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昔々、まだ、天に住まう神々が地上で暮らす人々と交流を持っていた時代のお話です。

何日と降り続く雨も、大地にもたらされる植物の恵みも、全ては神々の機嫌に左右されていました。

人々は東の空から昇る太陽の陽射しで目を覚まし、太陽を追いかけるように後から注がれる月光を浴びると深い眠りにつきます。

淡い月光には「眠り」を強くさせる力があり、太陽の光以外では、普通の人間はそれに抗う術を持っていなかったのです。

ですから月の女神・セレネが月と共に空を渡る頃には、誰もが遠い夢の世界へと旅立ってしまうのです。

ペルセポネが冥府から天界へ戻ってから幾日が過ぎたある夕暮れのこと。日に日に増していくいく温かな風を肌で感じながらも、セレネは長い銀髪をなびかせて銀色の馬車に乗りこみました。

彼女の銀髪は絹のように細く滑らかで、その顔立ちは見た者全てがため息を零すほどです。

とは言っても人々は深い眠りについているため、セレネの姿を見る者は誰一人といないのです。

「今宵も静かだわ」

地上界を見下ろして、銀色の輝きを帯びた馬車に乗るセレネは呟きました。

彼女の銀色の瞳に映るのは、誰もが夢の奥底に身体を埋めている、いつもと変わらぬ静かな世界。

しかしラトモス山を通りかかった時、セレネはふと馬車を止めてしまいました。

「あそこにいるのは、誰かしら?」

 いつもは誰もいない山の中腹に広がる草原に、一人の青年が羊に囲まれて眠っていたのです。

 それは本当に小さな好奇心でした。

 星々の間からでは青年の面影が微かにとらえられるだけです。セレネはもっと近くまで行きたいと思ってしまいました。

 馬車を羊の群れの傍に止めると、セレネは馬車から飛び降りました。逸る気持ちを落ち着かせ、静かに青年へと近づきます。

 小さな岩を枕代わりにして横になっている青年は寝息を立てています。

 ふと彼が寝返りを打つと、軽やかなウェーブを描く髪に隠れていた顔が見えました。

「まぁ……!」

青年のあまりの美しさに、セレネは言葉を失ってしまいました。

月光を浴びて淡く輝く亜麻色の髪。長い睫に、少し紅潮している頬。

地上界にこれ程美しい青年がいたのかと、セレネは青年の顔をまじまじと見つめました。

次第に彼の髪に触れてみたいという衝動に駆られ、セレネはおそるおそる手を伸ばしました。

それはまるで、毛糸のように柔らかな髪でした。その髪を指に絡ませれば、青年はくすぐったそうに微笑するのです。

もっと彼の傍にいたいと願うセレネでしたが、時間はそれを許してはくれません。後ろ髪を引かれる思いでセレネはその場を後にしました。


「ああ、彼の名前は何と言うのかしら。その声は、瞳はどんな色をしているのかしら」

 ラトモス山から離れて夜空を駆ける中、セレネは深いため息を零しました。

 瞼を閉じるたびに彼女の脳裏を過ぎるのは青年の寝顔です。いつまでもそれは薄れることなく、それどころか時間が経てば経つほど、青年への想いは大きくなってしまうのです。

「とても幸せそうな顔をしているけれど、何かいい事でもあった?」

 青年への想いに胸を馳せるセレネは、突然割り込んできたどこか無邪気で明るい声で我に返りました。

 ここは天高くに輝く星座たちの合い間。

 こんなところに現われるのは誰だろうかと、不思議に思いながらセレネは辺りを見回します。

 声の主はセレネのすぐ右隣を飛んでいました。薄い衣を腰に巻く、背中に翼が生えた幼き少年です。

 少年は自分の背丈と同じくらいの弓を片手に持ち、背中には金と鉛の弓を背負っています。

「あら、エロス。早いのね」

「まぁね」

 セレネが少年へ微笑みかけると、エロスは少し自慢げに鼻の下を擦り「へへ」と笑いました。

「なんたって僕は、愛の神だからね」

「愛……」

 手綱を握りながらも首を傾げたセレネへ、エロスは嬉々として告げます。

「昨夜エンデュミオンに会ってから、セレネの心は実に興味深いモノになっているよ」

「エン、デュミオン?」

 エロスが口にした名を、セレネはおそるおそる声に出しました。

 彼女にとっては聞き覚えのない名前で、けれどもすぐに、それが誰の物であるか気付きます。

「エンデュミオン」

 今度ははっきりと、そして大切そうにその名を口にしました。

 同時にセレネの脳裏には、先ほどラトモス山で見かけた青年の寝顔が浮かびます。

 羊に囲まれ、山の中腹で眠っていた青年の名はエンデュミオン。

 その後エロスから聞いた話によれば、彼は絶世たる美青年であると、地上界ではしばしば噂となっていたのです。

 もっとも、今のセレネは青年の名前が分かったというだけで胸が弾み、それ以上は殆ど耳に入りませんでした。

次の晩も、そのまた次の晩も、セレネは月と共に地上へ出れば、エンデュミオンの眠っている草原へと通いました。

深い眠りについている彼は一向に目を覚ましませんが、それでもセレネは、一緒にいたいと強く願ってしまうのです。

エンデュミオンの声が聞きたいとも思いましたが、眠りを強くさせる彼女の淡き月光の輝きを前にしては、彼が目を覚ますことなどありませんでした。


それから時は過ぎ、ペルセポネが再び冥府へ向かうための準備を整え始める季節になりました。

月明かりの届かない薄暗い夜でしたが、セレネはいつも通り眠っているエンデュミオンの傍らに腰掛け、彼の髪に触れていました。

これまで何度もセレネはラトモス山へ通いましたが、エンデュミオンはいつも眠っているため、二人は話をしたことがありません。

 エンデュミオンはどんな声で、どんな表情で話すのでしょうか。

 セレネには分からない事だらけですが、彼女の足はなぜだか毎晩のように、ラトモス山へ向かってしまいます。

 ただ、眠っている彼の隣に座っているだけで女神の心は温かくなります。全ての不安を拭い去ってくれる安心感を得ることができます。

 セレネにとっては本当に不思議な感情でした。

 「……エンデュミオン。私は貴方のことを何一つ知りませんが、こんなにも惹かれ、傍にいたいと願って止まないのです」

 答えなど返ってこないと知っていたとしても、セレネは愛おしそうにエンデュミオンの顔を見つめ、呟きました。

 エンデュミオンは夢を見ていたのでしょうか、その唇が微かに動き、

「ん」

 小さく吐息が零れました。

 ドキリと、セレネの心臓が大きく脈を打ちました。

セレネはついに我慢できなくなり、彼の唇に、そっと自分の物を重ねました。

顔が離れ、眠り続けるエンデュミオンの顔を覗きます。

夢の世界にいるのですから、もちろんエンデュミオンの表情に変わりはありません。

けれども彼の寝顔を見た瞬間、セレネの頬はすぐさま真っ赤に紅潮しました。

「あ、あぁ。私は一体、何を……」

 全身が震え、一歩ずつ後ろに下がります。

 そのままエンデュミオンに背を向けて、セレネはその場から逃げるように去っていきました。

 銀色の馬車が飛び立ち、弓状の細い月に放たれる光が雲に隠れた頃、

「んん」

 エンデュミオンはゆっくりと目を覚ましました。

「今、のは……」

 まだ夢心地の彼は辺りを見回し、しかしゆっくりと、まだ温かみの残った唇に指を当てました。

 今まで嗅いだことのない、不思議な甘い香りがエンデュミオンの鼻を撫でました。

 それからふと、エンデュミオンは自分の胸に一本の長い銀髪が落ちていることに気がつきました。

「ん? これは……」

絹糸のように細く滑らかな髪を月に翳せば、まるで月光と同じように淡い光を発っするのでした。

天上界に戻ったセレネはすれ違う神々になど目もくれず、一目散に自分の宮殿へ駆け込みました。

「わ、私は一体何をしてしまったの!? 私は……」

 セレネは扉を背にしてうずくまりました。羞恥心で心が締めつけられ、忘れようと思っても、先程の事が頭から離れません。

 何度も、何度も。

 恥ずかしいと思ってしまうにもかかわらず、先ほどの場面が浮かび上がってきます。

 紅潮した頬を両手で覆いますが、火照った熱は冷める気配がなく増すばかりです。

「いやぁ」

 しかし、思い出すようにその唇に指を当てれば、エンデュミオンに抱く淡い想いはさらに積もってゆくのです。 

「そんなに悩む月の女神の姿は初めて見るよ」

 クスリと笑う無邪気な声がセレネの耳に届きました。

 顔を上げて窓のほうを見やると、そこにはいつもの弓矢を持つエロスの姿がありました。

「私にだって分からないわ、エロス。今の私はいつだってエンデュミオンのことを考えてしまう。その度に胸が痛むというのに、彼への想いがどんどん大きくなってしまうの」

 胸が苦しくて、苦しくて。けれどもその痛みから逃れる術を、セレネは知らないのです。それどころか胸が痛むと知っていてもなお、セレネはエンデュミオンのことを考えてしまうのです。

「それはとても良い事だよ」

 うっすらと涙さえ浮かべるセレネの姿に、エロスはなぜだか嬉れしそうな表情を浮かべました。

「胸の痛みはすぐにでも喜びに変わるよ。だから素直になって、心に身を任せてみると良い」

「心に身を?」

 それはつまり、何をすればいいのでしょうか。セレネは首を傾げました。

 月の女神が見せる反応は、エロスにとって幼い少女が行う仕草のようにあどけなく見えてしまいます。

 気づけば彼の表情は自然と綻んでいました。

「目を閉じて、胸に手を当ててみるんだ」

 優しい声音で、エロスは言いました。

「それからゆっくりと深呼吸をして、心が何を欲しているか、その声を聞いてみるんだ」

 セレネは言われるがまま、瞳を閉じて胸に手を当てました。

 そのまま静かに深呼吸をしようとしましたが、

「ああ」

 刹那にエンデュミオンの姿が目に浮かび、彼女は声を上げてしまいます。

「私にはできないわ」

 助けを求めようとしましたが、セレネが瞼を開いた時、そこにはもう、エロスの姿はありませんでした。

「私は一体、どうすれば……」

 答えを見つけられぬままに一人残されてしまったセレネは、ため息と共に呟きました。

 その日のセレネは始終上の空で、何をしてもままならない状態でした。

 いつもと違う月の女神の様子は天界中で噂となり、やがてそれは、天界の長であるゼウスの耳まで届いてしまうのです。


一方のエンデュミオンは草を食べている羊を横目に、ぼんやりと頭上に広がる天空を仰いでいました。

 彼に寄り添うようにしている羊の柔らかな毛を撫で、右手に握る一本の銀髪を翳しました。

「羊の毛とは似ても似つかぬこの銀髪は、いったい誰の物だろうか」

 太陽の光を当てれば淡く輝くそれは、とてもヒトの物だとも思えません。

 まさか天空に住まう神々の物かと思えども、そんなことは恐れ多くて口にはできません。

 深いため息を零せば、

「メェ」

 傍らにいた羊がエンデュミオンを見上げて鳴きました。

 どうやらこの羊、浮かない顔でため息を吐くエンデュミオンが心配なようです。

「ああ、そうだね」

 エンデュミオンは羊の背中を優しく撫でて微笑みます。

「答えが見つかるまで悩むよりは、この目で確かめるべきなのだろう」

 青空を仰ぐと、西の空へ向かう太陽神・ヘリオスが乗る金色の馬車が見えました。

 世界を明るく照らす彼の馬車が放つ光はとても眩しく、エンデュミオンは瞳を細めました。

 それでも馬車が走る道は以前よりも空の低い位置になっています。

 ボレアスが吹く風も大分強くなってきました。

 ペルセポネの旅立ちが近づいてきた証しです。

「そろそろこの山を去らなければ。しかし……」

 呟いて、エンデュミオンは表情を曇らせました。

 そろそろラトモス山を下り、暖かな土地へ向かわなければならないのです。

 けれども、この山に着てから、彼にはどうしても気になっていることがあるのです。

「毎晩のように聞こえる女性の声は、もしかしたらこの銀髪の持ち主ではないだろうか。これまでになかった心地よい眠りを与えてくれる彼女に会いたい」

 エンデュミオンの心に点った灯火は、陽光のように力強いモノでした。



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