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彼について

「まず彼の性的嗜好について。彼は低年齢の女子、つまり幼女にしか興味を持ちません。成人女性のポルノグラビア、ビデオ、それらの類が彼の興味をひく事はありません。実際、彼は裸同然の私を見ても、顔色一つ変えなかった。そして彼は今、特定の幼い女子に対して興味を抱いています。彼女を遠くからずっと眺めていたり、時に近づいて悪戯に及ぶこともあります。これまでにも彼の毒牙にかかった女子はたくさんいます。しかし私達は彼女達の涙を拭いて慰めることしかできないのです。
次に彼の持つ残虐性について。彼は自分より小さい生き物を虐める事にこの上ない喜びを覚えるようです。小さな箱に生き物を閉じ込めて死ぬまでうっとりと眺めたり、大量の生き物を水で溺れさせようとしたり、直接、手で握りつぶそうとしたり、行為は日課のように続けられています。私は一度、彼が踏みつけて生き物を殺そうとしたのをたしなめた事があります。すると彼はきょとんとして、その愛らしい顔を私に向け、笑ったのです。私は生まれて初めて、笑顔が恐ろしいと思いました。
最後は彼の特異な独占欲について。彼は、時折、自分で制御できないほど感情を爆発させることがあります。それは『自分のもの』が誰かにとられそうになったときです。彼は、『彼のもの(ほとんどの場合、彼の勝手な思い込みで決められる)』を誰かが勝手に触ったり、持っていこうとしたとき、突如泣き喚き、暴力を振るうのです。そうなった彼には、彼が持っていたわずかな社会性すらも消えています。私は彼を止めようとして何度も傷を負いました。その傷を見るたび、私は確信するのです。
彼の異常な『独占欲』がやがて、いたいけな『幼女』へと及び、おぞましい『残虐性』を発揮することを。
私は彼が恐ろしいのです。凶悪な犯罪者の資質を持つ彼と日中一緒に過ごすことなど、もはや、できないのです」
「先生……それは幼稚園児としては普通なのでは……」
「普通! 普通って何だ! これだからゆとりはッ!」
「先生」
「戦争を知らない子供たちは帰れ! 休み欲しいっ! 子供なんて嫌いだっ!」
「先生、落ち着いてっ……!」
「若い奴嫌いっ! 平成生まれは死ねっ! 結婚したいっ!」
「先生……!」


n君の憂鬱

 n君は思い悩んでいた。ただしn君は、自分が何について悩んでいるのかわかっていなかった。そのよくわからないn君の悩みは、n君の中に漠然とした不安を生み、所在不明な焦燥感を植え付けた。それは日々大きくなっていくが、n君はどうすることもできずに、ただ悩んでいるのだった。
 n君と去年の春に結婚したmさんは、n君を心配した。
「仕事がうまくいってないの?」
「いや、順調だよ。今度、新しいプロジェクトを任せられることになったし、すごく、やりがいもある」
「お金のこと?」
「今の会社は給料もいいし、独身時代の貯金もあるからそれは心配してない」
「私の両親のこと?」
「君の両親とは結婚前はいろいろあったね……でも、もう何のわだかまりもないし、ぶつかったおかげでいろいろわかったこともあったと思う。それに、君のご両親はとてもよい人達だよ」
「……子供のこと?」
 そう言って、mさんは自分のお腹をなでた。mさんは妊娠十ヶ月。予定日はもうすぐだった。
 n君はmさんの目を見て、嘘偽りなき気持ちで答えた。
「それは違う。僕達の子供が生まれることは、僕の喜びであり、僕の幸せなんだ」


 しかしn君の悩みは晴れない。n君の周囲の人々はn君を思いやり励ました。
 n君の祖父aはまだ存命で、祖母のbと共にn君の家に遊びにきては、少ない年金から美味しい食材や子供服などを買ってくれる。n君とmさんを引き合わせた二人の共通の友人cさんとその夫d氏(水虫)は、二人を招いてホームパーティを開いた。そこで、n君は友人eくん、fくん、gさんらと楽しい時間を過ごした。ついでにf君はgさんに告白した。n君の上司であるいつも寡黙なh部長は、珍しくn君を飲みに誘い、酔いつぶれながら、n君を頼りにしていることを明かした。mさんの姉で、ガンジスの呼び声を聞いたと言って仕事を辞めインドを旅行中のiさんから数年ぶりに手紙が届いた。「ドリフ録画しといて」。n君が初恋の相手である双子の姪のjちゃんとkちゃんが恋の相談をしにやってきて、n君とmさんは大いに二人を焚きつけた。n君の古くからの友人のlは外国から珍しいお菓子をたくさんくれた。繁華街で出会った占い師oは、n君の運勢は一年戦争で言うところのソロモン攻略戦だと告げた。n君の行きつけの喫茶店のマスターp氏は、n君とmさんに新作コーヒーをふるまい小粋なジョークで和ませてくれたがいつも通り面白くなかった。n君の弟のq君は珍しく、n君の大好きな歌手rのライブチケットをただでくれたが歌手rは覚醒剤所持で逮捕された。n君の住む街を騒がした変態魔術師sが、mさんの活躍により逮捕され、mさんは元彼tの仇をやっと討つことができたが、それは序章でしかなかった。歌手uと俳優vがスピード離婚したがまた復縁した。n君が通勤途中にふとしたことで出会い仲良くなった老夫婦wさんとxさんの家に招かれ、行方不明の息子の話を聞いたところで、近所の公園に住むようになり顔見知りになったホームレスのy氏のことを思いだし、引き合わせてみれば本人ではなかったが、y氏の連れていた犬こそが老夫婦の探していた息子だった。抱き合う夫婦と犬と、その隣にたたずむy氏を見て、n君は涙ぐむのだった。
 全ては、大体においてうまく進んでいた。そして、mさんが出産の為に入院していた病院から連絡があった。n君は仕事を途中で切り上げて、病院に向かった。mさんは既に分娩室に入っていた。かかりつけの産婦人科医z氏は、持病を持つmさんの出産には危険が伴うとn君に告げた。n君はそれを事前に聞いて覚悟していたので、静かにうなずいた。
 n君にとって長い夜がはじまり、そして明けた。
 夜明け頃、分娩室の外で、ただひたすら祈っていたn君の耳に、赤ん坊の鳴き声が届く。n君の体の奥底からこみ上げる喜びとともに、唐突にn君の悩みが言語化した。


「アルファベットが足りない」


 分娩室で、生まれたての赤ん坊を抱いたとき、n君の心は決まった。n君がmさんを見やると、mさんは憔悴しながらも決意をたたえた目でn君を見ていた。夫婦の間に無言の意思確認が行われる。この子の為にできること。足りなければ……。


ベッドの上、生まれた子供を抱きながら、mさんは言った。
「ねえ、教えてくれる?」
ベッドの脇の椅子に座り、妻と子供を愛おしそうに見つめていたn君は、少し照れくさそうにして言った。
「尊敬するじいちゃんのa、ぼくらを引き合わせるきっかけをつくった優しいdさんのd、最後に君のm。これを合わせて、adamってどうかな」
「あら、お祖父さんの字が二つ入ってるわ」
「二つくらい入れとけば文句ないだろ」
二人は笑った。
笑いながら、少し涙をにじませて、mさんが言った。
「いいと思うわ」


この日、ひとりの生命が新たに祝福を受けて生まれ、そして新たに「名前」という概念が生まれた。

この本の内容は以上です。


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