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導入部

 十代の頃から深夜ラジオのリスナーとしては、クイーンの「レディオ・ガ・ガ」の詩を知ってしまうと涙を禁じえない。八十年代の前半というラジオが廃れていく時代に「ラジオにエールを送るために」歌われた曲である。(小林克也の受け売り)
 洋楽は基本的に歌詞を読まないと面白くない。
 それはグッチさん(芸能界料理王)も言っている。(それにしても、「GO! GO! MANIAC」は本当にカントリーにカテゴライズされるのだろうか? グッチさんは『ハッチポッチステーション』のニセPVで子供たちを騙していたように、私たちを騙していないか? ホンモノのPVを観た大人になった子供たちが「あ? こいつら、グッチさんのマネしてる」「KISSって、KISSAのマネしてるぞ」と、テレビの前でつっこみを入れさせるインプリンティングをしたみたいに)
 だけど、おかしいのもある。
 フェイ・ウォンの「夢中人」は「夢の中の人に恋したこと」を歌っているのであって、クランベリーズのカヴァータイトル「フリーマン」は、意味が違っていないだろうか? 「アローン・アゲイン」をなかにし礼が邦訳した「超訳歌詞」並におかしいのではないか? 夢の中で会った人に「一分間抱きしめて」「十分間キスして」ということを訴えかける歌なのだが……
 冗談はさておき、ラジオの話に戻そう。
 ラジオはほとんど、聞かれなくなったメディアだ。ラジコやポットキャストなどで、宇野常寛さんのいうように「ネットを逆手に取れ」ということを、今まで積極的にやっていたから、なんとかなっていたけど、これからは、苦しいんじゃないかな。
 ここでやっと本題に入るが、紙製書籍の「レディオ・ガ・ガ」を今、歌われないといけないんじゃないかなあ。
 繰り返しになるが「レディオ・ガ・ガ」が歌われた時代背景と今の出版業界は似ている気がする。書籍を手にとらなくなる過程は、みんながラジオから耳を遠のいていくのに似ているのだが、ガ・ガ的な「くだらないもの」、「つまらないもの」が氾濫しているわけではない。
 むしろ、動きとしては、青少年育成の都条例などの規制がきつくなっている。
 最近、鈴木みそ先生の『おとなのしくみ』を読み返す機会があって、今では雑誌「ファミ通」で規制されている女性の乳首を大っぴらに描いて載せている事実に、隔世の感がある。
 そして、「くだらないもの」、「つまらないもの」が氾濫していないから、かえってつまらなくなっている気もする。
 さて、若者の活字離れと言われているが、今の時代は絶対読字量がむしろ増えている。
 手紙を書かず読まなくなっても、eメールの送受信は多くしている。
 本を読まなくても、ネットサーフィンで相当数の字を無意識に読んでいる。ツイッターのツイート(つぶやき)を読み、ソーシャルネットサービスでの交流で書き込まれた文字を読む。
 活字に触れる機会は減ったかもしれない。それよりも、モニター画面に映される電字に触れる機会が多いのだ。
 
 それでは、電子書籍が活況を呈しているかというと、ぜんぜんそうではない。
 
 基本的に「売れる本が売れる」。これは、どのジャンルでも“売れる商品が売れる”ように、書籍も商品だから、そこは変わりない。ただ、ベストセラーランキングに顔を出したものが売れるため、「順位上げ業者」というモノもケータイなどでは存在するので、問題になるだろう。
 これから、電子書籍、略して電書のことを語ろう。

販売の場合

 電子書籍を作るのは簡単だ。
 だが、質が高くて、それも売れる書籍を作るのは容易ではない。
 まず、手っ取り早く、アダルトコンテンツが売れるかというと、そうではない。ちゃんと、アダルトコンテンツを専門的に売るサイトでないと、売れない。雑誌で広告を打っているようなところでないと、ユーザーが買いに来ない。
 これは、パブー自身が雑誌で広告を打たなくていけない、あるいはグーグルのような検索サイトなどのネット広告をきちんとしなければならない、ということでもある。
 ネットの場合、専門的にしなければならないのだ。雑誌「サイゾー」連載のマンガ、田中圭一著「教えてっ 真夢子おね~さん」第四十八話で、ゲストに迎えたデジタルコンテンツパブリッシングの山川真太郎が“「デジタルデータを買う人たちって 目的がはっきりしてますんやわ」”と言っているように、「専門店化」しないといけない。他の電子書籍関連の本でも、同様のことが書かれている。
 だから、『charity magazine』みたいな、たくさんの内容をバラエティー豊かに投入する方法は、ユーザーニーズから鑑みて適していない。
 はっきり言わせてもらうと、パブーで売れるソフトはわからない。だから、パブーは早急にヒット商品を生み出さなくてはならない。鈴木みそ先生「放射線の正しい測り方」、ma2・うめ『スティーブズ』のような無料提供ではなく、ちゃんとユーザーがお金を払って、購入した商品のことで、1万ダウンロードを越えるものが出ないと「何が売れる」のか、わからないのだ。
 ブクログとの関連から、ブックレビュー本がいいかもしれないが、「書評本を専門的に売る書店」が無いように、そういう専門店は開店できないだろう。
 ただ、書評本を集めたコーナーの設置やネット書店なら、可能である。だから、パブーで書評を集めた書籍を売る作家はいてもいい。しかし、書評本だけでなく、アジア料理やスイーツのレシプ本も売っていたりすると、印象がバラけてよくないのだ。複数のアカウントを取って、「書評本を売る」「レシピ本を売る」などのジャンルごとに「店構え」を分けるというのもある。
 では、売れた本の話をしよう。
 ベストセラーの場合、リアルブックの十分の一売れる。
 と、単純に思いたいが、どうもそうではない。
 紙書籍を電書化した、いわゆる電書版は四千部しか売れないと、言われている(だから『キュレーションの時代』は四千ダウンロードでおそらく頭打ちになる)。
 しかし、先ほど触れたベストセラーの具体的なタイトル『もし野球部の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』は紙書籍二百万部で、電子書籍は二十万ダウンロードを売り上げている。
 ここで、『もしドラ』が何故、電子書籍が売れたのか、私なりの分析をしてみよう。
 『もしドラ』と言えば、アレだ。
 巨人清武代表が女子スタッフが机の上においているのを、「週べ」連載の「野球は幸せか?」に書いてあるぐらい、例のゆきウサギが描いた萌えキャラで、「売れるためなら、絵で売らなくちゃな」と、『大東京トイボックス』のメガネさんみたいなことを思う。つまり、表紙に萌えキャラがパッケージングされているのは、売るための理由であることは明白だ。
 しかし、女の子が表紙で本屋さんではレジに持っていきにくい(恥ずかしい)ところがあり、そのためにネットを介して買える電書が購入された……というのは、早計である。レジまで持って行きたくないなら、アマゾンで購入すればいい。マンガの新作タイトルが一二巻同時発売なのは、アマゾンユーザー向けの販売方法であった。(注・昔は千円以上で送料無料であった)
 ブックユーザーの中には、リアルブックの廉価版として、電子書籍を購入している方もいる。その場合、普段は文庫本の購入を主にしていると、考えられる。さらに、文庫化されたということは、それなりの評価に耐えたもので、品質は信用できる。
 したがって、仮定される電書ユーザーのイメージは、

・ ベストセラーだけどまだ読んでない
・ 女子表紙が恥ずかしい
・ アマゾン利用よりも安価
・ 文庫本ならほしいが出ていない

 これらの条件をいくつか満たした、その数が二十万人程いた。ということになる。DReaderもビューアとして優れていたのも見逃せない。
 蛇足的にあえてあげるなら、リジェクトされない健全な青春小説であることも、幸いしている。
 デベロップメントをする側からは、アップルにリジェクトされてしまう点が、不満を与えている。そのため、アダルトコンテンツはアンドロイド系に流れると、予測される。
 ただ、音楽ソフトでは、リジェクトされるのか?
 『DMC』ではないが、悪魔系デスメタルバンドの曲はiTunes Storeで購入できても、歌詞を電書にしたモノはリジェクトされてしまうのか?
 それはおかしくないか?
 ただ、村上春樹『1Q84』の海賊版(注・本人の許諾無く出版した物)などが出た場合、それは明らかに著作権法違反だから、対処としてリジェクトするのは当たり前だけど、果たして法律違反外でリジェクトする理由は当事者だけでなく、第三者も納得できるものを説明できるだろうか。

 ともかく、電書版『もしドラ』が売れた結論は総合的に考えても、話題性にある。
 日垣隆が足利事件を冤罪ではないかと、疑っていたことを書籍に書いていたが、絶版されていて自身のホームページでPDFデータを売り、価格千五百円で一万部売った。
 このような実例を鑑みても、電書販売ランキングで上位に位置していたから、『もしドラ』は二十万部も売れた条件と考えるのが、適切だろう。
 「売れている」という話題性を提供するのがランキングであるからして、その上位に食い込めるのは「売れている」理由になる。それがまた話題となる。売れるスパイラルに入ったから、さらに売れるということ。
 特筆することはダイヤモンド社が文庫レーベルを持たない場合、電書販売は非常に有効な手段だったといえる。
 逆に文庫レーベルを持つ出版社は、自炊型電書の発行には、ユーザーがバッティングする可能性を考慮して、電書化を躊躇するのでは? とも思える。
 だから、文庫レーベルを持つ大手出版社が単行本を電書化するのは、話題性の獲得が目的である、とも思える。
 話題性による広告効果がもたらされると紙製書籍の売り上げもよくなる。電書の無料提供であっても、紙製書籍の販売に影響を与えて、紙の本が売れるらしい。ここでeブックでは満足できない、ペーパーユーザーがいることがわかる。
 あと、述べることがあるとすれば、電書は新古書店で売ることができない、という点に触れる。
 よく、テレビゲームでソフトを早解きして、中古販売価格が高いうちに売り抜けするという、ゲームユーザーと同じく、単行本を早く読んで売るという、生産者としては「いただけない」ことをする読者もいる。
 しかし、電書は中古販売できない。そもそも貸す事自体、DMRがよくできていれば難しい。タブレットごと渡さないといけないので、電書ユーザーは二台のタブレットを必要とする。(DRMのことを考えると、いたしかたないのでは?)
 電書価格が単行本の価格より安い場合、新古書店で売りぬけした場合と、ほぼ同じ費用で本が読める。手続きの手間を考えると、電書購入(ダウンロード)にシフトした方がいい。
 だから、新古書店対策として、電書市場を拡大するというのは、出版社側としては得するが、ステークホルダー(利害関係者)としての印刷会社や製紙会社、流通(取次ぎ)やリアル書店に、気兼ね無くすることはできない。
 これは全てのステークホルダーが問題を解消するアイデアではない。
 電子書籍市場が拡大すればするほど、一部のステークホルダーが窮地に陥る。ただ、コンビニエンスストアと同じ数だけ全国にあった貸本も、時代の流れで無くなったように、廃れる業者が現れるのは歴史が証明している。
 よく言われるように、少し前のiPod登場で音楽業界に起きたことと、同じことが出版業界で起きている。
 そのため、紙メディアでは、電書やタブレットに否定的である。
 だが、フェアネスではない部分がある。
 雑誌「サイゾー」の元編集長が言っているように、一日に新聞に使われるパルプ紙の量はものすごい。巨大なバルプが消費されている。
 パルプは海外で伐採した大木を現地の工場で細かく砕いて、繊維にして丸めたものを輸送巨大タンカーで運び、製紙会社が本や雑誌の紙に製紙する。この過程で化石燃料をどれほど使っているか、紙媒体は知ってるくせにデータを出さない。さらに企業がメディア・コングロマリットだから、テレビでも見せることができない。経費水増しをしていた東京電力と同じことをしている可能性・疑いがある。
 たとえば、実際に雑誌製本に使われるエネルギー量と、単なるCD―RにPDFデータを収めた電子書籍と、iBook Storeなどのネットでダウンロードされている電書にかかるエネルギー量を三つ相対評価したら、武田邦彦先生でなくても、「これはおかしい」と思うはず。
 ここに、日本発のタブレットが苦戦を強いられてきた原因があるのではないか? と思える。シャープはガラパゴスの自社販売から撤退したことからも、現状は変わらない。紙メディアを持つメディア・コングロマリットの「見せない(オカルト)」メディアキャンペーンに負けてきた歴史ではないだろうか?
 タブレットを市場から締め出ししたいのが、出版業界の本音ではないか?(というのは実はうがった見方なのだが) それが表れているのか、雑誌の電子書籍特集では、必ずタブレットを批判し、紙の書籍に軍配を上げたがる。
 では、タブレットについて、次に語ろう。


タブレットの場合

 雑誌などでタブレットの問題点を出せば出すほど、タブレットのバージョンアップの際に質が向上する、「批判のジレンマ」に陥る。
 徳大寺さんは「間違いだらけの車選び」シリーズを出せなくなった理由を、「トヨタは指摘したことを必ず直してくる」ということを挙げている。
 「足回りが悪い」と言えば、足回りを直すし、「空間が狭い」と言えば、空間を広げた工夫を、マイナーチェンジ及びモデルチェンジのときにしてくる。
 すると、今のトヨタ車には欠点が無くなっている。
 単純に選ぶのが「間違い」だった車が、「間違いようがない」の車になったのだ。(ただ、旧車マニアの方には、そこにもの足りなさを感じる)
 タブレットも、おそらく同じ経過を経る。
 「重い」「重い」と言われたiPadは、iPad2ではかなり軽量になった。マイナーチェンジで足回りを直したようなものだ。
 これはタブレットの電子書籍を表示するビューアにも言える。
 よねやんこと米光一成さん(以下よねやん)がブログで、「紙の本はペラペラめくれていいなあ」と言えば、電書を「雑誌のようにペラペラめくれる」ビューアがやがて開発されるだろう。
 カラスヤサトシの言うように、「フロに入っていても読める」雑誌や絵本(子供がジュースをこぼしても大丈夫なモノ)などのアドバンテージもやがて失われる。なぜなら、生活防水のケータイが現れたように、生活防水のタブレットが必ず現れる。
 ところで、雑誌「ダ・ヴィンチ」はオチが決まっていて、電書特集を組んでいる。それは「紙の本がいい」である。
 雑誌という紙媒体なのだから、当たり前のオチだ。
 映画館で上映される映画で「映画なんて観てないで、DVD借りて観ろ」とのたまう映画がないようなもの。
 紙の本に軍配をあげるためには、タブレットの弱点をつくしかない。しかし、それはタブレットの改良点をなんのモニター費用もかけずに提供することになる。それが「批判のジレンマ」だ。
 批判されて向上した性能のタブレットは、リアルブックが太刀打ちできなくなる、恐れもある。このような危機感をもたない出版社は滅びるのだろう。
 それはともかく、前章の山川真太郎のコメントのように、ネットで売るならサイトを専門店化しないといけないように、タブレットもおそらく専門化する。アダルトコンテンツを買うならアンドロイド系などに住み分けられるだろう。
 Wii Uはタブレットで攻略本を読むことになる。バーチャルコンソールをダウンロードするWii ショッピングで電書もダウンロードできるようになるはず。もちろん、ダウンロードしたバーチャルコンソールのソフトの攻略本を読むのだ。
 すでにWiiでは電書が売られている。それは『ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ・Ⅲ』の製作情報の閲覧できる付録である。これが、Wii Uであればタブレット型コントローラーで堀井雄二の描いた拙い絵を見ながら、テレビ画面で鳥山明が描いたモンスターを見比べることができる。(あまりの変わりように唖然とする)
 極端な話、新聞社は自社の新聞しか読めない(配信しない)タブレットを配ってもいいはずだ。これで悪しき押し紙もなくなる。できないとすれば、やはり利害関係者の存在だろう。
 だから新規参入する業界新聞、あるいはSNSなどは自社発行新聞閲覧専用のタブレットを出すべきでは?
 具体的なサイトだと、ニコニコ動画やミキシィで、ニコニコニュースやミキシィニュースを新聞記事風にあしらった、eニュースペーパーが毎日配信され、ニコ動なら新着動画の情報、ミキシィなら参加コミュニティの新しい書き込みがメールで来るのを配信する、サイトの新聞化電子書籍閲覧専用のタブレットをユーザーに配ったほうがいい。
 「そんな、単独サイト閲覧専用にしか出来ないタブレットなんて」と思う方もいるかもしれない。じゃあ、録音の出来ないウォークマンは何故、売れたのか? 機能を多角的に充実されるのは、もうiPadがやっている。単独機能に特化させることこそ、ユーザーに求められるタブレット像だ。
 それなら、ライトノベル専用の、タブレットというよりリーダーがあった方がいい。
 ライトノベルの電書化が結構有効だと思われる。挿画がもともとカラーイラストであれば、コストもかからず表示できる。はっきり白状すると、『俺の妹がこんなに可愛いはずがない。』とか『IS<インフィニット・ストラトス>』などは、この年になるとレジで買いにくい。(特に幼女がパンツをさらしている表紙とか……我々が目指していた未来のライトノベルはこんなモノだったのか!)
 話を戻して、中高生のスマートフォン普及率が高ければ高いほど、電書化が有効に働く。IT関連のソフトバンク文庫のコンテンツは、iPhoneにしか提供できない(SCEが親会社だと他社メーカーにソフトリリースできないデベロッパーのようなもの)けど、他のレーベルは複数のプラットフォームに提供できる。
 角川系列はいち早く、BOOK☆WALKERでライトノベルの販売を行うことを宣伝している。新聞に一面広告を出したのは、実は効果的だ。新聞には電力会社から広告出向で原発リスクを黙ってもらったように、今度も口にフタをしてもらうのだ。
 たくさん文庫を買うと意外にかさばるという問題があって、これは書店も読者も同じ悩みを抱えている。だから、文庫で絶版した作品は電書化して、アーカイブスにしてしまった方がいい。
 『まおゆう』みたいなネットユーザーに支持された作品は逆に早めに電書化した方が、ターゲットユーザーと電書ユーザーが一致していると思われるから、よいと思うのだが、書店に置いてもらえない、かさばる文庫を考慮するとアーカイブスで手に入るようにしたほうが、ユーザーのためにもなる。
 なぜなら、タブレットには、容量が許す限り、電書が入る。
 本棚のスペースの単位はメートル法の容積の世界だが、タブレットのスペースの単位はバイトである。
 一応、古書マニアの話では、
 「一冊の本には約十万円の場所代がかかる。」
 と、言われる。
 地価の高低などの家賃の違いはあるにしろ、一生本を手放さないなら、一冊につき十万円のスペース料を払うことになる。
 ところが、電書はバイトだから、仮に1メガバイトの電書を1テラバイトで一万円のハードディスクに保存すると、0・1銭で一銭にも満たないスペース料である。さらにムーアの法則では、2年後には1テラバイトの容量のハードディスクは、確実に五千円に半額になる(2テラバイトで一万円の商品が出る)。時間が経てば経つほど、かえってスペース料が減るのだ。(現在でも、無料のネットストレージを利用すれば、容量分無料である)
 つまり、タブレットにはもれなく本棚がついてくる。それは本が最低千冊は収まる。
 ライトノベルの電書化で、「本棚に空きが無い」ユーザーには利便のある、手頃なモノが提供できる。
 こうしたライトノベルの電書市場の拡大はタブレットの普及というよりも、スマートフォンの普及にかかっているのは、誰もが頷けると思う。だから、ラノベ専用のタブレットを販売してもいいはずと、先に結論を言った。スマートフォンとタブレットの間にある、リーダーのような大きさであれば、いいのではと思う。
 このようなタブレットかリーダーを売る店は、それは書店であるべきだ。ただでさえ、壊滅に瀕するだろう出版業界で、生き残れるところはリアル書店ではないだろうか。パソコンショップと同じと考えるべきだ。アプリケーションソフトのパッケージも売るけれど、パソコン自身の売り上げで利益を上げられるなら、書店もタブレットの売り上げで利益を確保して、あとはリーダーのソフトを売る……というのもありだと思う。店先の端末で電書が売れると、アフィリエイトのようなものが入る仕組みを考えないといけないだろう。
 そういえば、かさばるといえば、マンガである。そして、やはり、マンガ雑誌もかさばる。
 マンガ雑誌を専門に配信するタブレットがあればいいのだが、それについては次章。

 
 
 付記 被災地にタブレットを送れたか?

 
 注記 以後購入特典の内容であり、『charity magazine』の内容に加筆が加えられる予定となっている。


マンガの場合

 マンガの長期連載タイトルが増えるにつけ、単行本が本棚を占拠する。
 そこで、ラノベを電書にするべきと同じように、マンガの電子書籍の話になる。再三にわたって繰り返すがタブレットなら、本棚の心配はしなくていい。
 マンガ家にも朗報である。マンガの電書で一番の有利な点があるとすれば、カラーコストがかからないことだ。
 3.11震災直後で雑誌「ファミ通」が薄くなっちゃったのも、フルカラーに向く用紙がなかったからだ。「ファミ通信」はそもそもカラーページの割合が多いから、カラー用紙が大量に必要である。
 ところが、東北の製紙工場が被災して稼動できなくなったことから、紙の確保ができなくなった。つまり、カラーページには、カラーコストだけじゃなく、カラーリスクもあるということだ。
 電子書籍には、それがない。
 電源さえ確保できれば、カラーの雑誌も配信できる。
 マンガでも、BDのようなカラーマンガには、カラーコストやカラーリスクがからむが、電書ではあれば、そのような費用や危機の心配は無い。
 カラーコストがかからない点で、電書化するのに適した素材をひとつあげるとすると、フィルムコミックがある。(一応フィルムコミックもマンガの一種だから、この章で触れる)
 フィルムコミックにはカラーコストがかかる。そのため、ジブリのものぐらいしか、ペイメントしない。コンビニで置かれるぐらい売れるから、フィルムコミックでも採算が取れる。
 ひとつ、例を出すと『ふしぎの海のナディア』のフィルムコミックは、無人島編がカットされていたりする(あらすじとスチールのみ)。コレクション性を考えると、全話収録するべきだ。何故、それができなかったというと、コストだろう。
 だが、電書であればカラーコストがかからない。
 今までは、ジブリ以外のアニメーション作品では、大ブームを起こしたものぐらいしか、ペイメントできなかったが、これから電書ユーザーが多くなれば、ペイメントできるようになるはずだ。
 個人的には、『魔法少女まどか☆マギカ』のフィルムコミックがほしい。前に批評用参考資料として『もののけ姫』のフィルムコミックを購入したときは、かなり重宝したことから、アニメレビューのためにも、必要なのだ。
 ただ、これは話がズレるけど、フィルムコミックの中には、コマ構成に疑問を持つものがあるから、コマ構成をしっかり理解した人間がフィルムコミックの構成をした方がいい。
 『まどマギ』の第二話の冒頭、回想挿入にアメリカンニューシネマの手法、具体例は『イージー・ライダー』のカットワークを行っている。(文章で伝えるのはむつかしいので、実際に観てもらうしかない)
 これをフィルムコミックとして誌上に再現するのは、むつかしい。
 アニメ版では、梶浦由記が作曲したピアノのBGMが、朝の身支度と昨日のマミ宅訪問の二つの場面を繋がりに流れ、特殊なカットワークであっても、映像の接続性や連続性が保たれている。これを、紙のマンガでは、再現ができにくい。
 もうひとつ付け加えると、パブーではDRMがないから、このようなビックタイトルをフィルムコミック化した電書を販売することはできない。iBook Storeでは、売れるかもしれない。
 その場合、アプリ型書籍(アプリ型については後に詳述)になるから、オープニングにはオープニング映像の動画を入れるとか、当然考えられる、サービスとしてのバリュー(価値)を挿入しないといけない。
 そして、アプリ型ならできることがある。どこまでサービスするかは、プライスとの折り合いをつけないといけないが、かなりリアルブックとは違う特典が付くことになる。
 前述の第二話の回想挿入のシーンを、一つのコマに「朝の身支度」と「昨日のマミ宅訪問」の画像を点滅するように表示する。すると、本来できなかったヌーベルバーグなカット割りを電子誌上で再現できるのだ。これが電書ならではの価値である。(このことから、ウェルメイドなカットワークしか紙のマンガでは再現できない、という示唆が結果的になされている)
 さらに、アプリ型だから『歌うクジラ』のように、音楽を挿入することも可能であるから、先ほど触れた梶浦由記の音楽を流すことも可能である。アニメと同じように、持続性を保てる。
 さらにカラーコストがかからないということは、質のいい紙を用意しなくていいから、低価格でフルカラー書籍を提供できる。さらに、アプリ型であれば今までできなかった、電書ならではの演出が可能だ。
 すると、プライスもクオリティーも、紙媒体のリアルブックよりも電書の方がいいという、変な逆転現象が起こる。
 マンガに話を戻そう。
 電子書籍でマンガを出版する場合、デジタル製版のテクニックが必要だ。
 単純なことだが、右綴じ用にマンガを描いている(右上から左下へ読む)なら、右綴じ設定にして電書データを作ってほしい。また、その逆も然り。
 ピクセルの多いデジタル原稿をそのまま電書データにできるなら、問題ない。724×1024では、クオリティーを管理するのは難しい。ピクセル数が少ないと、グラデーショントーンにモアレが発生する。『ちなつのシュート』(ブクロブのパブー)を見てもらえば、その点を理解できると思う。
 諧調をつけないと、単純なトーンワークになる。桜玉吉の『防衛慢玉日記』(エンターブレイン)のように、まるで色を塗っているかのような、トーンワークはできないということだ。
 諧調があり、さらにモアレの無いマンガを描出するには、ピクセル数が多くないといけない。しかし、タブレットの表示能力は限られており、モノクロは分が悪い。
 だから、カラー彩色をローコストにできるのだから、電書は基本的にフルカラーのマンガを描くべき。
 その場合、セルアニメのような彩色をするのが、方法論のひとつとしては、考えられる。
 ただ、それだけでは、アイデアが無い。
 九十年代後半、アニメシーンでは背景を緻密に描いてクオリティーを上げていくと、セル画のキャラクターが埋もれてしまう問題があった。
 そこで、前田真宏は『岩窟王』で、セル画のキャラクターにテクスチャーを貼り付けた。すると、キャラクターが背景に負けなくなった。セル画からデジタルアニメに変わったことで、必然的に生まれる技術やその後の流れを生み出すアイデアの出現があったように、デジタルマンガにもイノベーションが必要だ。電書のカラーマンガでも、同じことが言える。
 自分のことも、手前味噌だが書けば、『ありえない未来の思い出たち』(ブグロブのパブー)の第一巻は、古いデジカメで撮影して、ペイントでデジタル仕上げをしている。
 もともとの素材の発色が悪いため、昔のマンガ単行本のカバーのような「蛍光ピンクが入っていない四色(CMYB)」の彩色に、結果的に近いものになる。
 それが思い出す、「過去」を表現することになる。
 ここらへん、画期的なアイデアを出すことに背を向け、デジタルコミックという先端ではなく、古きよき児童マンガを読んでるような錯覚を、とくに「コトバを食べる、ケモノ。」では催すことになる。(マンガ表現論的な自己分析……単なる予防線だわ)
 これは予算も作画技術もないから、していいことであって、原稿料が出るプロフェッショナルの場合、かなりクオリティーに気を使わなければならない。もう少しつっこめば、画期的なアイデアがないなら、読まなくていいし買わなくていい。
 とはいえ、電書マンガは紙の印刷とは違う技術体系が必要なのである。
 デジタルコミックの技術的蓄積は、寺沢武市やモンキーパンチが試していることがかなりある。ただ、担い手がいないのが、問題だ。
 寺沢武市は渡辺浩弐が指摘しているように、昔のモニターの透過光で表示されるグラフィックは艶かしく、それこそ「光々(こうごう)しい」。しかし、紙に印刷されたモノを見ると、その魅力が失われている。
 モンキーパンチの場合、音響を入れたものをネットで発表していた。今で言えばアプリ型書籍のはしりである。
 ただ、消費者の絶対量が少ないという、気がかりな点がある。受け手としての読者がいないと、技術も育まない。本来、デジタルコミックの方法論の応用が電子書籍のマンガでも役に立つ技術があったはずである。
 送り手と読者の話で触れなければいけないのは、マンガとネットの関係だ。
 いしかわじゅん先生の『秘密の本棚』によると、今現在の韓国では、マンガ雑誌は軒並みネットに移籍したそうな。
 どうして、ネットでマンガを読むようになったのか、わからない。まず、ネットでマンガを読む習慣が身につかないと、マンガを読まないという問題がある。
 私は雑誌「週刊プレーボーイ」の『キン肉マンⅡ世』の連載を毎週読んでいたが、ネット連載に切り替えてから、読まないことが多くなって、連載を追えなくなった。
 ネットでマンガを読む習慣がないと、読まないのだ。毎週のアップ日時に、サイトにアクセスする手間をかけない、あるいはそういう習慣がない。普遍的にあてはまるとはいえないが、経験している方もおられると思う。
 そこで考えられるのは、韓国ではネットでマンガを読む習慣がある、あるいはもともと読む理由があるはずである。
 日本にはない、韓国ならではの何らかの条件があるのでは? と思える。
 一応考えられるのは、「韓国にはガラパゴス・ケータイがなかった」から、というのも考えられるが、自分で出してナンだが、「それはどうだろうか?」とも思う。しかし、韓国がネットでマンガを配信する時期が、日本ではケータイコミックの売り上げが倍増している時期に重なると、推測すればネットに流れるべきユーザーが、ケータイに流れただけだった、かもしれない。
 ただ、おそらく、韓国でのタブレットの普及は、日本よりも早く進む。そして、スマートフォンの普及が、ケータイコミック市場を立ち行かせなくなる。
 こうしたことから、マンガ雑誌のネット移籍は、時代の流れなのかもしれない。
 韓国ではそれが早く進み、日本ではケータイコミックが緩衝的な役割で遅れただけで、いずれ雑誌はネットや電書購読に切り替わるかもしれない。
 ここまで、書けば「タブレットの場合」で専門のタブレットを販売するという意味がわかると思う。マンガ雑誌を専門に配信するタブレットがあった方がいい。何よりもエコロジーだ。鈴木みそ先生の『銭』でも描かれているが、返本された雑誌は、裁断して廃棄される。印刷にかかった資源と費用を、ゴミ箱に捨てるのだ(古紙としてリサイクルされるのかも疑問)。
 このことを考えると、韓国のネット雑誌移行は、支持せざるを得ない。
 これはちょっと、出すぎたことを言うことになるかもしれないが、Jコミで出来ないだろうか? ビューアを独自に開発するなら、ファブレス製品のタブレットを作った方がいいのでは? 入力方式がtagtypeの。
 電書を作るには製作の問題がはらむ。次章、製作のことに触れる。

 

以後の内容は、『チャリティーマガジン』(ブクログのパブー)に収録されいます。
下記をクリックしてください。
http://p.booklog.jp/book/25674/chapter/59894



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