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工業化

人類史の第3章も第2章と同様に農業革命から始まりました。農法の改革によって収量が大きく伸びたのです。この農業改革は農村の人口を押し上げました。そして、ちょうどその頃にヨーロッパの多くを巻き込んだ7年戦争が終わったのです。この2つの出来事によって下級兵士や戦争の道具等を作る職人、農村からあぶれた人たちが現れたのです。その前ごろからいくつかの工業の基礎的な技術革新が考案されていました。そして、戦争の終結は当時の覇権国であったオランダの金融業者たちの余剰資金も生む結果となりました。こうしたいくつかの要因が重なってまずイギリスから工業化が始まり、それは次第にフランス、ドイツ諸国、アメリカ、日本などに広がっていきました。工業化は結果として農業を機械化し、さらに食料生産を行う人たちの人口構成比を下げていくことになります。
工業化が起こったことで社会は大きく変わりました。工業化は賃金労働を行う労働者を必要としました。当初は劣悪な労働条件でしたが、それでも数千年ぶりに誰の支配下にも入らない一般市民を大量に作り出したのです。そして、賃金労働は市民の購買力も作り出しました。このことが資本主義と同時に民主主義を作り出す下地になりました。時代は一人のボスの時代から個人の時代に変わったのです。
民主主義は個人の生活を大きく変えました。なんと言っても「民が主(ぬし)」の時代です。それまで利用され、意見を無視され続けていた存在が無視できない存在になったのです。また、それを支える社会基盤も整備され、同時に科学技術の発達が進んでたった数十年で世の中ががらりと変わる時代になりました。
考えてみれば支配者の時代―支配と被支配が当たり前の時代―が異常だったのです。ほとんどの人間が少数の王族の所有となっているという状況は本来の人間の本能からしたらとんでもないことなのです。現在もその時代の残り香がまだ漂っているように感じますが、人々の意識が変わってしまったので次第にそれも薄らいでいくことでしょう。しかし、考えてみると狩猟採集生活を行っていた頃の共同体は民主主義に近かったのではないでしょうか?リーダーはみんなの合意の下で決まっていたはずです。時代は再び元に戻ったのです。時代は数千年の時を経て再び個人とリーダーの時代になりました。今はまだボス=権力が残っていますが、じきにそれも無くなっていくことでしょう。大統領も首相も企業の社長も権力者の地位から単なる役割としてのリーダーになっていくのです。

民主主義

世の中は「民が主(ぬし)」の時代―民主主義の時代―になりました。では、民主主義とはどんなシステムなのでしょうか?世の中では民主主義に絶対の価値があるようにいう人がいます。貴方はどんな風に思っていますか?民主主義は本当に優れたシステムですか?民主主義というものは最終的には多数決の原理で物事を決めるようになっています。実はこれが民主主義の最大の欠点でしょう。多数決は結果に対して文句が出にくいというだけの安易な方法です。しかも責任が非常にあいまいで、どうかすると誰も責任を持たない状態になってしまうというシステムです。また、計画などを立てる際にはみんなの意見を組み入れることによって画期的なことが出来ないようになるシステムなのです。この多数決の原理を元にして作られている民主主義が優れたシステムであるはずがありません。何をやるにもお金と時間がかかりますし、効率のいい社会を作ることも難しいのです。今現在は責任を取りたくない人が圧倒的に多いためにこういうシステムが評価されていると考えることも出来ます。でも、これでいいのです。世の中は支配者と言う特別な存在は無くなっていくのですから。権限と責任は常に裏腹の関係です。絶対の権限を持った支配者がいなくなれば相応の責任しか取ることが出来なくなるのです。個人の時代になったからこそ多数決の原理で世の中を動かすようになったのです。これからは大統領も首相も企業の社長も権力者から単なる一般の人の中のリーダーとなっていくのです。
考えてみると日本はこの部分で一番進んでいるかもしれません。日本の首相がコロコロ変わるのは首相がただの普通の人になったからではないでしょうか?特別な人ではなく、普通の人が首相になっているのに今まで通りの期待を掛けられてつぶれていってしまっているのです。今までの日本を考えれば、首相の方針次第で日本の経済や民衆の暮らしが大きく変わったのはすでに過去の話なのです。一時的に戻ることはあってもこれからもこの傾向は続いていくことでしょう。大統領も首相も企業の社長も権力者ではなく単なるリーダーと思われるようになるまで続くのです。そして時代はたいてい上から変わるか下から変わるものです。一般の人はすでに個人の時代になっています。日本の場合はその両方から変わっている最中なのです。
そうなると、最後まで支配者の時代が続くのはその中間、企業と官僚と言うことになります。その2つが上と下の中間と言うことです。企業はライバルとの争いが多く支配者の時代から変わるのが難しいと言う事情もあります。もともと支配者の時代は他の共同体との争いから生まれてきました。企業のいる環境は今でも国内、海外の競合他社との争いが続いています。このために最後の最後まで支配者の時代が続くのでしょう。しかし、企業を構成するのは人です。自社だけではありません。他社を構成しているのも人なのです。その人の考え方が変わっていくのです。企業も上の者の権限は次第に少なくなって行くでしょう。すでにパワハラやセクハラとして上の者だからといったやりたい放題は出来なくなっています。それが、もっと進んだ形になっていくのです。また、官僚は基本的に前例主義なのでやはり変わるのが難しいのです。しかし官僚も民衆の考え方が変わり政治が変われば自然と変わらざるおえなくなってくるでしょう。

狭間の世界

支配者の時代の価値観は無限の所有への欲望を生みました。しかし、ほんの少数の人がそこに近づくだけで他の大半の人は支配される側になってしまいました。しかし、やっと個人の時代が始まりました。工業化とともに民主主義の世の中になったのです。それまでの支配者と被支配者の関係はリーダーと個人の関係に取って代わった…はずでした。民は自分たちの望むリーダーを自由に選べる時代になった…はずだったのです。そして、無限の所有権を求めた人たちもいなくなった…はずでは無かったのでしょうか?
実は…まだ支配者の時代は続いています。工業化とともに個人の時代は確かに始まりました。しかし、支配者の時代がその完成形に一番近づいたのは工業化の後、第二次世界大戦の前の帝国主義の時代だったのです。個人の時代が始まった後に支配者の時代が完成形になったのです。では戦後は変わったのでしょうか?いえ、まだまだ続くのです。狩猟採集時代から支配者の時代への変化は農耕が始まった時からスタートしました。では、狩猟採集時代は何時終わったのでしょうか?実はずっと終わらなかったのです。確かにほとんどの国では狩猟採集生活はやめて農耕を行うようになりました。でも狩猟採集生活を行っていた頃の習慣や考え方は今でも人々の中に残っています。多神教や物語によって今に伝えられ徐々に弱まりながらも人々の生活や風習の中に生き続けました。支配者の時代もおそらくまだ当分の間続きます。徐々に弱まりながらも時には息を吹き返し、足掻きながら続いていくのでしょう。個人の時代―民主主義―もまだ完成形には程遠い状態のはずです。個人の時代が完成するにはまだ数千年の時が必要でしょう。そして時代は何時から何時までとはっきり分かれているものではないのです。支配者の時代の考え方も国によって、あるいは階級によって時代遅れになりながらもしぶとく生き残っていくことでしょう。

責任

貴方は善や悪とは何かについて考えた事はありますか?
貴方がこの世で一人だけであれば別に何をしてもかまいません。善行も悪行もないのです。従って善悪とは人との関わりから生まれるのです。支配者の時代は共同体や組織、あるいはもっと小さな単位である仲間内であってもそのグループに対してプラスのことが善、マイナスは悪でした。では個人の時代には変わったのでしょうか。支配者の時代は共同体全体が支配者の物でした。このために共同体にとってプラスかマイナスかが問われたのです。個人の時代では個人が大切にされます。したがって人の嫌がる事が悪で人のためになる事が善、と言う事になるのでしょう。たとえば私はタバコを吸いますが、私の吸うタバコの煙を嫌がる人もいます。結果としてタバコのすえる場所は街中にはほとんどなくなってしまいました。これも仕方のない事なのでしょう。人の嫌がる事をするのは個人の時代では悪なのですから。
ただ、嫌煙運動を行った人たちはタバコの販売減少に伴う税収の落ち込みを負担しなければならないとも思います。嫌煙運動だけではありません。国や自治体に対して何かを要求するのであればそれに伴う増税をいやとはいえないはずです。今の日本の国民やマスコミは国に対して景気が悪いから景気対策、個人の生活を守るために福祉の充実…、と要求ばかりで増税は反対です。これはやらずぼったくりと言われる行為ではないですか?国や自治体も国民のためにならない事にずいぶんとお金をばら撒いてきました。日本は経済大国であったはずなのに破産寸前、いや実際は破産同然の状態です。支配者の時代は権限や権力と責任ははっきりした物でした。しかし、個人の時代…民主主義の時代になったら権限だけ要求する事や権力を行使するだけと言う事が当たり前になっています。世界を見渡しても状況は似たり寄ったりです。他人から便宜を図ってもらった場合はその人にお返しをする事が当たり前です。悪い事を槍玉に挙げて改善された場合、その結果としてマイナスの面もあるのであれば改善の結果以前よりも良い状態になったと思う人はマイナス面を負担する事が本来は義務なのです。
世の金から支配者がいなくなるという事は全責任を負って物事を決める人がいなくなることでもあります。他の誰かが責任を負ってくれる時代は終わったのです。そして責任を取れなくなった国や地方は責任が取れなくなったがために重要な決定や画期的な施策は出来なくなっていくでしょう。貴方もこの事をもう一度良く考えてください。結果として今の民主主義は破綻すると思われます。しかしその後も民主主義以外に選択できる社会制度は今のところ見当たりません。狩猟採集時代も支配者の時代もその社会が完成するには数千年の時間を必要としました。それに対して個人の時代はまだ始まったばかりです。民主主義もおそらくは何度も破綻と修正を繰り返しながら少しずつ完成に近づくのです。

金融と経済

工業化が始まった後に支配者の時代の完成形を作り上げたグループの一つに金融があります。人類の歴史の中で経済の中心が金融になったのはたかだか二百数十年前、工業化が起こってからのことです。工業化の進行と同時に設備投資のための大きな資本が必要になり、そのために金融が経済の中心になりました。企業は膨れ上がる設備投資のために、また景気の循環によって定期的に襲ってくる不況のために金融機関の傘の下に入ることで安定した経営を確保したのです。こうして金融機関は支配者の列に加わったのです。
金融機関は物を扱いません。扱うのは基本的にお金です。したがってすべての物をお金に換算して考えると言う事を行い始めました。会社は時価総額で、社員はコストとして、個人は年収と資産でお金に換算して考えるのです。世の中のすべてをお金に換算して考えると言う間違った考えを社会に持ち込んだのが金融機関なのです。この考え方が支配者の時代の欲望と混ざり合ってお金に対する無限の欲求を持つ人たちが現れました。無限の所有権に対する欲求は無限のお金に対する欲求に変わったのです。また、すべてをお金で換算することで世の中をゆがめて眺めることが当たり前になってしまいました。しかし、お金は元々価値を代替する物でしかありません。物の価値を計る単位として欠陥だらけです。たとえば会社の株価は平均株価に左右されます。会社の業績や中身がよくなっても日経平均が下がれば株価も下がります。個人もそうです。貴方は頭が良く体も鍛えぬき最高の仕事をこなしているとします。それでも給料の良いつまらない仕事をしている人の方が価値が高いことになってしまうのです。それを当たり前のことにしてしまったのは支配者になった金融機関がそれ以外のことで価値を計る方法を知らなかっただけなのです。
そして金融機関は企業の持ち主を株主として、社員はコストとして考えました。しかし、企業を形作っているのは人、つまり社員なのです。確かに社員の仕事のかなりの部分が単なる作業なのでしょう。作業の部分はコストとして見るのが正解なのだろうと思います。それでも社員自体をコストとしてみることは間違っています。実際社員は作業だけを行っているのでしょうか?企業風土をつくり企業に対するイメージを作っているのは社員の力が大きいのです。企業とは共同体の中に出来た組織が元になっています。企業も共同体の一部、または共同体そのものなのです。それを株主の物にしてしまったのはそうすることで株を多く持っている金融機関が支配者としての地位を作り上げるためだったのではないでしょうか。会社が共同体である以上、それは株主だけの物でも社員の物でもないのです。社員を共同体の参加者として見ることが出来ないのであれば、その企業はそのうち時代に乗り遅れる事になるでしょう。

ここで経済について考えてみたいと思います。経済をウィキペディアで引くと

 

・経済(けいざい Economy)とは、社会が生産活動を調整するシステムのことである。

と出ています。では、「金融」はどうでしょうか。

 

・金融(きんゆう,finance)とは、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通すること。

 

となっています。現在の「金融が経済の中心」という考え方からすると、経済活動、ウィキペディアでいう生産活動の調整を資金面で行っていると言うことになります。これは確かに生産者側からするとそうなるのでしょう。でもよく考えてみてください。経済の主体は誰ですか?経済で一番大切にされなければいけないのは誰なのでしょうか?「金融が経済の中心」と言う仕組みからは一番大切なはずの消費者が抜け落ちているのです。
金融が経済の中心と考えられるようになったのはたかだか二百数十年前のことです。それまでは商家や流通業が経済の中心でした。生産者と消費者を結びつけるのがそれらの産業だったからです。金融業が支配者となったのはそれが必要な時代であったと言うことでしょう。しかし、その役割もすでに終わっているのではないでしょうか。私の感覚で言うと1970年代ごろまでが金融業が経済の中心として必要とされた時代だったと思うのです。それ以降はダウンサイジングを行って本来の金融業に戻らなければならなかったのではないでしょうか。日本のバブル崩壊やアメリカの貯蓄組合の破綻が本当はダウンサイジングの良い機会だったのです。しかしちょうどその頃から旧ソ連からの資本逃避、日本からの円キャリートレード、日本、中国を中心としたアジア各国のドル買い(買ったドルはほとんどが米国債などに投資されています)、資源高騰によるオイルマネーのドル資産買いと、次々に資金流入が起こりアメリカを中心とした金融各企業は逆に肥大化していってしまったのです。このため本来必要とされる金融の本業と金融機関のサイズに大きなギャップが生じてしまいました。この部分を埋めるために本来貸し出しができない層への貸し出しや金融工学と呼ばれる無茶をするようになっていたのです。このギャップを解消するには相当な混乱があるでしょう。しかし時代は一時的に逆行しても長い目で見れば必ず先に進むのです。経済の中心ももともとの中心であった流通業にもどっていくことになるでしょう。



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