2012/02/20
というわけで、NECの捨て値タブレットをもてあそんでいる今日この頃。
青空文庫が、たいへんに読みやすいことを知って、感激。
これまで、青空文庫は、PC上でしか見たことがなく、
「まー、読みにくいわね」
なんて思っていたのですが、閲読ソフトを入れて、読んでみると、
実にきれいに表示されるので、良い時代になったものだなあと、感心しました。
泉鏡花とか、幸田露伴とか、100円で流れる日本文学全集収録品だけでは、
満たされない思いをする先人の作品を読んで行きたいと思いました。
(でも、あたくしが読みたい作家のものは存外すくないようですが)
ところで、長編を書いていると、往々にして、150枚くらいで大きな壁にぶち当たる気がします。
書き出しの疾走感あふれる50枚辺。
ちょっとつまづくも、気合と工夫で乗り越えて、名作が生まれる予感に包まれる100枚辺。
いよいよ前半の山場、興奮絶頂の150枚。
一息。
よっしゃ、これから後半、締めくくりへ向けて、次なる大きなイベントの仕掛けを……書こうとして、
「あれ?」
と気づく、ちょっとした修正箇所。
そう、すべてはそれが、始まりだった。。。。
「そうだ、最初の方で、これを書いておけばもっとおもしろくなるぞ」
「あ、ここの人物関係はいらないな」
「この描写は、あとで書けば良いから削って、と」
そして気づく、絶望の150枚。
そう、たとえば。
……主人公、いらなくね?
……脇役が、意味不明かも。
……ヒロインに魅力がない。
……この主題で書き続けていて、良いの?
後半にさしかかり、結末が見えてくる、全体像が見えてくる……、
と、作者はきっと、これまでに数多くの小説を読んでいる賢い作者なので、
自らの小説の仕上がりがどの程度のものになるか、書かずして気づくことになる。
こ
の
小
説
は
お
も
し
ろ
く
な
い
か
も
し
れ
な
い
きゃー!
2012/02/17
というわけで、NECのお安い電子パッドが届きました。
無線LANの設定に四苦八苦して、さらにアンドロイドOSの仕様も理解できず、困惑途方に暮れかけましたが、
何とか、当初目的の、デジタルアーカイブスPDFを読むところまで行けました。
もっとも、たいへんに読みにくいですけど、まー、鑑賞・熟読するわけじゃないので、
そのうちに慣れますわね。
2012/02/13
最初から、書き直しています。
筋に問題があるとは考えていないので、まさにそのまま書き直しているわけですが、
初稿60枚時点を、せいぜい22枚で通過するありさまなので、
初稿は相当、だらだらと書いていたのだなあと、あきれました。
饒舌に書こう、という方針はあったので、ある程度の、だらだらも仕方ないですが、
「饒舌に書かれるべき内容か、否か」
を考えることがなかったようで、
結局のところ今の内容では、あたくしの好きな、削いだ文体がふさわしかったのだと思われました。
「饒舌に書く」ことを念頭に置くのなら、
もっと、内容、あらすじを違うものにしなくちゃいけないのです。
主題、書かれるべき筋、ふさわしい文体、展開、運び、
すべてを意識的に行わなくちゃ、長編がものにできるはずはないと、
今まであたしゃ何を書いてきたのだろうと、
呆れ返ってものも言えないと日記に書いてます。
その一方で、NECのお安い電子パッドを注文。
間もなく「一話一言」が読み終わるので、そしたら次々と古い随筆をダウンロードし、
PDFでだらだら読んで行きます。
江戸明治大正の古本を、最新の電子機器で読むという辺、
まことに現代的で、何だかおかしいです。
2012/02/09
150枚ほど書いてきた長編を、あきらめて、
最初から書き直すことに。
日記を読み返してみると、
楽しい楽しいで、うまく行っている直後に、
足踏みしてそのまま転げ落ちて、這い上がれず今に至った――ようですが、
何といっても、1/12に、長編の文体を摑み得た、と言っている、
その文体は、どうやら摑み得なかったようでした。
(あの文体を使うために、最初に戻る感じでもあるのですが)
たぶん、文体ができれば、おもしろいものになる。
最近は、そんな妄執にとりつかれてます。
2012/02/03
ジェームズ・ジョイス「ユリシーズ」
実家にしばらく滞在しておりまして、そこで40年ほど一度も外箱から出されていない、
世界文学全集から引っ張り出したものですが、まー、
読めたものじゃなかったです。
翻訳ものは、ただでさえ日本語がヤバイのに、
20世紀文学にものすごい影響を与えたというジョイスのいろいろな技法を、
原典の雰囲気を出そうとしてあれこれと無益な工夫を重ねて、
ちょうど、落語の「寝床浄瑠璃」でいうところの、
複雑な節回しを複雑に外して聞かせる――的な、ま、こ、と、にひどいものが出来上がったため、
まず、現代っ子には読めません。
ジョイスの試みた様々な技法は、
月報で、丸谷才一が、「今ではありふれた技法」と言ってましたけど、
今のはもっと洗練されていますし、日本の作家も上手に書いていますので、
その発端たる問題作を、翻訳で今読んでも、
うう。
となるばかりでした。
内的独白でしたか、
あたくしの読んだ、わずかな英語の小説でも、普通に使われてた技法が、
この小説で始まったというのは、確かに、
「世界文学全集」
に含まれるにふさわしいですが、まー、でも、今読んでも仕方ない気がします。
ちなみに「ユリシーズ」の物語は、
アイルランド・ダブリンにおいて、三十路の若い男が、悶々としながら一日を過して家に帰る。
というだけの話です。
途中で、若い女がパンツを見せつけるので、こちらは自慰行為&射精で応酬する、
というヘンタイ行為があるほかは、
今では読めたものではない、さまざまな小説技法が試されている、
――その程度を記憶しておけば良いかなあと、思いました。
とはいえ、長編を書くに当って、
並々ならぬ意欲を持つのは、当然なんだろうなあと、
自分の長編、実は何を描くのかを考えていないんじゃまいか、
それで短編ほどうまく書けないと嘆くのはばか丸出しだったのじゃまいかと、
読めたものじゃなかった超大作を書棚に戻して、ぼうぜん。
(読めたものじゃないという感想を抱いたのは、別に良い)