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荒波

「ユールベル、データの集計は進んでる?」
「はい、まもなく終わります」
「じゃあ、終わったらジョシュに送ってね」
「はい……」
「よろしくー」

 ユールベルは実習生として魔導科学技術研究所に来ていた。あと半年ほどでアカデミーを卒業し、その後、ここで勤務することになっているのだ。
 社会に出てやっていける自信など、彼女にはなかった。
 だが、そうしなければならないとサイファに諭された。それが社会のシステムなのだという。ユールベルも18歳になり、成人となった。いつまでも子供のままでいてはいけないのだ。
 両親から受けている金銭的援助も、アカデミー卒業後に打ち切ることに決定された。つまり、自分が働かなければ、生きていくこともできないのである。
 サイファは困ったときは手を差し伸べてくれる。だが、決して甘やかしてはくれない。
 そのことについて不満があるわけではない。自分のためであることはわかっている。ただ、漠然とした不安が自分を苦しめていた。
 しかしまだ三日目だ。こんなところで挫折するわけにはいかない——。

「集計……終わりました」
「ああはいどうも」
 ジョシュはモニタから目を離すことなく、投げやりに答える。
 ユールベルは彼が苦手だった。
 自分も愛想はない。だから、そのことについてはとやかく言うつもりはない。だが、彼の場合は、単に愛想がないというだけではなく、棘というか、あからさまな敵意のようなものを感じるのだ。それは自分にだけ向けられているように思う。最初に会ったときからそうだったので、原因すらもわからない。
「いつまでもそんなところに突っ立ってるなよ」
 嫌悪感を含んだ声でそう言われ、ユールベルはハッとして急いで席に戻った。うつむいて小さく溜息をつく。
「ジョシュは人間嫌いなんだ。気にすることはないよ」
 突然、耳元で囁かれ、全身がぞわりと粟立つ。
 同じフロアで仕事をしているレイモンドだ。
 ジョシュよりも幾分年上の30歳くらいだろうか。彼は何かとユールベルを気に掛けてくれる。優しいのかもしれない。だが、そのコミュニケーションの取り方が、ユールベルには馴染めなかった。距離が近すぎるのだ。くっつかんばかりに顔を近づけてきたり、腕や肩に触れてきたり、親しくもないのに無遠慮に私的な空間に踏み込んでくることに不快感を覚えるのである。
 そんなユールベルの心情をわかっているのかいないのか、レイモンドはさらに肩に手をのせて続ける。
「今度ゆっくり相談にのろう」
「……いりません」
「遠慮することはない。そうだ、今夜一緒に食事でもしながら話を聞くとしよう。いい店を知っているから予約をしておくよ。仕事が終わるころに迎えに行くから」
 ユールベルの拒絶などお構いなしに、レイモンドは勝手に話を進めると、白い歯を見せて片手を上げ、自席へと戻っていった。
 ——どうしよう……。
 ユールベルは口をきゅっと結んでうつむいた。断りたいのに上手く断れない。自分の言い方が悪かったのだろうか。どう言えばわかってもらえるのだろうか——そんなことを考えていると、不意に頭上から声が降り注ぐ。
「次の仕事」
 ジョシュはぶっきらぼうにそう言うと、数枚の書類をユールベルの机に投げ置いた。
 いつもであればそれだけですぐに立ち去るのだが、今回はいまだそこにとどまったままである。ユールベルは不思議に思って顔を上げた。
「あいつはやめておけ」
 ジョシュは不機嫌な顔のまま、ぼそりとそんなことを言う。
 それが何を指してのことか、ユールベルにはすぐにわかった。しかし素直に聞く気にはなれなかった。今までほとんど拒絶に近い態度をとっておきながら、突然、それも仕事以外のことで干渉してきたことに、何か怒りのようなものが沸々と湧き上がってきた。
「あなたには関係ない」
 うつむいて眉根を寄せながら反発する。
 ジョシュは何も言い返さず、表情も変えず、静かに自席へと戻っていった。

 自業自得——。
 ユールベルは心の中で溜息をついた。
 行きたくはなかったが上手く断ることができず、またジョシュに対する意地もあり、仕事が終わったあと、レイモンドに誘われるまま食事に出かけることになった。
 彼が予約していたのは、研究所からほど近いところにある、優雅な雰囲気のレストランだった。出される料理も手が込んでいて上品なものばかりだったが、ユールベルはほとんど上の空で、きちんと味わうことができなかった。こういう店は初めてということもあり、どうにも馴染むことができず、居心地の悪さを感じていたのだ。
 しかし、理由はそれだけではない。
 レイモンドは相談にのると言って食事に誘ってきた。だが、いざ来てみると、そういう話題はまったくなく、ひたすら自分の話ばかりしていた。その内容は、自己顕示欲を満たすためだけのもの——平たく言えば自慢話である。ときどきユールベルに話を振ってきたが、それも仕事とはまったく関係のない、ラグランジェ家に関する話題のみである。別に相談したかったわけではないが、彼の意図がわからないことに少し気味悪さを感じていた。

 二時間ほどして外に出ると、あたりはすっかり闇に包まれていた。遠くの空に小さな星がいくつか瞬いているのが見える。
「遅くなってしまったな。家まで送るよ」
「ひとりで帰ります」
「男に恥をかかさないでくれ」
 レイモンドは白い歯を見せて言う。彼の言っていることは理解できなかったが、面倒なのでもう何も言い返さなかった。相手の言うことも聞かず、一方的に事を進める彼には、何を言っても無駄だと思ったのだ。
 ユールベルが歩き始めると、レイモンドもその隣に並んで歩調を合わせる。
「今日は楽しかったな」
「…………」
 ユールベルは沈黙というささやかな抵抗を試みた。
 それでも彼は気にする様子もなく、細い肩に手をまわして力を込める。意にそわず、ユールベルは彼に寄りかかることになった。離れようとしたが、彼の腕がそれを許さない。
「僕たちは相性がいいようだ」
「そんなこと……ないと思います……」
 無視を続けようと思ったが、堪えきれずについ反論してしまう。
 しかし、それすらも彼は軽く受け流した。
「ユールベル、僕は決心したよ」
 そう言うと、ユールベルの両肩を掴んで自分と向かい合わせる。
「結婚しよう」
「……えっ?!」
 ユールベルはさすがに驚き、素っ頓狂な声を上げた。
「君と出会った瞬間に運命を感じた。そして君とこの素晴らしい夜を過ごして確信した。僕の伴侶となる人は君しかいない。愛しているんだ。もう片時も離れたくない」
 どこかで聞いたようなセリフを並べ立てて迫り来る彼に、ユールベルは困惑しながら後ずさった。しかし、一歩下がっただけで、足が固いものに阻まれる。塀だった。その存在を認識すると同時に、彼女の体はそこに押し付けられた。彼の手は両肩を掴んだまま離さない。
「ユールベル……」
「い、嫌っ!」
 近づいてくる顔を両手で押しのけ、蹴躓きながら必死に逃れる。そして、何歩か離れたところで振り返ると、潤んだ右目でキッと睨みつけた。
「……お断り……します……!」
 噛みしめるようにそう言うと、背を向けて全速力で走って逃げた。

「まだ出来てないのか?」
 ぼんやりしていたユールベルは、頭上から降り注ぐその声で我にかえった。慌てて机の上に散らばる書類に視線を落とす。頼まれていた作業はまだ半分も終わっていなかった。
「あ……もうすぐ、です……」
「ぼうっとするくらいなら帰れ」
 ジョシュは刺々しい言葉を投げつけた。そして、仏頂面で冷たく一瞥すると、背を向けて自席へと戻っていった。

 ユールベルはきのうのことを引きずっていた。
 出会ってまだ三日である。なのに、どうして結婚とまで言い出すのかわからなかった。そして、そのことに何か言いようのない恐怖を感じていた。
 ——行かなければ良かった。
 ジョシュの忠告を聞かなかったことを後悔する。しかし、レイモンドのしつこさを考えると、きのうは逃げられたとしても、いつかは付き合わされることになるだろう。嫌な思いをしたものの、はっきり断れたことは良かったのだと、めずらしく前向きに考えることにした。

「それ貸して。私がやるわ」
 今度は女性の声だった。振り返ると、ジョシュの先輩であるアンナがウィンクをして手を差し出している。ユールベルが呆然としているのを見ると、自分で机の上の書類を拾い始めた。
「気にしないで。誰にだって調子の出ないときはあるわ。その代わり、それを資料室に返してきてくれないかな。雑用で悪いんだけど」
 アンナはにっこりとして、隣の棚の上に投げ出されていた書籍三冊を指差した。随分と前から放置されていたらしく、薄く埃さえかぶっている。すぐに返さなければならないものとはとても思えない。おそらく、アンナがユールベルに気を遣って簡単な仕事をくれたのだろう。
 ユールベルは素直にこくりと頷いて、その書籍を抱えて立ち上がった。

 資料室は地下にあった。小さめの会議室程度の広さで、そこにスチール製の書棚が数列並んでいる。地下であるため窓はなく、空気は湿っていて、あたりは少しかび臭い。本を保管するのに良い状態とはとても思えなかった。
 本に貼られた分類シールを頼りに、一冊ずつ書棚に戻していく。
 二冊目を戻したそのとき、入口の扉がギィと嫌な軋み音を立てて開いた。ユールベルは書棚の隙間から、息を潜めて窺う。
「やあ、ユールベル」
 それはレイモンドだった。書棚越しにユールベルと目が合うと、軽く片手を上げて笑顔を見せる。しかし、ユールベルにはそれがとても恐ろしく感じられた。持っていた本を床に落とし、逃げるように奥へと後ずさる。
「何をしに来たの……?」
「ちょっと婚約者の様子を窺いに来たのさ」
 レイモンドはしれっとそんなことを言いながら間を詰める。
「そのことは……断ったはず……」
 ユールベルの背中にひやりとした固いものが当たる。壁だった。これ以上、後ろには下がれない。前からはレイモンドが迫ってくる。ユールベルは横に飛び出そうとした。だが、その寸前に両の手首を掴まれ、体を壁に押し付けられる。抗おうとしても、体格と力に圧倒的な差があり、まるで杭を打ち付けられたかのようにびくともしない。
 レイモンドは口の端を吊り上げた。
「白馬の王子様計画はお気に召さなかったようだね。苦労して君に合わせたのに傷ついたよ。お嬢さまは我が侭だから仕方ないのかな」
 ユールベルにはどこが白馬の王子様なのかさっぱりわからなかった。だいたいそんなことを頼んだ覚えはないし、白馬の王子様が好きだなどと言った覚えもない。勝手なことを言うにもほどがあると思う。
「だが、もうまどろっこしいことはやめだ。ここからは俺のやり方でやらせてもらう」
 レイモンドは鋭い視線を向けてそう宣言すると、すぐさまそれを実行に移した。ユールベルを押さえつけたまま、乱暴に貪るように口を奪っていく。
 どうして私がこんな目に——。
 悔しくて目に涙が浮かんだ。逃れようとするものの、非力な彼女の抵抗はすべて押さえ込まれてしまう。どうすることもできない。何もかも諦めたように、ユールベルの体から力が抜けた。
「は……ぁっ……」
 しばらく後に、ようやく口を解放され、苦しそうに息をした。その端から流れ落ちたどちらのものともわからない唾液を拭おうとする。
 そのとき、ようやく気がついた。
 いつのまにか彼女の両の手首は紐のようなもので縛られていた。ただの紐ではない。魔導で作られたもののようだ。そして、それは隣のダクトに括りつけられており、ユールベルの動きを封じていた。
「何を……?!」
「既成事実を作るのさ」
「きせ……い……?」
「子供を作る」
 絶句する、とはまさにこのことを言うのだろう。彼の言葉を耳にした瞬間、思考のすべてが停止し、頭が真っ白になった。言葉など何ひとつ出てこない。
 レイモンドは呆然としているユールベルを床に押し倒すと、その上に馬乗りになった。ブラウスのボタンを鼻歌を歌いながら外していく。
「や……やめて……っ」
「怖がることはない。夫婦ならみんなやっていることさ」
 下着がずらされて白い胸もとが露わになる。その心もとない感覚と、彼に見られている恐怖で、ユールベルは小さくふるりと身震いした。逃げるようにそこから視線をそらし、きつく眉根を寄せる。
「私たちは……夫婦じゃない……」
「近いうちにそうなるんだよ」
「やっ……」
 見た目よりもごつく感じる手が、太股を這い上がるようにして短いプリーツスカートの中へ侵入する。同時に、ざらついた生ぬるい舌が生き物のように胸の上を蠢き出す。言いようのない嫌悪感に、全身がぞっと粟立った。
「…………っ……」
 体中に与えられる望まない刺激に、ユールベルは歯を食いしばって耐えた。目をきつく瞑り、必死に声を漏らさないようにする。しかし、彼の執拗な攻めに、次第に限界へと近づいていった。
「も……やめ……てっ……」
「声を抑えるのはつらいだろう? 我慢しなくてもいい。どうせ上に聞こえはしないんだ」
 レイモンドは耳元で囁くように厭らしくそう言うと、戯れとばかりに耳朶を舐め上げた。
 しかし、それきり何もなかった。彼がそこにいることは確かだ。足元にまたがっているような感触はある。にもかかわらず、声が聞こえなければ、手が這うこともない。
 ユールベルはぼんやりと薄目を開けた。
 パシャッ——。
 その音と同時に白い閃光が彼女を襲う。思わず目を瞑った彼女が、再びゆっくりと目を開くと、そこには立て膝のレイモンドが小型のカメラを右手で構えていた。
「これは、君が他の男に心変わりしたときの保険さ」
 ユールベルの目から涙が溢れた。まなじりを伝って耳を濡らす。
「さて、そろそろ本番といくか」
「こんなところで何やってるんですか」
 レイモンドのものではない、声。
 ユールベルには誰だかすぐにわかった。
「ジョシュ、これから大切な作業があるんだ。邪魔をしないでくれるか?」
 レイモンドはそう言って振り返ると、挑発的に口の端を吊り上げ、自分の中指をゆっくりと見せつけるように舐め上げた。
 しかし、ジョシュは仏頂面を崩さなかった。
「そういうことは研究所の外でやってください」
「そんな規則はなかったはずだけどな」
「規則に書くまでもない常識でしょう」
 冷ややかにそう言う彼に、レイモンドは両の手のひらを上に向けて肩をすくめた。
「仕方ないな、よし、そこで見学することを許可しよう。君の後学のためにね」
「所長と警備を呼んできます」
 ジョシュは無表情で踵を返した。
「待てよ。わかったよ、出て行けばいいんだろう」
 レイモンドはしぶしぶ立ち上がった。自分のやっていることに問題があるという自覚はさすがにあったようだ。ジョシュの肩をポンと叩くと、追い越して扉のところで振り返る。
「ユールベル、続きはまた今度、邪魔の入らないところでな」
 ユールベルは全力で首を横に振った。
 しかし、レイモンドは気にせず笑顔を見せ、右手を上げて出て行った。乾いた足音はすぐに遠ざかり、聞こえなくなった。

 ジョシュは面倒くさそうに大きく溜息をついた。仏頂面のまま右手で頭を押さえると、視線だけを無感情に落とす。
「やっ……」
 その視線でユールベルは我にかえった。自分がどんな格好をしているかに気付き、羞恥と恐怖で涙がこぼれた。しかし、手首を拘束されているため、隠すことも叶わず、僅かに身をよじることしかできない。
 そんなユールベルに、ジョシュは無言で足を進めると、横たわった身体の上にまたがって片膝をついた。先ほどまでレイモンドがいた、まさにその場所である。
「や、やめてっ……! 嫌っ!」
「落ち着け!!」
 その一喝に、ユールベルはビクリと動きを止めて息を呑んだ。
 ジョシュは捲り上げられたスカートを元に戻し、肌蹴た胸もとを隠すようにブラウスのボタンをひとつだけ留めると、拘束された手首を指差して言う。
「これを外す。いいな?」
 ユールベルは濡れた目を見張ったまま、こくりと小さく頷いた。
 ジョシュは拘束された手首へ近づいていくと、両膝をつき、両手を向かい合わせて呪文を唱え始めた。手の間にほのかな光が発生する。彼女の手首を傷つけぬよう、手のひらにとどまったその光を、魔導の紐だけにそっと触れさせる。
 しかし、紐には何の変化もなかった。
「あ……れ……?」
「……失敗……したの?」
「ちょっと待て、もう一度やるから、な?」
 ジョシュはきまり悪そうに顔を紅潮させ、もう一度、焦りながら両手を向かい合わせて呪文を唱えようとする。だが、そのとき——。
「何をやってるんだ!!」
 開け放たれたままになっていた入口に、一人の男性が姿を現した。ジョシュたちを目にするなり驚愕の表情でそう叫ぶと、抱えていた書籍をバサリと床に落とし、即座に両手を振り上げて魔導の力を集める。
「ちょっ、待て!!」
 ジョシュの訴えも聞かず、男性は白い光球を放った。ジョシュはすんでのところで結界を張ってそれを消滅させる。本当にギリギリだった。あと一瞬でも遅れていたら体に直撃していただろう。顔を引きつらせながら、なおも必死に訴えかける。
「落ち着けサイラス! これにはわけが……」
「どんなわけがあったってこんなこと許されるわけないだろう!」
「違うの! この人は……ジョシュは私を助けてくれたのっ!!」
 馬乗りになったジョシュの下から、ユールベルは必死に声を張り上げた。

「はい、外れたよ」
 事情を聞いたサイラスは、ユールベルの手首を拘束していた魔導の紐を消滅させると、立ち上がって後ろのジョシュに振り向いた。先ほどとは別人のような穏和な表情を見せている。
「ちょっと特殊な細工がしてあったけど、それほど難しいものでもないよ。ジョシュもよく見ればわかったんじゃないかな。さすがに焦ってたんだね」
「そりゃ焦るでしょ、こんな状況じゃ」
 ジョシュは溜息まじりにそう言うと、上半身を起こしたユールベルの脇にしゃがみ、その手首をとって一通り観察する。
「特に怪我はないようだな。他は……」
「大丈夫……です……」
 ユールベルは自由になった手で、左目を覆う包帯を確かめたが、幸い外れてはいなかった。ほっとすると同時に、今さらのように自分の姿に対する恥ずかしさが込み上げてきた。彼の視線から逃れるようにうつむくと、ブラウスの前を掴んで体をよじる。
「入口を見張ってるから服を着ろ」
 ジョシュは無愛想に言葉を落とし、背を向けて入口の方に向かった。
 それは彼なりの配慮だったのだろう。
 ユールベルにはそれがありがたく感じられた。どんな同情の言葉よりも、どんな思いやりあふれる態度よりも、今はただそっとしておいてほしかった。そして何より、一刻も早くこの無残な格好を何とかしたいと思った。
 部屋の隅に座ったまま衣類を身に着けていく。
 それだけで気持ちが少し落ち着いた。安心したせいか急に泣きたくなった。そして無性にラウルに縋りたくなった。しかし、それは自分がしないと決めたこと。その面影を振り払うように小さく頭を左右に振ると、涙をこらえて唇を噛んだ。

 入口付近で二人はユールベルの方を見ないようにして立っていた。資料室の外からの音に耳をそばだてながら、声をひそめて会話をする。
「サイラス、おまえ何しに来たんだよ。アカデミーはいいのかよ」
「今日は助手の子に任せて、こっちの研究を進めようかと思って」
「教師引き受けたんだから、気が進まなくても真面目にやれよな」
 ユールベルはそれを聞いて思い出した。このサイラスという男性は、アカデミーで何度か顔を見たことがあった。確か魔導全科一年の担任である。どうやらこの研究所の所員でもあるらしい。
「そんなことより、これからどうするつもり?」
「俺が知るかよ」
 ジョシュはぶっきらぼうに答えると、前髪を掻き揚げながら疲れたように溜息をついた。
「とりあえず今日は帰らせた方がいいだろうな」
「そうだね、体調が悪くなったことにでもして」
 サイラスも同意して頷く。しかし、ユールベルはそれを望まなかった。
「仕事、します……」
 少しふらつきながら彼らの方に足を進めると、掠れた弱々しい声で主張する。
 二人は面食らったように振り向いた。
「無理しなくていいんだよ」
 サイラスは優しい口調で宥めたが、ユールベルは首を横に振った。
「逃げるのは悔しい……もの……」
「そんなことを言っている場合じゃないだろう」
 今度はジョシュが呆れたように言ったが、それでも頑なに首を横に振った。
 レイモンドが何を考えているのかはわからないが、このまま引き下がったのではまるで彼に屈服したかのようである。ますます彼が調子に乗ることになるだろうと思った。それに、自分のいないところでレイモンドが何を言い出すか、どんな行動をとるのかを考えると怖かった。顔は会わせたくないが、目の届くところにいた方がまだましである。
「……わかった」
「ジョシュ、ちょっと……」
 眉をひそめるサイラスを無視して、ジョシュは真面目な顔でユールベルと向かい合った。
「まず、顔を洗ってこい。それから一緒に戻る。おまえは気分が悪くなって資料室でしばらく倒れていた。俺はそれを見つけて回復するまで付き合っていたことにする。いいな?」
 ユールベルはこくりと頷き、顔を伏せたまま資料室を出ていった。

 その後、ユールベルは仕事に戻った。
 予想したとおり何度かレイモンドが声を掛けてきたが、ジョシュやサイラスが上手く追い払ってくれた。仕事に戻りたいという自分の我が侭のせいで、彼らには迷惑を掛けてしまったと申し訳なく思う。
「お疲れ、もういいから帰れよ」
 就業時間が終わるとすぐに、ジョシュはユールベルにそう声を掛けた。相変わらず素っ気ない口調ではあるが、もうそこに敵意を感じることはなかった。
「やあ、ユールベル。どこで続きをしようか」
 レイモンドがとぼけた笑顔でやってきた。
 ユールベルがびくりとして一歩後ずさると、入れ替わりに、ジョシュが庇うように一歩前に踏み出した。背の高いレイモンドを見上げると、感情を抑えた口調で言う。
「センパイ、仕事で訊きたいことがあるんでちょっといいですか」
「悪いが明日にしてくれ。これから大事な用事があるんでね」
「こっちも大事なことなんですよ」
 ジョシュはそう言いながら、体の後ろでこっそりと左手を振り、ユールベルに早く行けと指示をする。ユールベルは小さく頷くと、逃げるように走って研究所を出て行った。

「まあいい、チャンスはいくらでもあるからな」
 レイモンドは両手を腰に当て、おどけるように肩をすくめて見せた。
「ジョシュ、君はお姫さまを護る騎士にでもなったつもりかもしれないが、よく考えてみろ、誰の味方をするのが自分にとって得なのかを」
「そういう考え方しか出来ないんですか」
 ジョシュは冷ややかに言い返した。
 しかし、レイモンドは飄々とした態度を崩さなかった。まるでそんなジョシュの反応を楽しむかのように、どこか陽気ささえ感じさせる表情を見せながら言う。
「君は相変わらず堅物だな。そうだな……、よし、君がそれほどユールベルを気に入ったのなら、一度くらい抱かせてやってもいいぞ」
「……あんたやっぱサイテーだよ」
 ジョシュは嫌悪感も隠さず、軽蔑するように吐き捨てる。
 フッ、とレイモンドは不敵な薄笑いを浮かべ、横柄に腕を組んでジョシュを見下ろした。
「君はもう少し上手く立ち回ることを覚えた方がいい。もし私の側につくというのなら、私が所長になった暁には……」
「あんたに牛耳られた研究所なんか、こっちから願い下げだ」
 ジョシュは低く唸るような声でレイモンドの言葉を遮ると、腹立たしげに背を向けて自席に戻った。乱暴に体重をかけられた椅子の背もたれが、ギィッと耳障りな音を立てて軋んだ。

 翌日、ユールベルは鉛のように重たい気持ちを引きずるようにして出勤した。
 前日と同様にレイモンドはあれこれちょっかいを出してきたが、ジョシュが何とか上手くあしらってくれた。しかし、そのたびに彼の仕事の邪魔をしているようで、ユールベルは心苦しかった。
 自分は辞めた方がいいのかもしれない。
 そうすれば彼もこんなことに煩わされることはないはずだ。
 しかし、今はそんなことを考えるよりも、少しでも仕事を進めなければならない。これ以上、ジョシュの足手まといにならないように——。

 昼休みになると、レイモンドは懲りもせずユールベルのところへやって来た。逃げようとしたユールベルを阻むように、笑顔で両腕を広げながら近づく。
「お昼は食堂だな。みんなに僕たちの仲睦まじいところを見せつけるとしよう」
 まわりの人にも聞こえるようにわざと声を張っている。何人かの所員が興味深そうに二人を見ていた。中には誤解している人もいるかもしれない。
 ユールベルは怖くなって、必死に首を横に振った。
 そのとき、ジョシュが横からさっと割って入った。素早くユールベルの手を取ると、その手を引いて歩き始める。
「おい、待てよ。人の妻を掠め取るとはいい度胸だな」
「彼女と仕事の話がありますので」
 ジョシュはもう何を言っても無駄だと思ったのだろう、妻という言葉を訂正することなく、無表情のまま素っ気なくあしらった。
 レイモンドはフッと鼻先で小さく笑った。
「いつまで足掻けるかな」
 ジョシュはそれを無視し、ユールベルとともに足早にフロアを後にした。

 二人は食堂に入ると、昼食を買ってから窓際のテーブルについた。
 ジョシュは無言でスパゲティをフォークに絡めている。その表情には濃い疲労の色が見て取れた。その原因が自分であることを、ユールベルは痛いほど理解している。膝の上のプリーツスカートをギュッと掴んで顔を上げる。
「あの……」
「あらー? 女嫌いのジョシュ君がめずらしい」
 ユールベルのか細い声は、アンナのよく通る声に掻き消された。アンナはプレートを手にして立ったまま、人なつこい丸顔でニコニコしながら二人を見下ろしていた。
「何か用ですか?」
 ジョシュは少し苛立った声で尋ねる。それでもアンナの笑顔は崩れなかった。
「良かった良かった。二人が仲良くしてくれてお姉さん嬉しいぞぅ。ジョシュはとっつきにくいけど悪い子じゃないの。仏頂面も冷たい態度もぜーんぶ照れ隠しだと思ってればいいからね。まだまだお子様なのよ」
「殴りますよ……」
 ジョシュは低い声で物騒なことを言ったが、アンナは完全に無視してユールベルにウインクした。ユールベルはどう反応すればいいかわからず、困惑しながら目を伏せる。
「あと……」
 アンナは少し真面目な顔になると、腰を屈めてユールベルの耳元に口を寄せた。
「レイモンドに気に入られてるようだけど、あいつには気をつけた方がいいわ。ちょっとヤバいから」
 そう小さな声で囁いて、頭を指さしながら片眉をひそめて見せる。
「ま、ジョシュが一緒にいてくれれば安心だけどね。じゃあまたっ!!」
 彼女は軽く手を振り早足で去っていくと、少し離れたところで待っていた同僚とともに奥の席についた。キャピキャピと楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。
「……あいつ、何て?」
「レイモンドはヤバいから気をつけなさいって」
「遅せぇよ」
 ジョシュは力なく笑いながら溜息まじりに言った。面倒くさそうに頬杖をつくと、手に持っていたフォークを回し、再びスパゲティを絡め始める。
 ユールベルは膝に手を置いたまま視線を落とした。
「ごめんなさい、女嫌いなのに……」
「からかってんだよ、そんなこと真に受けるな」
 ジョシュは少し怒ったように語調を強めると、スパゲティを絡めたフォーク口に運んだ。そして、今度はサラダをつつきながら重い声で切り出す。
「おまえさ、ボディガードでも雇えよ。研究所の中なら俺が気をつけてやれるけど、外まではさすがに無理だ。あいつは本当にヤバい。このままだといつか……」
 彼はそこで言葉を切ったが、何を言いたかったのかはユールベルにもわかった。あのときのことを思い出して表情がこわばる。そんな彼女に、続く彼の言葉がさらに追い打ちを掛けた。
「ラグランジェ家のお嬢さまなら、そのくらいしてもらえるだろう」
 ラグランジェ家のお嬢さまなら——。
 ユールベルは深くうつむき、膝に置いた手をギュッと握りしめた。
「……私……お嬢さまじゃない……」
 彼に悪気がないのはわかっている。ユールベルの家庭の事情など知るはずもない。ラグランジェの名を聞けば、それなりの良い暮らしをしてきたと思われても仕方のないことだ。しかし、実際は薄暗い部屋で長年幽閉されて、ただ生かされていただけだった。人間としての扱いすらされていなかったのである。
「ボディガード、無理なのか?」
 ジョシュは戸惑ったように眉をひそめて尋ねる。
「私、ここを辞めます……あなたにも迷惑を掛けてしまうし……」
 サイファの紹介でここに来たので、簡単に辞めるわけにはいかないと思ったが、もはやそうするしかないと思った。ジョシュやサイラスに甘え続けるわけにはいかないし、このままではかえってサイファに迷惑を掛けることにもなりかねない。
「そうだな、それがいいかもしれない」
 ジョシュも賛成した。しかし、暗い声で言葉を繋ぐ。
「ただ、あいつがそれで諦めるかはわからないが……」
 確かにあれほどの執着を見せているレイモンドが簡単に諦めるとも思えない。だからといって、他にとるべき方法など思いつかない。ユールベルはただうつむくことしかできなかった。

「やあ、ユールベル」
「おじさま」
 書類を整理していたユールベルは、背後から名を呼ばれ、咄嗟に立ち上がって振り向いた。そこには、濃青色の制服を着たサイファが、人なつこい笑みを浮かべながら軽く右手を上げて立っていた。研究所にいるときは所長と一緒のことが多いが、今日はひとりのようだ。
「仕事の調子はどうかな? 困ったことや悩みごとがあったら相談にのるよ」
「……私……大丈夫です……」
 ガン! と唐突に激しい音がして、ユールベルはビクリと振り向いた。それは、ジョシュがスチール製の机を蹴り飛ばした音だった。仏頂面でモニタに向かったまま、苛立った様子で口を開く。
「何度も言ってますが、仕事の邪魔をしないでもらえますか。仕事とは関係のない話をするなら研究所の外でしてください。その役立たずは連れて行って構いませんから」
「ジョシュ!!」
 離れていたところにいたアンナが飛んできて、ジョシュの頭を拳骨で横殴りにした。そして、サイファに向き直ると、腰から二つ折りになるくらいに頭を下げた。
「申しわけありませんっ!」
「いつも邪魔をしていたようで、こちらこそ申しわけなかったね」
 サイファは笑顔のままで言う。それを見たアンナの顔から血の気が引いた。
「邪魔だなんてそんなこと全然ありません!」
 サイファはにっこりとしてユールベルの肩を抱き寄せた。
「彼の言葉に甘えさせてもらって、ユールベルをちょっと借りたいんだけどいいかな?」
「はい! どうぞいくらでも!!」
 戸惑うユールベルに、ジョシュがちらりと目を向けた。その目を見てユールベルは理解した。これが彼なりの配慮だということを——。

 ユールベルは、魔導省の塔にあるサイファの個室へと連れられてきた。サイファに促され、大きな執務机の前に置かれた椅子に座る。
「ここなら邪魔者はいないし、心置きなく話ができるだろう」
「おじさま、ジョシュは私のためにあんな言い方をしたの」
 本題に入る前に、まず彼の態度について弁明しておきたかった。自分のためにいつまでも彼を悪者にしてはおけない。信じてもらえるだろうかと心配したが、サイファはとっくに見透かしていたようだ。
「そんなことだろうと思っていたよ。あの場では言いにくい話があったのかな」
「それは……」
 ユールベルにはまだサイファに話す決心がついていなかった。しかし、辞めるにしても、サイファには理由を告げなければならない。握りこぶしを胸に当ててグッと押さえると、思いつめたように表情を引き締めて顔を上げる。
「私、研究所を辞めるつもりです」
「理由を聞かせてもらえるかな」
 サイファは顔色一つ変えず、冷静に尋ねた。
 ユールベルはレイモンドのことをサイファに話した。仕事中でもしつこく言い寄ってくること、結婚を前提に付き合ってくれと言われたこと、断ったにもかかわらず婚約者のつもりでいることなど、思いつく限りのことを堰を切ったように言う。ただし、資料室でのことだけは触れなかった。あれだけはサイファであっても知られたくなかった。しかし、それを除いたとしても、辞める理由には十分だろうと思った。
「レイモンド……レイモンド=ニコルソンか……」
 サイファは真剣な顔で聞いたあと、小さくそれだけ呟くと、すぐに方々に連絡を取り始めた。それはまさに怒涛の勢いだった。ユールベルが口を挟む隙もないくらいである。時折、何かの書類を持った人がやってきて、サイファにそれを渡していく。サイファはそれを見ながらさらにどこかに連絡、指示をする。その繰り返しだった。何をしているのか具体的にはわからなかったが、どうやらレイモンドについて調査しているらしいことだけはわかった。
 それが一時間ほど続いたのち、サイファは丁寧に受話器を置くと、ユールベルに目を向けてにっこりと微笑む。
「ユールベル、君が辞めることはないよ」
「え……?」
「レイモンドをここへ呼んで話をつける」
「おじさまやめて! 私……いいの、私が辞めるから!」
 ユールベルは引きつった声で懇願した。
「そうはいかない。これは君だけの問題ではないからね」
 サイファは鮮やかな青の瞳に鋭い光を宿して言った。冷たい笑みを浮かべるその表情には凄みがあり、ユールベルはゾクリと背筋が凍りつくように感じた。
 そのとき、初めて彼のことを怖いと思った。
 君だけの問題ではない——その言葉の意味はわからなかったが、尋ねることも反論することもできず、ただ椅子に座ったまま硬直するだけだった。

 コンコン——。
 扉が軽快にノックされた。
「入りたまえ」
 サイファはいつもより厳粛な声で言った。
 扉を開けて入ってきたのは、予想どおりレイモンドだった。ユールベルは思わず椅子から立ち上がり、警戒するように身構えながら一歩下がった。
 しかし、レイモンドはユールベルには目も向けず、サイファに向かって丁寧にお辞儀をすると、思いきり愛想のよい顔を見せて言う。
「ラグランジェ本家当主直々のお呼び出しとは光栄の極みです」
「なるほど、君にとって私はラグランジェ本家当主というわけか。君の勤める魔導省の副長官ではなく、ね」
 サイファは意味ありげな笑みを、その形の良い唇に乗せる。
 一瞬、レイモンドは怯んだ。口元を僅かに引きつらせる。しかし、すぐにそれをごまかすように笑うと、両の手のひらを上に向け、大袈裟に肩を竦めて言い訳する。
「魔導省副長官より、ラグランジェ本家当主のインパクトが強かっただけです。他意はありません」
「君はユールベルに随分と執拗につきまとっているようだね」
「いえ、私たちは結婚を前提として付き合っています」
 サイファは少しの間も置かず本題へと移したが、今度は心構えができていたのか、動揺を見せることなく平然と即答した。
「ユールベルは断ったと言っていたが?」
「少し喧嘩をしてしまったので、今は機嫌が悪いだけでしょう。いくら愛し合っていても、些細なことで喧嘩になってしまうことくらい、あなたにもありますよね?」
「さあ、私にはないな」
 同意を求めたレイモンドに、サイファはつれない答えを返す。
 その答えが事実かどうかは、ユールベルにもわからない。だが、レイモンドを動揺させるのに効果的だったことは間違いないようだ。予想外の返答にシナリオが狂ったのか、少しの間だったが言葉を詰まらせた。
「……とにかく、私はユールベルを愛していますし、ユールベルも私を愛してくれています」
「嫌っ……!」
 レイモンドに肩を抱かれたユールベルは、抵抗して身をよじり、その腕から逃れようとした。だが、レイモンドは耳元に悪魔の囁きを落とす。
「写真」
 その一言だけで、彼が何を言いたいのかわかった。
 そう、彼の手には切り札があったのだ。
 ユールベルは抵抗する手を止めた。彼の言いなりになどなりたくはなかったが、そうしなければあの写真をばらまかれてしまう。悔しくて目に涙が滲んだ。
「よろしければここで結婚の許可をいただけませんか? 今すぐ結婚でなくても構いません。とりあえず確約だけいただければと。一生、彼女とともに生きていく覚悟は出来ています。彼女も同じ気持ちのはずです。そうだろう? ユールベル」
「……わた、し……私は……嫌っ!!」
 ユールベルは耐えきれずにそう叫ぶと、レイモンドを突き飛ばした。彼の体は虚をつかれてよろめく。しかし、すぐに体勢を立て直すと、顔いっぱいに笑顔を作って言う。
「結婚式は君の望みどおりにするよ。だからそろそろ機嫌を直してくれないかな」
「写真なんて好きにすればいい! 一生あなたと生きていくより、そっちの方がよっぽどましだわ!!」
 ユールベルは体の横でこぶしを握りしめ、体の奥から声を絞り出すように叫んだ。右目から涙が零れ落ち、頬を伝って床に落ちる。体は悔しさと恐怖でわなないていた。
「写真?」
 サイファは表情を変えずに、少しだけ怪訝な声で聞き返した。
 しかし、それに対する返事はなかった。レイモンドは苦虫を噛み潰したような顔をしている。ユールベルにとっては好機だったが、自分の口から説明する勇気はなかった。
「レイモンド、説明してくれ」
 サイファは二人の様子を確認すると、レイモンドの方に説明を求めた。
 それで観念したのだろうか。
 レイモンドは両手を腰にあて、わざとらしく大仰に肩を竦めた。
「やれやれ……計画変更かな」
 溜息まじりにそう言うと、ニヤリと厭らしく口の端を吊り上げ、ズボンのポケットから小型のカメラを取り出した。
「このカメラには、ユールベルの人には見せられない姿が収められています」
 ユールベルは耳をふさいで、きつく目を瞑った。しかし、それでも声は漏れ聞こえてくる。あのときのことが脳裏によみがえり、体中にゾワリと悪寒が走った。
 サイファは僅かに眉根を寄せて尋ねる。
「盗撮か?」
「まさか、そんな罪は犯しません。盗撮なんかよりもっとすごい画が撮れてますよ。なにせ私たちが愛し合っているときに撮ったものですから」
「ウソ! あなたが無理やり……っ!!」
 ユールベルは思わず反論したが、それだけ言うのが精一杯だった。再び目に涙を溜め、唇をきつく噛み締め、小刻みに体を震わせる。いったいどうしてこんなことになってしまったのだろう。考えてみてもわからない。悔しくて悲しくてやりきれなかった。
 対照的にレイモンドはこの状況を楽しんでいるように見えた。
「どうします? 可愛い姪御さんのあられもない姿を世間に晒しますか?」
「好きにすればいい。本人がそう言っているんだ」
 サイファはさらりと無感情に言った。
 一瞬、レイモンドは怯みかけたが、負けじと食い下がる。
「ラグランジェ家ご令嬢のこんな姿が世間に晒されては、大騒ぎどころではないでしょう。由緒ある家名に傷がつくことは避けられないはずです」
「ラグランジェ家はそれくらいでは揺らがない」
 その言葉を体現するかのように、サイファは冷静沈着に、そして威厳をもって言った。声を荒げているわけでも、威圧的に振舞っているわけでもないが、その佇まいには相手を畏怖させるものがあった。
「写真を見たら意見が変わりますよ。明日、現像してお持ちします」
 レイモンドは脂汗を滲ませながらも、強気に口の端を上げて、手にしていたカメラを顔の横に掲げて見せた。その瞬間——。
 バン! と短い爆発音がして、カメラが粉々に砕けた。
 それはサイファの魔導によるものだった。
 カメラもフィルムも原形を留めていない。その中心から薄煙が上がっている。レイモンドの指からは、魔導を受けたせいか、破片によるものか、赤い血が流れていた。頬にも斜めに赤い線が走っている。それ以外にもところどころ軽い裂傷を負っているようだ。レイモンドはカメラだった物体を床に落とし、傷ついた手を反対の手で押さえて歯を食いしばる。
「カメラ代は弁償する。治療費も払おう。ただし慰謝料は出さない」
 サイファは毅然と言った。そして、机の上で両手を組み合わせると、レイモンドに呆れたような冷たい目を向けた。
「君が馬鹿だったおかげで手間が省けたよ」
「こ……こんなことをして……私が訴えればどうなるか……」
 レイモンドは唸るようにそんな脅し文句を口にしたが、サイファは平然としたまま涼しい顔で問いかける。
「君の欲した力はその程度のものなのか?」
「くっ……」
 ラグランジェ家に掛かれば、その程度の傷害事件を揉み消すことなど造作もない。そんなことはレイモンドにもわかっていたのだろう。圧倒的な敗北にもう言葉も出なかった。
「そうそう、研究所に君の戻る場所はもうないから」
 サイファは急に軽い口調になって言う。
 レイモンドは驚いて顔を上げ、呆然とした。
「解雇……ということですか」
「いや、内局に戻すことにした。それが君の望みだったんだろう?」
 レイモンドはもともと魔導省の内局に勤めていた。だが、何かと問題を起こすことが多く、厄介払いのような形で研究所へ異動になったのだ。
 しかし、今、サイファは内局に戻すという。
「……それは、取引ですか?」
 少し考えてから、レイモンドは慎重に尋ねる。
「解釈は君に任せる」
 サイファは静かにそう言うと、フッと小さな笑みを浮かべた。
「レイモンド、わかっているとは思うが、念のためにあえて忠告しておく。今後、二度とラグランジェ家に手出しをしようなどと思うな。もし再び何らかの行動を起こした場合、私はありとあらゆる手段で君を追い詰める」
 それは単なる忠告などではなく、抗いようのない最後通告である。サイファならば実際にそれを実行することが可能だ。そうなれば人生は終わったも同然である。レイモンドの顔は引きつり、額から頬に汗が伝った。
「行け」
 もう言い返す気力もなくなったのか、サイファに命じられるままに部屋を出て行った。その背中は哀れなほどに憔悴しきっていた。

「おじさま……レイモンドの狙いはラグランジェ家だったの……?」
 ユールベルはまだ濡れている瞳をサイファに向けて尋ねた。
「そうだよ。ユールベルと結婚してラグランジェ家の人間になり、その力を手に入れるつもりだったようだね」
 サイファは優しい口調でゆっくりと答える。そして、机の上で両手を重ねると、少し表情を険しくして続ける。
「そういう人間が出てくるだろうことは予想していたが、これほど早く、これほど強引な方法で来るとは予想外だった。もっと気をつけておくべきだったと反省している。ユールベル、君には本当に申し訳ないことをした」
 ユールベルの目から涙が溢れ、その場に膝から崩れ落ちた。顔を両手で覆って嗚咽する。
 その背中に、そっとあたたかい手が置かれた。
 ビクリとして顔を上げると、サイファが申し訳なさそうに微笑んでいた。ユールベルの隣に膝をついてしゃがみ、そっと自分の胸に抱き寄せた。
 ユールベルはサイファにしがみついて泣きじゃくった。
 泣き疲れて落ち着くまで、サイファはずっと無言で抱きしめてくれていた。その包まれるような優しい温もりに安堵して寄りかかる。
 しかし、心の片隅では、それでもラウルを求めていた。


依頼

「何だと……?」
 ラウルはカルテを整理する手を止めて振り向くと、顔いっぱいに疑念を広げ、思いきり眉をひそめて聞き返した。しかし、患者用の丸椅子に座るサイファは、対照的に満面の笑みを浮かべて答える。
「だから講師を頼みたいんだよ。ラグランジェ家の若者を集めて講座を開くんだ。題して『ラウルの恋愛コミュニケーション講座』」
「ふざけるな」
 ラウルはこめかみに青筋を立てて一蹴した。
 それでもサイファは少しも動じることなく、にっこりと笑顔を浮かべたままで言う。
「大真面目だよ。ラウルにも話しただろう? ラグランジェ家も一族の者以外との婚姻を認めることにしたと。通達したのはラグランジェ家の人間にだけだが、もう随分と世間に広まってしまったようでね。ラグランジェ家に入ってその力を得ようとする者が動き出しているんだ」
 確かにそういう動きがあってもおかしくはない、とラウルは思う。ラグランジェの名には良くも悪くも強大な影響力がある。ある種の権力といってもいい。実力のない人間ほど手に入れたがるものだ。サイファも当然ながら想定はしていただろう。だが——。
「それでなぜ恋愛コミュニケーション講座なんだ」
 ラウルは椅子を回してサイファに向き直ると、腕を組んで冷ややかに見下ろした。
 サイファは両の手のひらを上に向けて答える。
「まあ平たく言えば、つまらない人間に騙されないようにってことだよ。もちろん最終的には私が調査・面談して、問題のある人間は却下するが、それでも騙された子の心には大きな傷が残る。不憫だろう? だから、それ以前に自分自身で見抜くスキルを身につけさせたいと思ってさ。あと、しつこい相手の断り方や、いざというときの身の守り方もね」
「……話はわかった」
 サイファの考えていることは意外とまともだった。おかしいのはタイトルだけである。そこまで教えてやる必要があるのかとも思うが、ラグランジェ家の置かれている今の状況を考えれば仕方がないのかもしれない。
 しかし、それと講師を引き受けるかどうかは別の話である。
「だが私には無理だ。他を当たれ」
「ラウルほどの適任はいないさ。長い年月を生き、多くの人と関わってきた。人の本質を見抜く能力は誰よりもあるだろう? 恋愛方面も得意なようだしね」
 サイファはそう言うと、薄い唇に意味ありげな笑みを乗せ、挑戦的な視線を送る。
 ラウルはピクリと眉を動かして睨み返した。
「おまえ、嫌味を言っているのか? からかっているのか?」
「どこか間違っているか?」
 サイファは真顔で言う。とぼけているのか本気で言っているのか判然としない。
「引き受けてくれれば謝礼は弾むぞ」
「あいにく金には困っていない」
「では、ラウルだけのために我が家でティーパーティを開こう。レイチェルの淹れた美味しいお茶を飲ませてやるよ。何ならプリンも作らせるぞ。好きなんだろう?」
「おまえ……」
 人差し指を立てて笑顔で取引を持ちかけるサイファに、ラウルは眉間に皺を寄せながら呆れたような視線を送った。しかし、危うく応じそうになるほどに心を動かされてしまった自分も、度し難い人間という意味では似たようなものだ。それをごまかすように目を逸らすと、大きく声を張って突き放すように言う。
「とにかく断る。そんなものはそこらへんの結婚詐欺師にでもやらせればいいだろう」
「結婚詐欺師?」
 サイファはきょとんとして聞き返した。それから、軽く握った右手を口元に当ててじっと考え込むと、小さく頷きながら言う。
「なるほど、その発想はなかったな。さすが先生だよ。そうだな……よし、ではさっそく結婚詐欺師の手配をするとしよう」
「…………」
 ラウルは面倒くさくて投げやりに思いつきで言っただけである。本気で考えていたわけではない。なのに、まさかそこに食いついてくるとは思いもしなかった。ましてや本当にそんな展開に持っていくなど想像すらしなかった。
 いったい何を考えているのだろうか。
 ラウルは眉をひそめて怪訝な眼差しを送るが、サイファはまるで意に介する様子もなく、すぐさま椅子から立ち上がって医務室を出て行こうとした。だが、扉に手を掛けたところで振り返って言う。
「そうそう、ユールベルだけはおまえに頼むよ。ラグランジェ家を狙っていた下衆な男に弄ばれてひどい目に遭ったらしい。だいぶ参っているみたいだから、様子を見てやってくれないか。おまえのたった一人の患者だろう?」
「精神科も心療内科も専門外だ」
 ラウルは無愛想に答える。
「医師としてではなく個人としてでも何か出来ることはあるだろう。彼女が自分から心を開くのはおまえくらいだからな。とにかく頼んだぞ。講師よりは随分楽だろう」
 サイファは一方的にそう言うと、引き戸をガラリと開けた。
 ラウルは机に手をついて勢いよく立ち上がる。
「待て、勝手なことばかり言うな」
「私は忙しいんだ。結婚詐欺師も探さなければならないしな」
 サイファは僅かに振り返り、目を細めてラウルに視線を流すと、何か裏を含んだような妖艶なまでの笑みを浮かべた。外からの小さな風に、鮮やかな金の髪がさらりと揺れる。
 彼が何を考えているのかわからない。
 扉が静かに閉まった。
 ラウルは何も言えないまま見送り、遠ざかる足音を聞きながら、顔をしかめて椅子に腰を下ろした。机に肘をついてうなだれた頭を支える。その視界の端には、薬棚にいくつも常備してある新品の包帯が映っていた。


怯懦

 コンコン——。
 ユールベルはアカデミー三階の隅にある一室の、少々古びた扉をノックした。
「はい、どうぞ」
 中から女性の声で返事があった。掛けられたプレートをもう一度確認したが、部屋は間違っていない。予想外のことに訝しく思い、戸惑ったが、このまま逃げるわけにもいかず、おそるおそるドアノブを回して扉を開いた。
「あら? ユールベル、いらっしゃい!」
「あなた、どうしてここに……」
 広くはない雑然とした部屋にいたのはアンジェリカだった。机に向かい赤ペンで何かを書きつけていたようだ。彼女の机にも、その奥の机にも、紙束が山のように積み上げられている。彼女は赤ペンにキャップをすると、顔を上げてニッコリと微笑んだ。
「私、先生の助手をしているのよ」
「そう……」
 確かにアンジェリカはアカデミーで働いていると言っていた。だが、それがまさかここだとは考えもしなかった。ユールベルは何となく気まずいものを感じたが、アンジェリカの方にはまったくそんな様子は見られない。
「先生はすぐに戻ってくると思うから、その辺の椅子に座って待っていて」
「いえ、出直すわ」
 ユールベルは一歩下がって扉を閉めようとする。
「ユールベル?」
 背後の少し離れたところから声がした。ユールベルはドアノブに手を掛けたまま、声の方に振り向く。そこにいたのはサイラスだった。彼は目を丸くしていたが、すぐにニッコリと穏和な笑みを浮かべ、ユールベルの方に歩を進めながら言う。
「本当に来てくれたんだ。嬉しいよ」
「あなたが来いって言ったから……」
 ユールベルは目線をそらして言い訳のようなことを口にする。
 きっかけは確かにそれだった。例の事件のあと、研究所で顔を会わせたときに「一度、遊びに来て」と言われたのだ。それは社交辞令だったのかもしれない。だが、少し彼に相談したいこともあり、別件でアカデミーに来たついでに立ち寄ってみたのである。
「それに、わざわざ来たわけじゃないわ」
「わかっているよ」
 サイラスは包み込むようにそう言うと、戸口で立ち尽くすユールベルの背中に手を添えて部屋の中へと促した。ユールベルはその温かさに戸惑いながらも、素直にそれに従って足を進めた。

「じゃあ、私、もう帰りますね」
 アンジェリカは机の上を片付けてそう言うと、鞄を肩に掛けて立ち上がった。
 腰を下ろしたばかりのサイラスは、きょとんとして顔を上げる。
「え? もう帰るのかい?」
「たまにはいいですよね? 先生、さぼらないでちゃんと仕事してくださいね」
 アンジェリカは悪戯っぽく忠告すると、くすっと小さく笑い、手を振りながら部屋を出て行った。それはおそらくユールベルたちに気を遣ってのことなのだろう。彼だけに話したいことがあったユールベルには、彼女のその行動は有り難かった。
「それほどさぼってないんだけどね」
 サイラスは苦笑しながら誰にともなく呟いた。そして、机の上の書類を無造作に脇に寄せると、おもちゃ箱をひっくり返したかのような引き出しの中からマグカップを二つ取り出してそこに置く。
「コーヒー飲む? インスタントだけど」
「はい……」
 サイラスの隣に座るユールベルは、戸惑いながらもそう答えた。なぜ事務机の引き出しにマグカップをしまっているのか、それはきちんと洗ってあるのか、埃をかぶっていないのかなど、さまざまな疑問が喉まで出かかったが、それを尋ねるのも失礼な気がして、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 そんなユールベルの不安などお構いなしに、サイラスは机の上に置きっぱなしになっていたインスタントコーヒーの瓶を開け、そこから直接マグカップに入れると、やはり机の上に置いてあったポットの湯を注ぐ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……」
 ユールベルは差し出されたマグカップを両手で受け取ると、中の黒い液体をじっと見つめてゆっくりと口に運んだ。それは、とてもコーヒーとは思えない味だった。コーヒー自体が酸化しているうえ、湯の温度が低すぎるのも一因なのだろう。しかし、目の前で美味しそうに飲んでいるサイラスに、不味いなどと言えるはずもなかった。
 サイラスはマグカップを机に置き、にっこりと人なつこい笑顔を浮かべて尋ねる。
「もしかして僕に何か用があった?」
「別に……」
 ユールベルはそう言い淀んで目を伏せた。図星を指されて思わず否定するようなことを口走ってしまったが、こんなところでつまらない意地を張っては、勇気を出してここに来た意味がなくなってしまう——ぎゅっとマグカップを握りしめると、意を決して顔を上げる。
「私、先生に相談したいことがあるの」
 落ち着いた口調ではあるものの、その中にはどこか思いつめたような声音が響いていた。少し驚いたような表情を見せるサイラスに、ユールベルは深い森の湖のような瞳でじっと訴えかけた。

「えっ? ジョシュに避けられてる?」
 ユールベルは白いワンピースの裾をぎゅっと掴み、固い顔でこくりと頷いた。しかし、それを聞いたサイラスは、腕を組みながら困惑したような表情で首を傾げる。
「うーん、それ、気のせいじゃないのかなぁ」
「そんなことないわ!」
 ユールベルは身を乗り出し、思わず強い語調で言い返した。その必死な態度にサイラスは面食らったようだったが、すぐに優しい表情になると、ユールベルを覗き込んで穏やかに問いかける。
「じゃあ、詳しく説明してくれる?」
 ユールベルはこくりと頷き、どのように説明しようか思案すると、暫しの沈黙のあとに小さな口を開いた。

 ユールベルが話した内容はこうである。
 ジョシュには研究所に来た当初から嫌われているようだったが、例の事件のときには、ユールベルを助けて力になってくれた。これがきっかけで、彼との関係も良好なものになるのではないかと期待したが、その後まもなく彼の態度は再び硬化してしまった。ただ、以前のようにあからさまに嫌っているような態度ではなく、気遣いつつも関わり合いを避けている、そんなふうに感じる——と。

「最初にジョシュが冷たい態度をとっていた理由ならわかるよ」
「えっ……?」
 思いもしなかったサイラスの言葉に、ユールベルは目を見開いて聞き返した。
「ジョシュはね、ラグランジェ家が嫌いなんだ。多分、理由はそれだけだと思うよ」
 サイラスは柔らかく微笑んで言う。
「でもどうして? ラグランジェ家が嫌いって……」
「さあ、どうしてかな。ジョシュは真面目だから、柔軟な対応をするサイファに反発しているというのはあるだろうね。それに、何かと優遇されているラグランジェ家の人間を見て、やりきれない思いを持っているのかも」
 ユールベルは何も言えずにうつむいた。それを見て、サイラスは慌てて付け加える。
「ユールベルが責任を感じることはないんだよ」
「私、わかったわ……」
 ユールベルは呟くように言った。
 サイラスはきょとんと瞬きをして覗き込む。
「わかったって、何が?」
「私もおじさまの口添えで研究所に入ることになったもの。ジョシュの嫌いなラグランジェ家の人間そのものだわ。でも、あの事件のことで少し同情してしまって、どっちつかずの態度になっているのね」
 ユールベルはうつむいたままで言う。それがもっとも辻褄の合う答えだと思った。今までモヤモヤしていたものがストンと腑に落ちた気がした。
 しかし、サイラスは納得していないようだった。
「うーん……本当は冷たい態度をとっていたことを後悔しているけれど、素直にそれを言いだせないって可能性の方が高いと思うよ。ジョシュだってユールベルが研究所に入るだけの実力があることはわかってるはずだし、いつまでもそんな言いがかりみたいな理由で嫌ったりしないんじゃないかな」
 確かにそれも考えられなくはないが、ユールベルはそこまで楽観的になれなかった。
「じゃあ、あの事件で迷惑をかけてしまったから、そのことで腹を立てているのかも。もうあんなことに巻き込まれないように、私との関わりを避けているのかも」
「そんなことないって」
 サイラスは苦笑しながらそう言うと、小さく息をついて、落ち着いた静かな声で続ける。
「ジョシュってさ、あまり人付き合いが得意じゃないから、どういう態度をとればいいかわからなくて戸惑っているだけだと思う。嫌っているとか避けているとか、そんなこと考えない方がいいよ」
「先生とは仲が良さそう……」
 これまで二人が話しているのを見る限り、サイラスとは打ち解けているように見えた。少なくともユールベルに対する態度とは雲泥の差である。
 サイラスは机に腕を置いて言う。
「そんなに仲良しってわけでもないけど、まあ普通に喋ったりはするね。でも最初からそうだったわけじゃないよ。最初は僕もかなり刺々しい態度をとられていたし」
「そう、なの?」
 ユールベルが不思議そうに尋ねると、サイラスはにっこりと大きく微笑んだ。
「仲良くしたいんだったら、ユールベルの方からそう言ってみたら?」
「別にそういうわけじゃないわ」
 ユールベルは思わずむきになって言い返した。
「怖がらなくても大丈夫だよ。ジョシュって態度はあんなだけど根はいい子だから。きちんと話し合って、ユールベルが自分の素直な気持ちを伝えれば、いい方に向かうんじゃないかな」
 ニコニコしながらそう言うサイラスから、ユールベルは視線を外して目を伏せた。居たたまれなさから逃げるように、机の上のマグカップを手に取って口に運ぶ。ますますぬるくなっていたそれは、先ほどよりも随分と苦く感じられた。

 数日後——。

 研究所のそのフロアは、一部分のみ灯りがついていた。
 もう深夜といってもいい時間である。ほとんどの所員はすでに帰っており、このフロアで残っているのはジョシュとサイラスだけだった。背中合わせで二人とも黙々と仕事をしている。静かだった。紙をめくる音さえはっきりと聞こえるくらいである。
「ね、ジョシュ」
「ん……」
 サイラスは沈黙を破って呼びかけたが、机に向かったままのジョシュから返ってきたのは、ほとんど声になっていないくらいの気のない返事だった。それでもサイラスは遠慮なく言葉を繋ぐ。
「どうしてユールベルのことを避けているの?」
 ジョシュの動きが止まった。
「別に、そんなつもりは……」
「この前ユールベルから話を聞いたときは半信半疑だったけれど、さっき様子を見ていたら本当に避けてたよね。すごく素っ気ない返事しかしないし、目を合わせようともしないし、態度も不自然でぎこちないし。あれはもう気のせいとかでごまかせないよ。彼女と何かあったの?」
 ジョシュは背を向けたまま、無言でうつむいて唇を噛んだ。
 答えそうにない彼を見て、サイラスは質問を変える。
「彼女のこと、嫌いなわけじゃないよね?」
「……ああ」
 少しの間をおいて、ようやくジョシュは低い声で返事をした。
「だったらどうして?」
「先生には死んでも言わねぇよ」
 今度は不機嫌そうにぼそりと言う。それが彼の精一杯の意思表示だったのだろう。
「まあ、僕に言わなくてもいいけど、ユールベルのことはもっと考えてあげなよ。彼女は避けられている理由もわからなくて毎日不安で仕方ないんだから」
「……俺は、彼女と顔を合わせる資格もない人間なんだよ」
 サイラスはちらりと振り返った。どこか寂しげなジョシュの背中を、横目でじっと見つめる。
「潔癖すぎると生きるのがつらいよ」
「そう、かもな」
 ジョシュは感情を抑えた声でぽつりと言った。
 サイラスは椅子の背もたれに体重を掛け、両手を上げて大きく伸びをする。
「自分はそれでいいかもしれないけど、相手にもつらい思いをさせてしまうんじゃ、本末転倒じゃないかな」
「わかってる……けど……」
 ジョシュの言葉はそれきり途切れた。
 しばらくして、再び紙をめくる音がフロアに響いた。

 それから、一ヶ月半が過ぎた。

 ユールベルの実習期間は今日で終わる。
 もっとも、アカデミー卒業後——つまり数ヶ月後には、再びここで勤務することになっているので、取り立てて感傷的な気持ちにはならなかった。今日もいつものように与えられた仕事をこなしていくだけである。
 ジョシュの態度は相変わらずだった。
 何か言いたそうにしていることもあったが聞けなかった。ユールベルの方からも何も言い出せなかった。交わす言葉は仕事上での必要最低限のことだけである。二人の間にはぎこちない空気が流れ続けていた。

「じゃあまた。今度来るときは正式なウチの所員ね」
 勤務時間が終わると、アンナは人なつこい笑顔でユールベルを見送る。ユールベルはフロアの戸口で小さく頭を下げた。言葉には出来なかったが、何かと良くしてくれた彼女には心から感謝していた。
 フロアの中に視線を戻す。
 ジョシュは自席に座ったままだった。モニタをじっと凝視しているようだ。仕事に没頭しているのだろう。彼には声を掛けそびれたので、最後に一礼だけでもしたいと思ったが、彼がこちらに目を向けることはなかった。諦めて扉を開け、静かにフロアを後にする。
 研究所の建物を出ると、門のところで振り返ってその建物を仰ぎ見た。
 これからここで上手くやっていけるのだろうか——実習に来るときに感じた不安は未だに消えていない。むしろ大きくなったくらいだ。目を細めて小さく溜息をつくと、重い気持ちのまま踵を返して歩き出そうとした。
「ユールベル」
 ドクン、と大きく心臓が跳ねる。
 声だけでそれが誰であるかすぐにわかった。だが、今までずっと避けていた彼が、なぜここに来たのかわからない。ユールベルは息を止め、おそるおそる振り返る。
 案の定、そこに立っていたのはジョシュだった。
 困惑したような、怯えたような、どこか苦しそうな、何ともいえない複雑な顔をしている。ユールベルに声を掛けることを随分と迷ったのだろう。彼はごくりと唾を飲み込んでから、低く抑えた口調で切り出した。
「今まですまなかった。その、避けるような態度をとって……。おまえは何も悪くない。全部、俺の心の中の問題だ」
「ウソ……」
「嘘じゃない」
 思わず口をついて出たユールベルの言葉を、ジョシュは即座に否定する。それでもユールベルは信じることができなかった。長い金の髪を揺らしながら首を横に振ると、眉をひそめてじっと睨むように彼を見つめた。
「私、知っているんだから。ラグランジェの名前を使って研究所に入った私を軽蔑しているんでしょう? 嫌いなんでしょう?」
 ジョシュは目を見開き、小さく息を呑んだ。
「おまえ、それをどこで……」
 ユールベルは小さく息をつくと、努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「確かに私はあなたに嫌われても仕方のない人間だもの。ちゃんとわかっているわ。あなたのことを逆恨みなんてしない。だから、そんなウソをつかないで」
「ちょっと待て! 違う、違うんだ!」
 ジョシュは狼狽しながらも必死に主張する。
「確かに最初はそうだった。おまえの言うとおり、ラグランジェ家の人間ってだけで楽して入ってきた嫌なやつだと頭にきてた。でもそれは最初だけで、おまえが頑張ってるのをずっと見てきたし、十分に実力があることもわかったし、今はもうそんなことはこれっぽっちも思っていない」
 彼はユールベルを見つめてきっぱりと断言した。そのまっすぐな瞳からは嘘やごまかしは微塵も感じられなかった。
 ぐらり、と頭の中が揺らいだ。
 信じたいという思い、信じられないという思い、その相反する気持ちがせめぎ合い、心が引き裂かれそうになる。どうすればいいのかわからない。潤んだ瞳を隠すようにうつむくと、感情を昂ぶらせて声を震わせる。
「じゃ……じゃあいったい何なの? どういうことなの? 納得いくように説明して! 嫌いでもないのに避けるだなんて意味がわからない……っ!」
「だから、それは……それ、は……俺が……」
 ジョシュは顔をしかめて額を押さえた。顔中に苦悩を広げている。額には大粒の汗が噴き出していた。
「俺が、何……?」
「だから、その……えっと……」
 問い詰められるとますますしどろもどろになり、消え入るように声が小さくなっていく。声だけではなく彼自身も背中を丸めて小さくなっていた。
 ユールベルは僅かに目を細めた。
 彼が何を言おうとしているのかわからなかったが、嘘をつけるような人ではないのだということは十分すぎるほどに伝わってきた。自分と同じくらいに、いや、それ以上に不器用な人間なのだろう。
 ユールベルはジョシュとの間を詰めると、目を閉じてそっと寄りかかった。
 その体がビクリと震える。
「ユールベル……?」
「嫌いじゃないのなら、もう避けないで……」
 ジョシュの胸に額をつけたまま、ユールベルは小さな声で囁くように言う。
「……わかった」
 ジョシュは静かにそう答えると、ゆっくりと右手を持ち上げ、少し迷った様子を見せながらも、そっとユールベルの背中に置いた。その触れるか触れないかの力加減が、ユールベルにはとてもくすぐったく感じられた。

「これで一件落着、かな?」
 不意に後方から明るい声が聞こえた。ユールベルとジョシュは同時にその方に振り向く。声の主を目にしたジョシュの眉間には、みるみるうちに深い皺が刻まれた。
「……センセー、ずっと見てたのかよ」
「見るつもりはなくてもこんなところじゃね」
 サイラスは両の手のひらを上に向け、軽く肩をすくめてとぼけたように言った。
 ここは研究所の入口の真正面である。確かに彼の言うとおり、研究所に出入りする人間であれば嫌でも目についてしまうだろう。ジョシュは腕を組み、疲れたように溜息をついて話題を変える。
「それで、何しに来たんだよ」
「ユールベルのお見送りだよ」
 サイラスは屈託なく答えると、ユールベルに視線を移して微笑んだ。
「よかったね、ジョシュと仲直りできて」
 ユールベルは返答に迷い、助けを求めるようにジョシュの腕を掴んで見上げた。ジョシュは困惑したような表情で少し頬を染め、僅かに目を逸らせると、ぶっきらぼうにぼそりと呟く。
「別に喧嘩してたわけじゃない」
「あ、そうだったね。ジョシュが一人で勝手に迷走してたんだったね」
「サイラス、おまえ……」
 軽く笑ってからかうサイラスを、ジョシュは顔を赤らめたまま横目で睨んだ。

「じゃあな」
 門の前で軽く右手を上げるジョシュとサイラスに、ユールベルは小さく頭を下げると、背を向けて微かな風に乗るようにゆっくりと歩き出した。
 白いワンピースがふわりと風をはらむ。
 研究所での実習期間には様々なことがあった。その多くがつらいことだったような気がする。しかし、それだけではない。助けてもらったことも、相談にのってもらったことも、優しくしてもらったこともあった。そして、どうにもならないと諦めていたジョシュとのわだかまりが消えたことが、何よりもユールベルの気持ちを軽くしていた。
 多分、悪いことばかりではない——。
 燃えるような朱い空を見上げ、胸一杯に息を吸い込むと、無意識にほんの少しだけ口もとを緩める。心の中にはまだ不安が色濃く残っていたが、それでも、これからやっていけるかもしれないというひとかけらの希望だけは見出せた気がしていた。


瀬踏

「今度の休日?」
 食堂の窓際で昼食をとっていたジョシュは、フォークを持つ手を止め、向かいに座るサイラスに聞き返した。
「うん、何か予定ある?」
「別にない……けど……」
 何となくサラダをつつきながら歯切れ悪く答える。今までサイラスにこんなことを尋ねられたことはなく、いったい何なんだろうと訝しく思う。そんな心情を察したように、サイラスはにっこりと微笑んで理由を述べる。
「ユールベルがね、お礼をしたいって言ってるんだよ」
「お礼って、何の?」
「ほら、レイモンドの……」
「ああ……」
 濁された言葉を察して、ジョシュは低い声で頷いた。彼女にとっては思い出したくもない出来事だろう。それをわざわざ気にして、律儀に礼などしなくてもいいのにと思う。
「夕方頃に研究所の前で待ち合わせでいいかな」
「俺はいつでもいいよ」
 笑顔で尋ねるサイラスに、ジョシュは感情を見せずに素っ気なく答える。
 ユールベルはアカデミーにあるサイラスの部屋を何度か訪れているようだ。研究所は関係者以外は原則的に立ち入り禁止であり、今はサイラスを通してしか連絡が取れないことはわかっている。だが、彼女がサイラスのところに行く理由はそれだけではないだろう。
「時間はまた連絡するよ」
「わかった」
 ジョシュはサラダに目を落としたまま頬杖をつき、短く返事をした。

「早すぎたな……」
 ジョシュは腕時計を見ながら呟いた。待ち合わせの時間まではまだ30分以上ある。だが、遅れるよりはいいだろうと思い直し、塀に寄り掛かって腕を組んだ。
 ユールベルに対する罪悪感はまだ消えたわけではない。それでも、彼女を避けることは彼女を傷つけるだけだとわかった。いや、それは単なる言い訳だろう。彼女との繋がりを断ち切りたくないと自身が願っていることは自覚していた。
 小さく息を吸い込んで、優しい色の青空を見上げる。
 その穏やかな空とは対照的に、ジョシュの気持ちは落ち着かずそわそわしていた。ユールベルの実習終了の日以来、彼女とは一度も会っていない。約一ヶ月ぶりである。しかも、休日に待ち合わせをして会うことは初めてなのだ。さらに「お礼」の内容も気になっていた。彼女の考えていることはわかりづらいのでなおさらである。いったいどこへ行くつもりなのだろうか、そして、何をしてくれるのだろうか——。
「ジョシュ、早いね」
「うわぁっ!」
 ぼんやり考えているところに、突然横から声を掛けられ、ジョシュは大きな声をあげて飛び退いた。そのあまりの驚きように、声を掛けたサイラスの方も目を丸くして驚く。
「ごめん、そんなにビックリするなんて思わなくて」
「……何しに来たんだよ、先生」
 ジョシュは訝しげに横目でじとりと睨んだ。まさか自分をからかうためだけにわざわざ来たりはしないだろう。たまたま通りかかったか、それとも休日出勤か何かだろうと思う。
「何しにって、待ち合わせだから来たんだけど?」
「…………??」
 二人の話は噛み合っていなかった。互いに不思議そうに顔を見合わせている。しかし、サイラスが何かをひらめいたらしく、急にパッと顔を明るくして言う。
「もしかして、ジョシュ、自分だけって思ってた? 僕もジョシュと一緒に誘われてるんだよ。今日はここで3人で待ち合わせ。言わなかったっけ?」
「そっ……そんなこと聞いてないっ!」
 ジョシュは顔を真っ赤にして言い返した。サイラスも一緒などとは一言も聞いていない。だが、ジョシュ一人だとも言われていない。考えてみれば、確かにサイラスもユールベルを助けたわけで、お礼を受けるのは当然のことである。
「ごめんね、変に期待を持たせちゃったみたいで」
 サイラスは軽く笑いながら言う。揶揄しているわけではなさそうだが、ジョシュとしては図星を指されて居たたまれない気持ちになり、さらに顔を赤くして目を泳がせた。
「別に……そういうわけじゃない……」
「喧嘩、しているの?」
「うわぁっ!」
 背後から声を掛けてきたのはユールベルだった。ジョシュは全身の毛が逆立つほど驚いた。バクバク脈打つ心臓を押さえながら、不思議そうにしているユールベルを狼狽えながら見つめる。
「別に喧嘩ってほどじゃないよ。ね、ジョシュ」
「あ、ああ……」
 サイラスの助け船に感謝しながら、ジョシュは曖昧に頷いた。鼓動はまだ早鐘のように打っている。それが彼女に伝わらないよう祈りながら、暴れる心臓を静めようと深く呼吸をした。

「これからどこへ行くの? そろそろ教えてくれないかな?」
 サイラスは前を歩くユールベルに尋ねた。サイラスもジョシュも、まだ行き先すら知らされていない。サイラスは今日にいたるまで何度か尋ねたが、ユールベルは内緒だと言って教えてくれなかったらしい。だが今度はあっさりと答える。
「私の家よ」
 ジョシュの眉がピクリと動いた。
 彼女のフルネームはユールベル=アンネ=ラグランジェである。つまり——。
「ユールベルの家ってことはラグランジェ家……だよね」
「まあ、そういうことだよな」
 サイラスも同じことを考えていたようで、声をひそめてジョシュに確認してきた。
「なんか緊張してきたなぁ」
 その言葉とは裏腹に、サイラスはどことなく嬉しそうだった。魔導の研究をしている彼が、その名家であるラグランジェ家に憧れの気持ちを持つことは不思議ではない。行ったからといって特に何かがあるわけではないだろうが、それでもミーハー心くらいは満たされるだろう。普通なら一生かかってもこんな機会はあるかどうかわからないのだ。
「ジョシュ、気に入らないからって暴れたりしないでね」
「……そこまで子供じゃない」
 確かにラグランジェ家は嫌いだし、自分に大人げない部分があるのも事実だが、いくら何でも招待されておきながら理由もなく突っかかったりはしない、と心の中で反論する。
「ラグランジェ家ってわけじゃないわ」
 二人の勝手な誤解に黙っていられなくなったのか、前を歩いていたユールベルが、顔だけちらりと振り向けて言った。そして、感情の見えない声で付言する。
「私、親とは一緒に住んでいないから」
 それを聞いたジョシュの表情は途端に険しくなった。
 親と一緒に住んでいないということは、おそらく一人暮らしなのだろう。
 だとしたら——。
 脳裏には資料室でのことが鮮明によみがえった。ジョシュが様子を見に行かなかったら、誰にも気づかれることなくあのままレイモンドに襲われていたかもしれない。そんなことがあったというのに——。
 ジョシュはサイラスの腕を引っ張って歩みを遅らせ、ユールベルから少し距離をとると、今度は彼女に聞こえないよう声をひそめて耳打ちする。
「一人暮らしの家に男を入れるなんて軽率すぎないか?」
「でも僕たち一人ってわけじゃないし」
「男が二人もいたら余計に危険だろう」
「僕たちのことは信用してくれてるんだよ」
 サイラスもひそひそと小声で答える。しかし、ジョシュは納得しなかった。サイラスの言うことは間違っていないと思うが、そういうことではなく、ジョシュとしては危機意識の話をしているのだ。
「簡単に男を信用すると痛い目を見るぞ」
 顔をしかめて舌打ちをして、ジョシュは苦々しく言う。
 しかし、サイラスはその隣でにこにこと微笑んでいた。
「……何だよ」
「ジョシュってばすっかり保護者だね」
「……危なっかしいんだよ、あいつは」
 ジョシュはぶっきらぼうに答えると、前髪を掻き上げて顔を上げた。少し先を歩くユールベルの金髪が、緩やかなウェーブを描いて風に揺れている。そして、そこに結ばれた白い包帯も、同じように軽やかに、そしてどこか頼りなく揺れていた。

 ユールベルが入っていったのは、まだ真新しいマンションだった。建物自体はそれほど大きくないが、落ち着いた上品な造りで、そこはかとなく高級感が漂っている。彼女はエントランスを通り抜け、階段を上ると、突き当たりの扉を重たそうに開いた。
「あれ? 早かったね」
「迎えに行っただけだから」
 中からユールベルに声を掛けたのは、上半身裸で首にタオルを掛けた男だった。鮮やかな金の髪からは水滴が滴っている。どうやら風呂上がりのようだ。彼はユールベルの後ろにいたジョシュとサイラスにちらりと目を向ける。
「その人たち?」
「ええ」
 確認するような短い質問に、ユールベルは中に入りながら肯定の答えを返した。それを聞いた彼は、タオルで前髪を掻き上げ、眩いばかりの笑顔を二人に向ける。
「いらっしゃい、今日はゆっくりしていって」
 そんな歓迎の言葉を口にすると、スタスタと部屋の中へと入っていった。
「……えっと、誰?」
 呆然として固まっていたサイラスは、ようやく口を開き、男の消えていった方を指さしながらユールベルに尋ねた。それはジョシュが聞きたかったことでもある。まさかとは思うが——。
「弟のアンソニーよ」
 ユールベルの素っ気ない答えを聞いて、ジョシュの全身からどっと気が抜けた。そして、自分の先走った勝手な勘違いに、思わず苦笑いを浮かべた。

「お茶を入れてくるから待っていて」
 ユールベルはそう言い残して台所へと消えていった。
 居間のソファにはジョシュとサイラスが並んで座り、ローテーブルを挟んだ向かいにアンソニーが座っている。先ほどは薄暗がりでよくわからなかったが、明るいところであらためて見てみると、身長はジョシュと変わらないくらいだが、その顔にはまだ少し幼さが残っていた。しかし、鮮やかな青の瞳はそれとは不釣り合いに鋭い。ジョシュは何か心を見透かされているようで落ち着かなかった。
 ふと、アンソニーは不敵な笑みを浮かべて言う。
「下心満載で来たのに、弟がいてガッカリってところ?」
「べっ、別にそんな……ここに来ることも知らなかったんだ!」
 ジョシュは顔を真っ赤にして狼狽し、こぶしを握りしめながら反論した。言っていることに嘘はないのに、その必死さのせいで、かえって言い訳くさくなってしまった。困惑ぎみに奥歯を噛みしめてうつむく。そんなジョシュを見て、アンソニーはくすくすと笑い出した。
「わかりやすいね、おにいさん」
「…………」
「冴えなくて頼りない感じだけど、悪い人じゃないみたいだし、僕としてはあえて反対はしないよ。頑張ってみたらいいんじゃない?」
 ——このマセガキ……!
 喉元まで出かかったその言葉を、ジョシュはぐっと飲み込んだ。この無性に反発したくなる感覚は、以前にも何度も味わった覚えがあった。それは、確か仕事のとき——。
「あっ、君、どこか見た感じだと思ったら、サイファさんに似ているんだ。顔もそうだけど、雰囲気も近いものがあるね」
「本当? そうだったら嬉しいんだけど」
 サイラスの言葉に、アンソニーはどこか誇らしげに顔をほころばせる。
 そうか——。
 ジョシュは納得した。人目を引くような端整で華やかな顔立ちに、余裕を見せつけるような態度、相手を軽くいなすような口調。どれも自分の苦手なあの男にそっくりである。だから無意識のうちに反発したくなるのだろう。
 そのとき、台所からユールベルが戻ってきた。紅茶をのせたトレイをローテーブルに置くと、不機嫌にしていたジョシュを見上げて心配そうに尋ねる。
「アンソニーが何か失礼なこと言ったの?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「普通に雑談していただけだよ。ね、おにいさん」
 言葉に詰まったジョシュの代わりに、アンソニーが人なつこい笑顔で答えた。彼がどういうつもりかはわからないが、会話の内容を知られたくなかったジョシュにとっては、そのごまかしはありがたいことだった。
 アンソニーはすっと立ち上がると、腰に手を当てて背筋を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ僕は準備にかかるよ」
「ええ、お願い」
 ユールベルは紅茶を配りながら言った。
「準備?」
 サイラスが口に出したその言葉は、そのままジョシュの疑問でもあった。二人そろって不思議そうな視線を投げかけると、アンソニーは軽くさらりと答える。
「ご馳走を作るんだよ」
「おまえが?」
 今度はジョシュが聞き返した。
「今日おにいさんたちを呼ぼうって言い出したのは、実は姉さんじゃなくて僕なんだよね。姉さんが襲われかけていたところを助けてくれたって聞いたから、そのお礼をしようと思ってさ」
 アンソニーは胸に手を当てて丁寧に答えながら、爽やかな笑顔を見せた。

「いやー、これはなかなか本格的だね」
 出された料理を次々と口に運びながら、サイラスは感嘆の声を上げた。なぜか少し悔しい気持ちはあるが、ジョシュもそれには同意せざるをえなかった。正直、弟が作ると聞いたときは、食べられるものが出てくるのか心配したが、目の前に並んでいる料理は、ちょっとした高級レストランで出てきそうなこじゃれた盛り付けがなされている。そして、料理の正確な名前はわからないが、肉料理もスープもパンも、どれも文句なしに美味しい。
「喜んでもらえて良かった」
 アンソニーはきれいな顔を無邪気にほころばせた。
 その隣で黙々とナイフを動かしているユールベルを、ジョシュはちらりと盗み見る。
 彼女についてはほとんど何も知らない。
 これまで、仕事についての必要最低限のことしか話をしてこなかった。
 気になることはたくさんある。目の包帯のこと、家族のこと、親元を離れている理由、これまでどんな生き方をしてきたのか——今日、ここへ来て初めてその一端に触れられた気がするが、そのことでなおさら知りたいと思う気持ちは大きくなった。だからといって、まだ親しくもない自分が、何の脈絡もなく尋ねることなどできない。
「ねえ、おにいさん。姉さんに見とれてないで、冷めないうちに食べてよ」
「……見とれてなんかない」
 ジョシュは無愛想に答えると、視線を落として再び黙々と食べ始めた。ユールベルがどんな反応をしていたのか気になったが、何かに頭が固定されてしまったかのように、どうしても顔を向けることができなかった。

 皆の食事が終わると、ユールベルはすぐに台所に向かった。コーヒーの豆を挽いているようだ。香ばしい芳醇な香りが、ジョシュたちのいる居間にも漂ってきている。
「姉さん、このところ毎日コーヒー淹れる練習をしてたんだ。不器用だから失敗ばかり続いてたけど、これだけは自分でやるって頑張ってたよ。あ、今はちゃんと美味しく淹れられるようになったから安心して」
 アンソニーの話を聞いて、サイラスはくすっと笑った。
「ユールベル、不器用なんだ」
「魔導は器用にこなすんだけど、少なくとも家事はからきし駄目だね。だから、家のことはだいたい僕がやってるんだ。姉さんと結婚すると大変だと思うよ?」
 アンソニーは意味ありげな視線をジョシュに流しながら言う。
「……何で俺に言うんだよ」
 完全にからかわれているとジョシュは思った。
 それがわかっているのかいないのか、サイラスはさらに話を弾ませる。
「ジョシュはこう見えても結構マメなんだよ。自炊もしてるって」
「へぇ、なら安心だね」
「あのなぁ……!」
 ジョシュは顔を紅潮させてローテーブルに手をついた。そのとき——。 
「コーヒー……」
 人数分のコーヒーを持ってきたユールベルが、ジョシュの背後でぽつりと呟く。
 ジョシュの心臓は飛び跳ねた。
 今日はこんなことばかりである。彼女がどこから話を聞いていたのか気になったが、尋ねては藪蛇になるかもしれないとあえて口をつぐんだ。なぜ自分だけアンソニーの標的にされているのかわからないが、これでは生きた心地がしない。
 気持ちを落ち着けるために、彼女が持ってきたコーヒーを口に運ぶ。
 期待していなかったわけではないが、その美味しさには少しばかり驚いた。随分と良い豆を使っているようだ。挽き立てというのもあるだろう。もちろん、何より彼女の淹れ方が良かったに違いない。
 ジョシュはちらりと彼女に目を向けた。彼女はなぜかサイラスの隣に座り、コーヒーに口をつける彼を、じっと不安そうに覗き込んでいる。
「先生、美味しい?」
「美味しいよ」
 サイラスはにっこりとして答えた。なおもユールベルは食い下がる。
「先生がいつも飲んでいるのと比べてどっちが美味しい?」
「うーん、どっちもそれぞれ美味しいかな」
「そう……」
 その会話を聞いて、ジョシュはピンと来た。おそらくユールベルもサイラスの不味いコーヒーを飲まされたのだろう。だからこれほど必死になって美味しいコーヒーを飲ませようとしていたのだ。
 それにしても——。
 ジョシュは呆れた眼差しをサイラスに送る。
 普通はお世辞でもユールベルの方が美味しいと言うところだろう。というか、実際、ユールベルの方が比べ物にならないくらい美味しい。劣化したインスタントと比較すること自体が失礼である。もっとも、彼はその劣化したインスタントを本気で美味しいと思っているようだが——。彼に悪気がないことはわかっているし、そういうずれたところも憎めないのだが、このときばかりは本気で何とかならないものかと思った。

「姉さん、ちょっと」
 ふとアンソニーはそう言うと、隣のユールベルに手を伸ばし、緩んでいたらしい後頭部の包帯を手際よく結び直した。その様子を眺めながら、サイラスは何気ない調子で尋ねる。
「そういえばずっと包帯しているね。ものもらいか何か?」
「…………」
 ユールベルとアンソニーの動きが止まった。表情は僅かに強張っているように見える。その変化にはさすがのサイラスも気づいたようで、戸惑いを覗かせながら、控えめにおそるおそる尋ねる。
「えっと、もしかして聞いちゃいけなかった?」
「いいの、別に隠しているわけじゃないから」
 ユールベルは小さな声でそう言うと、浅く呼吸をしてから続ける。
「右目、見えなくて……それに、目のまわりにひどい火傷の跡が残ってるの」
 端的な説明だが、その内容は重い。目が見えないだけでも大変なことなのに、顔に火傷の後など、女の子にとってはどれほどつらいことかと、ジョシュは想像するだけでどうしようもなく気持ちが重くなった。掛ける言葉などとても見つからない。
 しかし、サイラスは優しく表情を緩めて口を開く。
「ごめんね、つらいこと言わせちゃって」
「訊いてくれて良かった……」
 ユールベルは下を向き、ぽつりとそんな言葉を落とした。
 それが本心なのかどうか、ジョシュにはわからなかった。そんなことを訊けるわけもない。少しだけ、サイラスの無神経さがうらやましいと思った。

「じゃあ、そういうことでさ、気を取り直して楽しくやろうよ!」
 アンソニーは明るくそう言うと、みんなに話を振って会話を盛り上げていく。会話の中心にいたのは常にアンソニーだった。ユールベルは訊かれたことにぽつりぽつりと答えるだけである。それでも、ジョシュにとっては、これまで研究所で交わしたどの会話よりも意味のあるものだった。

 外がすっかり暗くなったころ、ジョシュとサイラスはそろそろ帰ることにした。
 ユールベルとアンソニーは二人を玄関まで見送る。ユールベルは研究所まで送ると言ってくれたが、それは断った。道はわかっているし迷うことはないだろう。少し歩けば知った場所に出るのだ。
「じゃあまたね、ユールベル」
「今日はありがとう、来てくれて」
 ユールベルは淡々と礼を述べる。
 感情の見えない彼女を眺めながら、ジョシュは今日のことを思い返して少し不安になった。不快な思いをしなかっただろうか、自分たちを呼んだことを後悔していないだろうか、と——。
「姉さん」
 アンソニーはユールベルの背後から声を掛けると、身を屈め、口もとを隠しながら彼女に何かを耳打ちする。その視線はちらりとジョシュに向けられた。あからさまに何らかの含みを持った意味ありげなものである。
 ——まさか!
 ジョシュの頭にカッと血が上った。
「おまえ何を言った?!」
 必死の勢いでアンソニーを追及するものの、彼はにこにこと微笑んだままで何も答えようとはしない。間違いない。アンソニーが言ったのは自分のことなのだ——。慌ててユールベルに振り向くと、みっともないくらいにあたふたと両手を動かしながら言う。
「ユールベル、いま聞いたこと、聞かなかったことにしてくれ!」
 ユールベルは無表情でジョシュを見つめたまま、小さな声でぼそりと言う。
「あしたの献立の話なんだけど……」
「……え?」
 ジョシュは動きを止めたまま、ヒクリと顔を引きつらせた。

 夜の帷が降りた道を、二人は並んで歩く。静かだった。ここに来るときは、付近の住民らしき人々とよく擦れ違ったが、さすがに夜ともなるとチラホラとしか歩いていない。
 サイラスは星空を仰いでにっこりと微笑んだ。
「お姉さん思いのいい弟さんだったね」
「どこが!」
 さんざん彼にからかわれたジョシュは、思わず感情的にそう返したものの、姉思いという部分に関しては同意見だった。ユールベルも彼を頼りにしているようだ。そうでなければ、レイモンドに襲われかけたことなど話したりはしないだろう。
「あいつ、身近に頼れる人間がいたんだな。良かったよ」
「それが自分でなくて、本当は少し残念だったりする?」
 サイラスの冗談めかしたような言葉が、ジョシュの胸にズクリと突き刺さる。
「バカ言うなよ」
 少し歩調を早めながら、ジョシュは平静を装ってはぐらかすように答えた。
 それが彼の精一杯だった。

「あまり変なことを言わないで」
 ユールベルは玄関の鍵をかけながら、背後のアンソニーに少し怒ったようにそう言った。先ほどアンソニーが耳打ちしたことは献立の話などではなかった。咄嗟にユールベルがそう取り繕ったのである。
「姉さん、もしかして先生の方が好きだった?」
「あの人たちは、そういうのじゃない」
「僕はどっちでもいいと思っているよ」
 ユールベルの話を聞いているのかいないのか、アンソニーは軽く笑いながら勝手なことを言う。どこまで本気で言っているのか、ユールベルにはわからなかった。ドアノブに掛けた手にギュッと力を込め、うつむいたまま小さな口を開く。
「アンソニー……私のこと、邪魔なの?」
 その仄暗い声に、アンソニーはハッと息を呑んだ。
「ごめん、そんなつもりじゃなかった」
 低く真面目な声でそう言うと、後ろからユールベルの細い身体を包み込むように抱きしめる。その動作は、まるで壊れ物を扱うかのような優しく慎重なものだった。
「ごめんなさい……」
 ユールベルは涙まじりの掠れた声を落とした。そして、頼りない肩を震わせると、首が折れそうなほどに深くうつむいた。


姉弟

「先生、まだテストの採点、山のように残ってますよ」
 鞄を持って当たり前のように帰ろうとしていたサイラスは、アンジェリカに見咎められると、ギクリと足を止めて振り返り、きまり悪そうに笑いながら頭をかいた。
「ごめん、今日は研究所に行きたい気分なんだよね」
「じゃあ、気分を切り替えてください」
 アンジェリカは冷ややかに言い放った。何かにつけて研究所に逃げ込もうとするサイラスに、彼女は次第に強気な態度を見せるようになっていた。助手としての使命感がそうさせているだろう。それでもサイラスにはあまり効果はなかった。笑顔のまま、のんびりとした口調で、のらりくらりと反論する。
「別に今日中にやらなくちゃいけないものでもないよ」
「でも、あしたはあしたで課題の採点がありますから」
「そうだね、じゃああしたは今日の分まで頑張るよ」
「もう……」
 アンジェリカは口をとがらせて膨れ面を見せた。
 たいてい彼女の方が折れることになる。ジークのように正面きって言い返してくる相手には強いが、サイラスのように微妙に論点をずらしてかわす相手には弱いのだ。もっとも今日の場合は、あまり切羽詰まった状況でないため、しつこく食い下がらなかったというのもあるだろう。
 とりあえず彼女の優しさに感謝しつつ、サイラスはニコニコしながら手を振って、アカデミーの狭く散らかった自室をあとにした。

 特に何かがあったわけでなくても、気分が乗らない日というのはある。
 そういうとき、サイラスはなるべく無理をせず、可能であればそこから離れるようにしている。つまりは気分転換である。その方が効率よく進められると思うのだが、アンジェリカの賛同はなかなか得られなかった。気分転換自体は否定しないが、その気分転換が多すぎると言うのだ。確かにそれはもっともだと納得するものの、あまり反省はしておらず、怒られながらもこうやって逃避を繰り返しているのである。

 日は傾きつつあるが、まだ空は青く、空気も暖かいままだった。
 アカデミーを出たサイラスは、大きく深呼吸をして凝り固まった背筋を伸ばすと、研究所に向かって歩き出した。教師としての仕事や雑務が多いため、日が落ちてから研究所に向かうことが多く、明るいうちにこの道を歩けるのは、今日のように仕事を放り出してきたときくらいである。残してきたアンジェリカには悪いことをしたと思いつつも、この開放感に幸せを感じていた。
「先生!」
 背後から弾んだ声が聞こえて振り返ると、金髪の少年が人なつこい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。その後ろから、小柄な少女もついてきている。
「やあ、アンソニー」
 サイラスは笑顔で応じた。少女の方に見覚えはなかったが、少年がユールベルの弟であることはすぐにわかった。サイラスは人の顔を覚えるのは得意な方ではないが、その人目を引く容姿のせいか、一度会っただけにもかかわらず強く印象に残っていた。
「今から研究所へ行くの?」
「そう、君は学校帰り?」
「そんなところ。ちょっと遠回りして寄り道してたけど」
 身長はサイラスと変わらないくらいだが、屈託なく答える表情は年相応に子供であり、サイラスは少しほっとしていた。ユールベルの家で見たときの彼はやけに大人びていて、時折、ふと深く仄暗い何かをその瞳に覗かせることもあり、何となく気になっていたのだ。
 アンソニーは隣の少女の肩を引き寄せて続ける。
「紹介するよ、こっちは僕の彼女のカナ=ゲインズブール、そしてこちらが魔導科学技術研究所の研究員で、アカデミーの教師も兼務しているサイラス=フェレッティ先生。姉さんがお世話になってるんだ」
「こんにちは」
「初めまして」
 緩いウェーブを描いた茶髪をふわりと弾ませ、カナは膝を折って可愛らしく挨拶をした。見ているだけで幸せが伝わってくるかのような笑顔を見せている。マシュマロのように甘く柔らかい雰囲気の子だとサイラスは思った。
「あのさ……先生、ちょっと時間ある?」
「いいけど、どうしたの?」
 躊躇いがちに尋ねてきたアンソニーを見て、サイラスは不思議そうに尋ね返す。しかし、彼はそれには答えず、隣のカナに申し訳なさそうな顔を見せながら、その顔の前で左手を立てて片眉をひそめた。
「ごめんカナ、今日は先に帰ってくれる?」
「えっ? あ……うん、わかったわ」
 突然のことに、彼女は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにエメラルドの瞳をくりっとさせて素直に頷いた。アンソニーの腕からぴょんと飛び出すと、短いスカートをひらめかせながら振り返り、屈託のない笑顔を見せる。
「じゃあまたあしたね! 先生もさようなら。今度はゆっくりお話したいな」
 会ったばかりのサイラスにも気後れすることなく、彼女は人なつこく挨拶をした。サイラスもつられるように笑顔になって、丁寧に挨拶を返した。

 サイラスとアンソニーは、カナがその先の角を曲がるまで、軽く手を振って見送った。
「可愛い子だね。同級生?」
「そうは見えないってよく言われるけどね」
 アンソニーは肩を竦めた。確かに、サイラスも彼の年齢を知らなければ、二人が同級生とは思わなかっただろう。アンソニーは年齢のわりに背が高く大人びていて、カナは年齢のわりに小柄で幼い顔立ちをしているのだ。並んだ二人はまるで大人と子供のように見えた。
「それで、どうしたの? 何か相談とか?」
「相談っていうか……えっと……もしかして、先生、本当はあまり時間ないの?」
 急かしたつもりはなかったのだが、アンソニーはそう感じたようで、不安そうに小首を傾げてそんなことを尋ねてきた。大人びた外見とは不釣り合いな子供っぽい仕草に、サイラスは思わず笑みを漏らす。
「そんなことないよ。じゃあ、歩きながらゆっくり話そうか」
 アンソニーはほっと安堵の息をついて頷いた。
 サイラスは特に当てもなく、無意識に研究所の方に足を進めた。通り慣れた道をのんびりと歩いていく。頬を掠める暖かい風が心地いい。
「先生って独身だよね?」
 不意に隣のアンソニーが口を切った。思いもしなかった質問に、サイラスは目を見開いて驚いたが、すぐに穏やかな表情に戻って答える。
「そうだよ」
「どうして結婚しないの?」
「相手がいないと出来ないことだからね」
 サイラスは少年時代からずっと勉強と研究に没頭してきた。それ以外の優先順位は低い。こと恋愛や結婚に関しては、ほとんど興味がなかったといっても過言ではない。彼にとっての幸せは魔導の研究だけだった。アカデミーの教師も本当は気が進まなかったのだが、次世代の研究者を育てるのも大切な仕事だとサイファに説得されて、4年だけの約束で仕方なく引き受けたのだった。
「僕はいずれカナと結婚したいと思ってるんだ」
 空を見上げて息を吸い込み、アンソニーはぽつりと言った。その表情は、夢見るようなものではなく、どこか憂いを含んだものだった。何か障壁となることでもあるのだろうか、とサイラスは思ったが、それを尋ねていいものかどうかわからなかった。
「随分と気が早いんだね」
「いろいろ考えないといけないことが多くてさ」
 当たり障りのない探りに、彼は軽く苦笑してごまかすように答えた。
 反射的にサイラスは追及する。
「それって進路のこと? 家のこと?」
「家のことはあまり関係ないよ。僕はラグランジェ家に執着していないしね。もっとも、家を出るには当主の許しがいるけど、サイファさんなら、僕が出ていくと言っても許してくれると思うし」
 淡々と答える彼の端整な横顔は、とても子供とは思えないものだった。
「君もお姉さんみたいにアカデミーに行くの?」
「まだわからないけれど、できれば進学するよりも早く働きたい。アンジェリカが14で働いてるんだから、僕も働けるところがあるんじゃないかと思って。それでさ……サイファさんには相談するつもりだけど、先生も何かいい伝手があったら紹介してくれないかな」
 アンソニーは真剣に言った。もしかしたらこのことを頼むために自分を誘ったのかもしれない、とサイラスは思う。しかし、アカデミー首席卒業のアンジェリカでさえ自分の助手程度の仕事しかしていないことを考えると、たいした学歴を持たない彼が働けるところはほとんどないような気がした。
「勉強するのも悪くないよ?」
 サイラスがやんわりと言うと、彼はふっと小さく笑みを漏らした。
「でも、姉さんだけに働かせるのは申し訳ないからさ」
「君はまだ子供なんだから甘えていいんじゃないかな」
「姉さんが安心して頼れるようなしっかりした人だったら、僕だって遠慮なく甘えていたと思うけどね。実際は、むしろ僕の方が支えないといけないくらいだからさ」
 その口調は普段と変わらないように聞こえたが、瞳には仄暗い陰が潜んでいるように見えた。誰にも甘えられないつらさ、姉を支えねばならない大変さ、というだけではない何かがそこにあるように感じたが、深く立ち入ってはならない気がして、サイラスは「そっか」と軽い相槌だけを打って口を結んだ。

 サイラスもアンソニーも無言のまま足を進めた。
 アカデミーに近いこともあって、若者が多いその道は、適度に活気があり穏やかな喧噪が広がっていた。そんな中、二人の間の空気だけが重く淀んでいた。
 不意にアンソニーは空を仰いだ。
「姉さんさ、子供の頃に両親から酷い仕打ちを受けていたんだ」
 突然の告白に、サイラスはきょとんとした。しかし、納得のできない話ではなかった。彼らが両親と一緒に住んでいない理由、そして、彼女の持っている陰のある雰囲気は、そういう過去が原因だったのだと合点がいった。
「親元を離れているのはそのせいだったんだね」
「そう、今はサイファさんが僕たちの親代わり」
 アンソニーは静かに答えると、斜め下に視線を落として続ける。
「そんな子供時代のせいかな、姉さんは今でもまだ不安定で脆くてさ、他人との接し方もよくわからないみたい。姉さん自身もこのままじゃいけないって頑張ってるんだけど、ときどき無理をして壊れそうになっていて……」
 そこで言葉が途切れた。
 彼はゆっくりと足を止めると、難しい顔でうつむいて息をついた。そして、ズボンのポケットに両手を突っ込み、自分の足元を見つめたままぽつりと言う。
「そんな姉さんを放っておけないんだよね」
 横から吹いた風に、鮮やかな金の髪がさらさらとなびいた。
「強くなれって突き放すのは簡単だけど、人ってそんなにすぐに強くなれるものじゃないでしょう? 多分、姉さん、今はまだ誰か縋れる人がそばにいないとダメなんだ。自分のことを無条件に愛してくれる人が……その実感をくれる人が……」
 彼の表情は次第に険しく曇っていった。
 しかし、急にパッと顔を上げると、おどけるように肩を竦めながら付言する。
「でも姉さんに近づいてくる男ってろくなのがいなくてさ」
 確かに、とサイラスも苦笑する。過去のことは知らないが、研究所に来て早々、レイモンドに目をつけられ酷い目に遭わされていたことを思い出していた。ラグランジェの名のせいで、こういう輩が近づいてくることも多いのだろう。
「だから……今は、僕がその役目を負っているんだ」
 静かに落とされた言葉。
 その意味がよくわからず、サイラスは聞き返すように怪訝な表情を浮かべた。それを目にしたアンソニーは、自分が責められたと勘違いしたのか、自嘲の笑みをその薄い唇にのせる。
「姉さんに頼まれたわけじゃない。僕が姉さんを救いたいって思ったから、僕の意思でそうしてるんだ。いけないことだってわかってる……でも、それで姉さんが少しでも救われるならと思って……」
 彼の言っていることが何となくわかってきた。体は大人と変わらなくても、心はまだ大人になりきれていない。そんな彼が、精一杯に悩み、苦しみ、出した答えだったのだろう。正しいこととはいえないが、彼を責める気にはなれなかった。
「だけど、いつまでもってわけにはいかない。ずっと今のままじゃいけないってことはわかってる。でも、姉さんを一人には出来ないし……見捨てられることをすごく怖れてるから……あっ、別に邪魔だと思ってるわけじゃないよ!」
 アンソニーは慌てて弁明すると、小さく息をつき、再び表情を沈ませて目を伏せた。
「姉さんのことは好きだよ。だからいつかは姉さんも本当に幸せになってほしいし、僕も僕自身の幸せを手に入れたい。あまりカナも裏切りたくないし……って勝手だよね。図々しいよね。無茶苦茶だよね」
「何となくわかるよ」
 サイラスは優しくそう言うと、額を押さえてうつむくアンソニーの頭にそっと手をのせた。その瞬間、何かがプツリと途切れたように、鮮やかな青い瞳にじわりと涙が浮かんだ。
「ごめん、先生……僕も結構まいってたのかな」
 きまり悪そうにはにかみながら、溢れそうになった涙を拭う。通り過ぎる人たちが、ちらちらと不思議そうにこちらの方を窺っていた。子供とはいえない外見で、なおかつ人目を引く容姿のアンソニーが、このような往来で涙を浮かべていては、注目を浴びるのも当然のことだろう。
「今日のことは誰にも言わないでくれる? 姉さんにも、ジョシュにも」
「わかってるよ」
 サイラスは落ち着いた声で答える。もともと頼まれなくても誰にも言うつもりはなかった。わざわざ口外する理由などない。ただ、深い意味はなかったのかもしれないが、アンソニーからジョシュの名前が出たことに少し驚いていた。
「それと、僕はいいけど、姉さんのことだけは……軽蔑しないでほしい……」
 アンソニーは張り詰めた表情で言葉を絞り出す。秘めておかねばならないはずのことを、許可なく勝手に話してしまったことに責任を感じているのだろう。もしかすると後悔しているのかもしれない。だが、サイラスにはそのことで軽蔑するような気持ちは起こらなかった。安心させるようににっこりと微笑んで言う。
「ユールベルのことも、もちろん君のことも、軽蔑なんてしないよ」
「……先生みたいな人が、姉さんを支えてくれるといいんだけど」
 アンソニーはほっとしたように、しかし少し悲しげに、小さく笑みを漏らして呟いた。

 彼には子供でいられる場所が少なかったのかもしれない。本来ならば、まだ親の庇護を受けて甘えている年齢にもかかわらず、逆に姉を支える立場にまわっているのだ。歪みが生じても仕方のない境遇だったといえるだろう。
 だが、それを知ったところで、サイラスにはどうすればいいのかわからなかった。
 どうにかしたいという気持ちがないわけではないが、安易に手をつけていい問題でもないと思う。彼らの事情に踏み込むには相当の覚悟が必要だと感じた。今の自分に出来るせめてものことといえば——。
「ねえ、アンソニー、アイスクリームでも食べに行こうか」
「……アイスクリーム?」
「そう、アイスクリーム。嫌いなら別のものでもいいけど」
 アンソニーは不思議そうな顔をしていたが、やがてふっと表情を緩めた。
「ありがとう、先生」
 少しの間のあと、静かにそう言う。いつもとあまり変わらない口調だったが、そこには精一杯の気持ちがこめられているように感じられた。サイラスは目を細めて柔らかく微笑むと、ほとんど背丈の変わらない彼の背中にぽんと手を置いた。



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