閉じる


<<最初から読む

12 / 20ページ

あなたはつけてあげない

君は、ぬかみそが好きだったね。いつも君は台所に屈みこんで、黒く長い髪を邪魔そうにかき上げながら、嬉しそうに、キュウリ茄子を漬けていた。


家中が臭かったよ。でも僕は君を愛していた。

いつの間にか、台所も、リビングも、寝室も、客間も、僕の書斎さえも、家中の部屋の床下には、ぬか床があった。それを僕が知った時、君はいたずらっ子のように舌を出したね。それだけで僕は最高にハッピーになった。


いつだったか、浴槽にぬかみそを満たして、そこに入ってたことがあったね。ぬかみそ入浴健康法なんて、出鱈目な名前をつけて。

あのときは驚いた。だって、帰ってきたら君が脱水症状を起こして倒れているんだもの。体の水分がほとんど抜けるまで、ぬかみそに浸かっていた君の、ぬかみそへの愛には嫉妬すら覚える。


それでも、ぬかみそを混ぜている君は、子供のように邪気のない笑顔で、それでいて美しかった。その華奢な体には信じられない程のぬかみそに対するエネルギーが詰まってて、それが眩しかったんだと思う。僕はそんな君をよく後ろから抱きしめたね。君は驚いて、でも笑いながら僕の顔にぬかみそを塗りたくった。僕は、それが君の最高の愛の表現だとわかっていた。君を愛していたから。


君は言ったね。

「貴方は漬けてあげない」

「どうして?」

「私を漬ける人がいなくなるから」


君の最後の頼み、僕は喜んで引き受けたよ。君が笑うのがとても好きだったから。でも、哀しかったよ。とても、とても。とても、とても、とても。


君のいない長い夏が終わって、やっと秋になった。君に会える。


僕はキュウリが嫌いだったけど、君の漬けたキュウリは好きだったよ。だから、もしかして、君の事をもっと愛せるようになっているのかもしれない。


ああ、見つけたよ。お帰り。


「ただいま、あなた」


N君の憂鬱

 N君は思い悩んでいた。ただしN君は、自分が何について悩んでいるのかわかっていなかった。そのよくわからないN君の悩みは、N君の中に漠然とした不安を生み、所在不明な焦燥感を植え付けた。それは日々大きくなっていくが、N君はどうすることもできずに、ただ悩んでいるのだった。

 N君と去年の春に結婚したMさんは、N君を心配した。

「仕事がうまくいってないの?」

「いや、順調だよ。今度、新しいプロジェクトを任せられることになったし、すごく、やりがいもある」

「お金のこと?」

「今の会社は給料もいいし、独身時代の貯金もあるからそれは心配してない」

「私の両親のこと?」

「君の両親とは結婚前はいろいろあったね……でも、もう何のわだかまりもないし、ぶつかったおかげでいろいろわかったこともあったと思う。それに、君のご両親はとてもよい人達だよ」

「……子供のこと?」

 そう言って、Mさんは自分のお腹をなでた。Mさんは妊娠十ヶ月。予定日はもうすぐだった。

 N君はMさんの目を見て、嘘偽りなき気持ちで答えた。

「それは違う。僕達の子供が生まれることは、僕の喜びであり、僕の幸せなんだ」


 しかしN君の悩みは晴れない。N君の周囲の人々はN君を思いやり励ました。

 N君の祖父Aはまだ存命で、祖母のBと共にN君の家に遊びにきては、少ない年金から美味しい食材や子供服などを買ってくれる。N君とMさんを引き合わせた二人の共通の友人Cさんとその夫D氏は、二人を招いてホームパーティを開いた。そこで、N君は友人Eくん、Fくん、Gさんらと楽しい時間を過ごした。N君の上司であるいつも寡黙なH部長は、珍しくN君を飲みに誘い、酔いつぶれながら、N君を頼りにしていることを明かした。Mさんの姉で、ガンジスの呼び声を聞いたと言って仕事を辞めインドを旅行中のIさんから数年ぶりに手紙が届いた。「バカ殿録画しといて」。N君が初恋の相手である双子の姪のJちゃんとKちゃんが恋の相談をしにやってきて、N君とMさんは大いに二人を焚きつけた。N君の古くからの友人のLは外国から珍しいお菓子をたくさんくれた。繁華街で出会った占い師Oは、N君の運勢は三国志で言うところの赤壁の戦いだと言った。N君の行きつけの喫茶店のマスターP氏は、N君とMさんに新作コーヒーをふるまい小粋なジョークで和ませてくれた。N君の弟のQ君は珍しく、N君の大好きな歌手Rのライブチケットをただでくれた。N君の住む街を騒がした変態魔術師Sが、Mさんの活躍により逮捕され、Mさんは元彼Tの仇をやっと討つことができた。歌手Uと俳優Vがスピード離婚した。N君が通勤途中にふとしたことで出会い仲良くなった老夫婦WさんとXさんの家に招かれ、行方不明の息子の話を聞いたところで、近所の公園に住むようになり顔見知りになったホームレスのY氏を思いだし、引き合わせてみればやっぱり本人で、抱き合う親子を見て、N君は涙ぐむのだった。

 全てはうまく進んでいた。そして、Mさんが出産の為に入院していた病院から連絡があり、N君は仕事を途中で切り上げて、病院に向かった。Mさんは既に分娩室に入っていた。かかりつけの産婦人科医Z氏は、持病を持つMさんの出産には危険が伴うとN君に告げた。N君はそれを事前に聞いて覚悟していたので、静かにうなずいた。

 N君にとって長い夜がはじまり、そして明けた。

 夜明け頃、分娩室の外で、ただひたすら祈っていたN君の耳に、赤ん坊の鳴き声が届く。N君の体の奥底からこみ上げる喜びとともに、唐突にN君の悩みが言語化した。


「アルファベットが足りない」


 分娩室で、生まれたての赤ん坊を抱いたとき、N君の心は決まった。N君がMさんを見やると、Mさんは憔悴しながらも決意をたたえた目でN君を見ていた。夫婦の間に無言の意思確認が行われる。この子の為にできること。足りなければ、減らせばいい。

 産婦人科医Z氏は、泣いて喜ぶ夫婦の姿に目を細めながら、本能で異様な雰囲気を感じ取って、知らず一歩後ずさった。早ければ早い方がいい。Z氏を見る二人の目がそう言っているように見えた。


僕はワトソンにあこがれる

 私の心臓は低く重い音を断続的に体中に轟かせていて、それにあわせて私の小さな胸は大きく跳ね上がっている。既に京子先輩は壇上に上がりマイクを手にしている。先輩の理知的で冷たい視線が、哀れな子羊である怯えて混乱する学生達を見渡している。あぁ、カッコいい……! 京子先輩……!
 そして、先輩の冷たい静かな声がホールに響いた。
「犯人はこの中に居ます」
 在犯人宣言! 全校生徒の前での謎解きが始まる!
 今や私の心臓は16mm機関銃のように血液を撃ち出している。頬が紅潮していくのがわかる。 京子先輩のワトソン役たる私としたことがはずかしい……堂々としなさい、友梨!
 先輩の声はそんなに大きくなかったのに、騒ぎ出していた生徒たちは喋るのを止め、一斉に壇上の先輩を見た。これが先輩の力。名探偵としてのカリスマ性。私は、そんな先輩が、先輩のことが。
「犯人は貴方です。三村清二さん」
 いきなり先輩が犯人を指差す。先輩の細く白い指の先には、分厚いメガネをかけた唇の厚いオタクの三村清二の姿があった。三村は何を言われたのかわからずきょとんとしている。
気付けよッ! お前だよ! 反応しろバカ! 
 周囲の人間が先に気付き、ざわめきながら三村から距離を取り始めた。それでやっと気付いた三村は、ずり落ちたメガネを中指で抑え、どもりながら叫んだ。
「な、何で僕が」
「説明しましょう」
 背中をゾクゾクが駆け巡る。先輩から、三村に向かって、どうして犯人が三村であるのかの説明が行われている。淡々としながら、まるで見ていたかのように、三村の犯行を説明する。そのときの先輩には、演説者の昂りも、弾劾者の怒りもない。黒板の前で数学の証明問題を説明するように、三村の犯罪について述べている。
 私は、それをうっとりと見つめる。子宮が締め付けられるような錯覚を覚える。私は、やはり、この人の側にしかいられない。
 そして先輩の説明は、想像通り、私の想像を越える。
「そして、もう1人の犯人、三村清二さんに犯行を行なわせた人物がいます。それは」
 それは、それは、それは、それは。誰ですか。京子さん。
 私は、息を吸うことも忘れ、先輩の言葉を待った。やはり、やっぱり、やっぱり、やっぱり、先輩は。
「妃友梨さん。貴女ですね」
 先輩は、最高だ! 私はこのまま倒れ込みたい欲求を必死でこらえる。
 先輩の白い指先は、壇上の隅っこにいる私の方に向いている。
 そう、そう、そう、そう、そう、そうなんです! 私が真犯人なんです!
「そして、本当の名前は、指名手配中の殺人鬼・木崎友二。信じがたいことに、その姿は女装……でなくて整形手術」
 そう! そうです。そのとおりです。京子さん。やはり、貴女はそうでなくてはならない。
 本物の引きこもりで根暗の妃悠里はもうこの世にはいない。僕が殺した。僕は木崎友二です。あなたの側にいたくて、また犯罪を犯してしまいました。。
「京子さん!」
 僕はたまらずに大声を上げてしまった。とてもはずかしい。僕は憎むべき犯人でさえまともに務まらない。
 壇上の京子さんは相変わらず感情を見せない目で僕を見ている。今日は少し憂いを帯びたように見えるのは、陽が沈んで、ホールが暗くなったからだろうか。
 ああ、とにかくまた失敗だ。今度こそ京子さんのワトソンになれると思ったのに。でも次の事件は考えてある。名探偵と探偵助手の出会いとなる最初の事件は。
 悲しいけど嬉しい。わかっている。僕は、僕の存在はまるっきり矛盾している。僕は僕が京子さんのワトソン的な位置に立つための事件を構築しながら、その事件が外側だけでなく内側の僕までむき出しなって台無しになるまで解体されることを喜んでいるんだ。
 京子さん、同じ孤独な天才でありながら、僕と貴女の位置は点対称。常に決定的に異なってしまう。それでも僕は、貴女の隣に居たい。だから、僕は。



読者登録

朝飯抜太郎さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について