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向上心

本能にとって向上心とは自分を含むグループの中で自分の順位を上げる事を目的としています。従ってグループごとに何が出来れば偉いのか、と言う内容に違いがあります。戦争中の軍人は敵兵を倒す事が出来る事が偉いと言う事ですし、平和な時代の商人はそろばん勘定や人の使い方、交渉力などを持っている事が偉いという事になります。従って、今貴方が向上心を持って一生懸命に何かを習得したとしてもそれは普遍的な物ではありません。向上心の対象となる価値観は環境などによって変わってしまうからです。では価値とは何でしょうか?世の中に普遍的な価値という物はあまりありません。社会が変わり習慣などが変わる度に価値観も変わってきました。そして、その価値をつかんだ人が偉いという事になっているのです。これは、いろいろなところで人間らしさを作り出します。身体を鍛える事やコレクション(コレクションとは自分にとって価値のある物を集める事です)なども実は向上心に関係しています。
ですが、価値という物はずいぶんと勘違いされやすい物でもあります。たとえばお金も現在は価値がある事になっています。大金を稼いだ人はその所有する金額がその人の強さと認められています。ですが、本来お金とは他人のために働く事で一時的に社会から預かる物です。自分が他人から助けて貰うときに他人の役に立った事があるという事を証明するためにある物なのです。本人が必要としている以上の金額を積み上げたところで、その時点でお金は本来の機能から外れた別の物になってしまうのです。そんな物を積み上げる事で自分の順位が上がると考えるのはただの勘違いです。
もう一度言います。向上心とは自分を含むグループの中で自分の順位を上げる事が目的の本能です。それは自分を含むグループ、つまりは社会をよくする事で自分の順位を上げるべきなのです。そして、なぜ自分の順位を上げたいと言う本能があるのか…自分が幸せになるためではないですか?自分が幸せに暮らし、自分の子孫が繁栄するという事が向上心の本当の目的です。良い社会を作らなければ自分の子孫が繁栄するという事からも離れてしまうのです。
また、向上心はいじめを引き起こしてもいます。いじめというのはグループの中で起こります。グループの中で一人の犠牲者を苛める事でグループを結束させ、また自分の順位の確認を行っているのです。もしも貴方が今、いじめられているのならそんなグループにいる必要はありません。そして、引きこもりなどにならずに自分が他人のために何が出来るか考えてみましょう。そして行動するのです。苛められたら苛められた分だけ他人の役に立つ様にしましょう。世の中には困っている人が必ずいます。ですから必ず貴方に感謝する人が現れます。貴方を必要とする人が必ず現れます。勉強は学校だけでしかできない訳ではありません。今の会社に勤めていなければ仕事が出来ないわけでもありません。貴方を含むグループはどこにでも作る事が出来るのです。貴方を必要とする人がいれば必ず貴方を助けてもくれるでしょう。そうしていく事が出来れば貴方も、貴方を含むグループも、社会も明るい物になっていくはずです。

日本人の宗教

人間は本当に集団で生きる事に特化した動物だと思います。1個の動物として一貫性のある行動をとるために心を発達させるだけでなく集団のルールを本能に組み込む仕組みまで獲得しているのです。もちろん動物も集団のルールを守るような本能を持っている種はあります。しかし、動物の場合自分を含むグループに対しては仲間として行動しますが、他のグループに対しては攻撃的です。動物の場合は一定の広さの縄張りを必要としており、縄張りを守るためには他のグループと仲良くするわけにはいきません。しかし人間の場合はすでに縄張りを必要とはしなくなっています。一定の面積の縄張りがないと生活が守れない状況からは脱しているのです。そのために徐々にではありますが、地域や国といった境が薄れてきているのです。いや、逆に境を無くした方が交易(物の移動だけではなく資本や情報、人を含む)をしやすいために望まれる事になってきているのです。しかし、本能の部分ではどうでしょうか?みんなが自分の周りに線を引いてその外側を異質だからといって攻撃していたら動物と同じになってしまいます。いや、動物の場合は必要に迫られているのでしょうがない部分があり、人間は動物以下と言う事になってしまうのです。ではどうすればいいのでしょうか。
少し話が変わりますが、ここで、日本人の宗教について考えてみたいと思います。日本人は無宗教だという人が多いのですが本当でしょうか?もちろんすべての人間には宗教の小部屋があるので無宗教という事はあり得ません。私の考えるに、日本人は宗教として基本的に神道を信じているのだと思います。「そんなことはない」と言う人も多いだろうとおもいます。でも、よく考えてみると神道の”八百万の神”の考え方というのは実に日本人に合っています。正月には神社にお参りに行き、人が亡くなれば仏様と呼んで供養をする。クリスマスを祝いバレンタインデーまで有る。一見何でもありのむちゃくちゃに感じますが、キリスト教の神様や仏教の仏様を”八百万の神”の一人として取り込んでしまったと考えれば納得できるのではないでしょうか。また、それ以上に日本では神道があまりにも当たり前になっているために自分が特にどの宗教を信じていると考える必要がないとも考えられます。そして日本人はよく他の文化を“まね”して取り込むのがうまいと言われます。案外これは宗教の違いのせいではないか、と考えられないでしょうか。キリスト教のような”唯一絶対の神”のもとでは全ての事柄の根本原理が一つである、と言うような考え方になるような気がしますが、神道ではいろいろな神様がいろいろな原理を作っていると考えています。だから異なる文化でも比較的取り込みやすいように思います。そして。この性質が先ほどの地域ごとの諍いの解決方法になるように感じます。これから先、グローバル化が進みどんどん世界が狭くなっていくと言われていますが、いろいろな地域の様々な文化が消えてしまうとは思えません。今までは“国”という枠組みの中で分けられていた為、キリスト教のような”唯一絶対の神”を信じている方がある意味でまとまりやすかったのではないかと思いますが、”国”という境が消えていくこれからの世界では日本人と神道の考え方がいろいろな意味で重要な地位を占めてくるのではないでしょうか。
 現在というのは冷戦構造が無くなったため地域の紛争が多くなっています。”唯一絶対の神”の思想ではこの紛争は止められません。世界中の思想、考え方の違いをまとめて本当の意味でのグローバル社会を築いていけるのは日本人と神道だけかもしれないと思うのです。海には海の神様がいて山には山の神様、森には森の神様がいる。日本人がいてアメリカ人がいて中国人やアラブ人がいてそれぞれが違った考えを持っている。それが当たり前でそのために対立することはなのです。対立ではなく、混ぜ合わせて一つにしてしまうのでもなくお互いの違いを理解する事。先進国では唯一多神教を残している日本にしかできない事かもしれないのです。

最後の時に

その時は貴方にも必ず訪れます。貴方が無に帰す…。貴方もいつかは死ぬのです。人間を除く地球上のすべての生物はおそらく自分が死ぬと言うことを死の直前まで知りません。今が全盛期のグループのボスも虐げられている最下層のいじめられっ子も自分がいつかは死ぬと言うことを知らないのです。人間だけがそれを知ってしまいました。どんなに努力をしても死から逃れる方法が無いことを貴方は知っています。それを知った上で貴方は今を生きているのです。では、貴方は最後の時に”納得”という形で自分の生を終わらせることが出来ますか?自分の時間が無くなったと気づいたときにそのことに対して納得する-素直にそれを受け入れ、生を終わらせることが出来るでしょうか?
宗教家は人間が”死”という現実を知ってはいても受け入れることが難しいことを知っていました。そのために死後の世界の物語を作っています。天国や地獄、来世と言った死後の世界は人が自分の死を受け入れられないことを知っていた宗教家の作り出した物語なのです。もちろんこの物語は現実にはなりません。貴方も死と同時に無に帰すのです。その時に素直に終わりを受け入れる…。どうすればそんなことが出来るでしょうか。
話がそれますが、貴方はコレクションについてどう思いますか?興味の無い人にとってどうでもいい物をその人の価値観だけで集めるのです。それを持っていたからといってごく一部の興味のある人たちにしかその価値が分らない物を、です。ばかげていると思う人もいるでしょう。でも考えようによってはコレクションの趣味を持っているのは一部の人に過ぎませんが、実はみんながコレクションを行っているのと変わらない状態ではないでしょうか。ある意味ではその人の経験などもコレクションの一部と言うことができるのです。貴方は自分の持ち物も自分の貴重な体験も同じようにコレクションをしているのです。そういう意味では一生の間にすばらしいコレクションを作り上げることがその人の幸福の証であると考えることができます。また、コレクションで大切なのは、集めることだけではありません。集めた物をいかに保存するかも大切なのです。私もささやかながらコインのコレクションをしています。もちろん集めることも大事ですが、実はそれをいかにに保存するかも大切なことだと考えています。発行から100年以上たったコインが発行されたときのままに保存されている事はその間に保存をしていた人がいるからです。コレクションは、実はいい状態に保存するという事に最大の価値があるのです。そして何時の日か私が次の世代にコレクションを譲る時に価値ある状態で渡したいと思うのです。人の経験も同じです。経験とは長い時間をかけて作り出す物です。そして、その経験を何時までも使える新鮮な物に保つのは意外と難しいのです。世の中が変わるたびに価値の基準も変わってしまいます。そのときに貴方の経験が新しい価値基準の中で光り続けるには単に現状を維持するだけでは駄目です。貴方の経験を現状の変化に合わせて変えていきながら次の世代に引き渡す…。こうして貴方の持っているバトンが次の世代に継承されていくのです。
貴方は永遠に続くリレーを今走っているのです。永遠という長い時間の中でその一部分を担当しているに過ぎないのです。貴方の最大の仕事は貴方が今持っているバトンを未来に繋ぐことではないですか?夢を託せる未来を思い描くことが出来れば貴方自身の終わりに対しても素直に受け入れることが出来るのではないでしょうか。そのために今を生きることが大事だと思うのです。

最後に

心についてのある本を読んだときに感じたのです。ここに書いてある心についての考え方は本気で書いているのだろうか?と。心とはそんな物ではないのではないか、と。その本には人間には心があるが、犬や猫はどうなのだろうか、などとかかれていました。犬や猫の心に見える部分は実は心ではないのではないか、などとかかれていたのです。冗談じゃない、と思いました。人間も他の動物と大して違わないはずである、と。そしてある時、私には本能のままに行動したとしか思えない状態を世間は感情のままに行動したと言っている事に気がついたのです。そうじゃない、人間というのはもっと本能に従って行動しているんだ。心にしても本能を代弁しているような存在だ。そのときにそう気がついたのです。その瞬間から私の頭の中に積み上がった疑問や説明できない真実が次々に自分なりに納得のいく説明を付けられるようになったのです。
しかしそれ以降は心に関する記述などに対して感じていた違和感がより大きくなって来ています。この違和感を何処かで解消したいと思いこの本を書きました。実際には心理学や神経科学で証明されたことを書いているわけではありません。従ってこの文章の内容は私の空想に過ぎない部分がかなり含まれています。しかし科学はすべてを証明できているわけではありません。証明できていない部分は仮説を立てて理論を組み立てていく物です。そのようにイマジネーションを膨らませることは重要なことです。この本を読んだ方にこの考え方が受け入れてもらえるかどうか判りませんが、何かしらでも今後の考え方の参考にしていただければと思います。

猿から原人へ

人間は嗅覚を捨てて視覚に頼ったのですが、なぜか夜目が利きません。考えるとこれほど危険な事は無いので、これは、天敵を想定していない変化です。人間は夜の闇におびえます。猿に近い動物が天敵のいない環境で進化して人に近い猿人や原人になってから天敵のいる場所に住み着くようになったからだと思われます。
天敵を想定していない変化は他のところにも見られます。直立歩行です。直立歩行のどこが天敵を想定していないか、と言うと女性の子宮の真下に産道がきてしまうことです。人間以外の哺乳類は子宮の横か斜め下に産道があるのに対して人間の場合は真下にある…、これがどういうことを意味するかと言うと、妊婦が激しい運動をすると流産しやすいと言うことです。それに、人間以外の哺乳類の子宮は背骨にぶら下がるように位置しています。このために天敵に追いかけられたりする場合でも比較的激しい運動をすることが出来ます。これに対して人間の場合は子宮がぶら下がるべき背骨は真横にあり使い物にならないため骨盤の上に乗せたような形になっています。しかし、どう見ても臨月の女性のおなかは骨盤からはみ出しており、当然運動など出来る状態ではありません。ましてや天敵から逃げ回ることなど論外です。これらのことから、人間は嗅覚に頼った行動を捨て、直立歩行をするようになった時点では天敵がいなかったと考えられるのです。ただし、これだけの変化を起こすと言うことは相当な淘汰を潜り抜けてきた結果と思います。天敵によらない淘汰、これは環境の激変と思われます。つまり人間には環境の激変によって想像を絶する淘汰の嵐を潜り抜けた時代があったはずなのです。その激変の間に直立歩行をするようになり、また嗅覚に頼った行動を捨て去りました。おそらくは、そのころに言語も獲得したと思われます。猿に近かった動物が人に近い猿人や原人に進化した過程にはどのようなことがあったのでしょうか。現在の定説となっているのは猿の仲間であった人間の祖先が住み着いていた森林がサバンナになり、その過程で直立歩行をするようになったというものです。この説ははっきり言ってありえません。サバンナのような天敵のいる場所ではこのような天敵を想定していない進化はありえないからです。
人間は進化の過程で一時期水生生活をしていたと言う説もあります。直立歩行をするきっかけが背が立つ海や湖での活動であり、また頭の上だけに毛が多く体にはあまり体毛がないのもそういった活動が原因であるというのです。(私の場合は頭にもあまり毛がありませんが…)確かに直立歩行をする脊椎動物は人間とペンギンのみですし、嗅覚に頼った行動も水の中では意味がありません。こちらの方がずっと納得できる説です。その証拠となるものがまったく無いために現在学会などでは無視されているようですが、サバンナ説を支持するようでは話になりません。
まあ、どのような環境が人間を人間らしくしたのかわかりませんが、それが問題ではありません。嗅覚に頼った行動を捨て去ったこと、これがその後の人間の社会を大きく変えたのです。

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