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寂寥

「ユールベル! こっち!!」
 奥の席に座っていたターニャは、喫茶店に入ったユールベルを見つけると、少し腰を浮かして大きく手を振った。今まではあちこち撥ねた癖毛だったが、どういうわけかストレートヘアになっていたので、一瞬ユールベルは面食らったが、それを表情に出すことなく、呼ばれるまま彼女の前に腰を下ろす。
「ごめんね、休日に呼び出したりして」
「ううん……」
 不安げにそう答えたところで、ウエイトレスが注文をとりにきたので、少し考えてレモンティを頼む。そして、運ばれてきた水に少し口をつけて、小さく息をついた。
「久しぶりね。元気だった?」
 目の前のターニャは明るい笑顔を見せている。が、どことなくぎこちなく、落ち着きもなく、緊張しているように感じられた。
「何か話があるんじゃないの?」
「えっ、ああ、まあ……」
 ユールベルが水を向けると、彼女は困惑して目を泳がせた。しばらく眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて振り切るようにパッと笑顔を作った。
「ユールベルがどうしてるか気になったのも本当だから。しばらく会ってなくて、就職してからの話もほとんど聞いてなかったし、お仕事がんばってるかなーって」
「……ええ、それなりに」
 彼女の不自然な明るさを疑問に思いながら、ユールベルはぽつりと答えた。
「まわりの人とか大丈夫? 変な人いない?」
「みんないい人ばかりよ」
 今は——と心の中で付け加える。レイモンドのことは彼女に言ってなかったが、もう終わったことであり、あえて言う必要もないし言いたくもない。このことを言うべき相手がいるとすれば、レイモンドが次に狙いを定めているアンジェリカくらいである。
「あの先生とは仲良くしてる? ほら、えーと……」
 名前を忘れてしまったようで、ターニャは斜め上に視線を向けて記憶を辿る。しかし、それがサイラスのことだというのは、ユールベルにはすぐにわかった。
「先生とはときどきは会っているけど」
「そう、良かった」
 ターニャは安堵したように息をついた。彼女はなぜほとんど面識のないサイラスのことをそれほど気にするのだろうか。もやもやした気持ちになりながらも、あえて聞こうとはせず、何となくテーブルの上のグラスに視線を落とした。
 沈黙が重くなってきたところで、ユールベルの頼んだレモンティが運ばれてきた。スライスされたレモンを紅茶に沈めてそっと口をつける。その温かさにほっとして、少しだけ気持ちが軽くなった。
「ね、ケーキも頼まない? 遠慮しなくていいのよ?」
 ターニャは思いついたように勧めてくる。今日は彼女の奢りということなので、気を利かせてくれたのだろうが、どちらにしてもケーキまで頼むつもりはなかった。
「私、このあと用があるから」
「え? そうなの??」
「まだ一時間くらいは大丈夫だけど」
「そっか……」
 ターニャは少し考えたあと、残っていたミルクティを飲み干した。ティーカップをソーサに置くと、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐにユールベルを見つめる。
「私、ユールベルのこと、とても大切な友達だと思ってる」
 一言、一言、噛みしめるように繋いでいくと、大きく息を吸い、思い詰めたように表情を険しくして続ける。
「だから、私から、言っておかなくちゃって……」
 ただごとでなく緊張している彼女を見て、ユールベルは不安になってきた。あまりいい話でないことは容易に想像がつく。しかし、話の内容についてはまったく心当たりがなかった。僅かに眉を寄せながら、口を開こうとしている彼女の次の言葉を待つ。
「わ、私ね……今、レオナルドと付き合ってるの」
 ガタン——!
 ユールベルはテーブルに手をついて反射的に立ち上がった。顔をこわばらせて硬直する。思いもしないことに驚いたというのもあるが、それだけでないことは自分自身でよくわかっていた。
「ごめんなさい、あの……」
 ターニャは怯えたように身をすくめて目に涙を溜めていた。そんな彼女を見ていられなくて、ユールベルは下を向く。肩から髪がはらりと落ちて揺れた。
「どうして謝るの? あなたは何も悪くない」
 そう、ターニャは何も悪くない。レオナルドも悪くない。悪いのは他の誰でもなく、勝手に動揺している自分自身。今の私にはそんな資格もないのに——。
「だけど……」
「もう行くわ」
「待って!」
 ターニャの必死な声に追い縋られ、ユールベルは背を向けたまま足を止めた。緩いウェーブを描いた金色の髪がふわりと揺れ、後頭部の白い包帯がひらりと舞う。
「私たち、これからも友達よね?」
 ターニャがおずおずと問いかけると、ユールベルはぎこちなく小さな口を開く。
「ええ、何も変わらないわ……」
「だったらお願い、行かないで!」
「……今は、一人になりたいの」
 両手を顔で覆って静かに泣き崩れるターニャと、まだほのかに湯気の立ち上るレモンティを残し、ユールベルは足早に喫茶店を後にした。

 約束の時間よりだいぶ早く、次の待ち合わせ場所に着いた。近くの植え込みの煉瓦に座り、膝を抱えてそこに顔を埋める。前を通る人たちがちらちらと不思議そうに視線をよこすが、ユールベルにはそれを気にする余裕などなかった。通り過ぎる人たちの足音を聞きながら、膝を抱える手にぎゅっと力を込める。
 どれくらいの時間が過ぎたのかもわからず、時が止まったように感じていた、そのとき。
「ユールベル?」
 少し離れたところからジョシュの声が聞こえた。彼は急いで駆けつけてくると、隣にひざまずき、ユールベルの背中に手を置いて覗き込む。
「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
 優しくあたたかな声、あたたかな手。そのせいで、必死に凍らせようとしていた自分の気持ちが一気に氷解した。バッと勢いよく彼の首に腕を絡めて抱きつく。ジョシュはバランスを崩して尻もちをつきながらも、ユールベルの体をなんとか受け止めた。
「ど、どうしたんだよ……」
 ジョシュの声はうわずっていた。しかし、構うことなく、細い腕にぎゅっと力を込めて縋りつく。ピタリと寄せた体から体温と鼓動が伝わる。少し乱れた長い髪が、彼の背中側に落ちて揺れた。
「抱いて」
「……え?」

 チチチチチチ……。
 遠くに小鳥のさえずりが聞こえる。
 ユールベルは少し背中を丸め、膝を抱えるように体を横たえていた。強い日差しに照りつけられた足もとがジリジリと熱い。
「少しは落ち着いたか?」
 いつもと変わらないジョシュの口調。けれど、ユールベルは背を向けたまま何も答えなかった。頭上の木々がさわさわと擦れる音と、優しい草の匂いに包まれながら、小さな口をきゅっと結んで身を固くする。
「無理しなくてもいいわ」
「無理なんてしてない……まあ、かなり驚いたけど……」
 抱いて、少しでも私のことを想ってくれるなら——我を忘れてそんなことを求めてしまったユールベルを、ジョシュは理由も聞かずにこの公園へ連れてきてくれた。彼は大きな木陰に腰を下ろして空を見上げたが、ユールベルはとても彼の顔を見られず、その隣に寝転がりずっと背を向けていた。
「気持ちが沈んだときやつらいときは、外に出て青空を見上げるのが一番いい」
「……雨が降ってたら?」
「いつかは晴れるだろ」
 ジョシュは苦笑しながら答えた。その答えを、ユールベルはうらやましく思い、同時に彼との距離を大きく感じた。
「もうわかってると思うけれど、私、あなたが考えていたような無垢な女の子じゃない」
「別に、俺は……」
 ジョシュはそう反論しかけて口ごもった。ユールベルは淡々と続ける。
「あなたがそう誤解しているのはわかっていた。わかっていたけど否定しなかった。あなたの優しさを利用していたの。寂しかったから、一緒にいたかったから……だからごめんなさい。もうこれで終わりにするわ」
「ちょっと待てよ! なに言ってんだよ、勝手に終わらせるなよ!」
 ジョシュは焦ったように振り向いて言った。それでもユールベルは背を向けたまま動かない。少し呼吸をしてから、静かに話し始める。
「私、今朝、友達に会ってきたの。話があるって言われて」
 ジョシュは相槌も打たず黙りこくっていた。ユールベルから彼の姿は見えないが、いきなり話が変わって困惑しているだろうことは、何となく空気で伝わってくる。少し緊張して手元の芝を握りしめた。
「その友達、付き合ってるって……私が以前一緒に住んでいた人と」
「す……?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げかけて、それを呑み込んだ。
「……今でも、そいつのことが好きなのか?」
「優しくしてくれるから、寂しさを埋めるために利用していたのよ。きっと、最初からずっと……。好きな人は他にいたけれど、相手にしてもらえなかったから。でも、そういうのは良くないと思って自立しようとした。けれど無理だった。さっきみたいに友達に嫉妬したり、あなたを利用したり、弟にまで縋ったり……」
 ユールベルの声は次第に小さくなっていく。芝を握る手に力がこもり、ブチブチとちぎれる音がした。
「利用とか言うなよ。だいたい弟は家族なんだから遠慮することないだろう」
「そう、家族なの。家族だから許されない……あんなこと……」
「…………」
 張りつめた空気。ジョシュが背後で小さく息を呑んだ。ユールベルの発言は曖昧だったが、その言い方から何があったか察したのだろう。それでも構わないと思って口にしたのだから、覚悟はできている。ユールベルは芝を握る手を緩めた。
「ここまで聞いたら軽蔑する以外にないでしょう? もういいの」
「放っておけるかよ!」
 ジョシュは横たわるユールベルの両側に手をつき、真上から覗き込んで強く訴える。そろりと視線を上に向けたユールベルに、彼の真剣な眼差しが突き刺さった。
「俺と一緒にいたいって思ってくれたんだろう? それって俺のことを好きってことじゃないのか? それともまだ相手にしてくれなかったヤツに未練があるのか?」
「わからない……本当にわからないの……」
 必死に追及されて混乱する。言い逃れではなく、本当に自分の気持ちがわからなかった。ユールベルが潤んだ目を細めると、ジョシュは奥歯を噛みしめて苦しげに顔をしかめた。
「俺は、利用されたなんて思っていない。お互いに会いたいから会ってただけだろ? 嘘をついて騙してたわけでもないのにそんな言い方するなよ。俺のことを嫌ってるわけじゃないなら、これからも……」
「同情ならやめて。私もあなたも傷つくだけだから」
「同情じゃない。俺が終わりにしたくないだけだ!」
 今の彼がそう思っていることは間違いないだろうが、それはおそらく一時の感情に流されてのこと。だから、それに縋ってはいけないし、自分からきっぱりと終わらせなければならない。これ以上、彼に後悔させないように、自分が後悔しないように——。
「……来週、また会ってくれるか?」
 ジョシュが緊張した面持ちで問いかけてくる。
 ユールベルは彼から目を逸らすと、少し考え、やがてぎこちなくこくりと頷いた。


決意

「あれ? ジョシュもう帰るの?」
「ああ、ちょっとな」
 研究所の門前で鉢合わせたサイラスに軽く答え、ジョシュは目的の場所へと足を向ける。まだ勤務時間は終わっていないが、用があるからといって抜けさせてもらったのだ。普段は夜遅くまで仕事をしていることが多いため、このくらいの融通は利かせてもらえる。とはいえ、ジョシュが頼んだのは初めてのことであり、上司も少し驚いた様子で、よほどの用件だと思ってくれたようだった。

 研究所からそう遠くないところにある、何の変哲もないごく普通の学校。
 ジョシュはその門前に到着すると、校舎の方を見やった。昇降口の前には下校する生徒たちが溢れ、若々しい賑やかな声が上がっている。この分だと、すでに帰ってしまった生徒も多そうだ。
 あいつ、まだいるかな——。
 会えなかったら何のために仕事を抜けてきたのかわからない。こんなことならもう少し早く来れば良かった、と後悔しつつ、次々と出てくる生徒たちを確認していく。そのとき、周囲から頭ひとつ抜け出た少年が目についた。向こうもジョシュに気付いたようである。
「おにいさん!」
 アンソニーは人なつこい笑顔を見せながら、小走りで駆けつけてきた。
「どうしたの? 偶然……なわけないよね?」
「おまえに話があって来た……んだけど……」
 そう言いながら、彼についてきた小柄な少女にちらりと視線を向ける。随分と子供っぽく見えるが同級生なのだろうか。アンソニーが実年齢より大人びているせいで、隣にいると余計にそう見えるのかもしれない。
「あ、紹介するよ。僕の同級生で彼女のカナ、こっちは姉さんの同僚のジョシュ」
「こんにちは」
「あ、ああ……」
 カナに可愛らしい笑顔で握手を求められ、ジョシュは慌てて右手を差し出す。アンソニーに彼女がいるということは、以前に聞いたので知っていたが、ユールベルからあの話を聞いたせいか戸惑いを隠せない。
「カナ、ごめん。おにいさんと話してくるから、今日は先に帰ってくれる?」
「うん、じゃあ、またあしたね」
 カナは素直にそう答え、ジョシュに礼儀正しくお辞儀をし、アンソニーには手を振って去っていく。
「で、どこで話をするの?」
「ああ……歩きながら……」
 これからするのは誰にも聞かれたくない話なので、喫茶店に入るわけにもいかず、ジョシュにはそれしか思い浮かばなかった。変に思われはしないかと心配したが、アンソニーは特段気にする様子もなく、じゃあ……と言って、カナの去っていった反対側へ足を向けた。

 二人は無言のまま並んで歩く。
 何かを察してか、ただの偶然か、アンソニーは人通りの少ない道を選んでいるように見えた。早く切り出さねばと思うものの、彼がスタスタと足を進めるため躊躇われてしまう。
 どこへ向かっているのだろうか——。
 ジョシュはチラリと隣を窺った。彼は初めて会ったときよりも背が伸びていて、今はジョシュよりも高くなっている。そこにこだわりを持っているわけではないが、何とはなしに敗北感を覚え、小さな溜息とともに足もとに視線を落とした。

「ここならどう? あまり人が来ないけど」
 ほとんど会話らしい会話もせず、30分ほど歩くと、アンソニーは唐突にそう口を切った。
 ジョシュは顔を上げる。
 眼前は大きく開けていた。正面の煤けたガードパイプの下方には、大きな川が流れている。少し冷たい風が新鮮に感じられて心地いい。そして、まわりには、確かにあまり人がいなかった。
「あ……ああ……」
「良かった。おにいさんとここ来たかったんだよね」
 アンソニーはそう言って屈託なく笑うと、河原へと続く石段を下りていく。彼が何を考えているのか今ひとつ理解できず、眉根を寄せながらも、ジョシュはその背中を追ってゆっくりと階段を下り始めた。

「おまえたちのことを聞いた」
 石段を下りきったところで、ジョシュは河原の小石を踏み鳴らしつつ切り出した。
 アンソニーは不思議そうな顔で振り向く。
「どういうこと?」
「それは、その……ユールベルとおまえの関係というか……えっと……」
 覚悟は決めてきたつもりだったが、いざとなると口に出すのが憚られ、みっともないくらい狼狽えた曖昧な言い方になってしまう。しかし、アンソニーは、その様子で何を言いたいのか理解したようだ。一瞬、息を呑んで目を見開いたが、すぐに溜息をつきながら両手を腰に当て、いかにも残念そうに大きく抑揚をつけて言う。
「なんだぁ、先生、喋っちゃったんだ」
 今度はジョシュが目を見開いた。
「え……? 先生って、サイラスか?」
「先生から聞いたんじゃないの?」
「俺は、ユールベルから聞いた……」
「へえ、姉さんが……」
 アンソニーは斜め下に視線を落としながら考え込んだ。まさかユールベル本人が言うとは思わなかったのだろう。考え込みたくなるのも無理はない。だが、それをいうならジョシュも同じである。
「サイラスは知ってたのか?」
「まあね、僕が言ったから」
 半信半疑で尋ねると、アンソニーは事も無げにさらりと答える。なぜ、サイラスにだけ話したのか疑問に思ったが、彼はサイラスを慕っており、ユールベルと付き合ってほしいと願っていたようなので、あえて本当のことを話しておいたのかもしれない。
「それで……あいつ、何か……」
「何も」
 彼がいつ知ったのかはわからないが、ユールベルと接する態度に変化はなかった。それ自体は悪いことではない。だが、知りながらなぜ放置していたのかがわからない。他人事だから関わらなかったのだろうか。関わるべきではないと思ったのだろうか。
 しかし、ジョシュは、このままにはしておけなかった。
「おまえ、もうあんなことはやめろよ」
「なに、おにいさん嫉妬してるの?」
 アンソニーは軽く笑いながら、茶化すように答えた。だが、ジョシュは表情を険しくしたまま崩さない。
「真面目に言ってるんだ。こんなこと……ユールベルも、おまえも、余計に傷つくだけじゃないのか? 残るのは虚無感と罪悪感だけだろう。根本的な解決にはなってない」
 感情を抑えて諭すようにそう言ったが、その途端、アンソニーの目がぞっとするくらい冷たくなった。無表情のまま、少し顎を上げてジョシュを見下ろす。
「姉さんが壊れそうになって震えてるのを、黙って見てろって?」
「そうじゃない。方法が間違ってると言ってるんだ」
 ジョシュは額に汗を滲ませながら言い返した。一瞬だが、遥か年下の彼に、言いしれぬ恐怖を覚えた。ラグランジェという恵まれた家で生まれ育ちながら、なぜこんなにも冷たく荒んだ目が出来るのかわからない。
「おにいさんはいいよね」
 彼はフッと鼻先で笑って、視線を流す。
「姉さんが落ち着いているときに会って、楽しく過ごすだけなんだから」
 その静かな声に、ジョシュはまるで鈍器で後頭部を殴られたように感じた。何も言葉が出てこない。
 アンソニーは顎を引き、厳しい顔になる。
「僕は一緒に暮らしてるんだよ。良いときも悪いときもずっと一緒にいるんだよ。たとえ一時でも落ち着かせられるなら、そうしてやりたいし、そうしなければいられない。あんな姉さん見てられないんだ。間違ってることくらい僕だってわかってる。じゃあどうすればいいのさ。間違ってるって責めるんだったら解決策を提示してよ」
「……ただ話を聞いてやるだけでも、だいぶ違うんじゃないか」
 そう答えながらも、ジョシュは自分の言葉が嫌になるほど空疎に感じられた。戸惑いが声に滲む。言っている方がこれでは、何の説得力もないだろう。案の定、アンソニーは呆れたような顔で溜息をつく。
「何もわかってないくせにアドバイスするなんて、随分無責任だね」
「そりゃ、何もかも知ってるわけじゃないが……」
 さすがに『何もわかってない』などと言われては、反論せざるを得ない。家族であるアンソニーとは比べようもないが、少しずつともに過ごす時間を積み重ね、わかり合おうとしてきたつもりである。けれど、彼はそれを軽い冷笑で薙ぎ払った。薄い唇に笑みをのせ、挑発するような眼差しで言う。
「いいよ、教えてあげる。姉さんのこれまでを」

 アンソニーから聞かされた話は、想像もつかないほど壮絶なものだった。
 幼い頃に本家一人娘の魔導の暴発を受けて、左目の視力を失ったうえ、目のまわりに消えない傷を負ったこと。
 実の親に疎まれて虐待され、結界を張った部屋に7年も監禁されていたこと。
 その結界を自力で破って自由を手に入れたこと。
 本家一人娘を階段から突き落としたと誤解され、責められ、壊れかけたこと。
 そのとき世話してくれた人を好きになったが、冷たい態度でにべもなく拒絶され続けたこと——。
 あまりのひどさに、口を覆って絶句するしかなかった。いったいユールベルの味方はどこにいたのだろうか。アンソニーも、ほんの数年前まで姉がいることすら知らなかったらしい。
 無茶苦茶だ。何なんだこれは、どうしてこうなった。
 怒りで体が震える。まだ見たこともない彼女の両親に憎しみさえ覚えた。
 今なら理解できる。彼女が両親と離れて暮らしていることも、サイファが親代わりになっていることも、研究所でいきなり特別研究チームに配属されたことも。当主としての義務なのかもしれないが、彼女を守ってきたのはサイファだけだったのかもしれない。しかし、それもここ数年のことのようだ。

「わかったよね? 同情なんてやわな感情で支えられるものじゃないって」
「……同情なんかじゃない」
 ジョシュは低く確かな声で言い切った。
 確かに、生半可な気持ちでは支え切れないだろう。それがわからないほど愚かではない。わかっていてもなお、ユールベルを守りたいと強く思ったのだ。同情もあるかもしれない。だが、どうでもいい相手だったらここまで考えはしない。彼女と出会う以前は、他人との関わりを望まず、たとえ同情を感じても行動を起こすことはなかったのだから。
「じゃあ、おにいさんの決意を聞かせてよ」
「決意……?」
 思わず聞き返すと、アンソニーは燃えるような鮮やかな青の瞳を、まっすぐジョシュに向けた。
「行動以前に言葉にすら出来ない人を、僕は信用しない」
 ジョシュはごくりと唾を飲んだ。
 さらさらと川の流れる音が、急に大きく聞こえてきた。それに同調するかのように鼓動が高まっていく。誤魔化す理由も必然もない。ただ、アンソニーに認めてもらえるか自信がなくて、怖かった。
「……俺は」
 随分と長い沈黙のあと、ジョシュはやや擦れた声で切り出した。


終幕

 今日で必ず終わらせる。自分で終幕を下ろすの——。
 ユールベルは鏡を正面から見据えて、その向こうの自分に暗示を掛けるかのごとく、胸の内で決意の言葉を繰り返す。鏡は嫌いだった。そこに映される自分の姿を目にするのが苦痛で、いつもは避けているのだが、今日は挑むようにまっすぐに相対していた。

「今日もおにいさんとデート?」
 ベランダから顔を覗かせたアンソニーが、さらさらと短い金髪をそよがせながら、小さな如雨露を片手にそう尋ねた。如雨露の先からは水滴がしたたっている。ちょうどプランターに水をやっていたところのようだ。
 そのプランターは、ジョシュが作ってくれたものである。
 話し合って決めたわけではないが、平日はユールベル、休日はアンソニーが世話をするようになっていた。何をすればいいのかわからなかったが、ジョシュに言われたように適当に水をやっていたら、本当に若緑色の小さな芽が出てきた。今は、まだ花は咲かせていないものの、青々とした背丈がしっかりと着実に伸びてきている。
「ゆっくりしてきなよ。遅くなってもいいからね」
 彼は軽く笑いながらそんなことを言う。
 ユールベルはムッとして眉をひそめる。そして、口をつぐんだまま、緩いウェーブの金髪をなびかせて足早に部屋をあとにした。

 空は鮮やかに晴れ渡り、眩しいくらいの日差しが地上に降り注ぐ。
 待ち合わせ場所には、すでにジョシュが来ていた。
 ユールベルより早いのはいつものことであり、不思議でもなんでもないが、硬い顔で唇を引き結んでいることが少し気にかかった。何か思い詰めているようにも見える。しかし、ユールベルに気がつくと、ほっと安堵したように表情を緩ませた。
「とりあえず公園へ行くか」
 その声は普段と何ら変わりのないものだった。ユールベルも素直に頷く。それから二人並んで公園に向かうと、小径をゆっくりと散歩したり、木陰でのんびり話をしたりと、あたたかい陽だまりに包まれながら、これまでの休日と同じように穏やかな時間を過ごした。
 日が傾き、帰る時間が近づいた頃——。
 ジョシュがぎこちなく遠慮がちに手を繋いできた。
 ユールベルが顔を上げると、彼は照れたような表情で前を向いていた。夕陽のせいではっきりとはわからないが、頬もほんのり紅く染まっているように見える。その緊張ぎみの横顔に、その手のあたたかさに、ユールベルの胸はキュッと締め付けられる。決意が鈍りそうになるが、これが最後だからと自分に強く言い聞かせた。

「来週も今日と同じ時間でいいか?」
 別れ際、ジョシュは軽く尋ねてきた。
 そう、こうやって次に会う日時を決めることが、二人には当たり前になっていた。途切れることのなかった約束、終わりの見えなかった逢瀬——しかし、それも今日までのこと。ユールベルは口を引き結ぶと、そっと首を横に振る。
「何か予定があるのか?」
「……もう、会わない」
「えっ?」
 単純に声が聞き取れなかったのか、訝しむ様子もなく、ジョシュは少し顔を近づけて聞き返した。ユールベルは小さく息を吸い込み、あらためて心を決めると、今度ははっきりとした口調で言い直す。
「もうあなたと会うのをやめるわ」
 ジョシュの目が大きく見開かれた。
「……な、んで……?」
「今までありがとう」
 ユールベルは抑揚のない言葉を返す。
「理由を教えてくれよ!」
「もう会いたくないから」
「……嘘だ」
 ジョシュは喉の奥から絞り出すように言う。ユールベルはたまらず顔をそむけた。
「お願い……あなたといると苦しいの。これ以上、私のことを苦しめないで」
「……違う。俺と一緒にいるから苦しいんじゃない。俺から逃げようとするから苦しいんだ」
 彼は冷静にそう言いながら、沸き上がる感情を堪えるように、体の横でこぶしをギュッと爪が食い込むほどに握りしめる。それを見て、ユールベルは、まるで自分の心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。
「……そうよ」
 胸を押さえて声を絞り出す。右目に涙が滲み、頭に熱い血が上っていく。
「でもそうするしかないの! あなたもいつか私から離れていく! 今は意地になって無理をしてるだけ。私がどんな人間かもうわかったでしょう? いつも誰かを利用して縋って……弟さえも……。心も体も穢れきっている。誰にも好きになってもらう資格なんてない。だから……」
「勝手に決めつけるなよ!」
 ジョシュは感情的に言い返した。そして呼吸を整えると、涙目のユールベルを正面から見据える。
「俺は、逃げない」
「今はそう思っていても、いつか……」
「どうやったら信じてもらえるんだよ!」
「ジョシュは悪くない。悪いのは私……だから、どうしようもない……ごめんなさい……」
 ユールベルは泣きそうになるのを懸命に堪えようとしていた。唇を強く噛みしめて目を伏せる。けれど、怖いくらいまっすぐな彼の眼差しに、全身が熱を帯び、胸が焼けるように熱くなり——そして、右目から大きなひとしずくが零れ落ちた。
 さらに強く唇を噛み、こぶしを握りしめる。
 それでも、次々と溢れくる涙は止められない。やがて、堰を切ったように大声で泣き崩れた。その場でうずくまって激しく慟哭する。そこが往来の真ん中であることも、研究所の近くであることも、誰かが見ているかもしれないことも、知り合いが通るかもしれないことも、何もかもどうでもよかった。

 時折吹く風が冷たい。
 空はすっかり濃紺色に塗り替えられていた。星もあちらこちらで瞬き始めている。
 二人は、植え込みまわりの煉瓦に、並んで座っていた。
 ユールベルが泣き崩れたあと、ジョシュは何も言わずに、ずっと背中に手を置いて寄り添ってくれていた。ひとしきり泣き疲れるまで泣いて、少し落ち着いてくると、すぐ近くの植え込みの方へそっと促された。それから1時間ほど、ただ黙って膝を抱えるだけである。彼がどう思っているのか不安だったが、それを知るのが怖くて、尋ねることも顔を向けることもできない。
「なあ……」
 不意に落とされた声に、ユールベルの体がビクリと震えた。それでも彼は言葉を繋げる。
「おまえ、あの家を出てさ、俺の家に来ないか?」
「……えっ?」
 ユールベルは大きく目を見開いて振り向いた。
「おまえの家と比べるとだいぶ狭いけど……いや、もう少し広いところに引っ越してもいい。今までと同等というわけにはいかないが、なるべく不自由させないようにするから」
「……私たちって、そういう関係?」
「これからそうなるんじゃ、駄目か?」
 ジョシュは許しを請うように尋ね返す。
 ユールベルは眉を寄せてうつむいた。頭が混乱する。彼の言うことがあまりにも飛躍しすぎて、まともに受け止めることができなかった。家を出るように勧める理由はわかっているつもりだ。だからといって、どうして彼と一緒に住むことになるのかは理解できない。確か、自分は終幕を下ろそうとしていたはずなのに——。
「軽薄な気持ちじゃない。俺は、真剣におまえと……」
「弟を一人にするわけにはいかないわ。未成年だもの」
 ジョシュの言葉を遮って、ユールベルはそう告げた。論点をずらした自覚はあるが、言ったことは嘘ではない。一人にするわけにはいかないし、両親のもとに返すわけにもいかないのだ。家族の関係を説明しなければ納得してもらえないかと思ったが、彼は何も尋ねてこず、ただ苦い表情で唇を引き結んでいた。しばらく考えて、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ、あいつが18になるまで待つ」
「そんな先のこと……」
「俺は、待つよ」
 困惑して口ごもるユールベルに、ジョシュは迷いなく言った。少なくとも現時点では、彼が本気でそう思っているだろうことは、ユールベルにも疑いようもないくらいに伝わってきた。

 しばらくして、ジョシュが自宅まで送ってくれた。
 いつもは近くの交差路で別れるのだが、夜遅くなったからといって、断ったにもかかわらず強引についてきたのだ。おそらく、まだ精神的に不安定なユールベルを心配しているのだろう。扉の前に着いても、ジョシュは手を掴んだまま離そうとしなかった。何か言いたげに目を泳がせている。
「やっぱり今日だけでも俺の家に来ないか?」
「もう大丈夫よ」
 ユールベルは努めて無感情に言う。
「なあ、もしつらくなって、泣きたくなっても……その……」
「わかっているわ」
 それでもジョシュは手を離そうとしない。中にいるアンソニーと二人きりにしたくないのだろう。彼が何を懸念しているのかはわかっていたが、それでも帰らないわけにはいかないのだ。
 握った手に、少し力がこめられた。
「なかなか信じてもらえないけど、俺は、本当におまえのことが好きなんだよ」
 ジョシュは、思いつめたように切々と訴えかけた。
 しばらく苦悶の表情でユールベルを見つめていたが、やがて細い肩に手を置き、様子を窺いながら少しずつ身を屈めていく。
 彼が何をしようとしているかわかった。けれど、拒絶しなかった。
 ユールベルが近づくジョシュの顔をじっと見つめると、彼は少し戸惑いを浮かべたが、それでも逃げることなくそっと触れるだけの口づけを落とした。優しい熱が伝わる。次の瞬間、彼の表情を確かめる間もなく、ユールベルは強い腕で思いきり抱きしめられた。足もとがよろけて、白いワンピースがふわりと舞う。
「何かあったら、何でもいいから俺を頼ってくれ」
 彼の声が耳にかかる。
 唇も、体も、心も、すべてが心地よくあたたかかった。
 こんなことは初めてである。
 今まで誰と一緒にいても、誰に縋ってみても、虚しさや悲しさという負の感情が消えることはなかった。それどころか縋るたびに大きくなっていた。けれど、今はどうしてだか幸福感の方が大きい。終幕を下ろそうとしていたはずなのに、その動機すら見失いそうになっていた。
 もしかしたら、彼なら本当に——?
 信じると断言することはまだできないけれど、気持ちは傾きつつあった。もし、信じることができれば、彼とずっと一緒にいられたら、きっとどれだけ幸せだろうと思う。そんな安易な自分に、幾何かの嫌悪感を覚えながらも——。

「アンソニー?」
 ようやく家に帰ったユールベルは、真っ暗なリビングルームで弟の名を呼んだ。
 しかし返事はない。
 寝室やキッチンなど他のどこからも明かりが漏れておらず、浴室にもいる気配もない。もう寝てしまったのだろうか。何となく嫌な予感がしながらも、手探りで照明のスイッチを入れると、テーブルに紙が一枚置いてあるのが見えた。ユールベルは近づいて目を落とす——瞬間、それを掴み取って凝視し、大きく息を呑んだ。
 紙にはアンソニーの筆跡で、ひとことだけ書かれていた。
 さようなら、と——。


策略

「行くところに心当たりはないのか?」
「わからない……」
 ユールベルは泣きそうになりながら、もういちど紙切れに目を落とす。さようなら——アンソニーが残したのはその一言だけだった。これを見つけたあと、帰りかけていたジョシュを追いかけて助けを求めたが、彼もまた驚いてあたふたするばかりだった。頭を掻きながら必死に思考を巡らせると、何か思いついたのか、パッと顔を上げて人差し指を立てる。
「そうだ、あいつ彼女がいただろう?!」
「同級生でカナって言っていた気がするけど、会ったこともないし、連絡先なんてわからないわ」
 何度かアンソニーと一緒のところを見かけたことはあったが、会いたくなくて避けるようにしてきた。彼女の話も聞きたくなかったし、アンソニーもそれを察してか積極的に話そうとはしなかった。
「学校の先生は?」
「担任が誰かも知らない……学校の場所はわかるけれど……」
 家族でありながら、一緒に住んでいながら、結局はアンソニーのことをたいして知らなかったのかもしれない。ただ利用していただけで、ただ甘えていただけで、彼のために姉らしく何かをしてあげたことなどなかった。考えれば考えるほど、自分がろくでもない人間だと思い知らされて絶望的な気持ちになる。目にじわりと涙が滲んだ。
「愛想を尽かされて当然だわ」
「いや違う、俺のせいだ……」
 ジョシュは視線を落として沈んだ声で言う。しかし、すぐに顔を上げて気合いを入れ直した。
「今はそんなこと言ってる場合じゃない。アンソニーを見つけないと」
 彼の言うとおり、今はアンソニーを捜すことが最優先である。ユールベルは涙を堪えてこくりと頷いた。

 とりあえず手がかりを求めて学校に来てみたが、明かりは見えず、門も閉まっていた。誰かがいそうな気配はない。休日の夜だから、当然といえば当然である。
「誰かひとりくらい先生がいてくれれば良かったんだけど……」
 ジョシュは門にもたれかかりながら、悔しげに言う。
 それを聞いて、ユールベルはハッとした。
「おじさま……」
「えっ?」
「おじさまに聞けばわかるかもしれない。担任の連絡先くらいなら……」
 今でもアンソニーの保護者代理はサイファになっている。学校からの連絡などは彼が受けているはずだ。そう思うと、いてもたってもいられず駆け出した。事情が呑み込めていないジョシュは、よくわからないまま、慌ててユールベルを追って走り出した。

「おじさまって、もしかして……」
 ジョシュは大きな屋敷を仰ぎ見ながら、顔を引きつらせた。
 しかし、ユールベルには彼に構っている余裕などなかった。無言のまま進んでいき、躊躇うことなくチャイムを鳴らす。しばらくすると重量感のある扉が開き、レイチェルが優しく微笑んで二人を迎えた。
「いらっしゃい、ユールベル……それと、あなたは研究所にいた鼻血の……?」
「それはもう忘れてください!」
 ジョシュは顔を真っ赤にして言い返した。レイチェルは口もとに手を添え、くすくす笑っている。このいかにも接点がなさそうな二人に、いったいどういう面識があるのだろうか——ユールベルは少し驚き、そして気になったが、今はそれに気をとられている場合ではない。レイチェルに向き直ると、苦手意識を感じながらも、懸命に彼女の目を見ながら説明を始める。
「私、おじさまにどうしても訊きたいことがあって……」
「ええ、居間にいるわよ。サイファも、アンソニーも」
「……えっ?!」
 ユールベルとジョシュは、同時に目を見開いて声を上げた。

「また負けかぁ。サイファさん手加減なしだもんなぁ」
「手加減で勝ったところで面白くないだろう?」
 チェス盤を挟んで談笑するアンソニーとサイファを眺めながら、ユールベルは唖然とした。紙切れを持つ手に、無意識に力がこもる。と、アンソニーが戸口のユールベルたちに気付いて振り向いた。
「あ、姉さん。おにいさんも一緒なんだ」
 何事もなかったかのように、にこやかに笑顔を振りまく。
 ユールベルの頭の中で何かが切れた。
「どういうことなの?!」
 そう叫ぶと、軽くウェーブを描いた金髪と包帯をなびかせながら、部屋の中に駆け込んで行く。ソファのそばに立って睨み下ろしても、アンソニーは顔色一つ変えず、人なつこい笑みを浮かべて答える。
「僕、ここに住まわせてもらうことにしたんだ」
「どうしてそんな……!!」
 ユールベルは絞り出すように言う。視界が大きく歪んだ。目に滲んだ涙が今にもこぼれ落ちそうになっている。
 サイファはその様子を見て、不思議そうに尋ねる。
「アンソニー、置き手紙をしてきたんじゃなかったのか?」
「置き手紙ってこれのことかよ」
 ジョシュは苛立ちながら、ユールベルの持っていた紙切れを抜き取り、乱暴に開いて前に突き出す。「さようなら」とだけ書いてある紙だ。サイファはソファから身を乗り出してそれを覗き込んだ。
「これはひどいな」
 サイファは軽く苦笑しながらそう言うと、ソファに座り直し、口もとを上げて正面のアンソニーに視線を投げる。彼は小さく肩をすくめて視線を落とし、チェスの駒に指をのせた。
「心配してほしかったんだよ……最後だしね」
 そう言葉を落として薄く微笑む。が、すぐにいつもの表情に戻るとジョシュに振り向いた。
「おにいさん、姉さんのことを頼んでいいよね。僕の代わりにあの部屋で姉さんの面倒を見てやってよ。残してある僕のものは、使うなり捨てるなり好きにしていいから。ベッドもそのままだし……って、おにいさんは嫌かな」
 あははと笑うアンソニーを、ジョシュは苦虫を噛み潰したような顔で見下ろした。その瞳には困惑と怒りが見え隠れする。何かを言いたそうにしているが、口は閉ざしたまま、ただ悔しげに顔を歪めるだけである。
 ユールベルは混乱したまま首を横に振った。
「私、そんなこと頼んでない……私……」
「このままじゃ、誰も幸せになれないのはわかるよね。いつかは終わらせなきゃいけないことなんだ。だったら、今が一番いいんじゃないかなって。おにいさんの覚悟も聞かせてもらったしね。姉さんの過去をすべて話したけど、それでもずっとそばで支えて守っていくって。絶対に逃げたりしないって。他にもいろいろと話し合って、おにいさんなら信用できると思ったんだ。だから、姉さんは安心して頼ればいいんだよ」
 アンソニーは落ち着いた口調で、優しく言い聞かせるように言う。その様子を、サイファはゆったりとソファに座ったまま見守っていた。おそらくアンソニーからすべての話を聞いているのだろう。そのうえで、ここに住まわせてほしいと頼まれたから、了承せざるを得なかったのかもしれない。
「私は、何も知らなかった」
 ユールベルは肩を震わせながら嗚咽し、顔を両手で覆った。溢れた涙が手のひらを濡らす。ジョシュは何も言わず、そっとユールベルの肩を抱いた。
「姉さん、幸せになってよ。僕も幸せになるからさ」
 アンソニーは目を細めて言った。
 それでも、ユールベルはどうすればいいかわからず、頭が混乱したまま、ただ体を震わせてすすり泣き続けた。アンソニーの言うことは理解できるが、思考と感情が追いつかなかった。夢なのか現実なのかもわからなくなってくる。肩に置かれた手のあたたかさだけが、辛うじて自分を現実に引き留めているようだった。
「話が違うとあとで言われるのも何だから、あらかじめ言っておくが」
 サイファは不意にそう切り出して、視線を流す。鮮やかな青の瞳がジョシュを捉えた。
「ジョシュ、君をラグランジェ家に迎えることはできない」
 ビクリ、と彼の体が小さく震える。
「俺は、別にそんなこと……」
「つまり、ユールベルとは結婚できないということだ」
「…………」
 ユールベルの肩に置かれた彼の手に力が入った。
 サイファは膝の上で手を組み、淡々とした表情で話を続ける。
「君が気に入らないから言っているわけではないんだよ。ラグランジェ家に迎えるには一定の基準があってね。君には魔導力が不足している。最低限、アカデミー魔導全科に入学できるくらいの力はないといけない」
 基準の話はユールベルも聞いたことがある。ラグランジェ家の人間は一族間でしか結婚が許されていなかったが、一年ほど前、基準さえ満たせば外部の人間であっても受け入れることにした——という話だ。溢れた涙を拭ってそっと顔を上げる。隣のジョシュは、思い詰めたように必死な表情を見せていた。
「俺は……一緒にいられるだけで……」
「君はいいかもしれないが、ユールベルにとってはそれで幸せかな?」
 サイファはちらりと厳しい視線を流す。
「それ、は……」
 ジョシュは苦しげに言葉を詰まらせた。ユールベルの肩から手を滑り落とすと、体の横で壊れそうなほど強く握りしめる。こぶしは小刻みに震えていた。奥歯を強く噛みしめた表情にも、悔しさとやりきれなさが滲んでいる。
「ラグランジェ家としても困るんだよ」
 サイファは容赦なく畳みかける。
「同棲などという外聞の良くないことは避けてもらいたい。ラグランジェ家の品位を下げることに繋がりかねないからな。それに、ユールベルに勝手なことをされては、ラグランジェ家の若い者にも示しがつかないだろう?」
「私、出ます……」
 ユールベルは体の奥底から震える声を絞り出す。
「私、ラグランジェ家を出ます。ラグランジェの名前を捨てます!」
 涙の乾かないまま、まっすぐサイファに向かってそう叫んだ。隣では、ジョシュが目を丸くして、ポカンと口を開けている。けれど、ユールベルには自分の言ったことの意味くらいわかっていた。
「ユールベル、それでいいの?」
 サイファは優しく問いかける。
 ユールベルは硬い表情でこくりと頷いた。
「ラグランジェの名前さえなければ問題はすべて片付くもの。それに、私、以前からいつかラグランジェ家を出たいと思っていた……そのためには正当な理由がいるって聞いていたけれど、これなら認めてもらえるんでしょう?」
「ジョシュと結婚する、というのならね」
 そう言われ、とっさに言葉が出てこなかった。ユールベルとしては、一緒に暮らすことを考えていたのだが、結婚でないと正当な理由にならないのだろうか。
 サイファは感情のない声を重ねる。
「ラグランジェ家を出るために、彼を利用しているだけなのか?」
「違うわ! 好きだから……好きだから、一緒にいたいの……」
 ユールベルは、慎重に、噛みしめるように言葉を紡ぐ。そして、表情を引き締めてサイファを見据えた。
「彼と、結婚するわ」
 ジョシュは驚いて大きく目を見張った。しかし、すぐにそれは嬉しそうな表情に変わる。その屈託のなさに、ユールベルの胸は小さく疼いた。彼が好きだというのは嘘ではない。好きだからこそ、怖くなって逃げだそうとした。終わらせようとした。そんな自分が、今さらこんなことを言う資格はあるのだろうか。あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか——。
「ラウルのことは吹っ切れたのか?」
「……大丈夫よ」
 その名を聞かされて、一瞬ドキリとしたが、すぐに気持ちを落ち着けて答える。強く断言するだけの自信はなかったが、ジョシュがいてくれるなら、おそらくもう心を乱されることはないだろうと思えるようになっていた。
「随分と簡単だね」
 サイファは無表情で言う。けれど、ユールベルは引かなかった。
「簡単じゃなかったこと、おじさまなら知っているはずです。いくら縋っても私を見てくれなくて、拒絶されて、それでもずっと諦めきれなかった。そんな私の気持ちを融かしてくれたのがジョシュだったの。逃げ込める場所じゃなくて、一緒に過ごす時間が欲しいと思えるようになったの。一緒に生きていくのなら、私はジョシュがいい」
 半ばむきになって、懸命に訴えかける。
 サイファはふっと笑った。
「ユールベル、君の気持ちはわかった。だが、ラグランジェの名を捨てるとどうなるか、君は正しく理解しているのかな?」
「……特別扱いされなくなる?」
 ユールベルは少し考えて答えた。
 ラグランジェというだけで、多少の無理が通ることは知っている。研究所でもそれは実感していた。新人のユールベルが特別研究チームに配属されたのが、何よりの証左である。
「そう、それも影響のひとつだ」
 サイファはゆっくりと肯定した。そして、一呼吸おいて続ける。
「加えて言うならば、私も表立って君を助けることができなくなる。もうラグランジェ家の人間ではなくなるのだから……わかるね?」
「俺が守ります」
 ユールベルが口を開くより先に、ジョシュが一歩前に踏み出してそう言った。強い意志の漲る眼差しを、まっすぐサイファに送る。サイファも鮮やかな青の瞳でジョシュを見つめ返す。二人とも目を逸らそうとしなかった。ジョシュの頬に幾筋かの汗が伝う。と、サイファがフッとおかしそうに小さく笑った。
「ジョシュでは些か頼りない気がするな」
「そんなこと……は……」
 ジョシュの声は次第に弱々しくなり、やがて唇を噛んでうつむいた。そんな彼を見ながら、サイファは涼しい顔でソファの背もたれに身を預けている。いったい彼が何を考えているのか、ユールベルにはわからなかった。
「わ、たし……」
 息が詰まりそうになりながら、震える声で切り出す。みんなの視線が一斉に向けられた。少し怯みつつも、逃げることなく、静かな口調で噛みしめるように述べていく。
「私、誰かに守られなくても生きていけるくらい強くなりたい。そうなれるように努力するつもりでいるわ。でも……」
 そこでいったん言葉を切ると、小さく息を吸い、顔を上げてサイファを見据える。
「いざというときは、ジョシュが守ってくれると信じているから」
 彼は決して頼りなくなんかない。
 あのときだって、誰よりも必死にレイモンドから守ってくれたのだから——。

「なんか……いきなりこんなことになるなんてな……」
 ジョシュは困惑を露わにしながら、濃紺色の空を仰ぎ見た。無数の星のきらめきが二人を照らす。空気はだいぶ冷え込んでおり、緩やかに頬を掠めるたび、火照ったそこから熱を奪っていった。
「きっと、アンソニーとおじさまの策略だったのね」
「ったく、勝手なことを……」
 今にして思えば、サイファの厳しい言葉もこの結果を誘導していたとしか考えられない。けれど、それは自分たち二人のことを慮ってのことだろう。ユールベルはそっと隣に視線を向ける。まだ眉を寄せているジョシュの表情に、少し不安が湧き上がってきた。
「後悔しているの?」
「いや、後悔はしていない。……ユールベルは?」
「後悔していないわ」
 二人は顔を見合わせて小さく笑った。
 ジョシュは包み込むようにユールベルの手を握る。今朝のぎこちなさはもう消えてきた。ユールベルも、今朝は彼と離れることしか考えていなかったのに——。流されてしまった気がしないでもないが、後悔はしていないし、気持ちがすっと軽くなったように感じていた。彼の手のあたたかさに応えるように、そっと力をこめて握り返した。


患者

 コンコン——。
 ユールベルは息を吸い込んで決意を固めると、立て付けの悪い扉をノックした。
「入れ」
 すぐに、中から短い返事が聞こえた。相変わらず愛想のかけらもない声である。しかし、それさえも懐かしく感じてしまうくらい、長い間、ここを訪れていなかった。ユールベルはもう一度、深呼吸すると、ゆっくりと扉を引き開いた。
 机に向かい本を読んでいたラウルは、ページを繰る手を止め、椅子を回して訪問者の方に体を向ける。そして、ユールベルの姿を認識すると、無表情のまま僅かに眉を寄せた。
「座れ」
 そう言って、顎で丸椅子を指し示す。
 ユールベルは引き戸を閉じて、素直に彼の前の椅子に座った。ギシ、と小さな軋み音が響く。
「おまえほど言うことを聞かない患者もいない」
「うそつき。私以外に患者なんていないくせに」
 溜息まじりで落とされた言葉に、間髪入れずそう言い返したが、ラウルは何の反応も示さなかった。いつものように、無言でユールベルの頭を引き寄せると、抱え込むようにして後頭部の包帯の結び目をほどこうとする。が、いつになく手こずっているようだ。
「下手だな」
「えっ?」
「この包帯の結び方だ」
 それまではユールベル自身やアンソニーが結んでいたが、最近ではジョシュが結んでいる。決して下手ということはないだろう。ただ、固く結んでほしいというお願いをきいてくれているだけだ。反論したい気持ちはあったが、今はあえて口をつぐんだ。
 広い胸に両手を置いたまま、あたたかさと鼓動を感じながら目を閉じる。
 ラウルはしばらく結び目と格闘して、何とかほどくと、大きく手を回しながら包帯を巻き取っていく。覆われていた部分が露わになり、外気に触れてひやりとした。すぐに彼はユールベルの肩を押して体を離すと、手を洗って戸棚から薬と包帯を取り出し、左目とそのまわりを順に診察する。
「目のまわりが少しかぶれている。これ以上ひどくなりたくないなら、こまめに医者に診せろ。私でなくても構わん」
 そう言うと、手早く薬を塗り、新品の包帯を巻き付けていく。そして、再び頭を引き寄せようとするが、ユールベルはラウルの胸を押し返してそれを拒んだ。怪訝な眼差しを送るラウルに、何も答えないまま、丸椅子をゆっくり回して背中を向ける。ラウルも何も言わず、その後頭部に手を伸ばして包帯を結び始めた。
「私、これからもラウルに診てもらうわ」
「だったら真面目に通ってこい」
「ええ、そうするつもり……」
 ユールベルは緊張を緩めるように小さく呼吸をして、言葉を継ぐ。
「私、もうすぐ結婚するの」
 包帯を結ぶラウルの手が止まった。しばらく無言で固まったあと、再び手を動かし始める。
「本当なのか?」
「信じられない?」
 ユールベルは思わず挑発的な口調で言い返した。しかし、わかっているのかいないのか、ラウルはますます神経を逆なでするようなことを言う。
「当てつけか? それとも自棄か?」
「ひどい自惚れね」
 ユールベルは呆れかえった。包帯を結び終わってラウルの手が離れると、くるりと椅子を回す。緩やかなウェーブを描いた金色の髪とともに、後頭部で真新しい包帯がふわりと揺れ、再びラウルに真正面から相対した。濃色の瞳を睨みつけて言う。
「おめでとうくらい言えないの?」
「めでたいかどうかわからん」
 ラウルは素っ気なく答え、包帯の残りと薬を片付け始める。
「……相手は誰だ」
「あなたは知らないと思うけど、私と同じ研究所で働いている人よ。その人はラグランジェ家の人間ではないから、私もラグランジェ家を出ることになったの。おじさまにも許可をもらったわ」
 ユールベルは淡々と説明した。そして、相槌すら打たない無表情な横顔を見据えて話を続ける。
「私、ようやく見つけたの。逃げ込める場所じゃなくて、縋りたい人じゃなくて、一緒に生きていこうと思える人。なぜだかわからないけど、彼と一緒にいると、虚しい気持ちにならずに、穏やかな気持ちでいられるから」
「そうか……」
 ラウルはその一言だけ落とすと、机に向かった。
 ユールベルは目を細めて広い背中を見つめた。そして、音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると、その背中に小さくお辞儀をし、まっすぐ出入り口に歩を進めて扉に手を掛けた。そのとき——。
「ユールベル」
 不意に名前を呼ばれて振り返る。しかし、彼は机に向かったまま、こちらに目を向けようともしなかった。どういうつもりなのかと怪訝に眉をひそめる。長い沈黙が続いたあと、小さくラウルの口が開いた。
「幸せになれ」
 瞬間、ユールベルの右目から涙が溢れそうになった。すんでのところでそれを堪えると、もう一度小さくお辞儀をし、うつむいたまま医務室を出て扉を閉めた。そして、早足でそこから離れると、胸に手を当てて深呼吸しながら顔を上げる。

 ありがとう。
 これまで拒絶し続けてくれて。
 多分、あなたは優しかった——。

 今度こそ本当に大丈夫だと、ただの患者になれると、ようやく心からそう思えた。ゆっくりと階段を下りて外に出ると、目映いばかりの鮮やかな青空を仰ぎ、白いワンピースをひらめかせながら王宮をあとにする。その足取りは、今までにないくらい軽かった。



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