閉じる


<<最初から読む

11 / 20ページ

あなたはつけてあげない

君は、ぬかみそが好きだったね。いつも君は台所に屈みこんで、黒く長い髪を邪魔そうにかき上げながら、嬉しそうに、キュウリ茄子を漬けていた。


家中が臭かったよ。でも僕は君を愛していた。

いつの間にか、台所も、リビングも、寝室も、客間も、僕の書斎さえも、家中の部屋の床下には、ぬか床があった。それを僕が知った時、君はいたずらっ子のように舌を出したね。それだけで僕は最高にハッピーになった。


いつだったか、浴槽にぬかみそを満たして、そこに入ってたことがあったね。ぬかみそ入浴健康法なんて、出鱈目な名前をつけて。

あのときは驚いた。だって、帰ってきたら君が脱水症状を起こして倒れているんだもの。体の水分がほとんど抜けるまで、ぬかみそに浸かっていた君の、ぬかみそへの愛には嫉妬すら覚える。


それでも、ぬかみそを混ぜている君は、子供のように邪気のない笑顔で、それでいて美しかった。その華奢な体には信じられない程のぬかみそに対するエネルギーが詰まってて、それが眩しかったんだと思う。僕はそんな君をよく後ろから抱きしめたね。君は驚いて、でも笑いながら僕の顔にぬかみそを塗りたくった。僕は、それが君の最高の愛の表現だとわかっていた。君を愛していたから。


君は言ったね。

「貴方は漬けてあげない」

「どうして?」

「私を漬ける人がいなくなるから」


君の最後の頼み、僕は喜んで引き受けたよ。君が笑うのがとても好きだったから。でも、哀しかったよ。とても、とても。とても、とても、とても。


君のいない長い夏が終わって、やっと秋になった。君に会える。


僕はキュウリが嫌いだったけど、君の漬けたキュウリは好きだったよ。だから、もしかして、君の事をもっと愛せるようになっているのかもしれない。


ああ、見つけたよ。お帰り。


「ただいま、あなた」


N君の憂鬱

 N君は思い悩んでいた。ただしN君は、自分が何について悩んでいるのかわかっていなかった。そのよくわからないN君の悩みは、N君の中に漠然とした不安を生み、所在不明な焦燥感を植え付けた。それは日々大きくなっていくが、N君はどうすることもできずに、ただ悩んでいるのだった。

 N君と去年の春に結婚したMさんは、N君を心配した。

「仕事がうまくいってないの?」

「いや、順調だよ。今度、新しいプロジェクトを任せられることになったし、すごく、やりがいもある」

「お金のこと?」

「今の会社は給料もいいし、独身時代の貯金もあるからそれは心配してない」

「私の両親のこと?」

「君の両親とは結婚前はいろいろあったね……でも、もう何のわだかまりもないし、ぶつかったおかげでいろいろわかったこともあったと思う。それに、君のご両親はとてもよい人達だよ」

「……子供のこと?」

 そう言って、Mさんは自分のお腹をなでた。Mさんは妊娠十ヶ月。予定日はもうすぐだった。

 N君はMさんの目を見て、嘘偽りなき気持ちで答えた。

「それは違う。僕達の子供が生まれることは、僕の喜びであり、僕の幸せなんだ」


 しかしN君の悩みは晴れない。N君の周囲の人々はN君を思いやり励ました。

 N君の祖父Aはまだ存命で、祖母のBと共にN君の家に遊びにきては、少ない年金から美味しい食材や子供服などを買ってくれる。N君とMさんを引き合わせた二人の共通の友人Cさんとその夫D氏は、二人を招いてホームパーティを開いた。そこで、N君は友人Eくん、Fくん、Gさんらと楽しい時間を過ごした。N君の上司であるいつも寡黙なH部長は、珍しくN君を飲みに誘い、酔いつぶれながら、N君を頼りにしていることを明かした。Mさんの姉で、ガンジスの呼び声を聞いたと言って仕事を辞めインドを旅行中のIさんから数年ぶりに手紙が届いた。「バカ殿録画しといて」。N君が初恋の相手である双子の姪のJちゃんとKちゃんが恋の相談をしにやってきて、N君とMさんは大いに二人を焚きつけた。N君の古くからの友人のLは外国から珍しいお菓子をたくさんくれた。繁華街で出会った占い師Oは、N君の運勢は三国志で言うところの赤壁の戦いだと言った。N君の行きつけの喫茶店のマスターP氏は、N君とMさんに新作コーヒーをふるまい小粋なジョークで和ませてくれた。N君の弟のQ君は珍しく、N君の大好きな歌手Rのライブチケットをただでくれた。N君の住む街を騒がした変態魔術師Sが、Mさんの活躍により逮捕され、Mさんは元彼Tの仇をやっと討つことができた。歌手Uと俳優Vがスピード離婚した。N君が通勤途中にふとしたことで出会い仲良くなった老夫婦WさんとXさんの家に招かれ、行方不明の息子の話を聞いたところで、近所の公園に住むようになり顔見知りになったホームレスのY氏を思いだし、引き合わせてみればやっぱり本人で、抱き合う親子を見て、N君は涙ぐむのだった。

 全てはうまく進んでいた。そして、Mさんが出産の為に入院していた病院から連絡があり、N君は仕事を途中で切り上げて、病院に向かった。Mさんは既に分娩室に入っていた。かかりつけの産婦人科医Z氏は、持病を持つMさんの出産には危険が伴うとN君に告げた。N君はそれを事前に聞いて覚悟していたので、静かにうなずいた。

 N君にとって長い夜がはじまり、そして明けた。

 夜明け頃、分娩室の外で、ただひたすら祈っていたN君の耳に、赤ん坊の鳴き声が届く。N君の体の奥底からこみ上げる喜びとともに、唐突にN君の悩みが言語化した。


「アルファベットが足りない」


 分娩室で、生まれたての赤ん坊を抱いたとき、N君の心は決まった。N君がMさんを見やると、Mさんは憔悴しながらも決意をたたえた目でN君を見ていた。夫婦の間に無言の意思確認が行われる。この子の為にできること。足りなければ、減らせばいい。

 産婦人科医Z氏は、泣いて喜ぶ夫婦の姿に目を細めながら、本能で異様な雰囲気を感じ取って、知らず一歩後ずさった。早ければ早い方がいい。Z氏を見る二人の目がそう言っているように見えた。



読者登録

朝飯抜太郎さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について