閉じる


<<最初から読む

14 / 53ページ

シミュレーションルーム

世の中には多重人格という病気があるそうです。同じ個人であるのに全く違う人格が入れ替わる…。でも、よく考えて下さい。あなた自身は自分の考えが短期間に全く逆になったと言う経験はありませんか?そして、自分自身の中に別の自分を感じたことはありませんか?それは、外から見たら別の人格と思われても仕方がないのではないですか?
じつは脳の中には常に現状に対する把握とその対応を経験と本能による命令によってシミュレーションしている部分があります。そして、そのシミュレーションは個人差はあるのでしょうが複数を同時に行っているのです。
では、そのシミュレーションルームをちょっと覗いてみましょう。

 

その部屋には一面にモニターが並んでいます。そして、それぞれが、現在の状況とそこから考えられる対応についてシミュレーションを行っています。その内の一つをちょっと覗いてみましょう。どうもこの家の主人は映画を見ているようです。映画の主人公は自分の彼女にみえみえの嘘をついています。その瞬間に映画の画面が隅に小さく追いやられ、その場面の先の予想が展開され出しました。主人公の言っていることを彼女が非難する場面が映し出されています。主人公はうな垂れながらも女々しい言い訳をし始めました。っと、隣のモニターが全く別の予想をしています。主人公は彼女の非難に対してビンタを食らわしています。うな垂れながら小言を言うのは彼女の方です。ああ、でもやはり映画の中の主人公は彼女に怒鳴りまくられてます。その瞬間に隣のモニターは映画の画面のみに戻りました。こちらのモニターはまた幾つかに分割され、それぞれが違う言い訳をしているところです。そして、まるで自分がその状況に立たされているかのように悲しみと自分に対する怒りの感情が本能の部屋からどっと流れ込んできました。

 

昔から数多の心の葛藤を描いた物語がありました。小説、映画、漫画、その他音楽などでも思い悩む人の姿が描かれ続けています。主人公を変えていろいろな人がいろいろなことに思い悩む姿を何度も繰り返して作り直しているのです。なぜこんなに延々と作り続けているのでしょうか?それは他人が思い悩む姿が面白いからです。なぜ面白いか? 物語を聞くとき、脳の中ではこのシミュレーションソフトが追体験をしているのです。本能とシミュレーションソフトは現実と物語の区別が付きません。それを判断しているのは心の方です。ですから悲しい物語を聞くと悲しい気持ちになり、楽しい物語を聞くと楽しく感じる…となるわけです。そして、自分にこんな事が起こったら大変、と言う内容の物語ほど興味を引かれます。
"興味" これも重要なファクターです。人がいろいろなことに興味を持つ…。なぜそんなことが必要なのか。ほ乳類がシミュレーション能力を獲得したときにこの"興味"という本能が重要な役割を果たしました。危険な事に興味を持つのは自分自身が危険にさらされる可能性を秘めています。こんな本能はかえって生物の生存にマイナスではないか…とも考えられますが、実際には自分にとっての驚異を知っておく方が生存率が上がったのでしょう。そのために"興味"と言う本能を持った動物は生き残りました。そして、この”興味"にせかされるままに遊びや勉強を通じていろいろな体験を"シミュレーション"するようになったのです。

元々シミュレーションは魚類や両生類、は虫類には無い脳の高等な機能です。ですからほ乳類以外には本能の部屋のみが備わっていて、ほ乳類のみそこから派生したシミュレーションルームが存在しています。このシミュレーションルームは本能の下部組織として発達したと思われますが、実は心も活用しています。心の判断でシミュレーションの内容に方向性を出すことができますし、心からの要求で新たなシミュレーションを行うこともできます。このことが、心が自分でいろいろなことを考え出すことができる様に錯覚する原因のひとつとなっているのです。また、人間の場合他の哺乳類と比べてこのシミュレーションの能力が格段に高いと思われます。人間は他の哺乳類と比べ一度に多くのシミュレーションを同時に行う事が出来るのです。これは、前にも書きましたが人間が会話を行うようになったためであると考えられます。この、複数のシミュレーションを同時に行う能力は人間の”思いつき”を生み出しました。”思いつき”は何も無いところからは生まれません。今現在考えていること…つまりはシミュレーションをしている事と同時に他のシミュレーションを動かしたことによって2つの経験が混ざり合うのです。そのほとんどは何も起こらないのですが、たまに今まで考えたことも無いようなシミュレーション結果を生み出します。これが”思いつき”です。

また、シミュレーションルームには幾つものモニターが並んでおり、それぞれ得意とする分野が違います。あるモニターは音楽が得意であり、別のモニターは絵を描くことが得意、と言うように分野ごとに違うモニターがシミュレーションを行っているのです。このために音楽は得意でも絵を描くことは不得意、と言うように得意不得意が出来るのです。もちろん同じ系統のシミュレーションをするモニターが同時にシミュレーションを行うこともあります。この場合、同じ系統のシミュレーションであっても結果が同じとは限りません。しかしこのように平行して幾つものシミュレーションを行うことで思考に幅を持たせた広い考え方が出来るようになったのです。また、このことが人間が"迷う"事の原因ともなっています。人の心は幾つもの本能から指示が出されている状況で複数のシミュレーション結果を見ながら思い悩むのです。

シミュレーションルームのソフトは基本的に本能と心から指示を受けて予測や追体験を行います。何かについて考えようとするとここのソフトが書庫から情報を得ながらシミュレーションを行い、その状況を見ながら心は判断を行うのです。しかし、心では考えまいとしているのに考える事が止められなくなる事ってないでしょうか。シミュレーションソフトを使っているのは心だけではないのです。本能もここを使う事が出来るのです。そして、書庫などとは違ってシミュレーションソフトの動きは心が意識さえすれば見る事が出来るのです。心が指示したシミュレーションと同時に本能が指示したシミュレーションが動いていて、それを同時に見てしまうために自分が何を考え、何をしたいのかが判らない…そういった状況に陥るのです。よく考えてみてください。自分が、つまりは心が指示したシミュレーションとそれ以外、つまりは本能の指示によるシミュレーションは自分で区別できるはずです。本能の指示が間違っているとは限りませんが、区別できるようになると自分を見失うことが少なくなります。


書斎

あなたは考えています。どうすればいいのか?でも考えると言っても選択肢はそれほどあるわけではありません。目の前にあるモニターが示す幾つかの”自分の行動”を外界(周りの人やその時点の環境)の状況を見ながら選択する事しかできないからです。選択をすると言っても参考にするべき経験や知識もすべてを見られるわけではありません。しかも"本能の部屋”は自分勝手な要求を”感情"という形で突きつけてくるのです。やらなければならない事があるのに腹は減るし眠くはなるしテレビに映っている美女は気になるし…。本能はあなたの事情などお構いなしに自分勝手に行動します。あなたは本能の要求にさらされながら外の状況に対応しなければならないのです。しかも貴方の選択する"選択肢”は貴方自身の考えた事ではありません。本能と本能の下部組織であるシミュレーションルームによって作られた"選択肢”の中から選択をしなければならないのです。それではうまくいかなくて当然、等と思わないで下さい。あなたが自分のために今何をしなければならないのかは、本能には判らないのですから。それを判断するのはあなた、つまりあなたの"心”の役目なのです。自分の本能がわがままである事、そして本能は本当に自分のためになることが判らないままに活動していると言う事を理解した上で自分の本能とつきあっていかなければならないのです。
わがままな本能はすぐに手が届く欲望にとらわれがちです。でもあなたは自分の将来を見つめてもっと遠くにある"理想”に向かわなければなりません。本能の要求による欲望とはほどほどに付き合っていればいいのです。そのためにはその場の感情に流される事のない”理想”や"大志”を強く持つ事が一番良いのです。でなければ貴方の心はひたすら本能を代弁するだけの存在になってしまうでしょう。

コラム④ 右手と左手

あなたは右利きですか?そうだとしたら左手をどう思いますか?右手と左手を比べたら、その価値に違いがあると思いますか?
左手は不器用だ、などと思っている人がいたらそれは違います。なぜなら、左手と右手は役割に違いがあるからです。もちろん左手もある程度思ったとおりに動かすことはできます。しかし、右手が心、つまりあなたの支配が強いのに対して左手は潜在意識、本能やシミュレーションソフトの支配が強いのです。昔の西洋の騎士は左手に盾、右手に剣を持っていました。これには訳があります。攻撃には相手の弱点を探し出してそこを突くことが必要で、そのためには本能の支配よりもあなたの判断が必要だからです。これに対して防御は本能のほうが役に立つ場合が多いのです。左手は不器用、と思っている人は多いと思いますが、本能などによる自動制御が強いのです。右手で何かを行う場合、左手はバランスをとるために反対の動きをする。でないと直立歩行の状態を保てないのです。
人間の行動は本能に強く影響を受けています。いや、影響どころではありません。人間の行動や考えは本能によってそのほとんどが決められているのです。心は本能によって作られた自分の考えの中からどのような行動が必要かを判断しているだけです。では、本能とはどんな物なのでしょうか?また、本能によって人間の心はどのように動かされているのでしょうか?本能は太古の昔から生物が生き抜くために精神の中に構築してきたプログラムのような物です。生物が食物連鎖の中で生き抜くために必要な行動がすべて組み込まれているのです。しかし、人間は自然の中で食物連鎖に組み込まれている状態から抜け出し人間にとって安全な社会を作り上げました。その中にいながら食物連鎖の中にいた頃の本能をそのまま持っているのです。ひとつひとつの本能は貴方の置かれた状況を考えずに自分勝手に行動します。それを知らずにいる事で貴方は本能に振り回されるだけの存在になっているかもしれないのです。
1章、2章で人間の脳の活動について私の考えを説明してきました。3章では脳の活動の要となる本能の部屋とシミュレーションルームが人の心にとってどういう役割を果たしているのか掘り下げてみたいと思います。もちろん人間には他の動物と同じ本能が数多くあります。その中に人間を人間らしくしている本能があるのです。それはどのような物なのでしょうか?

感情

貴方は死を怖いと思いますか?人間にとって死とは一番の恐怖の対象でしょう。でも死はありふれているとも思いませんか?貴方の家族や知り合いのほとんどがあと何十年かで死ぬのです。世界に今現在生きているほとんどの人がほんの何十年かで死ぬのです。こんなにありふれているのに何で怖いのでしょうか?この世に生きているすべての人にとって経験のない事だからですか?経験が無くても身近な人が亡くなれば十分に死を感じる事が出来るのではないですか?では、逆に恐怖とは何者だと思いますか?人はただ食べて寝るだけではなく生きる喜びを知っているなどと言われる事があります。同時に恐れや悲しみ、怒りなどの感情も持ち合わせてるのです。ただ生きるのではなく、喜び、悲しみそして怒りながら生きる事に価値があると言う事になっているのです。では、恐怖や悲しみや楽しみと言った感情はどこから来ていて貴方にとってどういう意味があるのでしょうか?

2章では感情は本能からの要求であると言う事を書きました。しかし感情も自覚できる脳の活動なので心の機能の一つではないか、と言われそうです。では、貴方は感情をコントロールする事が来ますか?知り合いに悪い事が起きたときに悲しい態度をとる事は出来ます。しかしそれは本当に悲しいのではありません。友人が楽しそうに話をしているときに自分自身は楽しくなくても楽しいと思える様に相づちを打ち笑顔を作る事もあります。これは感情をコントロールしている事になりますか?人間が出来る感情のコントロールは、感情のままに行動するか無視するかの二者択一なのです。感情自体をコントロールする事は出来ないのです。従って感情は無意識から心に流れ込んでくる何かなのです。それを、私は本能からの要求であると考えました。
そう考えると逆に本能は感情から推察出来る事になります。一般的には感情には含まれていないもの、性衝動や食欲などもこの理由から感情の一種であると言えます。基本的に感情とは喜怒哀楽+恐怖+欲と言ったところでしょうか。(昔から欲を感情とする考え方は有りました)ただし、感情の一種と勘違いされやすい物もあります。好き嫌いなどがそうで、ある物が好きであると言う事はそのもの自体の過去の記憶にリンクしたその物のイメージ、付帯情報と言ったところなのです。これは本能からの要求とは別ですので感情とは言えません。ただし、危険な物に対する嫌悪感や恐怖感、旨い物を美味しそうと感じる事などは立派な感情と言えます。
ここで注意したいのはそれぞれの本能がそれぞれの感情を出している訳では無いことです。嬉しい本能や悲しい本能があるわけではないのです。同じ本能が嬉しさや悲しみ等の感情を使い分けているのです。また、本能が複数存在しているのですから感情も同時に複数が心に流れ込むことがあります。悲しいけど興味がわく、つらいけど楽しい…そう言ったことはよくある事です。そして、どちらが強いかで心は自分の行動を決めています。自分にとってつらいと思えることを他人が平気で行っている…その人にとっては辛さに勝るプラスの部分があるのです。そこを理解しないと本当の人生の面白さも理解できない人間になってしまいます。

感情の中で一番強く感じるのはやはり恐怖でしょう。死への恐怖だけでなくたとえば身体の一部を失う恐怖など、自分の身体を失う恐れです。他の感情が恐怖を感じたときには後回しになってしまう事を考えてもそういう事になります。と言う事は恐怖に対応している本能の部分がもっとも強い本能だという事になります。他の感情、たとえば食欲なども飢餓状態レベルであればそうとう順位が上がりますが、これは同時に死への恐怖を感じるからだとも言えます。その他の感情は、つまりその他の本能は基本的に自分の遺伝子を残そうとする事が基本となります。また、本能は身体のコントロールとしてホルモンの分泌を行っています。心は身体の変化を感じる事でも影響を受けているのです。

感情が本能から心へ向けた要求だとするとなぜ喜怒哀楽の情を表に出すのでしょうか?動物の場合はそれを表に出す事で他の個体(天敵であったり仲間であったり…あるいはただ単にじゃまな存在であったりします)に警告や親愛等の情報を送っています。たとえば他の個体に警告を発する場合、分類学上遠い存在であるはずの昆虫とほ乳類で同じような威嚇を行います。「俺は怒っているから近づくな!」という警告にはそのサインに決まりがあるのです。また仲間同士の愛情表現や挨拶にもはっきりと決まりがあります。動物は感情を表に出す事で他の個体とのコミュニケーションを取っているのです。人間はどうでしょうか。人間の場合言葉という他の動物にない情報交換のツールを持っていますが、その言葉にしても感情の込め方で意味が違ってきてしまいます。同じ「早くしてよ」という言葉が怒って言っていることもあればお願いとして言っている場合もある…冗談でからかっている場合などもあるかもしれません。声の調子だけでなく表情や仕草などでも相手に対して感情を情報として送っています。従来はこうする事でより素早く、より深くコミュニケーションが取れる為に行っているという解釈をしています。もちろんその要素は大きいと思います。しかし、なぜ人間は他に人がいない場合でも嬉しくてニコニコしたりキレて物を投げつけたりするのでしょうか?一人でスポーツ番組をみていて思わずガッツポーズを取る、なんて言う経験がある人も多いと思います。それはコミュニケーションの為ではありませんよね。実は心は本能と現実の板挟みになるのを避けるために本能からの要求を態度に出すことで本能に少しでも納得して貰おうとしているのではないでしょうか。悲しみや怒り、喜びを態度に出すことで発散して少し手も平静を保ちたいのです。悲しいときには悲しい態度を取って悲しい曲を聴く、楽しいときには嬉しそうにする。自分の情報を他人に送るのと同時に本能を納得させて普通の状態に戻ると言う目的があったのです。

では納得するとはどういう事でしょうか?それは本能が考える事を止める事です。本能はそれぞれの物事の自分なりの結論がでないとそれを何度でもシミュレーションさせます。自分の中で考えまいとしても勝手に考えてしまい、それが止まらなくなるのです。そして、納得すると言う事はその無限に続きかねないループを止める事、本能が自分なりの結論を出した事でシミュレーションを止める事です。ただし、悲しみやつらさが止まらない場合人間は”泣く”という方法で無限のループを止めようとする事もあります。
なぜ人間は泣くのでしょうか?人間以外の動物は泣きません。
泣くと言う事は考える事を止めようとする事ではないでしょうか。子供が親や先生からしかられて泣く事はよくあります。しかし彼らには自分なりの理由がある場合が多いのです。親や先生はその理由については無視します。子供の理由を無視したまま叱るのです。その状況でいつまでも自分の考えを続ける事が出来ないのは子供も知っているのです。だから泣きます。自分で考える事を止めて親や先生の考えを受け入れるために泣くのです。
また、人間の場合、生と死に関して知りすぎてしまったのではないでしょうか?他の動物が何となく感覚として死を感じているのに対して人間だけははっきりと死がどういう物かを理解しています。人間がどのように努力をしても理不尽とさえ思える仕打ちが待っているのです。また、それ以外でもどうにもならない状況で精神が追い詰められてしまう事もあります。そういう状況や努力をしてもどうにもならない状況から精神を守る方法として何もかもなげうって止めてしまう、止めざる終えない状況にするために"泣く"のではないでしょうか。動物の場合は自分の考えを変えなければならないと言う状況や自分の精神が追い詰められていると言う状況を理解する事がまだ出来ないため泣く必要が無いのです。そういう意味では人間の精神で一番進んだ機能が”泣く”と言う事になるのかもしれません。



読者登録

TK-Oneさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について