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終幕

 今日で必ず終わらせる。自分で終幕を下ろすの——。
 ユールベルは鏡を正面から見据えて、その向こうの自分に暗示を掛けるかのごとく、胸の内で決意の言葉を繰り返す。鏡は嫌いだった。そこに映される自分の姿を目にするのが苦痛で、いつもは避けているのだが、今日は挑むようにまっすぐに相対していた。

「今日もおにいさんとデート?」
 ベランダから顔を覗かせたアンソニーが、さらさらと短い金髪をそよがせながら、小さな如雨露を片手にそう尋ねた。如雨露の先からは水滴がしたたっている。ちょうどプランターに水をやっていたところのようだ。
 そのプランターは、ジョシュが作ってくれたものである。
 話し合って決めたわけではないが、平日はユールベル、休日はアンソニーが世話をするようになっていた。何をすればいいのかわからなかったが、ジョシュに言われたように適当に水をやっていたら、本当に若緑色の小さな芽が出てきた。今は、まだ花は咲かせていないものの、青々とした背丈がしっかりと着実に伸びてきている。
「ゆっくりしてきなよ。遅くなってもいいからね」
 彼は軽く笑いながらそんなことを言う。
 ユールベルはムッとして眉をひそめる。そして、口をつぐんだまま、緩いウェーブの金髪をなびかせて足早に部屋をあとにした。

 空は鮮やかに晴れ渡り、眩しいくらいの日差しが地上に降り注ぐ。
 待ち合わせ場所には、すでにジョシュが来ていた。
 ユールベルより早いのはいつものことであり、不思議でもなんでもないが、硬い顔で唇を引き結んでいることが少し気にかかった。何か思い詰めているようにも見える。しかし、ユールベルに気がつくと、ほっと安堵したように表情を緩ませた。
「とりあえず公園へ行くか」
 その声は普段と何ら変わりのないものだった。ユールベルも素直に頷く。それから二人並んで公園に向かうと、小径をゆっくりと散歩したり、木陰でのんびり話をしたりと、あたたかい陽だまりに包まれながら、これまでの休日と同じように穏やかな時間を過ごした。
 日が傾き、帰る時間が近づいた頃——。
 ジョシュがぎこちなく遠慮がちに手を繋いできた。
 ユールベルが顔を上げると、彼は照れたような表情で前を向いていた。夕陽のせいではっきりとはわからないが、頬もほんのり紅く染まっているように見える。その緊張ぎみの横顔に、その手のあたたかさに、ユールベルの胸はキュッと締め付けられる。決意が鈍りそうになるが、これが最後だからと自分に強く言い聞かせた。

「来週も今日と同じ時間でいいか?」
 別れ際、ジョシュは軽く尋ねてきた。
 そう、こうやって次に会う日時を決めることが、二人には当たり前になっていた。途切れることのなかった約束、終わりの見えなかった逢瀬——しかし、それも今日までのこと。ユールベルは口を引き結ぶと、そっと首を横に振る。
「何か予定があるのか?」
「……もう、会わない」
「えっ?」
 単純に声が聞き取れなかったのか、訝しむ様子もなく、ジョシュは少し顔を近づけて聞き返した。ユールベルは小さく息を吸い込み、あらためて心を決めると、今度ははっきりとした口調で言い直す。
「もうあなたと会うのをやめるわ」
 ジョシュの目が大きく見開かれた。
「……な、んで……?」
「今までありがとう」
 ユールベルは抑揚のない言葉を返す。
「理由を教えてくれよ!」
「もう会いたくないから」
「……嘘だ」
 ジョシュは喉の奥から絞り出すように言う。ユールベルはたまらず顔をそむけた。
「お願い……あなたといると苦しいの。これ以上、私のことを苦しめないで」
「……違う。俺と一緒にいるから苦しいんじゃない。俺から逃げようとするから苦しいんだ」
 彼は冷静にそう言いながら、沸き上がる感情を堪えるように、体の横でこぶしをギュッと爪が食い込むほどに握りしめる。それを見て、ユールベルは、まるで自分の心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。
「……そうよ」
 胸を押さえて声を絞り出す。右目に涙が滲み、頭に熱い血が上っていく。
「でもそうするしかないの! あなたもいつか私から離れていく! 今は意地になって無理をしてるだけ。私がどんな人間かもうわかったでしょう? いつも誰かを利用して縋って……弟さえも……。心も体も穢れきっている。誰にも好きになってもらう資格なんてない。だから……」
「勝手に決めつけるなよ!」
 ジョシュは感情的に言い返した。そして呼吸を整えると、涙目のユールベルを正面から見据える。
「俺は、逃げない」
「今はそう思っていても、いつか……」
「どうやったら信じてもらえるんだよ!」
「ジョシュは悪くない。悪いのは私……だから、どうしようもない……ごめんなさい……」
 ユールベルは泣きそうになるのを懸命に堪えようとしていた。唇を強く噛みしめて目を伏せる。けれど、怖いくらいまっすぐな彼の眼差しに、全身が熱を帯び、胸が焼けるように熱くなり——そして、右目から大きなひとしずくが零れ落ちた。
 さらに強く唇を噛み、こぶしを握りしめる。
 それでも、次々と溢れくる涙は止められない。やがて、堰を切ったように大声で泣き崩れた。その場でうずくまって激しく慟哭する。そこが往来の真ん中であることも、研究所の近くであることも、誰かが見ているかもしれないことも、知り合いが通るかもしれないことも、何もかもどうでもよかった。

 時折吹く風が冷たい。
 空はすっかり濃紺色に塗り替えられていた。星もあちらこちらで瞬き始めている。
 二人は、植え込みまわりの煉瓦に、並んで座っていた。
 ユールベルが泣き崩れたあと、ジョシュは何も言わずに、ずっと背中に手を置いて寄り添ってくれていた。ひとしきり泣き疲れるまで泣いて、少し落ち着いてくると、すぐ近くの植え込みの方へそっと促された。それから1時間ほど、ただ黙って膝を抱えるだけである。彼がどう思っているのか不安だったが、それを知るのが怖くて、尋ねることも顔を向けることもできない。
「なあ……」
 不意に落とされた声に、ユールベルの体がビクリと震えた。それでも彼は言葉を繋げる。
「おまえ、あの家を出てさ、俺の家に来ないか?」
「……えっ?」
 ユールベルは大きく目を見開いて振り向いた。
「おまえの家と比べるとだいぶ狭いけど……いや、もう少し広いところに引っ越してもいい。今までと同等というわけにはいかないが、なるべく不自由させないようにするから」
「……私たちって、そういう関係?」
「これからそうなるんじゃ、駄目か?」
 ジョシュは許しを請うように尋ね返す。
 ユールベルは眉を寄せてうつむいた。頭が混乱する。彼の言うことがあまりにも飛躍しすぎて、まともに受け止めることができなかった。家を出るように勧める理由はわかっているつもりだ。だからといって、どうして彼と一緒に住むことになるのかは理解できない。確か、自分は終幕を下ろそうとしていたはずなのに——。
「軽薄な気持ちじゃない。俺は、真剣におまえと……」
「弟を一人にするわけにはいかないわ。未成年だもの」
 ジョシュの言葉を遮って、ユールベルはそう告げた。論点をずらした自覚はあるが、言ったことは嘘ではない。一人にするわけにはいかないし、両親のもとに返すわけにもいかないのだ。家族の関係を説明しなければ納得してもらえないかと思ったが、彼は何も尋ねてこず、ただ苦い表情で唇を引き結んでいた。しばらく考えて、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ、あいつが18になるまで待つ」
「そんな先のこと……」
「俺は、待つよ」
 困惑して口ごもるユールベルに、ジョシュは迷いなく言った。少なくとも現時点では、彼が本気でそう思っているだろうことは、ユールベルにも疑いようもないくらいに伝わってきた。

 しばらくして、ジョシュが自宅まで送ってくれた。
 いつもは近くの交差路で別れるのだが、夜遅くなったからといって、断ったにもかかわらず強引についてきたのだ。おそらく、まだ精神的に不安定なユールベルを心配しているのだろう。扉の前に着いても、ジョシュは手を掴んだまま離そうとしなかった。何か言いたげに目を泳がせている。
「やっぱり今日だけでも俺の家に来ないか?」
「もう大丈夫よ」
 ユールベルは努めて無感情に言う。
「なあ、もしつらくなって、泣きたくなっても……その……」
「わかっているわ」
 それでもジョシュは手を離そうとしない。中にいるアンソニーと二人きりにしたくないのだろう。彼が何を懸念しているのかはわかっていたが、それでも帰らないわけにはいかないのだ。
 握った手に、少し力がこめられた。
「なかなか信じてもらえないけど、俺は、本当におまえのことが好きなんだよ」
 ジョシュは、思いつめたように切々と訴えかけた。
 しばらく苦悶の表情でユールベルを見つめていたが、やがて細い肩に手を置き、様子を窺いながら少しずつ身を屈めていく。
 彼が何をしようとしているかわかった。けれど、拒絶しなかった。
 ユールベルが近づくジョシュの顔をじっと見つめると、彼は少し戸惑いを浮かべたが、それでも逃げることなくそっと触れるだけの口づけを落とした。優しい熱が伝わる。次の瞬間、彼の表情を確かめる間もなく、ユールベルは強い腕で思いきり抱きしめられた。足もとがよろけて、白いワンピースがふわりと舞う。
「何かあったら、何でもいいから俺を頼ってくれ」
 彼の声が耳にかかる。
 唇も、体も、心も、すべてが心地よくあたたかかった。
 こんなことは初めてである。
 今まで誰と一緒にいても、誰に縋ってみても、虚しさや悲しさという負の感情が消えることはなかった。それどころか縋るたびに大きくなっていた。けれど、今はどうしてだか幸福感の方が大きい。終幕を下ろそうとしていたはずなのに、その動機すら見失いそうになっていた。
 もしかしたら、彼なら本当に——?
 信じると断言することはまだできないけれど、気持ちは傾きつつあった。もし、信じることができれば、彼とずっと一緒にいられたら、きっとどれだけ幸せだろうと思う。そんな安易な自分に、幾何かの嫌悪感を覚えながらも——。

「アンソニー?」
 ようやく家に帰ったユールベルは、真っ暗なリビングルームで弟の名を呼んだ。
 しかし返事はない。
 寝室やキッチンなど他のどこからも明かりが漏れておらず、浴室にもいる気配もない。もう寝てしまったのだろうか。何となく嫌な予感がしながらも、手探りで照明のスイッチを入れると、テーブルに紙が一枚置いてあるのが見えた。ユールベルは近づいて目を落とす——瞬間、それを掴み取って凝視し、大きく息を呑んだ。
 紙にはアンソニーの筆跡で、ひとことだけ書かれていた。
 さようなら、と——。


策略

「行くところに心当たりはないのか?」
「わからない……」
 ユールベルは泣きそうになりながら、もういちど紙切れに目を落とす。さようなら——アンソニーが残したのはその一言だけだった。これを見つけたあと、帰りかけていたジョシュを追いかけて助けを求めたが、彼もまた驚いてあたふたするばかりだった。頭を掻きながら必死に思考を巡らせると、何か思いついたのか、パッと顔を上げて人差し指を立てる。
「そうだ、あいつ彼女がいただろう?!」
「同級生でカナって言っていた気がするけど、会ったこともないし、連絡先なんてわからないわ」
 何度かアンソニーと一緒のところを見かけたことはあったが、会いたくなくて避けるようにしてきた。彼女の話も聞きたくなかったし、アンソニーもそれを察してか積極的に話そうとはしなかった。
「学校の先生は?」
「担任が誰かも知らない……学校の場所はわかるけれど……」
 家族でありながら、一緒に住んでいながら、結局はアンソニーのことをたいして知らなかったのかもしれない。ただ利用していただけで、ただ甘えていただけで、彼のために姉らしく何かをしてあげたことなどなかった。考えれば考えるほど、自分がろくでもない人間だと思い知らされて絶望的な気持ちになる。目にじわりと涙が滲んだ。
「愛想を尽かされて当然だわ」
「いや違う、俺のせいだ……」
 ジョシュは視線を落として沈んだ声で言う。しかし、すぐに顔を上げて気合いを入れ直した。
「今はそんなこと言ってる場合じゃない。アンソニーを見つけないと」
 彼の言うとおり、今はアンソニーを捜すことが最優先である。ユールベルは涙を堪えてこくりと頷いた。

 とりあえず手がかりを求めて学校に来てみたが、明かりは見えず、門も閉まっていた。誰かがいそうな気配はない。休日の夜だから、当然といえば当然である。
「誰かひとりくらい先生がいてくれれば良かったんだけど……」
 ジョシュは門にもたれかかりながら、悔しげに言う。
 それを聞いて、ユールベルはハッとした。
「おじさま……」
「えっ?」
「おじさまに聞けばわかるかもしれない。担任の連絡先くらいなら……」
 今でもアンソニーの保護者代理はサイファになっている。学校からの連絡などは彼が受けているはずだ。そう思うと、いてもたってもいられず駆け出した。事情が呑み込めていないジョシュは、よくわからないまま、慌ててユールベルを追って走り出した。

「おじさまって、もしかして……」
 ジョシュは大きな屋敷を仰ぎ見ながら、顔を引きつらせた。
 しかし、ユールベルには彼に構っている余裕などなかった。無言のまま進んでいき、躊躇うことなくチャイムを鳴らす。しばらくすると重量感のある扉が開き、レイチェルが優しく微笑んで二人を迎えた。
「いらっしゃい、ユールベル……それと、あなたは研究所にいた鼻血の……?」
「それはもう忘れてください!」
 ジョシュは顔を真っ赤にして言い返した。レイチェルは口もとに手を添え、くすくす笑っている。このいかにも接点がなさそうな二人に、いったいどういう面識があるのだろうか——ユールベルは少し驚き、そして気になったが、今はそれに気をとられている場合ではない。レイチェルに向き直ると、苦手意識を感じながらも、懸命に彼女の目を見ながら説明を始める。
「私、おじさまにどうしても訊きたいことがあって……」
「ええ、居間にいるわよ。サイファも、アンソニーも」
「……えっ?!」
 ユールベルとジョシュは、同時に目を見開いて声を上げた。

「また負けかぁ。サイファさん手加減なしだもんなぁ」
「手加減で勝ったところで面白くないだろう?」
 チェス盤を挟んで談笑するアンソニーとサイファを眺めながら、ユールベルは唖然とした。紙切れを持つ手に、無意識に力がこもる。と、アンソニーが戸口のユールベルたちに気付いて振り向いた。
「あ、姉さん。おにいさんも一緒なんだ」
 何事もなかったかのように、にこやかに笑顔を振りまく。
 ユールベルの頭の中で何かが切れた。
「どういうことなの?!」
 そう叫ぶと、軽くウェーブを描いた金髪と包帯をなびかせながら、部屋の中に駆け込んで行く。ソファのそばに立って睨み下ろしても、アンソニーは顔色一つ変えず、人なつこい笑みを浮かべて答える。
「僕、ここに住まわせてもらうことにしたんだ」
「どうしてそんな……!!」
 ユールベルは絞り出すように言う。視界が大きく歪んだ。目に滲んだ涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
 サイファはその様子を見て、不思議そうに尋ねる。
「アンソニー、置き手紙をしてきたんじゃなかったのか?」
「置き手紙ってこれのことかよ」
 ジョシュは苛立ちながら、ユールベルの持っていた紙切れを抜き取り、乱暴に開いて前に突き出す。「さようなら」とだけ書いてある紙だ。サイファはソファから身を乗り出してそれを覗き込んだ。
「これはひどいな」
 サイファは軽く苦笑しながらそう言うと、ソファに座り直し、口もとを上げて正面のアンソニーに視線を投げる。彼は小さく肩をすくめて視線を落とし、チェスの駒に指をのせた。
「心配してほしかったんだよ……最後だしね」
 そう言葉を落として薄く微笑む。が、すぐにいつもの表情に戻るとジョシュに振り向いた。
「おにいさん、姉さんのことを頼んでいいよね。僕の代わりにあの部屋で姉さんの面倒を見てやってよ。残してある僕のものは、使うなり捨てるなり好きにしていいから。ベッドもそのままだし……って、おにいさんは嫌かな」
 あははと笑うアンソニーを、ジョシュは苦虫を噛み潰したような顔で見下ろした。その瞳には困惑と怒りが見え隠れする。何かを言いたそうにしているが、口は閉ざしたまま、ただ悔しげに顔を歪めるだけである。
 ユールベルは混乱したまま首を横に振った。
「私、そんなこと頼んでない……私……」
「このままじゃ、誰も幸せになれないのはわかるよね。いつかは終わらせなきゃいけないことなんだ。だったら、今が一番いいんじゃないかなって。おにいさんの覚悟も聞かせてもらったしね。姉さんの過去をすべて話したけど、それでもずっとそばで支えて守っていくって。絶対に逃げたりしないって。他にもいろいろと話し合って、おにいさんなら信用できると思ったんだ。だから、姉さんは安心して頼ればいいんだよ」
 アンソニーは落ち着いた口調で、優しく言い聞かせるように言う。その様子を、サイファはゆったりとソファに座ったまま見守っていた。おそらくアンソニーからすべての話を聞いているのだろう。そのうえで、ここに住まわせてほしいと頼まれたから、了承せざるを得なかったのかもしれない。
「私は、何も知らなかった」
 ユールベルは肩を震わせながら嗚咽し、顔を両手で覆った。溢れた涙が手のひらを濡らす。ジョシュは何も言わず、そっとユールベルの肩を抱いた。
「姉さん、幸せになってよ。僕も幸せになるからさ」
 アンソニーは目を細めて言った。
 それでも、ユールベルはどうすればいいかわからず、頭が混乱したまま、ただ体を震わせてすすり泣き続けた。アンソニーの言うことは理解できるが、思考と感情が追いつかなかった。夢なのか現実なのかもわからなくなってくる。肩に置かれた手のあたたかさだけが、辛うじて自分を現実に引き留めているようだった。
「話が違うとあとで言われるのも何だから、あらかじめ言っておくが」
 サイファは不意にそう切り出して、視線を流す。鮮やかな青の瞳がジョシュを捉えた。
「ジョシュ、君をラグランジェ家に迎えることはできない」
 ビクリ、と彼の体が小さく震える。
「俺は、別にそんなこと……」
「つまり、ユールベルとは結婚できないということだ」
「…………」
 ユールベルの肩に置かれた彼の手に力が入った。
 サイファは膝の上で手を組み、淡々とした表情で話を続ける。
「君が気に入らないから言っているわけではないんだよ。ラグランジェ家に迎えるには一定の基準があってね。君には魔導力が不足している。最低限、アカデミー魔導全科に入学できるくらいの力はないといけない」
 基準の話はユールベルも聞いたことがある。ラグランジェ家の人間は一族間でしか結婚が許されていなかったが、一年ほど前、基準さえ満たせば外部の人間であっても受け入れることにした——という話だ。溢れた涙を拭ってそっと顔を上げる。隣のジョシュは、思い詰めたように必死な表情を見せていた。
「俺は……一緒にいられるだけで……」
「君はいいかもしれないが、ユールベルにとってはそれで幸せかな?」
 サイファはちらりと厳しい視線を流す。
「それ、は……」
 ジョシュは苦しげに言葉を詰まらせた。ユールベルの肩から手を滑り落とすと、体の横で壊れそうなほど強く握りしめる。こぶしは小刻みに震えていた。奥歯を強く噛みしめた表情にも、悔しさとやりきれなさが滲んでいる。
「ラグランジェ家としても困るんだよ」
 サイファは容赦なく畳みかける。
「同棲などという外聞の良くないことは避けてもらいたい。ラグランジェ家の品位を下げることに繋がりかねないからな。それに、ユールベルに勝手なことをされては、ラグランジェ家の若い者にも示しがつかないだろう?」
「私、出ます……」
 ユールベルは体の奥底から震える声を絞り出す。
「私、ラグランジェ家を出ます。ラグランジェの名前を捨てます!」
 涙の乾かないまま、まっすぐサイファに向かってそう叫んだ。隣では、ジョシュが目を丸くして、ポカンと口を開けている。けれど、ユールベルには自分の言ったことの意味くらいわかっていた。
「ユールベル、それでいいの?」
 サイファは優しく問いかける。
 ユールベルは硬い表情でこくりと頷いた。
「ラグランジェの名前さえなければ問題はすべて片付くもの。それに、私、以前からいつかラグランジェ家を出たいと思っていた……そのためには正当な理由がいるって聞いていたけれど、これなら認めてもらえるんでしょう?」
「ジョシュと結婚する、というのならね」
 そう言われ、とっさに言葉が出てこなかった。ユールベルとしては、一緒に暮らすことを考えていたのだが、結婚でないと正当な理由にならないのだろうか。
 サイファは感情のない声を重ねる。
「ラグランジェ家を出るために、彼を利用しているだけなのか?」
「違うわ! 好きだから……好きだから、一緒にいたいの……」
 ユールベルは、慎重に、噛みしめるように言葉を紡ぐ。そして、表情を引き締めてサイファを見据えた。
「彼と、結婚するわ」
 ジョシュは驚いて大きく目を見張った。しかし、すぐにそれは嬉しそうな表情に変わる。その屈託のなさに、ユールベルの胸は小さく疼いた。彼が好きだというのは嘘ではない。好きだからこそ、怖くなって逃げだそうとした。終わらせようとした。そんな自分が、今さらこんなことを言う資格はあるのだろうか。あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか——。
「ラウルのことは吹っ切れたのか?」
「……大丈夫よ」
 その名を聞かされて、一瞬ドキリとしたが、すぐに気持ちを落ち着けて答える。強く断言するだけの自信はなかったが、ジョシュがいてくれるなら、おそらくもう心を乱されることはないだろうと思えるようになっていた。
「随分と簡単だね」
 サイファは無表情で言う。けれど、ユールベルは引かなかった。
「簡単じゃなかったこと、おじさまなら知っているはずです。いくら縋っても私を見てくれなくて、拒絶されて、それでもずっと諦めきれなかった。そんな私の気持ちを融かしてくれたのがジョシュだったの。逃げ込める場所じゃなくて、一緒に過ごす時間が欲しいと思えるようになったの。一緒に生きていくのなら、私はジョシュがいい」
 半ばむきになって、懸命に訴えかける。
 サイファはふっと笑った。
「ユールベル、君の気持ちはわかった。だが、ラグランジェの名を捨てるとどうなるか、君は正しく理解しているのかな?」
「……特別扱いされなくなる?」
 ユールベルは少し考えて答えた。
 ラグランジェというだけで、多少の無理が通ることは知っている。研究所でもそれは実感していた。新人のユールベルが特別研究チームに配属されたのが、何よりの証左である。
「そう、それも影響のひとつだ」
 サイファはゆっくりと肯定した。そして、一呼吸おいて続ける。
「加えて言うならば、私も表立って君を助けることができなくなる。もうラグランジェ家の人間ではなくなるのだから……わかるね?」
「俺が守ります」
 ユールベルが口を開くより先に、ジョシュが一歩前に踏み出してそう言った。強い意志の漲る眼差しを、まっすぐサイファに送る。サイファも鮮やかな青の瞳でジョシュを見つめ返す。二人とも目を逸らそうとしなかった。ジョシュの頬に幾筋かの汗が伝う。と、サイファがフッとおかしそうに小さく笑った。
「ジョシュでは些か頼りない気がするな」
「そんなこと……は……」
 ジョシュの声は次第に弱々しくなり、やがて唇を噛んでうつむいた。そんな彼を見ながら、サイファは涼しい顔でソファの背もたれに身を預けている。いったい彼が何を考えているのか、ユールベルにはわからなかった。
「わ、たし……」
 息が詰まりそうになりながら、震える声で切り出す。みんなの視線が一斉に向けられた。少し怯みつつも、逃げることなく、静かな口調で噛みしめるように述べていく。
「私、誰かに守られなくても生きていけるくらい強くなりたい。そうなれるように努力するつもりでいるわ。でも……」
 そこでいったん言葉を切ると、小さく息を吸い、顔を上げてサイファを見据える。
「いざというときは、ジョシュが守ってくれると信じているから」
 彼は決して頼りなくなんかない。
 あのときだって、誰よりも必死にレイモンドから守ってくれたのだから——。

「なんか……いきなりこんなことになるなんてな……」
 ジョシュは困惑を露わにしながら、濃紺色の空を仰ぎ見た。無数の星のきらめきが二人を照らす。空気はだいぶ冷え込んでおり、緩やかに頬を掠めるたび、火照ったそこから熱を奪っていった。
「きっと、アンソニーとおじさまの策略だったのね」
「ったく、勝手なことを……」
 今にして思えば、サイファの厳しい言葉もこの結果を誘導していたとしか考えられない。けれど、それは自分たち二人のことを慮ってのことだろう。ユールベルはそっと隣に視線を向ける。まだ眉を寄せているジョシュの表情に、少し不安が湧き上がってきた。
「後悔しているの?」
「いや、後悔はしていない。……ユールベルは?」
「後悔していないわ」
 二人は顔を見合わせて小さく笑った。
 ジョシュは包み込むようにユールベルの手を握る。今朝のぎこちなさはもう消えてきた。ユールベルも、今朝は彼と離れることしか考えていなかったのに——。流されてしまった気がしないでもないが、後悔はしていないし、気持ちがすっと軽くなったように感じていた。彼の手のあたたかさに応えるように、そっと力をこめて握り返した。


患者

 コンコン——。
 ユールベルは息を吸い込んで決意を固めると、立て付けの悪い扉をノックした。
「入れ」
 すぐに、中から短い返事が聞こえた。相変わらず愛想のかけらもない声である。しかし、それさえも懐かしく感じてしまうくらい、長い間、ここを訪れていなかった。ユールベルはもう一度、深呼吸すると、ゆっくりと扉を引き開いた。
 机に向かい本を読んでいたラウルは、ページを繰る手を止め、椅子を回して訪問者の方に体を向ける。そして、ユールベルの姿を認識すると、無表情のまま僅かに眉を寄せた。
「座れ」
 そう言って、顎で丸椅子を指し示す。
 ユールベルは引き戸を閉じて、素直に彼の前の椅子に座った。ギシ、と小さな軋み音が響く。
「おまえほど言うことを聞かない患者もいない」
「うそつき。私以外に患者なんていないくせに」
 溜息まじりで落とされた言葉に、間髪入れずそう言い返したが、ラウルは何の反応も示さなかった。いつものように、無言でユールベルの頭を引き寄せると、抱え込むようにして後頭部の包帯の結び目をほどこうとする。が、いつになく手こずっているようだ。
「下手だな」
「えっ?」
「この包帯の結び方だ」
 それまではユールベル自身やアンソニーが結んでいたが、最近ではジョシュが結んでいる。決して下手ということはないだろう。ただ、固く結んでほしいというお願いをきいてくれているだけだ。反論したい気持ちはあったが、今はあえて口をつぐんだ。
 広い胸に両手を置いたまま、あたたかさと鼓動を感じながら目を閉じる。
 ラウルはしばらく結び目と格闘して、何とかほどくと、大きく手を回しながら包帯を巻き取っていく。覆われていた部分が露わになり、外気に触れてひやりとした。すぐに彼はユールベルの肩を押して体を離すと、手を洗って戸棚から薬と包帯を取り出し、左目とそのまわりを順に診察する。
「目のまわりが少しかぶれている。これ以上ひどくなりたくないなら、こまめに医者に診せろ。私でなくても構わん」
 そう言うと、手早く薬を塗り、新品の包帯を巻き付けていく。そして、再び頭を引き寄せようとするが、ユールベルはラウルの胸を押し返してそれを拒んだ。怪訝な眼差しを送るラウルに、何も答えないまま、丸椅子をゆっくり回して背中を向ける。ラウルも何も言わず、その後頭部に手を伸ばして包帯を結び始めた。
「私、これからもラウルに診てもらうわ」
「だったら真面目に通ってこい」
「ええ、そうするつもり……」
 ユールベルは緊張を緩めるように小さく呼吸をして、言葉を継ぐ。
「私、もうすぐ結婚するの」
 包帯を結ぶラウルの手が止まった。しばらく無言で固まったあと、再び手を動かし始める。
「本当なのか?」
「信じられない?」
 ユールベルは思わず挑発的な口調で言い返した。しかし、わかっているのかいないのか、ラウルはますます神経を逆なでするようなことを言う。
「当てつけか? それとも自棄か?」
「ひどい自惚れね」
 ユールベルは呆れかえった。包帯を結び終わってラウルの手が離れると、くるりと椅子を回す。緩やかなウェーブを描いた金色の髪とともに、後頭部で真新しい包帯がふわりと揺れ、再びラウルに真正面から相対した。濃色の瞳を睨みつけて言う。
「おめでとうくらい言えないの?」
「めでたいかどうかわからん」
 ラウルは素っ気なく答え、包帯の残りと薬を片付け始める。
「……相手は誰だ」
「あなたは知らないと思うけど、私と同じ研究所で働いている人よ。その人はラグランジェ家の人間ではないから、私もラグランジェ家を出ることになったの。おじさまにも許可をもらったわ」
 ユールベルは淡々と説明した。そして、相槌すら打たない無表情な横顔を見据えて話を続ける。
「私、ようやく見つけたの。逃げ込める場所じゃなくて、縋りたい人じゃなくて、一緒に生きていこうと思える人。なぜだかわからないけど、彼と一緒にいると、虚しい気持ちにならずに、穏やかな気持ちでいられるから」
「そうか……」
 ラウルはその一言だけ落とすと、机に向かった。
 ユールベルは目を細めて広い背中を見つめた。そして、音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると、その背中に小さくお辞儀をし、まっすぐ出入り口に歩を進めて扉に手を掛けた。そのとき——。
「ユールベル」
 不意に名前を呼ばれて振り返る。しかし、彼は机に向かったまま、こちらに目を向けようともしなかった。どういうつもりなのかと怪訝に眉をひそめる。長い沈黙が続いたあと、小さくラウルの口が開いた。
「幸せになれ」
 瞬間、ユールベルの右目から涙が溢れそうになった。すんでのところでそれを堪えると、もう一度小さくお辞儀をし、うつむいたまま医務室を出て扉を閉めた。そして、早足でそこから離れると、胸に手を当てて深呼吸しながら顔を上げる。

 ありがとう。
 これまで拒絶し続けてくれて。
 多分、あなたは優しかった——。

 今度こそ本当に大丈夫だと、ただの患者になれると、ようやく心からそう思えた。ゆっくりと階段を下りて外に出ると、目映いばかりの鮮やかな青空を仰ぎ、白いワンピースをひらめかせながら王宮をあとにする。その足取りは、今までにないくらい軽かった。


報告

 研究所の食堂で、ジョシュは今日もBセットを注文した。
 昼食の載ったトレーを受け取ると、ぐるりとあたりを見まわし、混雑の中で空いている席を探す。と、窓際の席で穏やかな光に包まれているユールベルが目についた。彼女の昼休みは遅れることが多く、正規の休憩時間に来ていることはめずらしい。
 さっそく彼女の方へ足を進めようとしたが、そのとき、向かいにサイラスが座っていることに気がついた。一瞬、躊躇するものの、もう以前とは違う。小さく息を吸い込んで、二人のテーブルへと進んでいった。
「サイラス、一緒にいいか?」
「あ、ジョシュ。もちろんだよ」
 サイラスは人当たりのいい笑みを浮かべて、自分の隣を示す。サイラスが一人で食事をしているときに声を掛けることはあるが、ユールベルが一緒の今でも、そのときと何ら変わらない調子で答えてくれた。
 ジョシュが示された席に座ると、向かいのユールベルが少し戸惑ったように目を泳がせた。
「ユールベルとは久しぶりなんじゃない?」
 サイラスは明るく言う。
 ユールベルとは結婚することを決めていて、すでに一緒に暮らしているのだが、まだ研究所のほとんどの人には秘密にしていた。知っているのは所長と副所長くらいだ。といっても、ジョシュが話したわけではなく、サイファの方から話がいったらしい。ユールベルがラグランジェ家を出ることになるので、その報告も兼ねて、早めに話を通しておきたいというのが彼の意向のようだ。時が来れば、所長から他の人にも話が伝わるだろう。
「そうでもないよ」
「そうなの?」
 サイラスは意外そうに軽く聞き返した。ジョシュは無表情のままサラダを口に運んだが、ユールベルはまだ困ったような表情を見せている。二人の様子が気まずそうに見えたのか、サイラスは気を遣って、何気ない調子で別の話題を振ってくれた。
 ぼんやりとその話を聞きながら、ジョシュは考え込んだ。
 ユールベルとのことが皆に知られてしまう前に、サイラスにだけはどうしても自分の口から伝えたい。けれど、なかなかきっかけが掴めず、どうしたものかとここ一週間ほどずっと悩んでいた。もしかしたら、今が絶好の機会なのかもしれない。が、やはり、まわりに大勢の人がいる状況はいただけないだろう。できれば、二人きりのときがいいのだが、そういう機会が度々あるわけもなく——。
「ジョシュ? どうしたのぼーっとして。悩みごと?」
「ん、いや……」
 すっかり手が止まっていたジョシュに、サイラスが気遣わしげに声を掛けてきた。ユールベルも不安そうに顔を曇らせている。もっとも、サイラスと違って、ユールベルにはその理由がわかっているはずだ。
「じゃあ、根を詰めすぎなんじゃない?」
「……かもな」
 ジョシュはスパゲティをフォークで巻き取りながら、曖昧にそう答える。
「もうちょっと気楽にした方がいいよ」
「おまえは気楽すぎるんだよ」
 そう言いながらも、彼の気楽さは正直うらやましいと思っている。サイラスくらいの気楽さがあれば、悩むことなく、簡単に結婚のことを話すことができただろう。だが、性格なのでどうしようもない。気楽にしようと頑張ったところで、気楽にできるものではないのだ。
「そうだね、僕とジョシュを足して2で割ったらちょうど良さそうだね」
 サイラスは楽しそうにそんなことを言う。
 確かに、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。ジョシュがふっと表情を緩めると、ユールベルもほっとしたように小さく息をつく。彼女にも随分と心配を掛けているようだ。彼女を安心させるためにも、早くサイラスに報告しなければ、とジョシュはあらためて思った。

 しかし、結局、この日も何も言えないまま終わろうとしていた。
 ジョシュは欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをすると、ぐったりと机に突っ伏した。仕事で疲れたというのもあるが、サイラスに今日も言えなかったということが、精神的に大きなダメージとなっていた。自分の不甲斐なさにはとことん呆れるしかない。
 もうこのフロアにはもう誰も残っていなかった。
 ユールベルもすでに帰っているだろう。せっかく二人で暮らすようになったのに、平日は帰るのが遅く、なかなか一緒に過ごす時間が持てなかった。だが、帰ったときに「おかえりなさい」と言ってくれる人の存在は、とてもありがたいものだと実感している。その小さな言葉だけで気持ちがあたたかくなれるのだ。
 そんなことを考えていると、急に家が恋しくなった。
 そろそろ切り上げて帰ろうと、机の上に散らばった資料やデータを片付け始める。そのとき——。
「ジョシュ、もう帰るの?」
 ふいに名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのはサイラスだった。残って仕事をしていたのか、それともアカデミー帰りなのかはわからないが、ジョシュのいるフロアに入ってくると、ニコニコしながら歩み寄ってくる。
「ああ、そろそろ帰ろうと思ってる」
 そう答えながらも、ジョシュはチャンスかもしれないと思う。今なら二人きりでまわりに誰もいない。だが、どう切り出していいかわからず、挙動不審にあたふたと目を泳がせてしまう。
 サイラスはジョシュの隣の席に腰を下ろした。
「もしかして悩みごと?」
「えっ?」
「昼間から何かずっと考え込んでたよね」
「…………」
 まさかサイラスが気にしてくれていたとは思わなかった。ジョシュは資料の山に手を置いて下を向く。なぜ悩んでいたのか、何を悩んでいたのか、それを伝えられればすべて解決するのだ。今しかない——意を決すると、ごくりと喉を鳴らし、何の前置きもなくストレートに切り出す。
「俺、結婚するんだ」
「……えっ?」
 サイラスはきょとんとして短く聞き返した。無理もない。本人でさえ信じがたい話なのだから。しかも——。
「相手は、ユールベルだ」
 噛みしめるように言葉を落とす。
 サイラスは絶句したまま、口を半開きにして固まった。
 ジョシュもそれ以上は何も言えなかった。
 長い沈黙と静寂が続く。
 やがて、サイラスがわずかに掠れた声で言葉を絞り出す。
「ユールベルは、何も言ってなかったけど……」
「俺から話したかったから、言わないでくれるよう頼んでおいた。サイファさんにも許可をもらって、今はもうユールベルのあの家で一緒に暮らしてる。弟のアンソニーはサイファさんの家に引っ越したから二人きりだ」
「……そうだったんだ」
 サイラスは独り言のようにつぶやくと、息をつき、それからにっこりと大きな笑顔を作って言う。
「良かったね、おめでとう」
「ああ」
 ジョシュはほっと胸を撫で下ろした。
 けれど、それがサイラスの本心かどうかはわからない。いつからそうなったのか、どうしてそうなったのかなど、何も聞いてこないのが気になっていた。本来の彼なら、無神経なくらい根掘り葉掘り聞いてくるところだ。ただ驚いているだけだろうか。それとも——。
「……なぁ」
「なに?」
「いや、何でもない」
 彼自身が自ら言わないことなら、聞き出さない方がいいと思い直す。
 自分はサイラスから思われているほどお人好しではない。多分、本当は以前から気付いていたのだろう。けれど、彼に対して、遠慮することも思いやることもなかった。自分から伝えたいというのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。そんなことは、ただの自己満足に過ぎないとわかっているのだが——。
「結婚祝いに何か贈るよ」
「そんな無理するなよ」
「……させてよ」
 サイラスはぽつりと短い言葉を落とす。気のせいか、その声にはどことなく寂寥感が滲んでおり、ジョシュは何も返すことができなかった。現実から逃避するかのように、ギィと軋み音を立てて椅子を引き、資料を机の引き出しに片付け始める。フロアにはその小さな音だけが響いていた。
「でも、ジョシュで良かった」
 沈黙を破ったのは、何かを吹っ切ったような声だった。
 振り返ると、彼は普段と変わらない人当たりの良い笑みを浮かべていた。
 今の自分にできることは、彼の思いを裏切らないことだけ。これからもずっとそう思ってもらえるように、ユールベルを幸せにし、そして自分も幸せになる——その決意をあらためて強くする。ひとつ、また新たに責任が増えたが、それは決して嫌なものではない。ジョシュはまっすぐに彼を見つめ、そっと微かに笑みを返した。


利用

「やあ、いらっしゃい。まさか君の方から足を運んでくれるとは思わなかったよ」
「は……」
 正面の執務机でにこやかに笑みを湛えるサイファとは対照的に、ジョシュは血の気の引いた顔をこわばらせながら扉に張り付いていた。脚も少し震えている。
「どうした? 遠慮せずこっちに来たらどうだ?」
「あ、いや……すごい眺めですね……」
 何とか答えたその声は、隠しようもなくうわずっていた。サイファはぱちくりと瞬きをする。
「なんだ、君は高所恐怖症なのか」
「こんな高いところは初めてで……」
 魔導省の塔の高さは尋常ではない。これまでジョシュは高所を怖いと思ったことはなかったが、この塔の最上階へ来て、そこから広がる光景に初めて足のすくむ恐怖を覚えた。しかも、サイファの背後は一面大きなガラス窓になっており、見たくなくとも強制的に目に入ってしまうのだ。
 サイファはすっと立ち上がって隅へ向かうと、そのガラス窓に焦茶色のカーテンを引いた。金の髪をさらりと揺らして振り返り、にっこりと笑みを浮かべて尋ねる。
「これでどうかな?」
「あ、はい……」
 ジョシュは大きく安堵の息をついた。先ほど目に焼き付いた光景が消えるわけではないが、視界から隠れたというだけで、ようやく少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。そんな自分を幾分情けなく思いながらも——。

「ユールベルとのことで何か問題でもあったのか?」
 サイファは、執務机の上でゆったりと手を組みながら、まっすぐにジョシュを見つめて尋ねる。
 ジョシュは相談があるとしか言っていなかったが、あえてサイファに相談となれば、ユールベルに関することと推測されても不思議ではないだろう。そして、それはあながち的外れでもない。
「ユールベルというより、ウチの家族の方なんですけど……」
 なんと説明しようか悩んで口ごもっていると、サイファの方から尋ねてくる。
「君の家族には結婚することを伝えたんだな」
「相手が18歳って言ったら目を丸くして、名前を言ったら卒倒しかけました」
「だろうね」
 サイファは気楽に笑っているが、ジョシュとしては笑いごとでないくらい大変だった。何も知らない深窓の令嬢を騙して自分のものにしたと誤解され、まるで女性の敵を見るような目つきで母親に責め立てられたのだ。騙してなんかいないと何度も力説したが、今でも完全には信じていないのかもしれない。
「それで、反対されたのか?」
「いえ……むしろその逆というか……」
 ジョシュは苦い顔でそう言うと、小さく息をついて続ける。
「相手のご両親に挨拶をって意気込んでるんです。ユールベルはラグランジェ家を出るんだから、ラグランジェ家とは無関係だと説明したんですが、そういう問題じゃない、大切なお嬢さんをいただくんだから挨拶するのは当然だって言い張って」
「まあ、真っ当な感覚だね」
 サイファは呑気にそんなことを言う。
「でも、ユールベルの両親は……」
 ジョシュはそう言いかけて目を伏せた。相手の両親に会わせたがらないことが、余計に母親の不信を煽っているらしく、挨拶しようと意地になっているのはそのせいもあるようだ。それが出来るくらいなら、初めからしている。そして、その事情を説明しようにも、どこまで言っていいのかわからない。だから、二進も三進もいかなくなって、苦手なサイファにこうやって助言を求めに来たのだ。
 サイファはちらりと腕時計に目をやると、すっと立ち上がった。
「よし、今から行くか」
「は?」
 話が飛躍して、ジョシュには何のことだかわからない。しかし、サイファはもうコートを羽織ろうとしていた。
「行くって……どこへ?」
「もちろん君の実家だよ」
「え?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。
「その方が早いだろう?」
 サイファは襟を直しながら事も無げに言う。しかし、ラグランジェ本家の当主がたかが一所員の実家を尋ねるなど、普通に考えたらありえないことだ。ジョシュとしては、ありがたいというより困惑の気持ちの方が大きい。
「仕事はどうするんですか」
「これから定例会議だからちょうど良かったよ。たいして意味のない会議だからね」
「いや、なに言ってるんですか! ちゃんと仕事してください!!」
 いい加減なことを言い出したサイファに、ジョシュは思わずカッとして声を荒げる。根っからの真面目人間であるジョシュには、とても許容できることではない。なにより自分の勤める魔導省の副長官なのだ。きちんと仕事してほしいと思うのは当然だろう。ちなみに、ジョシュは届けを出して早退してきたので、言い返されるような隙はない。
 しかし、サイファは涼しい顔で背を向けると、カーテンに手を掛けて一気に開いた。
 赤く色づいた光が射し込む。
 先ほどとは比べものにならないくらい間近で広がった、その高所の景色に、ジョシュは目を逸らすのも忘れて完全に凍りついた。もうサイファに意見するどころではない。頭の中がグラグラまわっているようで何も考えられなかった。
「さあ、行こうか」
 サイファはそう言ってにっこり微笑むと、倒れそうになるジョシュの肩に力強く手をまわした。

 それから20分ほど車を走らせ、ジョシュの実家の前についた。
 車は魔導省が持っているものらしく、車を運転しているのも職員らしい。完全に公私混同である。しかし、ジョシュが何を言っても彼はニコニコしたまま取り合わない。たまにはいいだろうと受け流すだけである。結局、文句を言いながらも一緒に来てしまったのであるが——。
「そういえば、どうしてウチの実家を知ってるんですか」
「これでもユールベルの親代わりだからね」
 つまり、結婚相手のことは徹底的に調べたということだろう。ジョシュは少しムッとして眉をひそめたが、冷静に考えれば仕方のないことだとも思う。ユールベルもラグランジェ家の人間なのだから、いくらラグランジェ家を出るとはいえ、問題のある相手に嫁がせるわけにはいかないはずだ。
「親に話を通して来るので、少し待っててください」
「ああ、早めに頼むよ」
 サイファはニッコリ笑って、軽く右手を上げる。
 ジョシュは気が重かった。この事態をいったいどう説明すればいいのだろう。軽く溜息をついて玄関に足を向けようとした、そのとき——。
「あら、やっぱり来てたの? 声が聞こえたから、もしかしたらと思ったんだけど……」
 玄関の扉が開き、中からエプロンをつけた母親が出てきた。
 心の準備が出来ていなかったジョシュは、あたふたしながら母親とサイファを交互に見る。が、サイファはにこやかに会釈し、紹介してもいないのに勝手に挨拶を始めた。
「初めまして、私は——」
「ラグランジェ本家当主っ?!!」
 母親は顔を見ただけですぐに誰だか認識したらしく、目を見開いて絹を裂くような声を上げると、後ずさりながらよろけて尻もちをついた。脱げたサンダルが派手に転がる。サイファは自分の足もとで止まったそれを、にこやかな笑顔で拾い上げた。

 その後、サイファを玄関前に待たせ、母親は大慌てで掃除と片付けを始めた。当然のようにジョシュも駆り出される。どうして前もって言わないの?! あんたのせいでとんだ恥をかいたじゃないの! と責められたが、つい数十分前に決まったばかりのことなのでどうしようもない。元凶であるサイファの顔を思い浮かべながら、ジョシュは眉間に皺を寄せた。

「お待たせして申し訳ありません。それに、汚いところで……」
「こちらこそ、突然お邪魔をして申し訳ありません」
 恥じ入るように肩をすくめる母親に、サイファは満面の笑みで受け答えする。それだけで彼女の頬は桜色に染まった。先ほどまでの怒りはどこへ行ったのだと、ジョシュは苦々しい気持ちになる。ローテーブルに置かれたティーカップに手を伸ばし、平静を取り戻すべく紅茶を口に流し込んだ。
「今日はユールベルさんのことで……?」
「はい、彼女の親代わりとして、お話ししておきたいことがあって参りました」
 親代わりという言葉を聞いて、母親は口もとに手を当て、不思議そうに目をぱちくりさせた。ジョシュはもちろん知っていたが、母親にはまだ伝えていなかった。親代わりがいるという話をすれば、実の両親のことにも触れざるを得ないからだ。
 しかし、サイファには何の躊躇も感じられなかった。
 まっすぐにジョシュの母親を見つめたまま、落ち着いた口調で、ひとつひとつわかりやすく説明を始める。ユールベルの目に負った怪我のこと、両親から虐待を受けていたこと、それゆえ両親とは会わせないようにしていること、両家の顔合わせも容赦してほしいということ——ラグランジェ家としては表に出したくない話もあるはずなのに、どれもジョシュが心配になるくらい正直に語っていく。
 母親がどう反応するのかも心配だったが、彼女はサイファの言うことに理解を示し、おまけにすっかりユールベルの境遇に同情したようで、目に涙を浮かべながら「これからは私が幸せにします」などとわけのわからないことまで言っている。ジョシュは頭を抱えたが、つまりはユールベルを受け入れてくれるということであり、それに関しては言葉にしようもないくらい感謝した。

「あんなことまで言って良かったんですか?」
「君の母上が言いふらさなければ問題ないよ」
 すっかり夜の帷が降りた空を見上げ、サイファは軽く笑いながら答える。その言葉に、ジョシュはそこはかとないプレッシャーを感じ、あとで母親に釘を刺しておかなければと冷や汗を滲ませる。サイファを敵にまわすと恐ろしいということが、今日だけで何となくわかってきたような気がした。
 車を置いた近くの空き地へ、二人は人通りの少ない細道を並んで歩く。
 ジョシュの家には1時間ほど滞在していただろうか。その間、仕事でもないことで、ずっと運転手を待たせてしまったことになる。ジョシュは申し訳なさで胃が痛くなりそうだった。ジョシュのやったことではないが、ジョシュのためであることは間違いない。サイファがここにいることも——。
「あの、今日はありがとうございました」
 そう言うと、サイファは少し驚いたように振り向いた。その鮮やかな青の瞳に捉えられ、ジョシュの心臓はドクリと跳ね上がる。
「あ……でも、わざわざ家にまで来てくれなくても……」
「私が直接説明した方が早いだろう?」
 サイファはにっこりと魅惑的に微笑んで言う。
 悔しいが彼の言うとおりである。自分にはあれほどわかりやすく説明は出来ないし、たとえ同じ説明をしたとしても、おそらく母親は簡単には納得してくれなかったに違いない。ラグランジェ本家当主という立場だからこそ、あの話に説得力を持たせられたのだ。そのことは誰よりも彼自身がいちばんわかっているはずだ。そして、その整った美しい顔が武器になるということも——。
「利用できるものは、何でも利用すればいいんだよ」
「自分には、利用できるものなんて何もありませんから」
 ジョシュは前を向いたまま少しムッとして答える。サイファのことにやたらと腹が立つのは、彼の狡さが許せないだけでなく、多くのものを持つ彼に対する僻みもあるのだろう。そんな自分の卑しさにはとうに気が付いていた。
 サイファはゆっくりと視線を流す。
「ジョシュ、どうして私がここまで来たかわかるか?」
「……ユールベルのため、ですよね?」
 それ以外には考えられなかった。ただ、なぜそんなことを尋ねるのかがわからない。答えを求めるように困惑した眼差しを送ると、サイファは目を細めてくすっと笑った。
「君の場合、無自覚の方がいいのかもしれないな」
「いったい何が言いたいんですか」
 一向に真意が見えない苛立ちが声に滲んだ。しかし、サイファは思わせぶりに微笑むだけで、何も答えようとはしない。彼のそういう人をからかうようなところが嫌いだった。ラグランジェの名や立場を何かにつけ利用するところも嫌いだった。自分なら何でも許されると思ってそうなところも嫌いだった。
 けれど——。
 ユールベルがなぜ彼を頼りにしているのか、そのことに関しては理解できるような気がした。悔しいが、実際に自分はサイファほど彼女のことを守れていない。でも、いつかは彼に頼らなくても済むように、自分の力で彼女を守れるようにならなければ——ジョシュは口をきゅっと引き結んだ。

 横目でその様子を見ていたサイファは、ふっと表情を緩め、微かな夜風を受けながら紺色の空を仰いだ。



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