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   Part8 不思議体験

 と、その時です。突然、バチバチという火花が散るような音が、風の音とともに聞こえました。見ると、遠くの方に、赤い光のようなものがあります。

 不思議に思いましたが、もしや誰かがいるかもしれないと考え、おそるおそるその光の方へ行ってみることにしました。

 夕闇の中、その光をたよりに近づくと、バチバチという音から、それが焚き火だとわかりました。ヒロ君は、寒かったのでしょう。いつのまにかその火のそばにきて、しゃがみこんだままあたっています。私もあたろうとして近づくと、急に黒い影が振り返りました

 おじいさんが立っているのです。落ち葉を集め、掃除をしているのか、竹ぼうきを持っていました。

 でも、このあたりに民家があったでしょうか?まさか幽霊でもあるまいし‥‥。困った時の神だのみならぬ、幽霊だのみとばかりに、私は思いきって声をかけ、道に迷ってしまったことを話しました。おじいさんは無表情で聞いていましたが、

「あんたかい」

と、つぶやくように言いました。少し間をおいて、今度は大声で、

「花子さん!花子さん!」

 と、誰かを呼んでいます。周りには生い茂った木々があるだけで、何もないはずでした 突然、これまた無愛想な感じの三十代位の女の人が、どこからか現れて立っています。

おじいさんは花子さんに言いました。

「道に迷ったそうだから、送ってあげて」

 花子さんと呼ばれたその女の人は、ヒロ君の方を見て、少し和らいだ表情をしたかと思うと、すぐに私をジロリとにらみつけました。花子さんは眉をひそめたままあなた‥‥と言いかけましたが、そのまま茂みの奥に姿を消しました。-というふうに、私には見えました。

それからおじいさんは、私のそばにきて、耳もとでボソッとこう言いました。

「ガソリン代くらいのお礼はしてやって」

 私は何がどうなっているのかわからないまま、とにかく財布からいくらかお金を出して包み紙にくるみました。

 すると、これもまた唐突にクラクションが鳴り、信じられない事に、黒い大きなクラシックカーが目の前に現れました。その運転席には花子さんが乗っていたのです。ヒロ君はとみれば、ちゃっかり助手席にすわり、手を振っているではありませんか。おじいさんにせかされて私も車に乗りこみました。車が走り出すと、私はおじいさんにお礼を言い忘れていたいことに気付き、振り向いたのですが、もうその姿はありませんでした。

 車の中は広くてすわりごこちもよく、きもちよさそうにしているヒロ君は、ホッとしたのでしょう、このまま降りたくない様子でした。

 車は下り坂のクネクネしたアスファルトの道を、かなりのスピードで走り抜けていきました。そしてあっという間に、山道コースの出口まで着くと、花子さんは少々乱暴に車をとめ、私とヒロ君に降りるように言いました。

 正直な話、山から降りることができたのは助かったのですが、こんな時間に、こんな所で降ろされても、この後駅までどうしたらいいのでしょう。

 私が困惑しているのもかまわず、花子さんはドアを開け、降りるのを待っています。私とヒロ君は、仕方なく車を降りると、花子さんにお礼のお金を渡しました。

「これ気持ちです。受け取って下さい。」                                                                         

私がさし出したとたん、何の躊躇もなく、それを受け取った花子さんは、バタンという扉の音とともに、もときた道をすごい勢いで走り去っていきました。降ろされた私とヒロ君は、その場で途方にくれてしまいました。

 しかしながら、とにかく山からの脱出は成功したのです。あとは、帰る手段としてバスや電車が必要です。

 少し離れた所にバスの停留所がありました。そこまで行ってみましたが、案の定、最終バスは思った以上に早い時間で、終了していました。

 何にしても、ここから歩いて、電車の駅まで行くにはやはりあまりに遠すぎます。周りは田んぼや畑がずっと続いていて、どっちの方向が駅なのかさえわかりませんでした。

 ふと見ると、小さなお茶屋さんらしきお店が、一軒ポツンと立っています。天の助けとばかりに、私はヒロ君の手を引っぱって、誰かいて下さいと、心の中で叫びながら走りました。近づくと、店の中には明かりが見えます。けれども、店の外にある腰かけには布がかぶせられ、すでに閉まっている様子でした。私は中の明かりにむかって声をかけました「すみません。道に迷って、やっとここまで来たのですが、どなたかいらっしゃいますか?」

 すると、中からおばあさんが出てきました。今度は見るからにやさしそうで、かわいらしいおばあさんでした。

「まあまあ、それは大変だったねえ。かわいそうに‥‥」

 ヒロ君が、ものも言わずしゃがんでいるので、疲れ果てているのが一目でわかったのでしょう。おばあさんはそう言ってヒロ君と私をお店の中に入れてくれました。

すると、奥の方から、おじいさんも顔を出して、私に頭を下げました。おばあさんが、道に迷ったのだと話すと、おじいさんはボソッといいました。

「あんたかい」

たしかに、『あんたかい』と、聞こえました。

 そう言われて、私は一瞬ビクッとしました。さっき山であったおじいさんが、やはりボソッと言った言葉を思い出したからです。たしか花子さんもそう言いかけました。後でその言葉は、ひどく気になったのですが、その時は家に戻れるかどうかの瀬戸際で、それどころではありませんでした。

 おばあさんに、何とか駅まで送ってほしいと頼みました。するとおばあさんは、気の毒そうな顔をして答えました。

「私らは通いでね。近くに住んでいるから、自転車で帰る所なんだよ。」

 自転車と聞いて、ヒロ君も私もがっかりしてしまいました。おばあさんは、その様子を見て、笑いながらこう言いました。

「だいじょうぶ。わたしらが送ってあげるのは無理だけど、バスがあるから、たのんであげようね。」

 バスがあるって‥‥!? バスならもう最終が行ってしまったし、たのむならタクシーでしょう?そう思って見ていると、おばあさんはそそくさと、古い大きな年代物と一目でわかる黒電話を取り出しました。

 その電話の前にすわって、受話機を取ると、ジーコンジーコンとダイヤルを回しはじめたのです。

「あっもしもし? 山の茶屋ですが、道に迷った人がいるんでな。バスを出してくれんかのう?」

 私はおばあさんの話を聞いていて、びっくりしてしまいました。この人は、私達二人のためだけに、バスをチャーターしてくれているのです。一体、いくらかかるのでしょう。瞬間、頭の中の計算機が動き出したのですが、すぐに計算不能のまま私の頭はとまってしまいました。

 私が唖然としている間に、いつのまにか話はついたようでした。

「今、来てくれるっていうから、ゆっくり待っていなさいよ」

 おばあさんは事もなげにいいました。もう何が何だか、時間も何時なんだかわからなくなっていましたが、私はどうにかなるさと覚悟を決めて、ヒロ君とお店で待たせてもらうことにしました。おばあさんはヒロ君に尋ねました。

「おなかがすいているだろ? 何か食べたいもの言ってごらん?」

 お茶屋さんといっても、もう帰る所だったのですから、何もないくらいきれいに片付いていて、作れるものなどなさそうでした。

 ところが、何を思ったのでしょうか、ヒロ君は、この夏の季節に

「お雑煮が食べたいー」

と、言ったのです。

 我が子ながら、なんであの時、お雑煮だったのか‥‥。それも不思議でした。それにヒロ君はこの時のことを後から聞いても、全くといっていい程覚えていませんでした。

 そしてまた、これも不思議なのですが、ヒロ君にそう言われて、さぞ困るだろうと思いきや、おばあさんは平然と答えたのです。

「はいはい。お雑煮ね。」

そう言うなり、店の奥に入っていき、3分もたたない内に、紙コップとわりばしを添えて、二人分出してくれました。ヒロ君は、きっとよっぽどお腹が空いていたのでしょう。紙コップを渡されるや、ガツガツ食べ出しています。

「おかあさんもどうぞ」

 そう言われて、目の前に置かれた紙コップの中を見ると、たしかに白いお餅のようなものが、湯気のたつ色のない汁に浮かんでいました。本当は、食べる心境ではなかったのですが、せっかくの厚意を無駄にしては申し訳ないと思い、わりばしを取り、一口汁をすすりました。その途端、私は思わず紙コップを落としそうになりました。水のような色のない汁のあまりのまずさに、顔がこわばるのを自分でも感じました。お世話をかけているとはいえ、お世辞にもおいしいとはいえない代物だったのです。そうすると、同じ紙コップを受け取っているはずのヒロ君が、喜んで食べているのはどうしたわけでしょう。横目で我が子を見ながら、この子は壊れてしまったのではないかと、私は本気で心配しました。

                          

 しばらくするとバスの音がしたので、私はおじいさんとおばあさんにお礼を言って、茶屋から荷物を持ち、外に出ました。

 するとそこには、本当に本物の一台のバスが、エンジンをかけたまま、運転手さん付きで(あたり前ですが)待っていたのです。

 主婦の習性とでもいうのでしょうか。こんな時でさえ、私はバス代金が足りるだろうかとか、ねぎってまけてくれるだろうかとか、考える自分に気付き、苦笑しました。

 ヒロ君がさっさとバスに乗りこんで行くので、私もとにかく乗ってから考えることにしました。扉が閉められ、いざ出発という時です。おばあさんが突然叫びました。

「忘れ物! 忘れ物!」

 私はとっさに、身の回りを確認しましたが、これといって忘れたものなどありません。茶屋に戻って、再び出てきたおばあさんの手には、なんと、あのまずい紙コップがあったのです。バスの空いている窓から、それを受け取った私は、うれしいやら、迷惑やら、複雑な思いでした。

 おじいさんとおばあさんが二人揃って、店の前に立って手を振っています。もう一度お礼を言おうとしたのですが、バスはそんなことおかまいなしに発車してしまいました。

 停めてほしいとも言えず、私は仕方ない、無事に家に帰ったら、改めてお礼に伺おうと、その時は考えていました。

 ヒロ君はと見れば、驚いたことに、さっきの紙コップを持って、おいしそうにすすっているのです。そんな様子を見て私は、いくらおなかが空いていたにしろ、今度ばかりは本当にヒロ君が味音痴になったとしか思えませんでした。このことも不思議です。

 さて、二人しか乗っていないバスは、結構なスピードで走り続けました。一番後ろの座席に、二人で座っていたので、かなり揺れを感じました。でも、何だかその揺れが心地よく、妙な気分でしたが、きっとトトロで有名なネコバスに乗ってゆられている-そんな感じではないかと思いました。実際、ネコバスに乗ったことはないのですがね‥‥。

 しばらくすると、窓の外に駅らしい建物が見えはじめ、どんどん近づいてくると、そんなネコバス気分もすっとんでしまいました。この時ようやく、家に帰ることができると、実感できたのです。

 でも、降りるとなると、このバスに、いくら料金を払えば良いのでしょうか。運転手さんは前を向いたまま、一言も口をきいてくれません。そういえば、運転手さんの顔も暗くてよくわかりませんでした。料金表はというと、一応点灯しているのですが、時間外だからでしょうか、全面にわけのわからない数字が出ていて、揺れる度に点滅し、ちんぷんかんぷんなのです。


 どうしようか迷っているうちに、左方向から、駅に向かう電車が見え、次に、見覚えのある今朝降りた駅が、私の視界にとびこんできました。会社員らしい人達も駅の向こう側に見えました。その時は、嬉しくて嬉しくてヒロ君がいなかったら、私はその場でとびあがって喜んだにちがいありません。

 その時バスの停まるのがわかりました。扉が開いたので、私はヒロ君を先に行かせ、降りたのを見届けました。それから財布をにぎりしめ、おそるおそる運転手さんに料金を尋ねました。すると、前を向いたままの運転手さんは、左の手で犬でも追い払うかのように、降りろという手振りを見せました。私は仕方なく、とりあえず降りてからにしようと思い、その手振りに従いました。

 バスは私を降ろすと同時に扉を閉め、あっという間に暗闇の中へ走り去っていきました。私はバスの方を向いたまま、あぜんとして見送ったのです。それからもう一度、ゆっくり向きを変えると、やっとの思いでたどり着くことのできた駅が、そこにはありました。

 バスを降ろされたその場所から、駅の方にむかって、一歩踏み出した時です。夢の世界から不意に現実社会へ舞い戻ったような、不思議な感覚に襲われました、その感覚は今でも覚えています。

 ヒロ君は、うれしそうに駅の方へ走り出しながら、私を呼んでいます。

「おかあさん!早く早く!」

 私もヒロ君の後を追って行き、駅の雑踏の中に身を置きました。さっきまでの不安や恐れが一度に拭い去られ、大嫌いな人混みがこんなに心地よいと思ったことはありません。

 切符を買い、電車に乗り込んだ時には、空いている座席にすわるや否や親子ともどもぐっすりと寝入ってしまいました。そのため今度は、自分達の降りる駅を乗り越してしまうところでした。

 家に戻ると、母親(ヒロ君のおばあちゃんですが)が心配して、今か今かと待ってくれていました。とりあえず、まだ、捜索願いは出されていなかったようで、ほっとしました父親にはこれまためちゃめちゃ怒鳴られ、叱られたことは言うまでもありません。

 すぐにでも助けてくれたおばあさんやおじいさん達に、お礼をしに出かけたかったのですが、疲れがどっとでてしまい、私はしばらく寝込んでしまいました。

 一週間程して、ようやく元気を取り戻した私は、早速、ちょっとした菓子折りを持って、反対側の登山コース入口(出口)のバス停をめざし、出かけました。

 けれど、そこに着いてみると、不思議なことに、何かが違うのです。たしかに、この場所だと思うのですが、何か少しずつ違っているのです。

 バス停から少し離れた所に、茶屋らしきお店はあるにはあるのですが、何となくあの時の茶屋の造りとは違っていました。暗かったから、私の勘違いかもしれないと思い、店の中に入ってみましたが、あの時置いてあった物や、売っていたものも見あたらず、何より、そこにいる人達の中に、あの時のおばあさんはいませんでした。

 もとに戻ってバス停が違うのではないかと思いましたが、どう記憶をたどっても私の覚えているのは、そこしか考えられないのです。そんな調子ですから、むろん山から降ろしてくれたおじいさんと花子さんにも、会えるどころか場所さえ特定できず、何もできないまま、わからなくなってしまいました。


  Part9 謎の言葉

この不思議なできことをどう受けとめていいのか、ずっと考えてきました。それに、後になって私は、あの時のおじいさん達の言った言葉-「あんたかい」。確かに、二度も聞いた「あんた」という言葉が気になって気になって仕方ありませんでした。

 昔、あの辺りは今のような登山コースなどなく、天候も不順で、荒れた土地だったそうです。大雨ともなると、山くずれがおこったり、険しい山道が多かったため、道に迷う人や、川が氾濫して流され、怪我をする人や、命を落とした人がいたと聞いています。

「あんたかい」

 という言葉は、少なくとも、他に道に迷った人がいる、あるいはおじいさん達自身も、そういう目に遭ったことがある、ということを容易に想像させます。けれど、本当の所は、会うことさえできないこんな状態ではわからないままなのです。

 とにかく、一番大事な点は、私とヒロ君が遭難せずに、無事に帰ることができたということです。そして、それができたのは、山で出逢ったはずのおじいさん・花子さん・茶屋の老夫婦・バスの運転手さん-あの人達のお陰なのです。そして、私が心から感謝しているというこの気持ちを、もう一度会って伝えたいということです。どうして逢うことができないのでしょう。私とヒロ君を助けてくれた人達に、なぜ会えないのか、不思議でした

 私は、その後、数年間中学校の先生を続けました。いつも中学一年生を受けもった私は授業の一環として、読み聞かせの時間に、私の不思議な体験話を聞いてもらいました。生徒達はとても興味深く聞いていましたが、どのクラスでも、一番反応の手応えが大きかったのは、おじいさんの「あんたかい」という場面でした。話が進んでいくうちに、別のおじいさんが再び同じ言葉をいう所でも、かなりの反響がありました。

 話が終わると、生徒達には、思い思いに疑問点や感想などを書いてもらいました。謎の言葉への意見がダントツに多かったのですが、他にも〝ネコバスみたいな乗り物にのれるなんて夢のよう〟とか、〝たった二人きりで大きなバスにしかもただで乗れるなんてうらやましい〟とかいったバスの事と、〝先生の子供は、先生よりしっかりしている〟とか、〝ヒロ君はえらいなあ、会ってその時の話を聞きたい〟とか、〝ヒロ君はどうしてお雑煮を食べたかったんだろう〟とかいったヒロ君の事も多く出されました。

「あんたかい」

その言葉を言ったおじいさん達については、〝昔道に迷って、亡くなった幽霊だったんだ〟とか、〝三次元の世界の山に住んでいた人だよ〟とか、いろいろ書いてくれました。

けれど、この謎めいた言葉については、結論がでるというものではありません。ただ、いろいろな意見の中で一人の生徒がこう書いてくれていました。

<先生のような方向音痴で道に迷っている人の所へ、姿を変えて現れて、あんたも道に迷ったのかい?しょうがないなあ、二度と迷うんじゃないよと、言いながら助けてくれる山を守っている神様達じゃないかと思う>と。

 山を愛し、山で亡くなった人達は、そんなふうに神様になって、山を守っているのでしょうか。そう思ったら私としてはそれを正解にしますと言いたくなりました。私のこの体験話を聞いた生徒達は、この話を他の子供達にも話してあげてほしいと言ってくれましたこうやって話しているうちに、そうしているうちに誰か知っているかもしれない、知っている人に出会うかもしれない、いつかおじいさんや花子さんに会えるかもしれないからというのです。

生徒達がこんなに興味を持ち、私のためにいつかあのおじいさん達に会えるように、誰か知ってる人が出てくるようにと言ってくれたのに対して、当のヒロ君は、道に迷ったことは覚えているものの、私が何かあの時のことを問いかけても、覚えていないの一点ばりでお話になりません。ただ、迷ったことがよほどこたえているのか、山登りにおかあさんと二度と行かないとだけ言われました。だから、あの不思議な山での体験がヒロ君と私の最初で最後の二人きりの「山登り」になったのです。
              

第三章 後日談

 あの山は、一体どこにあるのでしょうか。

 私とヒロ君を救ってくれた、おじいさんや花子さん、茶屋のおばあさんは、どこにいるのでしょうか。

 あれからまた、数年が経ち、私の中の不思議体験は、少しずつ薄れてしまうはずでした

今私は、仕事をリタイアして、普通のおばさんをやっています。でも、仕事をしている間はずっと、中学生の子供達に、必ずといってよいほど、読み聞かせ話―不思議体験を語ってきました。子供達は一様に、興味を持って聞いてくれました。「あんたかい」という謎の言葉にも、いろいろな意見をだしてくれました。でも今となっては、この体験話を伝えることも、本にすることもできないまま、終わってしまうはずでした。

 ところが、この春、息子のヒロ君が二十七歳を迎え、亡くなった主人のタカヒロと同い年になったのです。と同じくして、ふってわいたように、縁あって息子に結婚話がもちあがり、この春、式をあげることとなりました。そんなある日、息子の所に遊びにきていた彼女に、ヒロ君が何気なくこんな話をしているのを耳にしたのです。 

「俺、昔のことなんだけど、小さいころ、かあさんと山登りに行ったことがあってさ。道に迷って遭難しかかったことがあったんだよ。そのとき知らないおじいさんに助けてもらったんだ。おばあさんには、お雑煮をもらって食べたんだよ。」

 何とあろうことか、あのときのことを息子は覚えていたのです!私は、思わず声をあげそうになりました。  

 私があの時、遭難せずに無事に帰ることができたのは、何よりこの息子を助けたい一心からでした。その気持ちを組んで、確かに山の神様達が、助けてくださったのかもしれません。けれど、今、息子の言葉を聞いたとたん、思ったのです。あの時もし遭難していたら、息子を助けられなかったら‥‥。

 そうです!あの時助かっていなければ、息子はこんなときを迎えることはなかったのです。そう思ったら、突然、またあの時の山登りでの不思議体験がよみがえってきました。そのときの様子や思いが、沸々と呼び覚まされる感じでした。

 今になってみれば、あの幼かった息子が、方向音痴の私に向かって、まるであの頃の夫の背中を思わせる姿で、私を分岐点まで連れて行ってくれたのは、偶然ではないと思えるのです。あの時の苦しかった山道・・・夫はあの時あの山にいたのでしょうか。私と息子を見守っていてくれたのでしょうか。

 息子が彼女と出会い、結婚を決めた二十七歳は、くしくも無くなった夫と同じ年なのです。あの時、助けてくれたおじいさん達が言った「あんたかい」という私以外の誰かとは、もしや夫のことだったのではないでしょうか。山を愛し、山で亡くなった人達のあの世界に、夫がいることを知っていて、あなたと言ったのです。ヒロ君と私まで、来てはいけない世界に入り込んだことを言いかけたのでしょう。夫が私とヒロ君を、もとの世界に戻れるよう、山の神様の力を借りて、助けてくれたのです。

 息子の結婚話を機にこの不思議体験話を、痛いほど、切ない程に思いおこし、感謝の気持ちでいっぱいになりました。切々とよみがえるあの時のあの情景に涙さえあふれてきました。

 この日を境に、私はやっぱりこの話を、聞いてもらいたい・知ってもらいたいと考え、本にしたいと、書こうと決めました。大切なたった一人の息子を守る事ができた不思議な体験話を・・。

 それにしても、やっぱり気になるのは、あの山です。あの山は、本当にどこにあるのでしょう?あの分岐点から、私は、別の山にいったのでしょうか?確かに山はあったのです

あの山のことを、もしかして誰か知っている人はいませんか?

私以外にも、私とよく似た体験をした事がある人はいませんか?

この不思議体験話を読んでそうそうとうなずいている人がいるかも知れませんよね。

どうしてもどうしても、伝えたかった私の話「山登り」はこれで終わりです。

 いつかまた、偶然にも、山登りをしていて、道に迷ってしまったら、ふとした瞬間に、おじいさんや花子さんに、めぐり合うことができるかもしれない。迷った山道を、相変わらずの方向音痴の私が、振り向いたら、そこにある目の前の背中は、きっと夫のものかもしれません。

 そうしたら、そのときこそ、この不思議体験話が、すっかり、すっきり、解けるのではないでしょうか。

そんな日を願って、私はこれから毎日を過ごします。あのとき助けられた大切な命だから、一日一日を大事に過ごします。

 おじいさん、花子さん、お茶屋のおばあさん、ありがとうございました。ここでお礼を言います。言っても言っても、言い尽くせないほど感謝の気持ちで一杯です。

 そのお陰で、ヒロ君は、私だけでなく、新しい家族を守るヒーローとして人生を歩んでいけます。

 それから、私が教鞭をとっている間、一生懸命話を聞いてくれた教え子のみんなにも、ありがとう!この話を覚えていてきっと懐かしんでくれるかもしれませんね。みんなのおかげで、今までの胸のつかえが下りたように思えます。

 こうして筆をとり、本にすることができたことに感謝感謝!!

 〝私の話、読んでもらえましたか?〟

 〝あなたはこの話をどう思いましたか?〟            完            

                       


この本の内容は以上です。


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