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ゴロワーズの少年/立花腑楽

 人も疎らな夜のホームに、薄く紫煙が漂っている。甘く、だけど癖のある香りのそれは、嗜まない僕にも、高価な西洋タバコの煙だとわかった。

 紺色の制服を、折り目正しく着た少年だった。年の頃は、僕と同じくらいだろうか。学帽を目深に被り、細長い背中を柱に預けながら、思い出した様に、シガーを口に運んでいる。下顎を上げ、ふぅっと、煙を吐き出すたびに、学帽の下から、どきりとするような赤い唇が覗いた。

「どこの学校の子かしら?」

 ベンチに座り、彼の方を盗み見ては、そんなことを考えた。

 身形もハイカラで、何となく港の方の子かもしれないなと思う。何より、そうしてタバコを呑む様がとても上品で、気障だとか無頼を気取っているような印象はまるでなく、あたかも絵画を観ているような、硬質な自然さを感じさせるのだった。

 

 ジリリリと、汽車の到来を告げるベルが鳴る。彼は、短くなったタバコを踏み消し、案の定、港の方へと向かう汽車へ乗って行ってしまった。

 一人ホームに取り残された僕は、先ほど彼が踏みつぶした吸い殻を拾い上げる。まだ少し湿り気が残る吸い口には、仏語で銘柄が印刷されていた。

GAULOISES

 僕は、記憶に擦り込むように、何度も何度も、その銘柄を復唱し続けた。


ピエロのデュエット/五十嵐彪太

 夏の夜、寂しい道化師が街灯の下で唄い踊る。

 街灯の灯りに照らされて、道化師は影とのデュエットを始める。

 少年とマヌカンの愛の唄。

 集まる観客は蛾ばかりだ。でも、かれらは小さな声で唄う道化師と、もっと小さな声で唄う道化師の影のお客にふさわしい。

 それに道化師は知っている。月が彼の踊りを見守っていてくれることを。

 ほら、唄い終わった道化師の足元にジンジャーエールの瓶が転がっている。

点灯夫/圓眞美

 非常によい気分で薄暗い道を歩いていると、法被を着た少年が瓦斯燈に次々灯りをとぼしてゆく。長い竿をするすると伸ばして、竿の先で揺らめく火を灯口に近づける。ぼっ、と音が鳴る。少年は手際よく灯りをとぼして廻り、私の行く道は一気に明るくなった。それにしてもずいぶんと年若い点灯夫だ。あれは本当に正規の点灯夫なのかしらん? そんなことを考えながら少年の後ろをゆたゆたと歩いていると、ふいに少年が振り返って目が合った。こちらを向いた少年の目や頬は真っ赤に燃え上がっていて一瞬驚いたが、すぐにそれが竿の先の火が揺らめいているせいだと気がついた。

「やあ、精が出るね」私が話しかけると、少年はちょっとはにかんだ。

「あなたはずいぶんと上機嫌ですね」

「君はずいぶんと年若い点灯夫だね」

 私は博打を打って少しばかり儲けた帰りだった。その金でたらふく酒を浴びにゆこうとしていたが、しかしそれを少年に言うのはどうにも具合が悪かった。

「暗闇は怖いですから、僕はこんな仕事をしています」と少年は言った。夜道が暗いのは当たり前の時代があったというのに、今ではこんなにも明るい。本当に文明の利器とは大したものだ。

「でも、こんな灯りなんざ気休めのまやかしに過ぎませんよ」

「おや、そうかい」私はちょっと奇妙に思った。少年の言うことはちぐはぐだ。しかし少年は構わず、滔々と続けた。「だってこんなもので夜の闇が本当に消えることはないのですからね。まやかしの灯りに騙されて、夜が怖いものだということを忘れちゃあいけない。ましてやあなたの道はけっして明るくはありません」

 もしかするとこの少年はキ印だったかしらん。私は迂闊に話しかけたことを後悔した。出来るだけ少年と目を合わせないように下を向き、じりじりと後じさりながら逃げる隙を探した。頭の上で、ふう、と少年が笑う息遣いが聞こえた。

「今ごろ奥さんは家で内職をしているのでしょう。全部、あなたの博打代だ」

 はっとなって顔を上げると、どういうわけだかすでに少年の姿はそこになかった。

「……畜生め」私はぶるりと一度、大きく体を震わせた。「まだ一滴も飲んでいないってのにな」それから、瓦斯燈に照らされた明るい夜道を、とぼとぼと歩きはじめた。


淑子/白縫いさや

 淑子の紅い瞳は淑子が生まれるやただちに隠された。その瞳が光を見るのは、床に就く前に目隠しを取り替える時だけだった。淑子は屋敷の離れに、その名の通り淑やかに封じられている。

 

 盥に張った湯がぬるくなる頃に、幸之は淑子の体を拭い終えた。

「いつもありがとう」

 月に顔を向けて正座する淑子の背中は華奢である。その肩は月明かりを受けて白く輝いて見える。月の光は淑子の肌を焼かない。代わりに石英の結晶の中に閉じ込めたように、冷たく、美しいものに仕立て上げる。

 幸之は姉の孤独を慮り、哀れに思う。十七といえば他所に嫁いでいてもおかしくない年頃だ。淑子は年相応の遊びも知らず、日なが一日、野良猫と遊んで過ごすのだ。

 淑子は自分の手で目隠しを外し、幸之の方を振り返る。幸之は息を呑む。血を煮詰めたような深紅の瞳の前では、姉を哀れむ気持ちなど取るに足らないものであることを思い知らされる。血染めの満月のような双眸が幸之を見る。

 淑子は八つ折にした目隠しをそっと幸之の前に差し出すと、月に向かって座り直す。幸之は首を絞めるのにも似た動作で後ろから淑子に目隠しをかける。いつか本当にそうするかもしれない。少なくとも父母は幸之がそうすることを期待して幸之に淑子の世話をさせている。卑怯で、臆病で、世間体ばかりを気にするか弱い人たちだった。

「お父様の具合はどう?」

「医者はもうながくないだろうって」

「そう……よろしく伝えてね」

 凶事の原因を求めるのに淑子ほど適当なものはない。

 

 去る間際、幸之は部屋の隅に干からびた三毛猫の死骸を見つける。今朝まではなかったそれが何であるかを問うには、いささか幸之には度胸が足りない。

 淑子は、みゃあ、と鳴く猫を抱き、その細い指に少しばかりの力を入れる――柔らかい毛を掻き分け、まだ温かい肌に歯を当てる――。……想像ばかりが逞しい。

 一瞬にして頭を占めた妄想を忘れようと首を振った時、視界の端に淑子の横顔が見えた。目隠しの下の瞳で“見抜かれていた”。

 淑子が鼻歌を唄う。

 その流行り歌はどこで知ったのだろうと幸之は思う。


罪の甘み/圓眞美

 あれほど優しい人と言われてきたお兄様が歯を剥いてわたくしを打ち据えるほど変わられても、わたくしは何を責めることも致しません。

 誰よりお慕いしていたお兄様が嫁をとりなさると聞いたわたくしの悲観はどんなでしたろう。それも、わたくしの親友の寿子さんがお相手であるなぞ。

「僕が誰と添おうとも、お前だけは祝福してくれると信じていたのに」

 どうか考え直してくれろと膝に縋るわたくしを持て余しながら、お兄様はあくまでも優しく声をかけてくださいました。ですから血の噴くほどわたくしを殴られたのは、ひとえに、それほどまでにわたくしの我儘が過ぎたということでしょう。止め処なく流れる血にお兄様はひどく動揺なさりましたが、それでも謝ろうとはなさいませんでした。

 わたくしが泣くたび打ち据えるようになられたのはそれからでした。厭気の差した寿子さんに捨てられると、暴力は日常的になりました。刃物さえ振るうようになりました。去る寿子さんが、お兄様を堕落せしめたわたくしより、お兄様自身により冷ややかな視線を向けたことが印象的です。

「お前のせいだお前のお前のお前の」

 どれほど罵られようとも、わたくしはお兄様を独り占め出来たことが何より嬉しくてなりません。お兄様に嬲られた皮膚が破れ血を噴きます。わたくしは毎夜、お兄様の唇を夢想しながら破れた自分の皮膚を吸うのです。



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