか、わからないのです。いい気になって、タカヒロを追い越して、山頂まできてしまったのでしょう。悪いことに私は、すっかりタカヒロをあてにして自分で目安にする道しるべなど、全く考えていませんでした。

 夏山は天候が変わり易く、気温の変化が激しいのです。まだ昼すぎだというのに、何やら雲ゆきがあやしくなり、うす暗くなるや、空から雨つぶが少しずつ落ちてきました。黒い雲は、あっという間に広がりを見せ、同時に気温がスーっとさがったように感じました。雨とともに、冷たい風も吹きはじめ、私は思わず叫びました。

「タカヒロー!」

 その時です、ガサッガサッという音とともに人影がゆっくりあがってきました。タカヒロです。

「どこにいったかと思って、さがしたよ」

 そう言って、笑ったタカヒロを見るなり、私は不覚にも泣きながら彼にとびつきましたタカヒロはびっくりしたようですが、ゆっくりと私の体を離し、私の顔を見つめて、優しくこう言いました。

「道に迷ったんだろう?しょうがないなあ。いいかい、方向音痴の千恵には、僕が必要だ。僕の背中を見て、僕の後ろから、一生ついてこい!」

 それからタカヒロは、雲ゆきのあやしい空を見上げて、真顔になりました。

「急いで帰ろう!」

 そう言うと、クルリと背をむけて、私についてこいと手振りしながら、迷うことなく、山道を下りはじめました。

 あたりはますます暗くなり、冷たい雨も勢いを増し、黒い雲が空全体を覆っています。私はタカヒロの後を追って、山道をかけおりて行きました。

 タカヒロは、途中で私がついてくるのを待っていてくれました。それからまた背をむけて、山道を下りて行きます。サクサクと二人の足音が、交錯するように聞こえてきました足音だけが響く中で、私はタカヒロの言葉を思い返していました。そうしながら、黙ってタカヒロの背中を見つめ、歩いていると、雨も風も全く気にならなくなりました。タカヒロのおかげで、安心して下りていくことができたのです。

 登山口にたどりついた頃には、すっかり日も暮れてしまい、灯りがともりはじめていました。タカヒロは私の方をふりむくと、私の肩に手を置いて言いました。

「いいね、僕に一生ついてくるんだよ」

 私はそのとたん、顔をクシャクシャにしながら、ただウンウンとうなづくことしかできませんでした。

 その後まもなく、私はタカヒロと結婚、すぐに息子を授かりました。タカヒロは、教師としても、夫としても、父親としても完璧でした。生徒達にも慕われ、よく子供たちが家に遊びにきていたものです。休みの日は、私のために家事もよく手伝ってくれました。得意の料理のチャーハンは、絶品でした。息子のめんどうも、楽しそうに、うれしそうに、本当によく見てくれていました。

 大きな広い心で、息子を抱きしめるタカヒロ‥‥。この人のような男に育ってほしいと心から思ったものです。

 息子の名前はヒロ。タカヒロのヒロからとったものですが、自分らしく、男らしく、ヒーローになるようにと、願いをこめて、タカヒロがつけたのです。

 私は、産休をとり、ヒロ君とすごしていましたが、タカヒロは、学校から帰ると、いつも欠かさずヒロ君をお風呂にいれてくれました。

「ヒロ!おかあさんは、ものすごい方向音痴なんだ。早く大きくなって、お母さんを守ってやるんだぞ。男は女を守るヒーローなんだからな」

 なんて言っては、愛おしそうにヒロ君をだきしめていました。

 このままずっと、誰もが望むように、私はこの三人の幸せな生活が、永遠に続くと信じていたのです。

                  


第二章 不思議体験

  -あなたはこの話をどう思いますか-

    Part1 発端

 そう、それはとても不思議な体験でした。私の名は、榊千恵。私はその頃、普通のオバサンではなく、中学校の教員でした。息子が一人、ヒロ君という6才になったばかりの子供がいます。ヒロ君の父親も教員でしたが、ヒロ君が3才の頃、事故により、他界しました。私は両親の所に同居し、仕事に復帰、夫を亡くした悲しみに浸る間もなく、毎日忙しく働いていました。

 両親は父親のいない事を不憫がり、とてもよくしてくれましたが、私としては、だからこそ、その分元気に明るくたくましく育てたいと思っていました。学校勤めで忙しい私には、十分ヒロ君の相手をしてかまってあげることがなかなかできなかったのです。思い切りヒロ君とすごせるのが、何といっても夏休みです。私は特に登山が趣味というのではありませんが、若い頃から山登りというより、いわゆるハイキングコースが好きで、近くの山道を歩いたものです。二人で楽しめて、足腰が鍛えられ、無駄な出費がなく、自然にふれることができるとなれば、こんないいことはありません。そこで、今回の夏休みは、ヒロ君と二人きりで、子連れには少々きついといわれる本格的山に登ってみることにしたのです。

 

    Part2 準備

 夏山の注意する点は、子連れならなおさらですが、早目に登りはじめ、早目に下山することが鉄則です。晴れていても、夏山の天候は変わりやすく、時間配分を間違えれば、遭難といった大事にいたることもあるといいます。これは夫からの受け売りですけど‥‥。

 ましてや私は、かなりの方向音痴だったりするので、親としては、多少不安なのですが息子と二人きりの登山初挑戦です!いいところを見せてやろうと、張り切っていました。

 

    Part3 出発

 それは天気のよい、夏休みに入ったばかりの暑い日でした。息子の手前、私はさも山登りのベテランといったふりをして、準備万端早目に計画した時間予定表と、着替え・飲み物を持ち、動きやすい軽装で出発しました。

 少し離れた場所ですが、日帰りコースとしては、かなり知られた場所です。子連れの場合、大抵はその山のコースの入口まで車で行き、コースだけを歩いた後、車内で着替えや休憩することができるように、大きな駐車場がありました。ヒロ君の父親も車の運転がうまい人でしたから、こうした状況の時に、わが子を不憫に思ってしまうのです。でも、父親のいない分、余計にたくましく強くなってほしい、夫がヒロという名にこめたヒーローのように‥‥私は心からそう願っていました。

 私とヒロ君は家から徒歩でバス停に行き、最寄駅から二時間ほど乗った所で、電車を降りました。そこからコース入口までのバスに乗り換えて、登山コース入口という停留所で降りました。反対側からも同じように登れるのですが、私とヒロ君は大きな駐車場のある側から登ることにしました。ちょうどその時間は、親子連れの車利用者が、何台も車を停めて、山道入口に徒歩で向かっている所でした。ヒロ君は、そんな親子連れが気になるのか足をとめて見ていましたが、すぐに私の方をふりかえり、笑って言いました。

「お母さん!早く登ろう!」

 

    Part4 登山

 初めての山登りです。最初はペースがつかめないのか、強がって平気な様子で登っていたヒロ君は、口数も減り、足をひきずりはじめました。私はそれを見て、(やっぱりきつかったかな)と、心配になりました。

 そんな時、反対側の入口から登り、こちら側へ下ってくる人達とすれ違ったのです。山での約束ごとの一つに、すれ違う時はお互い知らない人同志でも、あいさつを交わしますこの山は、特に小さい子供には、きつい山だと言われているせいでしょうか。通っていく人達がヒロ君を見て、口々に言ってくれました。

「小さいのにえらいねぇ」

「ぼうや!がんばりなさいよ」

「よく登れるねえ」

 そのすれ違う度の声かけで、ヒロ君はなぜか大張り切り。足をひきずるどころか、私のことなどかまわず、どんどん山道を登っていくのです。そのおかげで、私の方がそのスピードについていけない程でした。その後は言うまでもなく、思ったよりずっと早い時間で山頂までたどりついてしまったのです。

                             

    Part5 山頂

 山頂にたどりついたという達成感を味わったのでしょう。うれしそうに、余裕の表情で山頂に立つヒロ君を見て、私は山にきて本当によかったとつくづく感じました。

 ヒロ君は、着替えをすませ、山頂にある山小屋で食事をとりました。記念写真をとったり、景色をながめたり‥‥。少し休んだら、この後はもう山道を下って反対側のコース出口までいくだけです。

 なんだかあまりに時間があまってしまい、このまま帰るだけではもの足りません。少しぐらい時間を使って、同じ帰る山道に出られる道すがら、何かないかと山小屋の人に聞いいてみました。すると、

「近くに滝がありますよ。少し遠回りしますが、そのまま反対側のコース口に出られますから、行ってみたらどうですか?」

 そういって勧めてくれました。

 ヒロ君も私も滝は見たいのですが、先に書いたようになんといっても方向音痴の私です子連れですし、知らないところは少々不安になるのですが、よく聞いてみると、立て札もあるし、わかりやすい一本道だというので、ヒロ君と行ってみることにしました。

 

    Part6 下山・分岐点

 さあ、もう後は下り坂で、ゆっくり帰るだけです。二人で下りの道を降り始めて、どの位でしょうか。右手の茂みの所に、細い道が続いていて、立て札がありました。

 そこには目指す滝の名前が記され、方向を示す矢印がついていました。細い道だったので、少し心配になりましたが、しばらく歩くと、眺めもよくなり、時々前方に人の姿が見え隠れしています。遠くの方からでしたが、滝の音だとわかるザーザーと流れる水音が聞こえたので、安心して下って行くことができました。

 途中にも立て札があり、矢印方向に従って進んでいきます。二人きりでの山道は、何とも楽しく、歌でも歌いたくなる程でした。行きのきつい崖のような山道と違って、なだらかで少し細い道でしたが、楽に下りて行くことができます。滝を見るのが楽しみなのか、ヒロ君はどんどんスピードがあがってしまい、私は見失うのではと、慌てて追いかける位でした。


   Part7 迷い道

 どのくらい歩いたでしょうか。ふと気がつくと、立て札がありません。前方に見えていた人影も全く見あたらないのです。

 前を行くヒロ君が、狭い道をふさぐように立っていました。私の方をふり返ると、言いました。

「どっちにも行けないよ。行きどまり?」

 私はあたりを見まわしました。奥深い森の中で、どんなに耳をすましても、さっきまで聞こえていたはずの滝の音が、全く聞こえてきません。

 さすがにヒロ君も不安になったようで、私の方をじっと見つめています。瞬間、まずい!迷った!?と、とっさに私は感じたのですが、ヒロ君の前です。落ち着いたふりをして言いました。

「だいじょうぶ。左側の細い道なら何とか通っていけるし、その方向に滝があるから、帰り道に出られるよ。」

 本当は迷ったかもしれないという気持ちがわきあがってくるのを、私は必死で抑えていたのです。

 無理に進んだ道を歩いて三分、いえ一分も経たないうちに、道幅はますます狭くなり、ついには行き止まり状態になりました。

 私は前に立っているヒロ君を呼びました。私のきびしい表情を見てとったのか、ヒロ君は少し泣きそうな顔をしています。ここでヒロ君に泣かれたらどうしよう‥‥。そう思うだけで泣きそうになる自分がいるのに気付き、慌てました。

 私は懸命に平静を装って、なるたけにこやかに、けれども真剣に言いました。

「もと来た道をひき返すからね。横道に入ってきた所までの道、覚えているかな?」

 すると、意外にもヒロ君は、不安の表情から一変、大きくうなずくと、クルリと背をむけて、まるで自分についてこいという様に、どんどん歩きはじめたのです。

 迷いそうな細い道だったのにもかかわらず、歩いて行く我が子を見て、何だか胸が熱くなりました。

 何と言っても、不思議だったのは、私がこっちの道かなと迷いそうな所でも、ヒロ君は全く迷う様子を見せずに歩きつづけたことです。正直な所、方向音痴の私では、ヒロ君をたよりにするより他ありませんでした。

 風が吹きはじめ、いつのまにか日は沈み、あたりは夕暮れ時です。あんなにも時間に余裕があったはずなのに‥‥。生い茂った森の中には、人影はもちろん民家などなく、たった二人で山道を踏みしめて歩く足音だけが聞こえていました。

 頂上まで登った時に、着替えたはずのヒロ君のシャツに汗がにじんでいます。ましてや、自分の着替えなど全く考えもしなかった私の湿った服が、急に冷たく感じられました。

 もときた道をひき返すと、一言で言うのは簡単ですが、下ってきた道をまた登って行くのは、思うより辛く、時間も気になって、焦りにも似た気持ちが余計に足を重くするのです。

 ヒロ君は黙って小さな足を前へ前へと進めていました。けれども、急ごうとすればする程、激しくなる私の息遣いが気になったのでしょう。ヒロ君は時々、心配そうに足をとめて、私の方をふり返るようになりました。私もそれがわかるので、何とか平気なふりをしたいのですが、ハアハアという息の荒さは、どうにもならない程、山道にこだまするのです。

 ヒロ君も、あたりが暗くなり人影もないこの状況に、不安をかくせないのでしょうか。足をとめてふり返る回数がひんぱんになりました。

 私は今頃になって、疲れが足にきたらしく、歩くたびに苦痛で顔がゆがみそうになるのを、ヒロ君に見られたくなくて懸命でした。

 ヒロ君がふり返った時です。私は思わず声を出しました。

「足をとめないで!横道の入った所まで歩きとおしなさい!おかあさんはだいじょうぶだから。ヒロ君についていくからね!」

 激しい息遣いの私を何度も振り返り、足をとめそうにしていたヒロ君は、私の気持ちがわかったのか、黙って前をむくと歩き続けてくれました。

 そうやって登りの道を、焦る気持ちを抑えながら、走らんばかりの思いで歩きました。

 とにかく、もときた滝に行く横道の分岐点まで戻ることができれば、何とかなる!帰れる!そう信じて私は必死でした。

 ヒロ君だけは、ヒロ君だけは何としてもここで遭難させるわけにはいかないのです。

 どのくらい戻れたのでしょうか。ようやく見覚えのある場所にたどりつきました。もうすぐ、横道に入った分岐点に出られる!

 そう思った時です。私は足がふらついて、息がすっかりあがってしまい、しゃがみこんだまま動けなくなってしまいました。

 そんな私に気がついたヒロ君は、振りむきざまに、突然大声をあげて叫んだのです。

「誰かいませんか!誰か、お母さんを助けてください!」

 人影も人家もなく、木々に囲まれた薄暗い山道で、ヒロ君の叫び声だけがむなしく響きました。それでもヒロ君は、少し前を歩き出したかと思うと、また振りむいて叫ぶのです

「誰か、お母さんを助けてください!」

 私は思わず、抱きしめてやりたいという衝動にかられました。自分より、先ずお母さんを助けてほしい!助けたい!そう思ってくれたに違いありません。うれしかった。でも、うれしがっている時間はありませんでした。私がしっかり歩かなければいけないのです。ヒロ君にこんな心配をかけていてはいけないのです。

 そう思い、力をこめて立ち上がると、私は顔をあげて歩き出しました。それを見て安心したのか、ヒロ君も前を向いて歩き出しました。

 その時ふと、ヒロ君の背中を見ながら、私はタカヒロの事を思い浮かべていました。

「おかあさんを守ってやれ!」

 そんなタカヒロの声を聞いたようにも思いました。

 空はますます暗くなり、ますます寒さがましてきます。やっとの思いで分かれ道の所まで上がりきった時には、もう疲れ果てて、私はそのまま地べたに倒れこんでしまいましたほっとして目を閉じたのですが、それもつかの間、はっとして目をあけました。ヒロ君が私の顔をのぞいて、心配そうに見ています。私は思いきり元気よく立ち上がりました。

「よくやったね!さあ!ここまでくればもう安心!ここからは下りていけばいいだけだからね」

と、そうは言ったものの、本当の所、下りていく道は、もう迷うことはありませんが、どのくらい時間がかかるのか、どのくらいの道のりなのか見当もつきません。もちろん誰かを頼りたくても、人っ子一人いないのです。

瞬間、私の頭の中に、何を思ったのか、新聞が映し出されました。

〈親子山で遭難か!?〉

という大きな見出しとともに、私とヒロ君の顔写真が‥‥。それが妙にリアルで、特に私の写真ときたら、ヘン顔になっていました。なんでこんな写真が!?と、場違いなことを考えていたら、おかあさんと呼ぶヒロ君の声で我に返りました。

 けれども、ここからどうすればいいのでしょうか。あたりはもう本当に暗くなるし、もしこのままここで一晩すごすことになったら‥‥そう考えるだけで怖くなります。着替えどころか、毛布一枚、懐中電燈の用意もなく、万が一、動物や、中でも熊がでてこないとも限りません。両親も心配している頃だと思うのですが、連絡しようにも、電話も通じないのですから、手だてがないのです。私はどうなろうと構いませんが、ヒロ君だけは守りたい!けれども、そのヒロ君を守る術がないのです。

 ここから下まで歩くのは、正直かなり時間がかかるでしょう。ヒロ君もすっかり元気をなくしてしまいました。疲れ果てて、座り込んだまま、ヒロ君の方が今度は動こうともしません。でも、こうしていても仕方ないのです。私はヒロ君の手を引いて立ち上がると、元気よく言いました。

「さあ!歌でも歌って行こうか!」

私はかなり音程を外しながら、トトロの〝さんぽ〟を自分自身も元気づけるために、大声で歌いました。

ところが、歩き出して間もなく、私とヒロ君は急な山道が一望できる所で、上から下方を眺めてみたのです。そこから急な山道がくねくねと続いていましたが、下方の道は暗闇とともにすいこまれて見えない程で、あまりの遠さにただもう呆然とするだけでした。

(どうしよう‥‥。もうだめだ‥‥。)


   Part8 不思議体験

 と、その時です。突然、バチバチという火花が散るような音が、風の音とともに聞こえました。見ると、遠くの方に、赤い光のようなものがあります。

 不思議に思いましたが、もしや誰かがいるかもしれないと考え、おそるおそるその光の方へ行ってみることにしました。

 夕闇の中、その光をたよりに近づくと、バチバチという音から、それが焚き火だとわかりました。ヒロ君は、寒かったのでしょう。いつのまにかその火のそばにきて、しゃがみこんだままあたっています。私もあたろうとして近づくと、急に黒い影が振り返りました

 おじいさんが立っているのです。落ち葉を集め、掃除をしているのか、竹ぼうきを持っていました。

 でも、このあたりに民家があったでしょうか?まさか幽霊でもあるまいし‥‥。困った時の神だのみならぬ、幽霊だのみとばかりに、私は思いきって声をかけ、道に迷ってしまったことを話しました。おじいさんは無表情で聞いていましたが、

「あんたかい」

と、つぶやくように言いました。少し間をおいて、今度は大声で、

「花子さん!花子さん!」

 と、誰かを呼んでいます。周りには生い茂った木々があるだけで、何もないはずでした 突然、これまた無愛想な感じの三十代位の女の人が、どこからか現れて立っています。

おじいさんは花子さんに言いました。

「道に迷ったそうだから、送ってあげて」

 花子さんと呼ばれたその女の人は、ヒロ君の方を見て、少し和らいだ表情をしたかと思うと、すぐに私をジロリとにらみつけました。花子さんは眉をひそめたままあなた‥‥と言いかけましたが、そのまま茂みの奥に姿を消しました。-というふうに、私には見えました。

それからおじいさんは、私のそばにきて、耳もとでボソッとこう言いました。

「ガソリン代くらいのお礼はしてやって」

 私は何がどうなっているのかわからないまま、とにかく財布からいくらかお金を出して包み紙にくるみました。

 すると、これもまた唐突にクラクションが鳴り、信じられない事に、黒い大きなクラシックカーが目の前に現れました。その運転席には花子さんが乗っていたのです。ヒロ君はとみれば、ちゃっかり助手席にすわり、手を振っているではありませんか。おじいさんにせかされて私も車に乗りこみました。車が走り出すと、私はおじいさんにお礼を言い忘れていたいことに気付き、振り向いたのですが、もうその姿はありませんでした。

 車の中は広くてすわりごこちもよく、きもちよさそうにしているヒロ君は、ホッとしたのでしょう、このまま降りたくない様子でした。

 車は下り坂のクネクネしたアスファルトの道を、かなりのスピードで走り抜けていきました。そしてあっという間に、山道コースの出口まで着くと、花子さんは少々乱暴に車をとめ、私とヒロ君に降りるように言いました。

 正直な話、山から降りることができたのは助かったのですが、こんな時間に、こんな所で降ろされても、この後駅までどうしたらいいのでしょう。

 私が困惑しているのもかまわず、花子さんはドアを開け、降りるのを待っています。私とヒロ君は、仕方なく車を降りると、花子さんにお礼のお金を渡しました。

「これ気持ちです。受け取って下さい。」                                                                         

私がさし出したとたん、何の躊躇もなく、それを受け取った花子さんは、バタンという扉の音とともに、もときた道をすごい勢いで走り去っていきました。降ろされた私とヒロ君は、その場で途方にくれてしまいました。

 しかしながら、とにかく山からの脱出は成功したのです。あとは、帰る手段としてバスや電車が必要です。

 少し離れた所にバスの停留所がありました。そこまで行ってみましたが、案の定、最終バスは思った以上に早い時間で、終了していました。

 何にしても、ここから歩いて、電車の駅まで行くにはやはりあまりに遠すぎます。周りは田んぼや畑がずっと続いていて、どっちの方向が駅なのかさえわかりませんでした。

 ふと見ると、小さなお茶屋さんらしきお店が、一軒ポツンと立っています。天の助けとばかりに、私はヒロ君の手を引っぱって、誰かいて下さいと、心の中で叫びながら走りました。近づくと、店の中には明かりが見えます。けれども、店の外にある腰かけには布がかぶせられ、すでに閉まっている様子でした。私は中の明かりにむかって声をかけました「すみません。道に迷って、やっとここまで来たのですが、どなたかいらっしゃいますか?」

 すると、中からおばあさんが出てきました。今度は見るからにやさしそうで、かわいらしいおばあさんでした。

「まあまあ、それは大変だったねえ。かわいそうに‥‥」

 ヒロ君が、ものも言わずしゃがんでいるので、疲れ果てているのが一目でわかったのでしょう。おばあさんはそう言ってヒロ君と私をお店の中に入れてくれました。

すると、奥の方から、おじいさんも顔を出して、私に頭を下げました。おばあさんが、道に迷ったのだと話すと、おじいさんはボソッといいました。

「あんたかい」

たしかに、『あんたかい』と、聞こえました。

 そう言われて、私は一瞬ビクッとしました。さっき山であったおじいさんが、やはりボソッと言った言葉を思い出したからです。たしか花子さんもそう言いかけました。後でその言葉は、ひどく気になったのですが、その時は家に戻れるかどうかの瀬戸際で、それどころではありませんでした。

 おばあさんに、何とか駅まで送ってほしいと頼みました。するとおばあさんは、気の毒そうな顔をして答えました。

「私らは通いでね。近くに住んでいるから、自転車で帰る所なんだよ。」

 自転車と聞いて、ヒロ君も私もがっかりしてしまいました。おばあさんは、その様子を見て、笑いながらこう言いました。

「だいじょうぶ。わたしらが送ってあげるのは無理だけど、バスがあるから、たのんであげようね。」

 バスがあるって‥‥!? バスならもう最終が行ってしまったし、たのむならタクシーでしょう?そう思って見ていると、おばあさんはそそくさと、古い大きな年代物と一目でわかる黒電話を取り出しました。

 その電話の前にすわって、受話機を取ると、ジーコンジーコンとダイヤルを回しはじめたのです。

「あっもしもし? 山の茶屋ですが、道に迷った人がいるんでな。バスを出してくれんかのう?」

 私はおばあさんの話を聞いていて、びっくりしてしまいました。この人は、私達二人のためだけに、バスをチャーターしてくれているのです。一体、いくらかかるのでしょう。瞬間、頭の中の計算機が動き出したのですが、すぐに計算不能のまま私の頭はとまってしまいました。

 私が唖然としている間に、いつのまにか話はついたようでした。

「今、来てくれるっていうから、ゆっくり待っていなさいよ」

 おばあさんは事もなげにいいました。もう何が何だか、時間も何時なんだかわからなくなっていましたが、私はどうにかなるさと覚悟を決めて、ヒロ君とお店で待たせてもらうことにしました。おばあさんはヒロ君に尋ねました。

「おなかがすいているだろ? 何か食べたいもの言ってごらん?」

 お茶屋さんといっても、もう帰る所だったのですから、何もないくらいきれいに片付いていて、作れるものなどなさそうでした。

 ところが、何を思ったのでしょうか、ヒロ君は、この夏の季節に

「お雑煮が食べたいー」

と、言ったのです。

 我が子ながら、なんであの時、お雑煮だったのか‥‥。それも不思議でした。それにヒロ君はこの時のことを後から聞いても、全くといっていい程覚えていませんでした。

 そしてまた、これも不思議なのですが、ヒロ君にそう言われて、さぞ困るだろうと思いきや、おばあさんは平然と答えたのです。

「はいはい。お雑煮ね。」

そう言うなり、店の奥に入っていき、3分もたたない内に、紙コップとわりばしを添えて、二人分出してくれました。ヒロ君は、きっとよっぽどお腹が空いていたのでしょう。紙コップを渡されるや、ガツガツ食べ出しています。

「おかあさんもどうぞ」

 そう言われて、目の前に置かれた紙コップの中を見ると、たしかに白いお餅のようなものが、湯気のたつ色のない汁に浮かんでいました。本当は、食べる心境ではなかったのですが、せっかくの厚意を無駄にしては申し訳ないと思い、わりばしを取り、一口汁をすすりました。その途端、私は思わず紙コップを落としそうになりました。水のような色のない汁のあまりのまずさに、顔がこわばるのを自分でも感じました。お世話をかけているとはいえ、お世辞にもおいしいとはいえない代物だったのです。そうすると、同じ紙コップを受け取っているはずのヒロ君が、喜んで食べているのはどうしたわけでしょう。横目で我が子を見ながら、この子は壊れてしまったのではないかと、私は本気で心配しました。

                          

 しばらくするとバスの音がしたので、私はおじいさんとおばあさんにお礼を言って、茶屋から荷物を持ち、外に出ました。

 するとそこには、本当に本物の一台のバスが、エンジンをかけたまま、運転手さん付きで(あたり前ですが)待っていたのです。

 主婦の習性とでもいうのでしょうか。こんな時でさえ、私はバス代金が足りるだろうかとか、ねぎってまけてくれるだろうかとか、考える自分に気付き、苦笑しました。

 ヒロ君がさっさとバスに乗りこんで行くので、私もとにかく乗ってから考えることにしました。扉が閉められ、いざ出発という時です。おばあさんが突然叫びました。

「忘れ物! 忘れ物!」

 私はとっさに、身の回りを確認しましたが、これといって忘れたものなどありません。茶屋に戻って、再び出てきたおばあさんの手には、なんと、あのまずい紙コップがあったのです。バスの空いている窓から、それを受け取った私は、うれしいやら、迷惑やら、複雑な思いでした。

 おじいさんとおばあさんが二人揃って、店の前に立って手を振っています。もう一度お礼を言おうとしたのですが、バスはそんなことおかまいなしに発車してしまいました。

 停めてほしいとも言えず、私は仕方ない、無事に家に帰ったら、改めてお礼に伺おうと、その時は考えていました。

 ヒロ君はと見れば、驚いたことに、さっきの紙コップを持って、おいしそうにすすっているのです。そんな様子を見て私は、いくらおなかが空いていたにしろ、今度ばかりは本当にヒロ君が味音痴になったとしか思えませんでした。このことも不思議です。

 さて、二人しか乗っていないバスは、結構なスピードで走り続けました。一番後ろの座席に、二人で座っていたので、かなり揺れを感じました。でも、何だかその揺れが心地よく、妙な気分でしたが、きっとトトロで有名なネコバスに乗ってゆられている-そんな感じではないかと思いました。実際、ネコバスに乗ったことはないのですがね‥‥。

 しばらくすると、窓の外に駅らしい建物が見えはじめ、どんどん近づいてくると、そんなネコバス気分もすっとんでしまいました。この時ようやく、家に帰ることができると、実感できたのです。

 でも、降りるとなると、このバスに、いくら料金を払えば良いのでしょうか。運転手さんは前を向いたまま、一言も口をきいてくれません。そういえば、運転手さんの顔も暗くてよくわかりませんでした。料金表はというと、一応点灯しているのですが、時間外だからでしょうか、全面にわけのわからない数字が出ていて、揺れる度に点滅し、ちんぷんかんぷんなのです。


 どうしようか迷っているうちに、左方向から、駅に向かう電車が見え、次に、見覚えのある今朝降りた駅が、私の視界にとびこんできました。会社員らしい人達も駅の向こう側に見えました。その時は、嬉しくて嬉しくてヒロ君がいなかったら、私はその場でとびあがって喜んだにちがいありません。

 その時バスの停まるのがわかりました。扉が開いたので、私はヒロ君を先に行かせ、降りたのを見届けました。それから財布をにぎりしめ、おそるおそる運転手さんに料金を尋ねました。すると、前を向いたままの運転手さんは、左の手で犬でも追い払うかのように、降りろという手振りを見せました。私は仕方なく、とりあえず降りてからにしようと思い、その手振りに従いました。

 バスは私を降ろすと同時に扉を閉め、あっという間に暗闇の中へ走り去っていきました。私はバスの方を向いたまま、あぜんとして見送ったのです。それからもう一度、ゆっくり向きを変えると、やっとの思いでたどり着くことのできた駅が、そこにはありました。

 バスを降ろされたその場所から、駅の方にむかって、一歩踏み出した時です。夢の世界から不意に現実社会へ舞い戻ったような、不思議な感覚に襲われました、その感覚は今でも覚えています。

 ヒロ君は、うれしそうに駅の方へ走り出しながら、私を呼んでいます。

「おかあさん!早く早く!」

 私もヒロ君の後を追って行き、駅の雑踏の中に身を置きました。さっきまでの不安や恐れが一度に拭い去られ、大嫌いな人混みがこんなに心地よいと思ったことはありません。

 切符を買い、電車に乗り込んだ時には、空いている座席にすわるや否や親子ともどもぐっすりと寝入ってしまいました。そのため今度は、自分達の降りる駅を乗り越してしまうところでした。

 家に戻ると、母親(ヒロ君のおばあちゃんですが)が心配して、今か今かと待ってくれていました。とりあえず、まだ、捜索願いは出されていなかったようで、ほっとしました父親にはこれまためちゃめちゃ怒鳴られ、叱られたことは言うまでもありません。

 すぐにでも助けてくれたおばあさんやおじいさん達に、お礼をしに出かけたかったのですが、疲れがどっとでてしまい、私はしばらく寝込んでしまいました。

 一週間程して、ようやく元気を取り戻した私は、早速、ちょっとした菓子折りを持って、反対側の登山コース入口(出口)のバス停をめざし、出かけました。

 けれど、そこに着いてみると、不思議なことに、何かが違うのです。たしかに、この場所だと思うのですが、何か少しずつ違っているのです。

 バス停から少し離れた所に、茶屋らしきお店はあるにはあるのですが、何となくあの時の茶屋の造りとは違っていました。暗かったから、私の勘違いかもしれないと思い、店の中に入ってみましたが、あの時置いてあった物や、売っていたものも見あたらず、何より、そこにいる人達の中に、あの時のおばあさんはいませんでした。

 もとに戻ってバス停が違うのではないかと思いましたが、どう記憶をたどっても私の覚えているのは、そこしか考えられないのです。そんな調子ですから、むろん山から降ろしてくれたおじいさんと花子さんにも、会えるどころか場所さえ特定できず、何もできないまま、わからなくなってしまいました。



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