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報告

 研究所の食堂で、ジョシュは今日もBセットを注文した。
 昼食の載ったトレーを受け取ると、ぐるりとあたりを見まわし、混雑の中で空いている席を探す。と、窓際の席で穏やかな光に包まれているユールベルが目についた。彼女の昼休みは遅れることが多く、正規の休憩時間に来ていることはめずらしい。
 さっそく彼女の方へ足を進めようとしたが、そのとき、向かいにサイラスが座っていることに気がついた。一瞬、躊躇するものの、もう以前とは違う。小さく息を吸い込んで、二人のテーブルへと進んでいった。
「サイラス、一緒にいいか?」
「あ、ジョシュ。もちろんだよ」
 サイラスは人当たりのいい笑みを浮かべて、自分の隣を示す。サイラスが一人で食事をしているときに声を掛けることはあるが、ユールベルが一緒の今でも、そのときと何ら変わらない調子で答えてくれた。
 ジョシュが示された席に座ると、向かいのユールベルが少し戸惑ったように目を泳がせた。
「ユールベルとは久しぶりなんじゃない?」
 サイラスは明るく言う。
 ユールベルとは結婚することを決めていて、すでに一緒に暮らしているのだが、まだ研究所のほとんどの人には秘密にしていた。知っているのは所長と副所長くらいだ。といっても、ジョシュが話したわけではなく、サイファの方から話がいったらしい。ユールベルがラグランジェ家を出ることになるので、その報告も兼ねて、早めに話を通しておきたいというのが彼の意向のようだ。時が来れば、所長から他の人にも話が伝わるだろう。
「そうでもないよ」
「そうなの?」
 サイラスは意外そうに軽く聞き返した。ジョシュは無表情のままサラダを口に運んだが、ユールベルはまだ困ったような表情を見せている。二人の様子が気まずそうに見えたのか、サイラスは気を遣って、何気ない調子で別の話題を振ってくれた。
 ぼんやりとその話を聞きながら、ジョシュは考え込んだ。
 ユールベルとのことが皆に知られてしまう前に、サイラスにだけはどうしても自分の口から伝えたい。けれど、なかなかきっかけが掴めず、どうしたものかとここ一週間ほどずっと悩んでいた。もしかしたら、今が絶好の機会なのかもしれない。が、やはり、まわりに大勢の人がいる状況はいただけないだろう。できれば、二人きりのときがいいのだが、そういう機会が度々あるわけもなく——。
「ジョシュ? どうしたのぼーっとして。悩みごと?」
「ん、いや……」
 すっかり手が止まっていたジョシュに、サイラスが気遣わしげに声を掛けてきた。ユールベルも不安そうに顔を曇らせている。もっとも、サイラスと違って、ユールベルにはその理由がわかっているはずだ。
「じゃあ、根を詰めすぎなんじゃない?」
「……かもな」
 ジョシュはスパゲティをフォークで巻き取りながら、曖昧にそう答える。
「もうちょっと気楽にした方がいいよ」
「おまえは気楽すぎるんだよ」
 そう言いながらも、彼の気楽さは正直うらやましいと思っている。サイラスくらいの気楽さがあれば、悩むことなく、簡単に結婚のことを話すことができただろう。だが、性格なのでどうしようもない。気楽にしようと頑張ったところで、気楽にできるものではないのだ。
「そうだね、僕とジョシュを足して2で割ったらちょうど良さそうだね」
 サイラスは楽しそうにそんなことを言う。
 確かに、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。ジョシュがふっと表情を緩めると、ユールベルもほっとしたように小さく息をつく。彼女にも随分と心配を掛けているようだ。彼女を安心させるためにも、早くサイラスに報告しなければ、とジョシュはあらためて思った。

 しかし、結局、この日も何も言えないまま終わろうとしていた。
 ジョシュは欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをすると、ぐったりと机に突っ伏した。仕事で疲れたというのもあるが、サイラスに今日も言えなかったということが、精神的に大きなダメージとなっていた。自分の不甲斐なさにはとことん呆れるしかない。
 もうこのフロアにはもう誰も残っていなかった。
 ユールベルもすでに帰っているだろう。せっかく二人で暮らすようになったのに、平日は帰るのが遅く、なかなか一緒に過ごす時間が持てなかった。だが、帰ったときに「おかえりなさい」と言ってくれる人の存在は、とてもありがたいものだと実感している。その小さな言葉だけで気持ちがあたたかくなれるのだ。
 そんなことを考えていると、急に家が恋しくなった。
 そろそろ切り上げて帰ろうと、机の上に散らばった資料やデータを片付け始める。そのとき——。
「ジョシュ、もう帰るの?」
 ふいに名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのはサイラスだった。残って仕事をしていたのか、それともアカデミー帰りなのかはわからないが、ジョシュのいるフロアに入ってくると、ニコニコしながら歩み寄ってくる。
「ああ、そろそろ帰ろうと思ってる」
 そう答えながらも、ジョシュはチャンスかもしれないと思う。今なら二人きりでまわりに誰もいない。だが、どう切り出していいかわからず、挙動不審にあたふたと目を泳がせてしまう。
 サイラスはジョシュの隣の席に腰を下ろした。
「もしかして悩みごと?」
「えっ?」
「昼間から何かずっと考え込んでたよね」
「…………」
 まさかサイラスが気にしてくれていたとは思わなかった。ジョシュは資料の山に手を置いて下を向く。なぜ悩んでいたのか、何を悩んでいたのか、それを伝えられればすべて解決するのだ。今しかない——意を決すると、ごくりと喉を鳴らし、何の前置きもなくストレートに切り出す。
「俺、結婚するんだ」
「……えっ?」
 サイラスはきょとんとして短く聞き返した。無理もない。本人でさえ信じがたい話なのだから。しかも——。
「相手は、ユールベルだ」
 噛みしめるように言葉を落とす。
 サイラスは絶句したまま、口を半開きにして固まった。
 ジョシュもそれ以上は何も言えなかった。
 長い沈黙と静寂が続く。
 やがて、サイラスがわずかに掠れた声で言葉を絞り出す。
「ユールベルは、何も言ってなかったけど……」
「俺から話したかったから、言わないでくれるよう頼んでおいた。サイファさんにも許可をもらって、今はもうユールベルのあの家で一緒に暮らしてる。弟のアンソニーはサイファさんの家に引っ越したから二人きりだ」
「……そうだったんだ」
 サイラスは独り言のようにつぶやくと、息をつき、それからにっこりと大きな笑顔を作って言う。
「良かったね、おめでとう」
「ああ」
 ジョシュはほっと胸を撫で下ろした。
 けれど、それがサイラスの本心かどうかはわからない。いつからそうなったのか、どうしてそうなったのかなど、何も聞いてこないのが気になっていた。本来の彼なら、無神経なくらい根掘り葉掘り聞いてくるところだ。ただ驚いているだけだろうか。それとも——。
「……なぁ」
「なに?」
「いや、何でもない」
 彼自身が自ら言わないことなら、聞き出さない方がいいと思い直す。
 自分はサイラスから思われているほどお人好しではない。多分、本当は以前から気付いていたのだろう。けれど、彼に対して、遠慮することも思いやることもなかった。自分から伝えたいというのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。そんなことは、ただの自己満足に過ぎないとわかっているのだが——。
「結婚祝いに何か贈るよ」
「そんな無理するなよ」
「……させてよ」
 サイラスはぽつりと短い言葉を落とす。気のせいか、その声にはどことなく寂寥感が滲んでおり、ジョシュは何も返すことができなかった。現実から逃避するかのように、ギィと軋み音を立てて椅子を引き、資料を机の引き出しに片付け始める。フロアにはその小さな音だけが響いていた。
「でも、ジョシュで良かった」
 沈黙を破ったのは、何かを吹っ切ったような声だった。
 振り返ると、彼は普段と変わらない人当たりの良い笑みを浮かべていた。
 今の自分にできることは、彼の思いを裏切らないことだけ。これからもずっとそう思ってもらえるように、ユールベルを幸せにし、そして自分も幸せになる——その決意をあらためて強くする。ひとつ、また新たに責任が増えたが、それは決して嫌なものではない。ジョシュはまっすぐに彼を見つめ、そっと微かに笑みを返した。


利用

「やあ、いらっしゃい。まさか君の方から足を運んでくれるとは思わなかったよ」
「は……」
 正面の執務机でにこやかに笑みを湛えるサイファとは対照的に、ジョシュは血の気の引いた顔をこわばらせながら扉に張り付いていた。脚も少し震えている。
「どうした? 遠慮せずこっちに来たらどうだ?」
「あ、いや……すごい眺めですね……」
 何とか答えたその声は、隠しようもなくうわずっていた。サイファはぱちくりと瞬きをする。
「なんだ、君は高所恐怖症なのか」
「こんな高いところは初めてで……」
 魔導省の塔の高さは尋常ではない。これまでジョシュは高所を怖いと思ったことはなかったが、この塔の最上階へ来て、そこから広がる光景に初めて足のすくむ恐怖を覚えた。しかも、サイファの背後は一面大きなガラス窓になっており、見たくなくとも強制的に目に入ってしまうのだ。
 サイファはすっと立ち上がって隅へ向かうと、そのガラス窓に焦茶色のカーテンを引いた。金の髪をさらりと揺らして振り返り、にっこりと笑みを浮かべて尋ねる。
「これでどうかな?」
「あ、はい……」
 ジョシュは大きく安堵の息をついた。先ほど目に焼き付いた光景が消えるわけではないが、視界から隠れたというだけで、ようやく少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。そんな自分を幾分情けなく思いながらも——。

「ユールベルとのことで何か問題でもあったのか?」
 サイファは、執務机の上でゆったりと手を組みながら、まっすぐにジョシュを見つめて尋ねる。
 ジョシュは相談があるとしか言っていなかったが、あえてサイファに相談となれば、ユールベルに関することと推測されても不思議ではないだろう。そして、それはあながち的外れでもない。
「ユールベルというより、ウチの家族の方なんですけど……」
 なんと説明しようか悩んで口ごもっていると、サイファの方から尋ねてくる。
「君の家族には結婚することを伝えたんだな」
「相手が18歳って言ったら目を丸くして、名前を言ったら卒倒しかけました」
「だろうね」
 サイファは気楽に笑っているが、ジョシュとしては笑いごとでないくらい大変だった。何も知らない深窓の令嬢を騙して自分のものにしたと誤解され、まるで女性の敵を見るような目つきで母親に責め立てられたのだ。騙してなんかいないと何度も力説したが、今でも完全には信じていないのかもしれない。
「それで、反対されたのか?」
「いえ……むしろその逆というか……」
 ジョシュは苦い顔でそう言うと、小さく息をついて続ける。
「相手のご両親に挨拶をって意気込んでるんです。ユールベルはラグランジェ家を出るんだから、ラグランジェ家とは無関係だと説明したんですが、そういう問題じゃない、大切なお嬢さんをいただくんだから挨拶するのは当然だって言い張って」
「まあ、真っ当な感覚だね」
 サイファは呑気にそんなことを言う。
「でも、ユールベルの両親は……」
 ジョシュはそう言いかけて目を伏せた。相手の両親に会わせたがらないことが、余計に母親の不信を煽っているらしく、挨拶しようと意地になっているのはそのせいもあるようだ。それが出来るくらいなら、初めからしている。そして、その事情を説明しようにも、どこまで言っていいのかわからない。だから、二進も三進もいかなくなって、苦手なサイファにこうやって助言を求めに来たのだ。
 サイファはちらりと腕時計に目をやると、すっと立ち上がった。
「よし、今から行くか」
「は?」
 話が飛躍して、ジョシュには何のことだかわからない。しかし、サイファはもうコートを羽織ろうとしていた。
「行くって……どこへ?」
「もちろん君の実家だよ」
「え?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。
「その方が早いだろう?」
 サイファは襟を直しながら事も無げに言う。しかし、ラグランジェ本家の当主がたかが一所員の実家を尋ねるなど、普通に考えたらありえないことだ。ジョシュとしては、ありがたいというより困惑の気持ちの方が大きい。
「仕事はどうするんですか」
「これから定例会議だからちょうど良かったよ。たいして意味のない会議だからね」
「いや、なに言ってるんですか! ちゃんと仕事してください!!」
 いい加減なことを言い出したサイファに、ジョシュは思わずカッとして声を荒げる。根っからの真面目人間であるジョシュには、とても許容できることではない。なにより自分の勤める魔導省の副長官なのだ。きちんと仕事してほしいと思うのは当然だろう。ちなみに、ジョシュは届けを出して早退してきたので、言い返されるような隙はない。
 しかし、サイファは涼しい顔で背を向けると、カーテンに手を掛けて一気に開いた。
 赤く色づいた光が射し込む。
 先ほどとは比べものにならないくらい間近で広がった、その高所の景色に、ジョシュは目を逸らすのも忘れて完全に凍りついた。もうサイファに意見するどころではない。頭の中がグラグラまわっているようで何も考えられなかった。
「さあ、行こうか」
 サイファはそう言ってにっこり微笑むと、倒れそうになるジョシュの肩に力強く手をまわした。

 それから20分ほど車を走らせ、ジョシュの実家の前についた。
 車は魔導省が持っているものらしく、車を運転しているのも職員らしい。完全に公私混同である。しかし、ジョシュが何を言っても彼はニコニコしたまま取り合わない。たまにはいいだろうと受け流すだけである。結局、文句を言いながらも一緒に来てしまったのであるが——。
「そういえば、どうしてウチの実家を知ってるんですか」
「これでもユールベルの親代わりだからね」
 つまり、結婚相手のことは徹底的に調べたということだろう。ジョシュは少しムッとして眉をひそめたが、冷静に考えれば仕方のないことだとも思う。ユールベルもラグランジェ家の人間なのだから、いくらラグランジェ家を出るとはいえ、問題のある相手に嫁がせるわけにはいかないはずだ。
「親に話を通して来るので、少し待っててください」
「ああ、早めに頼むよ」
 サイファはニッコリ笑って、軽く右手を上げる。
 ジョシュは気が重かった。この事態をいったいどう説明すればいいのだろう。軽く溜息をついて玄関に足を向けようとした、そのとき——。
「あら、やっぱり来てたの? 声が聞こえたから、もしかしたらと思ったんだけど……」
 玄関の扉が開き、中からエプロンをつけた母親が出てきた。
 心の準備が出来ていなかったジョシュは、あたふたしながら母親とサイファを交互に見る。が、サイファはにこやかに会釈し、紹介してもいないのに勝手に挨拶を始めた。
「初めまして、私は——」
「ラグランジェ本家当主っ?!!」
 母親は顔を見ただけですぐに誰だか認識したらしく、目を見開いて絹を裂くような声を上げると、後ずさりながらよろけて尻もちをついた。脱げたサンダルが派手に転がる。サイファは自分の足もとで止まったそれを、にこやかな笑顔で拾い上げた。

 その後、サイファを玄関前に待たせ、母親は大慌てで掃除と片付けを始めた。当然のようにジョシュも駆り出される。どうして前もって言わないの?! あんたのせいでとんだ恥をかいたじゃないの! と責められたが、つい数十分前に決まったばかりのことなのでどうしようもない。元凶であるサイファの顔を思い浮かべながら、ジョシュは眉間に皺を寄せた。

「お待たせして申し訳ありません。それに、汚いところで……」
「こちらこそ、突然お邪魔をして申し訳ありません」
 恥じ入るように肩をすくめる母親に、サイファは満面の笑みで受け答えする。それだけで彼女の頬は桜色に染まった。先ほどまでの怒りはどこへ行ったのだと、ジョシュは苦々しい気持ちになる。ローテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばし、平静を取り戻すべく紅茶を口に流し込んだ。
「今日はユールベルさんのことで……?」
「はい、彼女の親代わりとして、お話ししておきたいことがあって参りました」
 親代わりという言葉を聞いて、母親は口もとに手を当て、不思議そうに目をぱちくりさせた。ジョシュはもちろん知っていたが、母親にはまだ伝えていなかった。親代わりがいるという話をすれば、実の両親のことにも触れざるを得ないからだ。
 しかし、サイファには何の躊躇も感じられなかった。
 まっすぐにジョシュの母親を見つめたまま、落ち着いた口調で、ひとつひとつわかりやすく説明を始める。ユールベルの目に負った怪我のこと、両親から虐待を受けていたこと、それゆえ両親とは会わせないようにしていること、両家の顔合わせも容赦してほしいということ——ラグランジェ家としては表に出したくない話もあるはずなのに、どれもジョシュが心配になるくらい正直に語っていく。
 母親がどう反応するのかも心配だったが、彼女はサイファの言うことに理解を示し、おまけにすっかりユールベルの境遇に同情したようで、目に涙を浮かべながら「これからは私が幸せにします」などとわけのわからないことまで言っている。ジョシュは頭を抱えたが、つまりはユールベルを受け入れてくれるということであり、それに関しては言葉にしようもないくらい感謝した。

「あんなことまで言って良かったんですか?」
「君の母上が言いふらさなければ問題ないよ」
 すっかり夜の帷が降りた空を見上げ、サイファは軽く笑いながら答える。その言葉に、ジョシュはそこはかとないプレッシャーを感じ、あとで母親に釘を刺しておかなければと冷や汗を滲ませる。サイファを敵にまわすと恐ろしいということが、今日だけで何となくわかってきたような気がした。
 車を置いた近くの空き地へ、二人は人通りの少ない細道を並んで歩く。
 ジョシュの家には1時間ほど滞在していただろうか。その間、仕事でもないことで、ずっと運転手を待たせてしまったことになる。ジョシュは申し訳なさで胃が痛くなりそうだった。ジョシュのやったことではないが、ジョシュのためであることは間違いない。サイファがここにいることも——。
「あの、今日はありがとうございました」
 そう言うと、サイファは少し驚いたように振り向いた。その鮮やかな青の瞳に捉えられ、ジョシュの心臓はドクリと跳ね上がる。
「あ……でも、わざわざ家にまで来てくれなくても……」
「私が直接説明した方が早いだろう?」
 サイファはにっこりと魅惑的に微笑んで言う。
 悔しいが彼の言うとおりである。自分にはあれほどわかりやすく説明は出来ないし、たとえ同じ説明をしたとしても、おそらく母親は簡単には納得してくれなかったに違いない。ラグランジェ本家当主という立場だからこそ、あの話に説得力を持たせられたのだ。そのことは誰よりも彼自身がいちばんわかっているはずだ。そして、その整った美しい顔が武器になるということも——。
「利用できるものは、何でも利用すればいいんだよ」
「自分には、利用できるものなんて何もありませんから」
 ジョシュは前を向いたまま少しムッとして答える。サイファのことにやたらと腹が立つのは、彼の狡さが許せないだけでなく、多くのものを持つ彼に対する僻みもあるのだろう。そんな自分の卑しさにはとうに気が付いていた。
 サイファはゆっくりと視線を流す。
「ジョシュ、どうして私がここまで来たかわかるか?」
「……ユールベルのため、ですよね?」
 それ以外には考えられなかった。ただ、なぜそんなことを尋ねるのかがわからない。答えを求めるように困惑した眼差しを送ると、サイファは目を細めてくすっと笑った。
「君の場合、無自覚の方がいいのかもしれないな」
「いったい何が言いたいんですか」
 一向に真意が見えない苛立ちが声に滲んだ。しかし、サイファは思わせぶりに微笑むだけで、何も答えようとはしない。彼のそういう人をからかうようなところが嫌いだった。ラグランジェの名や立場を何かにつけ利用するところも嫌いだった。自分なら何でも許されると思ってそうなところも嫌いだった。
 けれど——。
 ユールベルがなぜ彼を頼りにしているのか、そのことに関しては理解できるような気がした。悔しいが、実際に自分はサイファほど彼女のことを守れていない。でも、いつかは彼に頼らなくても済むように、自分の力で彼女を守れるようにならなければ——ジョシュは口をきゅっと引き結んだ。

 横目でその様子を見ていたサイファは、ふっと表情を緩め、微かな夜風を受けながら紺色の空を仰いだ。


陽の当たる場所(最終話)

「あっ……」
 ベランダに足を踏み出したユールベルは、プランターに目を落として小さく声を上げた。如雨露を持ったまま、瞬きも忘れるほどに、じっとそのプランターを見つめる。白いネグリジェが風をはらんでふわりと揺れた。
「どうした?」
 寝室から出てきたジョシュは、立ち尽くすユールベルに気付くと、半開きの窓に手を掛けて顔を覗かせた。それでもユールベルの視線はプランターから離れない。不思議そうに、ジョシュはその視線をたどる。
「あっ!」
 その声には、驚きとともに喜びの色も混じっていた。おかげで、ユールベルにもようやく実感が湧いてくる。
 プランターには、ひとつだけ赤い花が咲いていた。
 それは、ジョシュに頼んで、土作りから種蒔きまでやってもらったものである。最初はユールベルとアンソニーで、数週間前からはユールベルとジョシュで世話をしてきた。本当に花を咲かせるのだろうか、と不安に思いつつも、祈るような気持ちで水をやり続けた。そして——。
「そろそろとは思ってたけど、まさか今日だなんてな」
「ただの、偶然だわ……」
 可愛げのない言葉を返すユールベルを、ジョシュは背後からそっと腕の中に引き入れる。
「じゃあ、すごく幸せな偶然だ」
 あたたかな声が耳を掠める。
 ユールベルは少し体温が上がるのを感じた。何か言おうとするものの、上手く言葉が出てこない。代わりに、自分を閉じ込めるその腕に、おずおずと自分の手を重ね置く。彼の腕に柔らかく力がこもった。

 ベランダから見えるのは、まだ静かな早朝の街。
 昇り始めた太陽が二人を照らす。
 生まれたての赤い花は、優しくそよぐ風に小さく揺れていた。


 家具や調度品の類がほとんど置かれていない、簡素な部屋。
 さほど広くなく、古びているが、隅々まで清掃はされているようだ。
 ユールベルはその部屋の奥で、全身が映せるくらいの鏡と向かい合わせに座っていた。膝にのせた自分の手に、じっと目を落としている。鏡はいまだに苦手でまともに見られない。背後では、緩やかなウェーブを描いた金の髪を、ほっそりとした手がブラシで丁寧に梳かしていた。
「ごめんなさいね」
「えっ……」
 戸惑いの声にも手を止めることなく、レイチェルは言葉を繋ぐ。
「あちらのお母さまは、ドレスのことはわからないそうだから……」
 ユールベルがうつむいたまま少し視線を上げると、そこにはウェディングドレスを着た自身の姿が映っていた。自分にはふさわしくないと感じるほど、清楚で、繊細で、それでいて華やかさもある純白のドレス——これを着せてくれたのがレイチェルである。自分ではしたことのない化粧も施してくれた。そして、次はこの長い髪を整えようとしているようだ。彼女の手に迷いはない。ただ、鏡越しに見た表情は、気のせいかどこか寂しそうに見えた。
「別に、今はもう……」
 ユールベルはうつむき、ぽつりと言う。
 あの頃——自分の欲してやまなかったものを、すべて当たり前のように手に入れ、そして、当たり前のように享受していた彼女が許せなかった。けれど、今は、それが自己中心的な感情だったことを理解している。彼女に対する苦手意識は消えないものの、あのときのような激しい敵意や不快感はない。
「私は……」
 じっと考え込みながら、静かに切り出す。
「今まで、世界が怖くて仕方なかった。まわりのものすべてに怯えていた。だから、他人と関わりたくなかったし、攻撃的になったりもした。でも……、何があっても自分の味方でいてくれるって、そう信じられる人ができたおかげで、少しだけ世界が怖くなくなったの……こんな気持ち、あなたにはわかってもらえないでしょうけど……」
 髪を梳く手がゆっくりと止まった。
「少しは、わかるわ」
 レイチェルは控えめにそう言うと、再びブラシを持つ手を動かし始める。
「私は、一生を掛けてその恩を返していこうって決めたの」
 もしかすると、それはアンジェリカが生まれた頃のことかもしれない。漆黒の瞳を持つ「呪われた子」を生み、一族から白い目を向けられていたことを、ユールベルも何となく覚えている。そして、そんな彼女を救ったのが、サイファということなのだろう。
「私も……ジョシュに返していけたらいいんだけど……」
「その気持ちを、ずっと持ち続けていれば大丈夫よ」
 レイチェルは優しい声で言う。しかし、ユールベルは顔を曇らせた。
「自信がないの」
「えっ?」
「私には愛情を返せる自信がない」
 鏡越しに、レイチェルは蒼い瞳をぱちくりさせ、不思議そうな顔で小首を傾げた。
 ユールベルは頭の中を探りながら言葉を紡いでいく。
「いつも私のことを大切にしてくれて、とても感謝しているけれど、ジョシュを愛しているのかはわからない……愛するということ自体がよくわからないの……彼に愛されているかどうかさえ……」
 心の隅に追いやっていた漠然とした不安。しかし、それを言葉にするにつれ、とんでもなくひどいことだと気付かされる。こんな気持ちで結婚するなど彼に失礼だろう。けれど、ここまできて今さらどうすればいいのか着地点が見つからない。考えているうちに、頭がぐらぐらして少し気持ち悪くなってきた。
「難しく考えることはないんじゃないかしら」
 ユールベルの気持ちを知ってか知らずか、レイチェルはさらりと言う。僅かに眉を寄せて視線を上げると、鏡の向こうで、彼女は慈しむように微笑んでいた。
「おかえり、ただいま、ありがとう——そんなささやかな思いやりと感謝の積み重ねが、愛情になっていくんだと思うわ。これから長い時間を掛けて、あなたたちふたりが、あなたたちだけの愛情の形を作っていくの」
「そんな……こと、で……」
「そんなことだけど、とても大切なことよ」
 にわかには受け入れられなかったが、彼女の言葉を聞いていると、不思議と信じてみたい気持ちになる。実際に、ささやかな感謝と思いやりが、どれほど気持ちをあたたかくしてくれるのかは、ユールベルもすでに十分すぎるくらい実感している。それが愛情と呼べるものかはわからない。けれど、もしも本当にレイチェルとサイファがそれを積み重ねてきて、その結果として今の二人があるのだとすれば——。
 ふわり、と右目の包帯の上に何かが被せられた。
「えっ、なに……?」
「せっかくきれいなドレスを着ているのに、ただの包帯では素っ気ないでしょう?」
 そう言われて、ユールベルは鏡に目を向ける。
 包帯の上に巻かれていたのはレースだった。白い包帯の上に白いレースなので、目立ちはしないが、かえってそのことが上品さを醸し出している。ドレスのレースとも調和していた。
「言うなって口止めされたんだけど……」
 レイチェルはそう前置きをして、静かに続ける。
「実は、ラウルが用意したものなの」
「…………」
 ユールベルは目頭が熱くなるのを感じた。きのう彼に診察してもらったが、そんなことは何も言っていなかった。淡々と診察を終えただけである。結婚式の話題も出なかったし、出さなかった。まさか、気に掛けてくれていたなんて——。
「ありがとう、って伝えて」
「ええ、必ず」
 レイチェルはにこやかにそう答えると、ふんわりと軽やかなウェディングベールを手に取った。

「あの……」
 すっかり支度を終えたジョシュは、パイプ椅子に座るサイファに目を向け、遠慮がちに切り出した。
「すみませんでした。何から何までお世話になって……」
「君に任せていたら二年くらいかかりそうだからな」
「そこまではかかりませんよ」
 少しムッとして言い返すと、サイファはあははと軽く笑う。
 当初、ジョシュたちは結婚式を挙げないつもりだった。しかし、サイファは、式を挙げないのなら結婚を許可しないと言い出し、あっというまに教会から衣装まで手配してしまったのだ。勝手なことを、とジョシュは腹立たしく思ったが、ユールベルの花嫁姿を見たい気持ちもあり、あまり文句も言えないまま流されてしまった。ユールベルも、サイファの言うことでは逆らえず、渋々ではあるが受け入れざるを得なかったようだ。
「ユールベルの保護者として、してやれる最後のことなんだよ」
 サイファは優しく微笑んで言い添える。
 ユールベルは結婚と同時にラグランジェ家を出ることになる。これからはラグランジェとは無関係の人間となり、サイファも表立って彼女を守ることはできなくなるのだ。そして、一度ラグランジェ家を出た人間が、再び戻ることは決してできない。その責任の重さに、ジョシュはあらためて身の引き締まる思いだった。
「小さいけれど、いい教会だろう?」
「はい」
 確かに、普通に結婚式を挙げるには小さすぎるが、伝統のある教会だと聞いている。そう聞いたせいかもしれないが、他の教会よりも厳粛な雰囲気があるように感じられた。建物も長椅子も古びてはいるものの、上質のものを丁寧に使っているためか、かえって風格と格式が増しているようだ。
「私とレイチェルも、ここで結婚式を挙げたんだよ」
「えっ?」
 聞き返した声に、怪訝な色が滲んだ。ラグランジェ本家の人間といえば、お披露目も兼ねて大々的にやるものだと思っていた。なのに、こんなに小さな教会で挙式なんて、いったいどうして——。
「ちょっと、事情があってね」
 サイファはごまかすように言葉を濁したが、微妙な面持ちをしているジョシュを見て付言する。
「いつか、気が向いたら教えてあげるよ」
 別に、何がなんでも聞き出したいわけではなかった。誰にだって、言えないことや言いたくないことくらいあるだろう。ただ、すべてが順風満帆だと思っていたサイファにも、何らかの問題があったらしいことに、少なからぬ驚きを感じただけである。
「ジョシュ」
 サイファは真面目な顔になり、少しあらたまって語りかける。
 ジョシュは緊張してごくりと唾を呑んだ。
「わかっているとは思うが、これはゴールではなく通過点に過ぎないからな。昨日があって今日がある。今日があって明日がある——過去を作るのも、未来を導くのも、現在の自分ということだ」
 その言葉をしっかりと噛みしめ、真剣に頷く。
 これから長く続いていくであろうこの道を、自分自身のためにも、ユールベルのためにも、幸せなものにしなければならない。そのためには、現在という一瞬一瞬を、大切に積み重ねていくことが必要なのだ。
「おにーさんっ」
 弾んだ声とともに扉が開き、スーツ姿のアンソニーがにこやかに顔を覗かせた。
「姉さんの支度が終わったって」
 待ちかねたその言葉に、ジョシュはパッと顔を輝かせる。サイズ調整のために、ユールベルは一度試着したことがあるのだが、ジョシュはそれを見ていなかった。新郎は結婚式の日まで新婦の花嫁姿を見てはならない、というしきたりがあるからだ。ようやく見られると思うと、自然と顔の筋肉が緩んでくる。
「式の最中はあまり締まりのない顔をするなよ」
「わ、わかってますよっ!」
 サイファにからかい半分で忠告され、ジョシュはあたふたと言い返す。しかし、確かに気をつけていなければ緩みっぱなしになりそうで、自分自身でも冗談抜きで少し心配になってきた。


 重厚な両開きの扉が大きく開け放たれていた。
 そこから射し込む白い陽光は、中央の赤い絨毯を鮮やかに照らしている。
 ジョシュとユールベルは、その突き当たりにある祭壇の前に並んで立っていた。二人とも神聖な雰囲気に呑まれ、やや緊張ぎみの表情を見せている。足下にはステンドグラスの光が落ち、純白のドレスの裾を、幻想的な彩りで染め上げていた。
 赤絨毯の両側に並んだ木製の長椅子には、ジョシュの関係者である彼の両親と、ユールベルの関係者であるサイファ、レイチェル、アンソニーが、それぞれ左右に分かれて座っていた。サイファたちはにこやかに見守っているが、ジョシュの両親はどちらも緊張しているようで、必要以上に姿勢を正し、ガチガチにこわばった表情で正面を見つめている。
 神父は誓いの言葉を読み上げ始めた。
「ジョシュ=パーカー、あなたはいまこの女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの限りともに生きることを誓いますか」
「……誓います」
 ジョシュは少し掠れた声で答えた。
 神父はユールベルに視線を移し、読み上げる。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェ、あなたはいま——」
 その言葉を聞きながら、ユールベルは、これまでのことを走馬燈のように脳裏によみがえらせていた。自暴自棄になっていた自分が、ここまで辿り着くことができたのは、ジョシュはもちろんのこと、サイファやラウル、ターニャ、レオナルド、ジーク、アンジェリカ、サイラス、アンソニー、その他たくさんの人たちが見捨てずにいてくれたからだろう。思い返すのも怖いくらい迷惑も掛けた。だからといって、ここで身を引いたところで何にもならない。感謝と謝罪の気持ちを胸に、怖がらず……いや、怖がりつつも、前を向いて進んでいこうと決めたのだから。
「——ことを誓いますか?」
「誓います」
 神父の言葉が終わると、ユールベルは凜とした声で答えた。
「結婚の誓約の印に、指輪の交換をいたします」
 神父が二人の結婚指輪を取り出した。シンプルなプラチナ製の指輪である。教会も衣装もサイファに決められてしまったが、これだけはジョシュとユールベルの二人で選んだものだ。指輪のことなどよくわからなかったが、飽きのこないものにしたいという思いは一致していたので、それほど迷うことなく選ぶことができた。
 神父の導きに従い、指輪の交換を始める。
 だが、二人とも指輪など初めてで、手つきはぎこちなく、なかなか上手くいかなかった。サイファとレイチェルは顔を見合わせてくすっと笑い合い、アンソニーはからかうようにニヤニヤとしているが、ジョシュの両親は心配のためか顔から血の気が引いている。ようやく嵌め終わると、彼らは本人たち以上に大きく安堵の息をついた。
 神父も少しほっとした様子で、次の段取りに移る。
「それでは、誓いの口づけを——」
 ユールベルは少し顔を上げ、ジョシュを見つめてから目を閉じた。
 身を屈めた彼から、触れるだけの優しい口づけが落とされる。
 唇に残る、あたたかい感触——。
 ユールベルは、ゆっくりと睫毛を震わせながら目を開く。
 そして、再び視線を合わせると、互いに幸せそうに微笑み合った。

「おめでとう、ユールベルっ!」
「どうして……?」
 ユールベルたちが教会の外に出ると、ターニャとレオナルドがひょっこり姿を現した。ターニャに結婚するという報告はしたが、家族のみの式だからと、場所や時間までは教えなかったはずだ。もしかして、と背後のアンソニーを振り返ると、彼は悪戯っぽくニッと白い歯を見せた。ユールベルは呆れたように溜息をつく。
「来ないでって言ったのに……」
「あら、たまたま通りがかっただけよ、ね?」
「ま、そんなところだ」
 ターニャとレオナルドは、ニコニコしながら、示し合わせたようにとぼけた言い訳をする。その悪びれない態度と、どこか幸せそうな雰囲気に、ユールベルはすっかり毒気を抜かれた。
「式も見てたの?」
「ええ、こっそりと」
 ターニャはそう言うと、夢見がちに目を輝かせて両手を組み合わせる。
「ユールベルすっごくきれいだし、雰囲気も神聖で厳粛で、それでいてあたたかくて……ひいき目なしに素敵な式だったわ! こういう小さな教会での結婚式って憧れちゃうっ」
「残念だが、そうはいかないぜ」
 レオナルドはニヤリと口の端を上げた。
「ラグランジェ家がこんな貧相な結婚式なんて挙げられるか。思いっきり威厳を見せつけるために、これでもかってくらい豪華で盛大な式にするんだからな」
 言いたい放題な彼に、ターニャはじとりと冷ややかな視線を流す。
「私、あなたと結婚するとは言ってないわよ」
「え? ちょっ、誰だ? 他に誰かいるのかっ?!」
 わたわたするレオナルドに、彼女はツンと背を向ける。しかし、ユールベルには密かにペロッと舌を出して見せた。この二人が付き合うようになってから、一緒にいるところを見たのは初めてだが、思いのほか波長が合うように感じられた。それは、二人をよく知るユールベルにとっても嬉しいことだ。少し考えた後、持っていたブーケをそっとターニャに差し出す。
「えっ?」
「もらって」
 それでもターニャは戸惑っていた。口元に僅かな喜びを覗かせつつ、瞳は困惑したように揺らいでいる。
「……いいの?」
「もらってほしいの、あなたに」
 ユールベルは少しも目をそらすことなく言う。ターニャは恥ずかしそうにはにかんで頷くと、差し出されたブーケをそろりと受け取った。ありがとう、と小さな声で感謝を述べながら、無垢な白い花に目を落とし、頬をほんのりと赤く染める。
「よし! さっそく結婚式場を決めに行くぜ!」
「ちょっ、なにバカなこと言って……きゃっ!!」
 余韻に浸る間もなく、ターニャはレオナルドに無理やり手を引かれ、よろけてこけそうになりながら走り出す。それでもブーケはしっかりと手に持ったまま、それを高々と掲げ、満面の笑みを浮かべて「じゃあ、またね!!」と声を張り上げた。
 その様子を、ジョシュはポカンと眺めていた。
「慌ただしい奴らだな」
「ええ」
 ユールベルは、ターニャたちの消えていった方を見つめながら目を細める。
「二人には幸せになってほしい」
「二人にも、だろ?」
 ジョシュはユールベルの肩にポンと手を置いて言う。
 一瞬、ユールベルはその意味がわからず、きょとんとしてジョシュに振り向いたが、彼の表情を見て言いたいことを理解した。胸にあたたかいものを感じながら、こくりと頷いてみせる。

 やにわに、少し強めの風が吹いた。
 長い髪とウェディングベールが軽やかに舞い上げられる。
 ユールベルは、その風の行き先を追って顔を上げた。
 優しい陽だまりの上には、優しい空色が広がっていた。

 今日まで私を生かしてくれてありがとう。
 これからは、私自身の意志で生きていく——。

 ユールベルは空を仰ぎ見たまま、隣のジョシュの手を握った。
 彼は少しばかり驚いていたが、すぐに優しく握り返した。
 そして、ゆっくりと顔を見合わせ、柔らかく穏やかに微笑み合った。
 まるで、二人を包み込むこの陽だまりのように。


この本の内容は以上です。


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