閉じる


<<最初から読む

4 / 11ページ

第2章 リーダーの資質は環境と共に変化

 アーロン収容所での体験

 前章ではリーダーの重要性を述べましたが、そのリーダーに求められる資質は環境により異なってきます。会田雄次著 「アーロン収容所」 では、環境と共に交代するリーダー像を著者の貴重な経験から明晰に述べています。著者の会田雄次氏は、京都大学の大学院生であった昭和18年夏に、京都の歩兵連隊の二等兵として入隊しビルマ戦線に赴きました。ビルマでは英軍と全滅線を戦い、終戦後は二年間ラングーンの英軍の収容所で捕虜となり昭和22年に帰国されました。著者は、京都の歩兵連隊の最前線の最下級の兵士としてビルマで戦いました。2年間の戦いの後、昭和20年8月、ビルマ南端のジッタン河のほとりまで追い詰められ、そこで敗戦の昭和20年8月15日を迎えました。そのとき残っていた中隊の兵士は、新しく復帰して来た人を入れ17人~18人です。昭和19年に補充をうけ、総人数は300人近くであったから、10人にひとりも生き残らなかった過酷な戦争を体験しました。 「アーロン収容所」 は、戦争体験を基にリーダーたる資質は、時代や環境と共に変化することを述べており、以下に筆者が文章に手を入れ引用します。

 

  「アーロン収容所」 では、時期を第1期~第4期の4つに区分しています。第1期は、まさに砲弾が飛び交う最前線、毎日が死と隣り合わせにある緊迫した時期です。この時期のリーダー格は、Y兵長です。彼は激烈きわまる戦闘の中でも決して持ち場を離れず、死んだ戦友を放置しておくにしのびず、命がけで遺体から小指を切り取ってくる勇者でした。Y兵長のリーダーとしての資質は、死線下の極度の緊迫が支配する状況において神経がとぎすまされてくる資質です。砲爆撃、機銃掃射・・・・・私たち平凡人がそれによって度を失い、恐怖のあげく適切な判断を失っているとき、彼の神経は逆にとぎすまされ、素早い意思決定によって果敢な行動が出来るのです。

 第2期は、戦争末期の戦線を後退させてゆく過程、つまり逃走にともなう不安と恐怖が霧のように立ち込める戦いの時期です。この時期のリーダー格は、K伍長です。この時期は、戦闘自体としてはさほど激しいものではなかった。ただ命をまっとうするために逃げるだけである。とにかく次の攻撃準備をしている敵と対峙しており、いつ敵が向ってくるかわからない。いざとなっても慌てず、小敵なら撃退し、多数なら損害を受けぬように手早く退却するための手はずを整える資質です。K伍長は、第1期のY兵長のような 「戦場の勇士」 ではなく、何事も非常にきちんと着実に行うまじめな人物です。ふまじめな性格、おおざっぱな性格は一瞬の隙を作り命取りになりません。

 第3期は戦後、捕虜となり、きびしいしめつけのなかで英軍に対する恐怖が色濃くただよっていた初期の収容所です。第3期には、リーダーは出現しませんでした。捕虜になり、それぞれ恐怖と飢えにひしがれていたわけで、おそらく自分のことだけでせいいっぱいだったからです。英軍の支持があるとはいえ、旧軍隊の権威は急速に失われ、収容所内は一種の無政府状態でした。

 第4期は、捕虜生活にも慣れてかなりの自由をうまく使うようになった後期の収容所の生活です。帰国できないかもしれないという不安はあるものの、働いているかぎりにおいて殺されもせず、生命と生活が一応保証されているという状態です。朝は6時に起きて作業に行き、作業はきついが夜は自分の時間、土曜日には捕虜演芸などの娯楽を楽しみ、ときどきは俳句なんかもひねる、といった一般の生活に近い捕虜生活が訪れました。この時期のリーダー格は、I軍曹です。彼は自分たち15人の仲間が行う作業の引き当てに対して、作業隊の指揮官である将校に対し、これを叱咤激励して、より楽なよりもうかる作業のほうへと仲間を引っ張っていったのです。I軍曹の資質は、とにかく、押し出しもよくはったりもきき、弁も立ち、さぼることもうまく、収入に当たる缶詰などの泥棒も上手、つまり、彼の特徴は状況に対してきわめて柔軟に現実的に対処しうる能力ということになります。

 

 「アーロン収容所」 の著者は、時代と民族とによってリーダーとして要求される資質が違ってくることと、リーダーとなるべき人間は3タイプを含め、みんな平凡な正常社会の秩序の中で、そのどこかに位置しておれさえすれば、それに甘んじて生きがいを感じてゆけない資質であることを強調しています。

 

 失敗を認識できない組織

 第1期~第4期においては、軍隊ですから階級によるリーダーは存在しますが、実質は機能していないのです。特に第4期の 「アーロン収容所」 では、旧軍隊の階級序列で捕虜が統制されていましたが、I軍曹は英軍が認めている旧軍隊の階級・秩序をひっくりかえすことをせず、影の実力者としてのリーダーシップを発揮したのです。公的に認められた形式のリーダーでは組織の下位者が非常な困難に陥ると判断したとき、組織の下位者の中から環境に即したリーダーが生まれてくることを示唆しています。 しかし、旧軍隊のリーダーには職業軍人が配属されていましたが、階級秩序の権威と権力が消失すると、職業軍人の統率力のなさ及び現実を直視した柔軟な対応のなさを露呈しました。その職業軍人の中のエリートが参謀になっていましたが、米軍から頭の悪いエリートが参謀になっているのではと言われました。旧日本軍の参謀は、当時の帝国大学より難関の陸軍大学または海軍大学を優秀な成績を修めた人が務めていました。モリソン著  「太平洋戦争米海軍作戦史」 によれば、「日本軍の作戦計画立案者たちは、充分な兵力を配分するときは、いつでもきまってその兵力を分散して工夫の凝りすぎた計画を立案するのが常でした。その計画を首尾よく遂行するには、あらゆる国の海軍のあらゆる時代を通じてもめったに見られないような戦術的能力を要するのです。またそれは、あたかも敵軍がその演ずるであろうと予期された役割を、唯々諾々と無抵抗で容認することが、その成功の条件であった」 と述べています。これとよく似た言説が 「兵士は優秀だが将校は無能」 という帝国陸海軍の組織の致命的欠陥です。

 真珠湾攻撃のときには、連合艦隊が可能な限りの空母を海軍軍令部(=参謀本部)の反対運動を押し切ってまでもひとつの作戦に投入しました。その後の海軍軍令部の立案した作戦は、世界海戦史上はじめての空母対空母のサンゴ海海戦、情報軽視とリーダーの重大な判断誤りのミッドウェー海戦、両軍の空母同士の航空決戦の中部太平洋マリアナ沖海戦、空前絶後の規模のレイテ湾海戦と、すべて失敗に終わりました。参謀本部が企画する作戦は、常に兵力の分散、複雑な行動を伴い、しかもこうした行動に不可欠な通信連絡手段を欠き、かつ相手の状況を知る努力を怠たる一貫した顕著な思考がありました。ちなみに、レイテ湾海戦はレイテ湾に上陸した米軍をたたいて、なんとか最後の戦局の転機を作ろうとした作戦で海戦区域は南北2000km、面積は日本列島の3倍に及び、両軍の参加艦艇数はそれぞれ数十隻に及びました。特に帝国海軍は、4つの艦隊に分け4方向からレイテ湾に進む作戦です。このような計画の成功は、一に通信機能の完全性にかかっていることは言うまでもありませんが、貧弱な通信機能しか持ち合わせておりません。帝国海軍の参謀は、作戦失敗を認めないため常に同じ作戦を立案するのです。

 筆者は、これと同類の出来事が今も生じていると考えています。それは円高になると常に円売りドル買いの作戦です。1971年8月15日、米国のニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため、ドルと金の交換停止を発表し、1971年12月に通貨の多国間調整(金1オンス=35ドル→38ドル、1ドル=360円→306円に切り上げ)と固定相場制の維持が確認されました。この体制は長続きせず、1973年2~3月に日本を含む先進各国は相次いで変動相場制に切り替えました。これ以降円高になるたびに、財務省が大蔵省と称していた時代から円売りドル買いを行ってきました。財務省には、東京大学の法学部を優秀な成績で卒業したエリートが入省しています。しかし、2011年10月になっても、円高対策作戦が効果のない円売りドル買いです。米財務省が2010年2月16日発表した2009年12月の国際資本統計によると、同月末時点の日本の米国債保有高は、前月の7573億ドル(約68兆4000億円)から7688億ドル(約69兆4000億円)に増加しました。過去には1ドル150円とかで為替介入していますから、1ドル80円以下の現状では大幅な損失です。市場関係者によると、過去数年間で40兆円もの為替損失を出しているのです。

 財務省は、永久に米国債を塩漬けにするのでしょうか。変動相場制になってから約40年になろうとしていますが、財務省は円高対策の失敗を認めず作戦変更がありません。ひょっとしたら円高対策の失敗を口にこそ出しませんが失敗と認めていたとしても、日本のエリートにありがちな創造力欠如のため、有効な円高対策を考案できません。まさしく財務省を始めとする省庁は、帝国陸海軍の参謀本部と同じ組織の致命的欠陥を宿し、同じ失敗を繰り返しています。


第3章 日米のエリート教育

 戦前のエリート選抜

 江戸時代末期に我が国は、西欧列強の強圧的態度により開国要求を受け入れ、植民地にはならぬ心意気で明治維新を実現し富国強兵に邁進しました。そのため、軍人は明治維新当初から権力を有していました。明治維新を成し遂げた主力の薩摩藩及び長州藩から多くのエリートを出して、1905年(明治38年)の日露戦争を勝利しました。しかし、日露戦争後に大学卒業のエリートがリーダーになってくる頃から、軍人が夜郎自大になり、1932年(昭和7年)の海軍軍縮条約に不満を持つ陸海軍青年将校の5・15事件、1936年(昭和11年)陸軍 「皇道派」 の青年将校による政治的意図を持ったクーデターなる2・26事件を相次いで引き起こしました。この2・26事件後陸軍 「統制派」 による軍部独裁へと進んだがため、できる限りの抵抗を試みる人の努力もむなしく、マスコミに煽られた国民は最終的に大東亜戦争へと突き進みました。

 日露戦争後に陸海軍大学卒業のエリートがリーダーになる場合、大学卒業時の卒業成績によりあらかじめ最終階級が決まっているのです。有名なのは、海軍の将校人事が悪名高いハンモックナンバーと称する海軍大学の成績順位で決まります。出世するには陸軍大学または海軍大学卒業でないと駄目で、陸軍大学または海軍大学を1、2番で卒業した人は大将になれる。3、4番は大佐になれる、というエリート選抜システムにしてしまったのです。そのシステムとは、戦争という軍人の器量の実証の場がなくなったことから起こった、学校成績決定主義と減点主義です。この秀才が参謀になり作戦をたてますが、第二次世界大戦の英米軍から  「日本軍はどうしてこう愚かなのか。その中でもっとも頭の悪いのが参謀になっている」 といわれた存在になりました。

 

 戦後のエリート選抜

 戦後の日本は、世界屈指の経済大国であると自他共に認めています。確かに、国民の頑張った結果が、日本の技術力や経営力の成果であると考えられます。しかし日本の経済的繁栄は、米ソ両大国が資本主義あるいは共産主義という大義名分を掲げて、世界を二分した結果が大きく影響しています。それは、米ソ両国がそれぞれの勢力圏を拡大するために、軍拡競争を繰り返していました。資本主義のショーウィンドウとしての地理的場所に位置していた日本は、経済発展を至上目標とし、米国から技術導入し国民エネルギーをそれに集中させることができました。しかし、1989年11月のベルリンの壁崩壊による共産主義の退潮により軍拡競争が弱まりました。くしくも、翌年の年頭に日本経済は、バブルが崩壊し、以降失われた○○年と形容される経済敗戦を続けています。その間に東西ドイツは統一され、1993年の欧州連合発足と東欧の欧州連合加盟、中国の一国二制度なる資本主義経済の導入等国際環境が変化しました。このように国際環境が変化している中では、目先の政治的戦術や経済指標などに一喜一憂するのではなく、将来の国際動向を想定し、最善の選択とその実現に向わなければなりません。しかし、昨今のリーダーとエリートに筆者は不安を覚えます。

 戦後は徴兵制がなくなり、陸軍大学とか海軍大学もなくなりましたが、代わって東京大学を頂点とする入試偏差値によるエリート大学が幅を効かしました。エリート大学の法学部卒業のエリートは、国家公務員試験の上級甲種またはI種(旧外務I種を含む)に合格し、幹部候補生として中央省庁に採用されます。そして、若いときから一生懸命に働き、課長までは全員昇進しますが、以降同期の幹部候補同士の競争が行われ部長で退官し天下り、局長で退官し天下り、事務次官になり天下りをします。この弊害は、1976年(昭和51年)頃から指摘されていますが改革されることはありません。天下りの禁止と定年延長などの議論は近年されていますが、焦点がボケているようです。なぜなら、職位が上がるにつれて必要度が増す創造力や応用力がまったく加味されず、大学の卒業成績が出世を左右しているからです。それゆえ、大臣自らが省庁の幹部職員の昇進と降格ができず、創造力や応用力を有するキャリア官僚の適材適所人事の弊害を生んでおり、引いては日本の衰退を生んでいるのです。

 形式上の人事権は大臣にありますが、実質は各省庁の官房部署で人事案を作成します。その象徴例が、2011年8月に東京電力福島第1原子力発電所事故や、原子力関連シンポジウムを巡る 「やらせ」 への批判から経済産業省の事務次官と資源エネルギー庁長官、原子力安全・保安院長が更迭されましたが、後任人事は省内順送りの顔ぶれが並び、 「人事刷新」 とは言い難いとマスコミに書かれる始末です。さらに、更迭であるにも係わらず、3幹部の退職金は 「国家公務員退職手当法」 で定められており、今回の退任は本人の希望ではなく 「組織上の都合」 にあたるため、定年前の 「早期勧奨退職」 を適用され、自己都合での退職と比べ1千万円以上も多く支払われる見込みです。要は政治家が、あらかじめ更迭時の 「国家公務員退職手当法」 を制定しなかった失敗が露呈しているのです。筆者はリーダーの信賞必罰が、エリートの適材適所につながると考えます。きわめつけが、リーダーたる大臣が原子力政策及び原子力災害に関する決定をしてきたエリートを信賞必罰することなく、今までの失敗に責任を持つ人が、これからの政策を決めています。戦前における参謀が、作戦を失敗してもこりずに新たな作戦を立案する構造と全く同じです。いずれにしても、東京大学を頂点とする入試偏差値によるエリート大学の卒業成績が戦前と同様にエリート出世の基準になっています。

 

 日米のエリート教育比較

 日本のエリート選抜について論じましたが、日本のエリート選抜の特徴を資本主義本山である米国と比較し浮き彫りにします。日米いずれも、学歴を積み上げて、よい成績を取り卒業し、収入のよい仕事につく考えは似ていますが、内実は相当に異なります。

 一つ目は、日本なら受かると思えば誰もがエリート大学を受験しますが、米国は英国の階級社会の流れを受け、ワスプ*1→ホワイト・カトリック→ユダヤ人→黄色人種→黒人の階級社会のためエリート大学にはワスプ階級が多いです。もちろん能力あるユダヤ人は、エリート大学に入学し個人で勝負できる職業を選択していますから、ワスプ以外の階層の人も入学しています。そして、こうした5つの階層間には原則として真の交流はなく、社会階級が固定しているため貧富の差が大きくなるのです。日本は、明治時代に伯爵、公爵等貴族の称号を有した階級はありましたが、戦後は小作人もなくなり名実共に平等となり、士農工商のような身分差別はもとより階級社会もなくなりました。ゆえに、誰でも偏差値が高ければエリート大学に入学でき、国民全体が上昇志向にあるのです。米国を 「雇用の流動化」 で賞賛しますが階級社会間の流動性はなく、日本は 「雇用の流動化」 が米国より低いですが、国民全体は上昇志向できるので社会の流動性があります。社会の流動性を端的に言い表せば、 「唐様で書く三代目」 になります。

 *1:ワスプ(Wasp)とはW=ホワイト、A=アングロ、S=サクソン、P=プロテスタントの意味であり、

    アメリカ国民の48%を占める基幹階層です。(会田雄次著 「日本人材論」 より)

 二つ目は、大学の授業における読書量の違いがあります。スタンフォード大学の院生として政経学部に2年間留学した佐々木紀彦著 「米国製エリートは本当にすごいのか?」 を参考にします。スタンフォード大学は、秋、冬、春の3学期制で、各期の長さは10週間です。各期にだいたい4つの授業を選択しますので、1年間の授業は、3学期(30週間) × 4 = 120週間になります。学部生はそれを4年間繰り返すので、合計の授業数は480週間になります。授業1回当たりの読書量を200ページの本1冊とすると、最低でも480冊(96000ページ)を読破することになります。しかも課題図書は、硬い本ですから相当頭を酷使します。筆者は大学を卒業していないので、日本のエリート大学の読書量は不明ですが、大きな差が社会に出てから付くのではないでしょうか。

 三つ目は、同じく佐々木紀彦著 「米国製エリートは本当にすごいのか?」 によれば、歴史教育を重視しています。筆者は、この話に同意します。大東亜戦争の敗因はたくさんありますが、そのひとつがエリート参謀の戦略立案能力の低さです。戦術作戦は得意なのですが戦略立案が不得意なのです。 「戦略の失敗は戦術で取り戻せない」 ことわざ通り、戦略を実現する手段が戦術であり戦略は重要なのです。戦略は戦争時に必要なだけでなく、国家の生きる方向を考えるのも戦略なのです。そして、国家戦略という大きな物語を生み出す土壌が歴史の深く幅広い教養なのです。

 この歴史の観点は、へーゲルの 「精神現象学」 の中心となる弁証法的思想から、時間を循環的即発展的に考えるようになりました。循環的即発展的時間とは、比喩を用いれば螺旋的なのです。螺旋ですからぐるっと廻っているときは循環的ですが、ただ同じところを回帰的に廻っているのではありません。ひと廻りしても同じ場所に戻るのではなく、向上発展した位置に戻るのです。ですから、歴史は繰り返すのであり、情報の宝庫と見做せます。過去の歴史を振り返り、現状入手できる公刊情報を分析し、歴史の知見を加えて総合し、判断を加えて新たに物語りを組み立てることにより戦略にするのです。キャリア官僚では法学部卒業生が幅を効かしているため、歴史を踏まえた情報加工を軽視しているのでしょう。

 四つ目は、同じく佐々木紀彦著 「米国製エリートは本当にすごいのか?」 によれば、日本の大学ではキャリア官僚の就職に有利な法学部が人気一番ですが、米国の大学は学部に法学部がなく経済学部が一番人気です。米国は大学院に相当するロースクールで法学を学びます。このような制度の違いがあり、日米の大学の人気学部は異なるようです。経済学部が人気の米国は、1975年頃から国際収支の赤字で苦しみだし、その後年々国際収支が悪化し、2007年には年間8000億ドルの赤字に及んでいるのは不思議です。


第4章 原発事故後の世界

 新たな環境の出現

 第2章でリーダーの資質は環境と共に変化することを述べましたが、逆に言えば環境に合致する資質を有するリーダーを選ばなければなりません。2011年3月に東北関東大地震が発生し、加えて、福島第1原力発電所の大事故が併せて発生しました。これを評して巷間では、明治維新、大東亜戦争敗戦に匹敵する三度目の国難と称しています。その通りですが、 「アーロン収容所」 における第1期~第4期のいずれに合致しているのか、あるいは新たな環境なのかを検討します。

 すると、誰もが推定するのは福島第1原力発電所の大事故が勃発した当初は、まさに砲弾が飛び交う最前線、毎日が死と隣り合わせにある緊迫した時期に匹敵します。原子力発電所からの大量放射性物質の爆発的飛散が減少した現在は、何十年にも亘る放射性物質に対して向きあいつつ、広範囲な大地震からの復興を行わなければなりません。丁度、戦争末期の戦線を後退させてゆく過程、つまり逃走にともなう不安と恐怖が霧のように立ち込める戦いの時期に匹敵します。更に、震災からの復興といっても、大東亜戦争敗戦の復興は米国をモデルにすればよかったのですが、この度の復興はモデルがないのです。そのためか、緊急災害対策本部、被害者生活支援特別対策本部、被害者生活支援各府省連絡会議、被災地の復旧検討会議、災害廃棄物処理の法的問題検討会議、原子力災害対策本部、原子力被災者生活支援チーム、福島原発事故対策統合本部、原子力発電による経済被害対応本部、電力需給緊急対策本部、復興構想会議、復興実施本部(仮称)等々、数十にも及ぶ会議を乱立させてしまいました。政府の災害復旧の掛け声は勇ましいですが、民間の有効な災害復旧及び災害援助が少しづつ効果を発揮し、遅れて行政の災害支援がなされているのが現状です。少しずつ、震災復興は進むでしょうが、旧態依然とした震災復旧になりそうです。

 政府は復興モデルが外国になくて四苦八苦していますが、先進社会に位置したという単純な理由ではなく、この近代社会を推し進めてきた近代文明の原理の欠陥が露呈し行き詰りつつあり、新たな文明原理を見出せず四苦八苦しているのではないでしょうか。この文明の危機が、 「アーロン収容所」 にはない新たな環境ではないでしょうか。この度の大地震は1000年に一度の規模と言われていますが、その結果数十にも及ぶ開店休業状態の会議を乱立させないと、近代日本が崩壊するのではという危機が感じられます。つまり、旧態依然とした復興モデルは描けるが、新たな文明原理に基づく復興モデルは描けないのです。

 ここで近代文明の危機について説明します。はるか昔の縄文文明は、紀元前300年頃まで約1万年続き、その文明の形態は稲作漁撈として江戸時代まで続きました。その間に1000年に一度の大地震は10数回に及んだことでしょう。それでも縄文文明は持続できたのでした。地震に強い国づくりが叫ばれていますが、縄文文明はすでに実現していたのです。当然、今と違い人口密度は低いですから有利だったかもしれません。しかし、逆に伝染病とかおそろしい災害があり、対処する科学技術もなく人間の寿命は短いです。それでも、縄文文明は紀元前300年頃まで約1万年続き、その生きとし生けるものの命を畏敬する精神は、現在まで連綿と受け継がれています。長く持続する文明は、文明原理が優れているのです。

 近代社会を推し進めている西欧文明は、思想的に1600年代のフランシス・ベーコン、ガリレオ・ガリレイ、ルネ・デカルトからで、実質1765年のワットの蒸気機関の発明による産業革命が端緒です。その西欧文明は、1992年の国連地球サミットでは、 「持続可能な発展」 を中心的な考え方として議論され、いまでは各国で持続可能な経済成長を模索しています。近代社会は資本主義でもあり、一神教を信奉する米国は露骨に市場原理主義と金融資本主義を世界中に布教しています。西欧文明は、効率的に資源を収穫し物質的に豊かな富裕階級を維持することを目的にするように変貌しましたから、持続可能な平等な経済成長は実現できません。縄文文明は食料、住居など生存に不可欠な資源は平等を旨としており、争いを少なくする原理を基にしていましたが、近代社会は無生物および動植物などの資源を無尽蔵に効率よく収穫しており、競争しなければ金持ちになれない社会にしました。その結果、地球規模の公害を生み出し競争に負けるが勝ちをできななくしてしまい解決不可能に陥りました。人は皆程度の差こそあれ自助努力をしますが、運不運の加担が自助努力よりも大きく影響するため社会は不平等にならざるを得ないのです。金持ちになれないのは、簡単に自助努力不足と片付けてしまう西欧文明の思想的欠陥が社会に悪影響を及ぼし、近代社会の維持が困難になったのです。

 

 求められるリーダーの資質

 このように考えると、原発事故後のリーダーに突きつけられている環境は、大量の放射性物質の飛散による農水産物の放射能汚染による将来への漠たる不安と西欧文明をモデルにできない漠たる不安が、霧のように立ち込めていると言えるのではないでしょうか。つまり、今のリーダーには二つの環境が出現しており、二つの資質が求められています。一つ目は、大量の放射性物質の飛散による農水産物の放射能汚染による将来への漠たる不安に対処できる資質は、 「アーロン収容所」 の第2期である戦争末期の戦線を後退させてゆく過程、つまり逃走にともなう不安と恐怖が霧のように立ち込める戦いの時期と同類ですから、過去を参考にすると 「何事も非常にきちんと着実に行うまじめな資質」 です。二つ目は 「アーロン収容所」 にもない新たな環境であり求められる資質は、リーダーとエリートには 「西欧文明でない文明原理に基づく社会モデルを創造できる資質」 なのです。つまり、この度の危機にはふたつの資質が求められているのです。

 ひとりのリーダーにふたつの資質を求める願望はかなわず、組織にふたつの資質を有するようにしなければなりません。そもそも、このような資質を有するリーダーを選択しているかが有権者に問われています。災害発生から8ヶ月経過しましたが、政府の災害復旧の掛け声は勇ましいですが、民間の有効な災害援助が少しづつ効果を発揮し、遅れて行政の災害支援がなされているのが現状です。震災復興モデルは、復興構想会議で議論されていますが、財務省主導の増税が話題になるようでは従来の復興モデルの域を出ません。そもそも、復興構想会議の議長である総理大臣に、西欧文明でない文明原理に基づく社会モデルを創造する発想がありません。リーダーとエリートは、大学時代の秀才教育とその後の前例踏襲行政に染まり創造力を発想する訓練をこれまで行なってこなかったために、この度の危機にどのように対処してよいかわからないのです。マスコミは、2011年9月に組閣した野田新内閣は、あたかも復興を円滑に進めるかごときご祝儀報道をしていますが、新内閣が組閣されるといつものように持ち上げる報道をするので惑わされないようにしなければなりません。


第5章 リーダー選択論

 社会を裏切る人間

 国民は国政選挙でりーダーを選んでいますが、的確にリーダーを選んでいるとは言えません。その理由はマスコミに惑わされているからです。もっと自分の眼力を信じて選挙候補者に投票する必要があります。選挙候補者の選別する見方を、貴重な体験をされた会田雄次著 「日本人材論」 から引用します。本来なら長い引用になりますので、筆者の責任で骨子を繋ぎ合わせることにします。

 まずは、著者の激烈な戦場と捕虜生活の二面の貴重な体験からです。

 

  戦前の陸軍は、今の人には到底信じられないような強力な権力体系であった。私などの

 二等兵にとって、すでに上等兵が万能に近い権力を振るえる神様である。そういう権力に

 酔う人間、執着する人間、便乗する人間が構成する集団の中で、その権力がイギリス軍と

 マラリアとアミーバ赤痢と飢餓で粉砕されていく昭和十八年から昭和二十年八月の二年間

 に、それらの人々が演じた百面相・・・・・。自分のつまらぬ肉体と精神を支え、被っていた

 飾りがことごとくはげおち。赤裸々のままに死に追い詰められた人々のやる人間踊りの過

 程が、私の経験したビルマの戦いの一側面である。

  私の経験のもう一つの特殊性は、師団別に収容され、軍隊制度の維持が認められ、進

 級さえも実施されたその後の二年間の捕虜生活である。軍の権威と権力が再びもどった

 ような、しかし全く別種の 「俗世間」 の秩序が形成されて行く、この戦後の二年間もまた

 見物だった。

 

 この貴重な二種類の環境体験から著者は、同一の人間の変わり身をつぶさに観察できました。

 

  一般社会で、どういう性格を持ち、どういう言動をしている人間が、全滅戦という激烈な戦

 場、つまり極限状況へ追い込まれたときどういうことをするものか、それがまた通常社会へ

 もどるとき、どのように装飾をまといつけて行くものか。そういう見方を私は強制されつづけ

 る経験を持ったということである。もちろん、学問的方法を堅持しながら、観察を続けたわけ

 でもない。私の前に登場した人間の種類も数も多いとはいえない、それに被観察者の一人

 として自分を見る目も厳しかったという自信もない。だからこういう人間はこうなるといった

 因果関係を、総合的に証明することなどもちろん不可能である。

 

 この経験から、現在社会において半ば本能的にある人間の言葉や行動が、その人間の戦場でとるであろう行動と、二重写しに浮かぶ能力から社会を裏切る人の選別眼力を持つに至りました。

 

  どうにもならない人間の型は、たえず自己正当化をやっている人間である。その見分け

 方は簡単だ。他人の悪口をいうのはよい。上役の陰口だって一種覇気のはけ口として、肯

 定すべきだと私は思っている。ただその場合、他人の批判なり悪口なりが、自己正当化の

 手段となっているときが問題である。そういうやり方で、自分を正当化する人間が最も信頼

 できない人間で、戦場の軍隊を陰険な姿に変える主役となる。

  とりわけひどい人間の通常社会における姿は、被害者でないのに被害者づらをやり、告

 発者・審判づらをすることで自己を正当化し、自分自身の加害者的側面を巧みに隠匿して

 いる人間である。私たちはそれを裁判屋ーー裁判官のことではないーーと呼んでいた。現

 にそういう人間が例えば医者として立派そうに見えても、私は絶対信用だけしないことにし

 ている。彼らは少しも損なことはやっていない。損をしなければならなくなったとき、彼らは

 どれほど見事な変わり方を見せることか。

 

 マスコミのビジネスモデルには矛盾が内在

 これが、会田雄次著者が経験で学びえた人物の選別眼力です。著者は人物に関して述べていますが、筆者は人物を組織と読み替えても適用できると思います。ここで再び国政選挙でりーダーを選びに戻ります。有権者は、国政選挙においてあまりにもマスコミの情報に幻惑されていないかということです。その証拠は、マスコミの世論調査とネットの世論調査がまったく異なることにあります。マスコミは、主観報道を客観報道と強弁する矛盾をビジネスモデルに内在させています。客観報道の例は、ウィキリークスのような機密文書の暴露です。つまりマスコミは、常に自分を正当化し他人の悪口と言うか批判を情報に変換することを生業にしているのです。そして、記者クラブという利権の閉鎖団体を構築し政治家への質問権を独占し、審判づらすることで読者に情報を提供しています。マスコミの利権の詳細は、池田信夫氏の著書 「電波利権」 および同氏のブログを参考にして下さい。マスコミは利権を守るために、国会議員、地方議員、さらにマスコミ御用文化人にマスコミの既得権崩壊を防ぐために、活字文化の危機だとか放送の公共性を守れというという議論にすり替えて、自分自身の加害者的側面を巧妙に隠しています。ゆえに、国政選挙においてマスコミの情報に幻惑されることなく、自分の人物選別眼力または会田雄次氏の人物選別眼力で投票することが確かなリーダーを選択できると申し上げたいのです。

 なお、会田雄次氏の人物選別眼力で原発事故対応、財政再建などをもっともらしく述べる政治家、マスコミ御用文化人などの人物選別を行えば、その切れ味に驚かれることでしょう。

 

 秀才はリーダーに適さず

 それでは、従来のリーダーはどのような資質を有していたのかと言うことです。それは、3章で述べた戦前及び戦後のエリート選抜された方を分析することです。近代日本の明治維新は西欧をモデルに富国強兵、戦後は米国経済をモデルに経済大国を目標にしました。そこでのリーダーは、万遍なく才能が発達した東大卒型の人間が多かったのです。東大型才能を拠り所に、多少しゃべりが上手であるとかアイディアの改良ができ、目立ちがり屋というかでしゃばる性格の人間がリーダーになっていました。ところが、前章で述べたように近代的な生き方をしていては早晩どうにもならなくなるというのが、多くの人の認識になりつつあります。だからこそ、近代的な生き方でリーダーシップをとり、その線上で指導を続けているためますます近代社会の矛盾が大きく広がるのです。

 東大型才能は、大学入試センター試験により培われています。学部が文系と理系で選択する受験教科の科目は異なりますが、受験教科は地理歴史、公民、国語、外国語、理科、数学です。あらゆる教科が平均してできること、その出来る能力とは、暗記力があって要領よくそれをまとめる能力を計っています。つまり、日米大学入試の環境の違いか、日本の高校生は大学入試競争が激烈で遊ぶヒマがなく反動で大学で遊ぶが、米国の大学生は高校で十分遊んだので大学で勉強させられるし勉強する違いがあります。しかも、日米大学の読書量の大幅な違いから、筆者は総合的知力と抽象的・概念的な論理力が鍛えられず、暗記力があって要領よくまとめる能力のまま大学を卒業しているのではと考えています。そして、エリート大学を卒業したキャリア官僚が政治家へ転職、またはキャリア官僚の世界で出世しリーダーへと歩みます。これが、世間で言われている秀才にはリーダーが務まらない理由です。戦後も進学塾が盛んでない時期は、つまり、大学入試が楽だったときの大学卒業生なら、先進国モデルが適用できたのでまだ何とか世界に伍して行けました。しかし、幼少期からお受験で中高一貫校の大学受験授業、あるいは高校時代の学習及び進学塾授業による受験技術の練磨では、自分の頭をコンピュータ化するのみで前例踏襲を基本にする考えしか浮かばなくなったのです。ゆえに、リーダーとエリートは先進モデルがない現在、困り果てているのですが口が裂けても 「どうしていいかわからない」 と言えず、美辞麗句を並べた空虚な政策を言い方を変え長年続けているのです。そのため、近代社会の矛盾が広がる一方なのです。


第6章 日本文化創造の時代

 日本文化の礎

 米国のエリートは、大学時代に歴史に関する教養を十分に身につけ、 「今」 を的確に把握し将来を模索しているようですから、同様に非エリートの筆者も日本史から 「今」 を的確に把握し将来のリーダーを模索します。すでに拙著では、江戸末期以降三回目の国難であることを何度も申し上げました。そして、筆者は西欧文明とは異なる新たな文明を構想した復興モデルを強調しました。日本の歴史を振り返り、中国から輸入した文化を日本独自の文化へ創造した時代から、そのような創造活動した人間を浮かび上がらせます。

 今日の私たちが 「日本的」 とか 「日本文化」 と称している生活様式、世界に誇れる城、日本庭園などの和式の建築様式、現在の生活に密着した着物、茶道、華道、俳諧、将棋、囲碁及び古典芸能である能、邦楽等現在の日本人が世界に独自性を誇れるものは、室町時代に確立されています。室町時代にいきなり日本文化が勃興したと考えるより、それ以前の時代の武士の生き様が日本文化の礎になったと思われます。

 室町時代を遡ること鎌倉時代末期の後醍醐天皇(1339年没)の頃です。後醍醐天皇は、自信過剰な持ち主の上自分の失敗を部下に転嫁する天皇であり、日本を戦乱の巷にしました。それゆえに、天皇家の内紛を勃発させ足利尊氏においつめられ、吉野に逃げ延び南北朝時代を招きました。南北朝時代から戦が頻繁に行われ、戦いに伴う武士の広範囲な交流から朝廷、幕府の内情が各地に伝わり証文の農地も横取りされるかもしれない状況から各人に自立のめばえが生じたと思われます。

 鎌倉時代に設けられた地頭は、幕府から正式に任命される公職であり、承久の乱(じょうきゅうのらん)*2以降は中央から派遣されてくる場合もありました。しかし、この地頭のみで地方を掌握できていたわけでなく、国人(こくじん)と称す在地の小豪族の力をかりて幕府政治を進めていました。国人とはあくまで地元生え抜きの小豪族のことで、公式な身分ではないが、室町時代はこの国人が極めて強い力を持っていました。と言うことは、南北朝時代から徐々に地方が力を強めてきたのです。

 *2: 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府

     に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。

 

 また、当時の武士は兵農分離がされておらず、農民、漁民及び商人などは武器を保有していますから武装農民、武装漁民及び武装商人です。武装商人は、商品販売のほかにいわゆる商品運送をも担っています。山賊と海賊からすれば、運送中の商品と金は格好の獲物ですから運送業は危険な仕事です。しかし、危険な商売ゆえに利益が多く裕福な商人が多くいました。南北朝時代の内乱は、諸国の武士団を日本全国に東奔西走させましたが、このとき、従来は地方ごとに孤立していた遠隔地方の文化同士が激しくぶつかり、相互に創造的な刺激を与えたことも、文化発展の背景を考えた場合に重要です。いわゆる地方の 「名物」 という概念は、南北朝時代に初めて成立したと言われます。

 南北朝時代から室町時代にかけての当時は、武士が日本を支配しているといっても、それはあくまで日本全体から見れば一部分で、たとえば、藤原氏の氏寺でもある興福寺が多数の荘園を保持している大和国(奈良県)には、守護を置くことができませんでした。つまり、興福寺、比叡山延暦寺のなどの大宗教団体は、幕府の力が及ばない治外法権団体といえます。

 このような中で、武士は各種の乱、乱と乱との間の小さな戦に明け暮れていました。朝廷と幕府の権威が崩壊し、社会全体が混沌としていました。戦いで死ぬかもしれないし、人を殺す武士にとって、死後のことは切実な事柄です。武士と敵対していた宗教団体の宗教を信ずるよりも、新しい禅宗にひかれていったのは当然かと思います。

 武士としては、禅宗で死後の安心を得るとともに戦での安心を確立しなければなりません。合戦においは、神聖な社に陣取ればどんな人間でもタタリは怖いから、敵は襲撃してこないと考えるのが常識でした。なぜなら、そこを襲撃して社を炎上させたなら神仏の罰が当たると誰もが信じているからです。しかし、神聖な神社に陣取っても焼き討ちにあうのです。たとえば、南朝方が京の石清水(いわしみず)八幡宮に陣取った時に、高(こう)一族はそれを焼き討ちにしてしまいました。

 したがって、合戦において安心が得られる建物を作る必要にせまられ、城が具体化されたのではないでしょうか。一方、秩序が崩壊したといっても、日常生活において安心できる生活様式を確立しなければ、生きるのが困難になり、自立した武士が各地で交流を図りながらルールを決めていったのではないかと考えます。

 このような時期、経済活動による遠隔地との交流する商人、商人以外の移動労働者の他国の情報は、権力者にとり他国の情勢、文化等の情報が得られ有益であったと考えられます。特に、移動労働者は仕事を求め、破天荒な仕事を考えながら流浪します。権力者は、彼ら自身が何をしてきたかを知りたく、併せて、他国の情報収集のために彼らに接していたと思われます。と同時に権力者は、彼らに同じ仕事を頼んだかもしれません。

 

 時宗と文化

 南北朝時代には、移動労働者が存在したと思われます。彼らとて、死後の世界については考えておりました。しかし従来の宗教は、定住者向けであったと考えられます。移動労働者のような者に適した宗教が、時宗ではなかったかと言うことです。

 時宗は、一遍上人(一遍智真:1239-1289)の開創した、鎌倉新仏教の宗派の一つです。宗派としては時宗と呼ばれ、その構成員は自らを時衆と称しました。時宗の宗教儀礼である 「踊り念仏」 は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持ちます。時宗の特徴は、宗教的儀礼として 「踊り念仏」 を盛んに催したことと、開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行(ゆぎょう)」)する遊行聖として布教につとめたことです。この時宗の特徴と移動労働者の特徴は合致すると共に、時宗側としても信者獲得の機会であったと考えられます。踊り念仏による死後の安心立命を信ずる移動労働者は、自由奔放な精神の持ち主だったのでしょう。

 時宗と文化の関連ですが、 時宗の法名である 「阿弥陀仏号」 は、南北朝時代に徐々に増加し、室町時代に最盛期になりました。次第に○阿弥、○阿と略称されるようになり、連歌師の善阿、周阿、能阿や能の大成者・観阿弥、世阿弥、足利義政に仕えた庭師の善阿弥などの元移動労働者及び移動労働者に広まりました。

 武士の間で勃興した生活様式が文化へと発展していったと考えますが、この時、多くの武士に生活様式を真似てもわらわねはなりません。身分制度がある時代でしたが、1467年~1477年の応仁の乱でこれまで歴史の表舞台にでてくることがなかった勢力が登場したのです。この状況を一言で表す言葉が、 「下克上」 です。つまり応仁の乱以降の時代というのは、まさに 「成り上がり」 の時代なのです。成り上がの最初は 「足軽」 です。この当時の足軽は戦国時代の足軽と異なり、いわば 「あぶれもの」 や盗賊たちがその中心です。しかし、実力により出世することで武士の文化を知り、真似るようになりました。この下克上により下層階級の人間も武士文化を取り入れ、さらに公家が、戦乱で荒れた京から都落ちすることで、公家の文化も地方へと広まりました。下克上により階級間の流動により武士の文化が階層間を越えて拡散し、公家の都落ちが地方に公家文化をもたらし各地で文化が融合しました。

 

 日本文化勃興の土壌

 本章で論じたように、南北朝時代から室町時代は、日本全体に弱い縛りしかいきわたらなかったと考えられます。このゆるい縛りが、アウトサイダーとして活躍できる土壌になったと思います。そして組織を渡り歩く生き方から、自由奔放な考えを育んだのではないでしょうか。一般的にいって縛りがゆるく実力があれば勝手気ままな生き方になりそうですが、強い思いを有した彼らは、身につけた実力を単にメシを食べるだけに使わずに、組織とは異なる価値観を実現するために努力しつづけたのではないでしょうか。そして彼らの努力の集大成が、独創的な室町文化になったと思います。

 南北朝時代から戦国時代は、古い価値体系と秩序が崩壊した、創造性に富んだ乱世でありました。その室町時代に確立した文化が、江戸時代に大衆に定着したといえます。つまり世界に誇る日本文化は、南北朝時代からのアウトサイダーとしてのバイタリティーが室町時代に創造的産物として実を結び、現在まで続く日常生活、歴史的遺産等に数多く継承されています。このことからも室町文化は、われわれの考えているよりは、ずっと深い精神性を持っています。その深い精神性が形になり、今日まで命脈を保ち続けているのです。



読者登録

マーモンさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について