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理由

 ふー……。
 手持ちの仕事が一段落したジョシュは、細く息を吐いて椅子にもたれかかった。背筋を伸ばしながら、何とはなしに奥へ続く通路に目を向ける。見えるわけでないことはわかっていたが、それでもいつも無意識に目を向けてしまうのだ。
 あいつ、どうしてるかな——。
 僅かに眉を寄せながら再び溜息をつくと、目を閉じて彼女の姿を思い浮かべた。

 アカデミーを卒業したユールベルが、正式に魔導科学技術研究所に勤務するようになったのが約一ヶ月前のことだ。同時に配属先が伝えられたが、それは誰もが驚かざるをえない異例のものだった。
 彼女の配属先は、レベルC 特別研究チーム——。
 研修のときと違うチームに配属されることは通例であり、ジョシュも覚悟はしていたが、異例なのは彼女が配属されたそのチームである。研究所でも限られたものしか入室か許可されていない、立入制限区域で研究を行う特別チームになのだ。そこでは機密事項を含む高度な研究が行われていることもあり、相応の実績を上げ、なおかつ身辺がクリーンであると判断された所員のみが配属される。新人が配属されることなど通常はありえない。誰が考えてもラグランジェ家の力が働いているとしか思えなかった。
 おそらくはサイファの仕業だろう。
 しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。表沙汰にはなっていないものの、研修のときに、彼女はラグランジェの名のために襲われかけたことがあった。今回の配属は、二度とそのような目に遭わせないための配慮なのだろう、とジョシュは好意的に解釈していた。完璧ではないにしろ、一般フロアと比べて安全であることには違いない。セキュリティはしっかりしているし、何より、特別チームにはレイモンドのような愚か者はいないはずである。
 問題は、ジョシュがそこに立ち入る権限を持っていないことだ。
 当然のように仕事上の接点もなくなり、一ヶ月も経つというのに、彼女とはまだ言葉を交わしたことすらない。何度か廊下を通るのを見かけたことはあるが、勤務中では、用もないのに追いかけて声をかけることなど出来はしない。もっとも、立入制限区域への入室を許可されているサイラスは、勤務中にときどき用もなく彼女の様子を見に行っているようだが……。
 せめて食堂で会えないかと、行くたびに彼女の姿を探しているが、一度も見つけたことはなかった。食堂ではなく自席で食べているのかもしれない。特別研究チームにはそうする人が多いという話を聞いたことがある。彼女もまわりに合わせている可能性はあるだろう。

 昼休憩の時間になり、ジョシュはひとりで食堂に向かった。スパゲティとサラダの載ったプレートを持ち、あたりをぐるりと見まわして、残り少ない空席を見つけようとする。同時にユールベルの姿も探すが、それは習慣のようなものであり、もはやほとんど期待はしていなかった。
 しかし、その日——ついに見つけた。
 一瞬、我が目を疑ったが、見間違いであるはずがない。顔はよく見えないものの、腰近くまである緩いウェーブを描いた金の髪も、後頭部で結ばれた白い包帯も、間違いなく彼女のものである。ジョシュはそのテーブルの前に立つと、少し緊張しながら、窓際にひとりで座っている彼女に声を掛けた。
「ここ、いいか?」
 ユールベルは驚いたように顔を上げた。呆然としながらも、小さくこくりと頷く。
 ジョシュは冷静を装って席に着いた。
「元気でやってるか?」
「ええ」
「そうか、良かった」
 素っ気ないくらいの短い会話を交わすと、ジョシュはフォークを手に取り、黙々とスパゲティを食べ始めた。しかし、半分ほど口にしたところで手を止めると、そっと彼女に目を向けて尋ねる。
「おまえ、いつも姿を見ないけど、食堂には来てないのか?」
「食堂で食べているけれど、お昼休み、ずれることが多いから」
 その理由にジョシュは納得した。基本的に、特別研究チームというのは、研究のこととなると寝食を忘れるような人間が多い。彼らにとっては昼休憩など重要ではないのだろう。
「大変だな」
「食堂が空いていて助かっているわ」
「それは言えるかもな」
 ジョシュは小さく笑いながら言った。つられるように、彼女の顔も僅かに綻ぶ。それを見たジョシュの顔はほんのりと熱を帯びた。彼女に悟られないようにうつむくと、黙々と冷たいサラダを口に運ぶ。
「ごめんなさい」
「えっ?」
 不意に落とされた小さな謝罪に、ジョシュは驚いて顔を上げた。そこには、何かをこらえるような、彼女の沈鬱な表情があった。
「新人が特別研究チームなんて、異例だって聞いたわ」
「そんなこと俺は気にしてない。おまえも気にするな。謝る必要なんてないんだ」
 彼女がこういうことを気にするようになったのは、おそらく、研修のときにジョシュが冷たく当たったせいである。その理由がラグランジェ家にあることを知り、彼女は自分を責めるようになったのだ。
「おじさまには抗議したけれど、聞き入れてもらえなかった」
「おまえを守るために必要だと思ってやったことなんだろう」
 ジョシュは腹立たしくもサイファの肩を持つような発言をしてしまう。それだけ必死だった。しかし、その甲斐もなく、彼女はいまだに表情を曇らせたままうつむいていた。
「もしかして、誰かに何か言われたのか?」
 眉をひそめたジョシュの問いに、ユールベルは小さく首を横に振った。
「みんな良くしてくれるわ」
「だったら一人で気に病むな。おまえは自分に出来ることを精一杯やればいい」
 それは自身のことを棚に上げた発言だった。いつも一人で後ろ向きなことばかり考え、自分に嫌気が差し、他人に当たり散らしている。そんな人間が言ったところで、説得力などあるはずもない——。
 しかし、ユールベルはこくりと真摯に頷いた。
 そのことで、ジョシュは逆に自分の方が励まされたように感じた。単なる自己満足かもしれないが、彼女の力になれたことが嬉しかったのかもしれない。自分が認められたように思えたのかもしれない。ほっと安堵の息をつくと、再びスパゲティを口に運び始めた。

 カタン——。
 彼女より先に食べ終わったジョシュは、どうしようかと思案しながらフォークを置いた。
 このまま席を立ってさよならしては、今度いつ会えるのかわからない。この調子だと数ヶ月後ということも十分に考えられる。それに、今日のように運良く会えたとしても、こんな短い会話だけでは、自分と彼女の関係は何ひとつ変わりはしないのだ。だとしたら——。
「今度の休日、どこか行かないか?」
「……えっ?」
 意を決して切り出したジョシュの耳に、明らかに戸惑いを含んだ声が届いた。彼女は訝しげに言葉を繋ぐ。
「どうして?」
「どうしてって……」
 まさか理由を訊かれるとは思わず、今度はジョシュが戸惑った。しかし、考えてみれば随分と唐突な話であり、不審に思われても当然のことだろう。もしかすると、レイモンドとのことがあったので、この手の話には警戒しているのかもしれない。
 俺は、あいつとは違う——。
 ラグランジェの名前などに興味はない。そんなもののために彼女に近づこうとしているわけではない。ジョシュは斜め下に視線を落とすと、テーブルに載せた手をギュッと握りしめた。
「好きだからだよ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、プレートを持って席を立ち、彼女の視線から逃れるように背を向ける。
「今度の休日、朝9時に研究所の前で待ってる」
 ぶっきらぼうな口調で一方的にそう告げると、彼女の返事を聞かないまま、返却口に向かってその場から足早に立ち去った。彼女がどんな顔をしているのか気になったものの、それを知るのが怖くて、食堂を出るまで後ろを振り返ることも出来なかった。


再会

「朝9時って何だよ……」
 ジョシュは研究所の前で塀に寄り掛かりながら、大きく溜息をついてうなだれた。
 今度の休日、朝9時に——。
 とっさにそう言ってしまったものの、遠出するわけでもないのに、朝9時に待ち合わせなどどう考えても早すぎる。子供でもこんなに早く遊びに行きはしない。住宅街から離れた場所柄も関係しているのだろうが、実際、まわりにはほとんど人影もなく閑散としていた。
 それ以前に、一方的に約束を押し付けたことが一番の問題である。いや、断る隙すら与えなかったのだから、そもそも約束にさえならないのだ。臆病ゆえにそんな態度をとってしまったのだが、彼女の目にはさぞや傲慢に映ったことだろう。もしかすると、レイモンドとたいして変わらない男だと思われたかもしれない——そのおぞましい想像を否定するように、必死にブンブンと首を横に振った。
 腕時計に目を落とす。もう間もなく9時である。
 ジョシュは青空を大きく仰ぎ見て、細く長く溜息をついた。彼女は来ないかもしれない。来なくても当然だと思う。それでも一応10時くらいまでは待ってみよう、そう考えたそのとき——。
「ごめんなさい、遅くなって」
 ユールベルが駆け足でやってきた。少し息を切らせながらそう言う。薄手の白いワンピースがひらひらと揺れて目に眩しい。
「……来たのか?」
「どういう意味?」
「あ、いや……」
 ユールベルは怪訝に小首を傾げて、ジョシュをじっと見つめている。来いと言われて来たのに、来たのかなどと問われては、確かに不安にもなるだろう。慌てて、ジョシュは少々ぎこちない笑顔で取り繕った。
 しかし——。
 彼女は嫌ではなかったのだろうか。嫌だったが仕方なく来たのだろうか。好きだからと言ったことに対しては、どう思っているのだろうか。次々と疑問が頭に浮かぶが、どれも口には出せなかった。
「それで、どこへ行くの?」
「……え?」
 ジョシュは大きく瞬きをして、口もとを引きつらせたまま硬直した。ユールベルを誘うことで頭がいっぱいになってしまい、肝心なその後について何も考えていなかったことに、彼はこのときになってようやく気がついた。

「悪い、こんなところしか思いつかなくて……店はまだ開いてないし……」
「人の多いところは苦手だから、こういうところの方がいいわ」
 そこは公園だった。広々とした芝生の奥に、大きな湖が続いている。まだ午前中のためかあまり人は多くなく、ランニングしている人、ボール遊びをしている人、散歩をしている人、木陰のベンチに座って読書をしている人が、ちらほらと目につく程度である。
 二人は木陰の下に、ジョシュの上着をひいて座っていた。
 ユールベルは軽く膝を抱え、ぼんやりと青い空を見上げている。緩やかなウェーブを描いた金の髪が小さく揺れ、後頭部で結ばれた白い包帯もひらひらと舞う。その横顔を見つめながら、ジョシュは出来るだけ何気ない口調で切り出した。
「卒業おめでとう」
 ユールベルはふわりと髪を揺らして振り向いた。半開きの口できょとんとしたあと、少し気恥ずかしそうにうつむき、小さな声で「ありがとう」と応じる。
「首席卒業だって? なんか代表で挨拶したってサイラスから聞いた」
「私、ああいうのは苦手なのに、辞退は許してもらえなかったから……」
 彼女はますます深くうつむくと、膝を引き寄せて顔を埋める。その照れたような仕草が可愛くて、ジョシュは小さく笑みをこぼした。
「サイラスとはよく会っているのか?」
「今はときどき様子を見に来てくれるだけ」
 ジョシュもそれほど頻繁にサイラスと会っているわけではないが、彼はそのたびにユールベルの話をしていた。その内容から察するに、彼女がアカデミーを卒業するまでは、毎日のように会っていたようだ。今は「ときどき」ということらしいが、週に2、3回は顔を合わせているのだろう。彼の話だけが今の彼女を知る唯一の手掛かりであり、その点ではとてもありがたく感じていた。しかし、同時に、自分自身に対する不甲斐なさも感じずにはいられなかった。
 サイラスには水をあけられるばかりだな——。
 彼は立入制限区域に入る許可を持っており、ときどき特別研究チームの手伝いをしているようだった。今はアカデミーの教師がメインであるが、約束の4年を終えれば、おそらくは正式に特別研究チームへ配属されるのだろう。いまだに下っ端の自分とは雲泥の差である。
 そんな人間には、ユールベルと会う資格はない。
 まるで現実にそう諭されているかのようだった。しかし、今日彼女に会って、諦めたくないという思いをいっそう強くした。勝手に卑屈になって身を引くなんてことはしたくない。いや、もうしないと決めている。だからといって焦ることも禁物だ。レイモンドの件で傷ついているだろう彼女を、意図せず傷つけてしまう結果になりかねないのだから——。

「やあ、ジョシュにユールベルじゃないか。こんなところで何をやってるんだ」
 ビクリとして振り返ったジョシュは、その声の主を目にし、思いきり顔をこわばらせて絶句した。ややあって我にかえると、慌てて立ち上がり、ユールベルをかばうように彼の前に立ちふさがる。
「レイモンド……おまえこそ、どういうつもりだ」
「この格好を見たらわかるだろう。ランニングだよ。研究ばかりしているひょろっこいおまえとは違って、俺はこの体をつくるために相応の努力しているのさ」
 確かに彼はランニングシャツに短パンという、いかにもな格好をしていた。あまり気にしたこともなかったが、剥き出しになった彼の腕や脚は、適度に筋肉がついていてたくましく見える。だからといって、彼の言うことを鵜呑みにはできない。
「そんなこと言って、何かたくらんでるんじゃないだろうな」
「悪いが、今は他にターゲットがいるんでね」
 そう言って、レイモンドはフッと笑って口もとを斜めにする。
「ジョシュ、研究所での君の態度は忘れていない。覚悟しておけよ。結果的にラグランジェ本家の次期当主に唾を吐いたことになるんだからな」
 その意味が掴めず、ジョシュは眉をひそめる。しかし、ユールベルにはすぐにわかったようで、ジョシュの後ろに座ったまま、じっと上目遣いにレイモンドを睨んでいた。
「あなた……、本当におじさまに殺されるわよ」
「自由恋愛を妨害する権利が彼にあるとでも?」
「あなたは自由でも、相手にとっては不自由だわ」
「君のときのような強引な手を使うつもりはないさ。何せ相手は子供だからな。今度はじっくりと時間をかけて口説いていくつもりだ」
 二人の会話を聞いているうちに、ジョシュにも話が見えてきた。
 どうやらレイモンドは、ラグランジェ家当主——すなわちサイファ——の娘と結婚して、自分が次期当主に収まるつもりらしい。サイファに悪感情しか持たれていないであろう彼が、ラグランジェ家に入ることなど、ましてや次期当主として迎えられるなど、到底あり得る話ではないと誰もが思うはずだ。しかし、彼がそのつもりで行動を起こすのなら、ターゲットの娘が無事で済むかが心配である。強引な手を使わないという言葉を信じていいかわからないし、もしそうだとしても、子供ならば表面的な優しさにコロリと騙される可能性も高いだろう——とジョシュは思ったのだが、ユールベルの考えは違ったようだ。確信したような強い眼差しで断言する。
「彼女は私ほど愚かじゃない。絶対にあなたの思いどおりになんかならないわ」
「ふむ……なるほど……」
 レイモンドはゆっくりと右手で顎を掴んで考え込むと、やがて一人納得したように頷き、真面目な面持ちでユールベルを見つめて自分の胸に手を当てた。
「俺にも情はある。君が泣いて謝るのなら、当主の座は諦めて君と結婚してやってもいい」
 何を勘違いしたのか、それともわざとなのか、上から目線でありえないくらい勝手なことを言う。ユールベルは何とも言えない微妙な表情で言葉を失っていた。彼の身勝手さをよく知っているジョシュも、さすがに開いた口がふさがらない。
「俺としてもロリコン趣味はないんだ。あんな実年齢以上に子供っぽいガキなんて、当主の娘という肩書きさえなければ相手をする気も起きないさ。その点、君はいろいろと楽しませてくれそうだからな」
 レイモンドはそう言うと、いやらしく片方の口角を吊り上げ、舐め回すようなねっとしとした視線をユールベルに絡ませる。まるで白いワンピースの中の肢体を、その目に映しているかのようだった。彼女はぞくりと身を震わせると、自分の腕を抱え、その視線から逃れるように大きく顔を背けてうつむいた。緩やかなウェーブを描いた髪がはらりと落ち、彼女の表情を隠す。
「やめろ!!」
 ジョシュはあらためて二人の間に割り込むと、両腕を広げ、レイモンドの視界から必死に彼女を隠そうとした。そして、ありったけの嫌悪感を瞳に込め、斬りつけるように激しく睨む。腹立たしいと思ったことは数えきれないほどあるが、ここまで誰かを憎いと思ったのは初めてかもしれない。いっそサイファに殺されてしまえとさえ思った。
 しかし、レイモンドは痛くも痒くもないようで、小馬鹿にしたように鼻先でフッと笑う。
「相変わらず姫を護る騎士か? どうせそれ以上の進展もないんだろう」
「……だったら何だ」
 背後のユールベルを気にしながら、ジョシュは小さな声でぼそりと言う。
 そんなジョシュを見て、嫌がらせのように、レイモンドはよりいっそう声を大きく響かせる。
「残念だったなぁ? せっかくユールベルを抱かせてやる約束をしてたのに、俺がこんなことになったせいで約束がおじゃんになって」
 ジョシュは目を見開き、息をのんで顔を真っ赤にした。
「やっ……約束なんてしてないだろう! おまえが勝手に……!」
「ま、せいぜい一人で頑張ることだな。アドバイスくらいならしてやるよ」
「うるさいっ!!」
 ジョシュがいきり立てば立つほど、レイモンドは愉快そうに笑う。その不快な笑い声は、広い空に高らかに響いた。ひとしきり笑うと、ジョシュの肩を軽く押しのけ、腰を屈めてユールベルを覗き込みながら白い歯を見せる。
「ユールベル、その気になったら王宮を訪ねてきてくれ。間違っても、こんな出世の見込みもないような男なんて相手にするなよ」
 ジョシュが反撃して押し返そうとすると、レイモンドはひょいと身軽に避けて数歩後退する。そして、ランニングのポーズをとって足踏みを始めると、じゃあなと右手を上げて、何事もなかったかのように足どり軽く湖の方へ走っていった。

 ジョシュはおずおずとユールベルに振り返った。何も言わずにじっとジョシュを見上げている、感情の窺えないその瞳に怯えながら、誤解を解こうとあたふたと両手を動かしながら口を開く。
「あ……あのな、レイモンドが言った約束とか何とか、あれ、俺、そんな約束なんてしてないから。あいつが一方的に言ってきただけで、俺はそんなつもりなくて……」
 必死になればなるほど、出来の悪い言い訳のようになっていく。そのみっともなさに耐えきれなくなり、思わず頭を抱えて彼女に背を向けた。
「私は……」
 遠慮がちに切り出された彼女の声に、ジョシュの鼓動は大きくドクンと打った。どんな言葉をぶつけられるのか怖かった。背筋が凍り付くような冷たさと、頭から熱湯をかぶったような熱さを同時に感じ、何も考えられないほどに目眩がした。しかし——。
「私は、ジョシュのことを信じているから」
 彼女は静かな声で噛みしめるようにそう言った。驚いてジョシュは振り向く。
「信じて……くれるのか?」
「あなたはそんなことを望む人じゃないもの」
「…………」
 深い森の湖のような瞳で見つめながら、まっすぐそう言ってくれる彼女に、ジョシュは二の句が継げなかった。眉を寄せてうつむき、額に右手を押し当てる。一度は忘れようとした罪悪感が、急に胸の内を支配して、息が出来ないほどに苦しくなる。
「どうしたの?」
「……夢を、ときどき見るんだ」
 話が見えないユールベルは、地面に手をついて身を乗り出し、不思議そうに下からじっと覗き込む。しかし、ジョシュは彼女を見ることができず、顔をそらして、額を押さえていた手で両目を覆った。ずっと隠してきたことを、あふれくる感情にのせて吐露する。
「場面はあのときの資料室で……だけど、ユールベルに跨がっているのは、レイモンドじゃなく俺で……」
「夢、でしょう?」
 そう、現実ではなく夢である。だけど、それは自分自身が見せているもので——。
「何度も見るってことは、どこか俺の願望が入ってるのかもしれない」
「……もしかして、以前、私を避けていたのって、これが原因なの?」
 訥々と紡がれる疑問に、ジョシュは顔を隠したまま小さく頷いた。その夢を見るようになってからは、彼女への罪悪感と、自分に対する嫌悪感とで、まともに彼女と接することが出来なくなった。いや、彼女と接していい人間ではないように感じたのだ。
「そんなことだったなんて……」
「そんなことって、おまえ……」
 半ば呆れたように溜息まじりに言われ、思わずジョシュは目を覆っていた手を外し、困惑ぎみに彼女を見下ろして言い返す。しかし彼女は淡々と続ける。
「夢を見ることと実際に行動を起こすことは違うわ」
「それは、そうだけど……」
 ジョシュは複雑な表情で眉を寄せた。確かに現実と夢とでは重みが違うが、夢だからといって気にならないわけではないだろう。きっと嫌な思いをしているに違いない。
「言わなければわからなかったのに」
「……嫌な話を聞かせて悪かった」
 ジョシュは彼女の前に膝を折って座り、うなだれるように頭を下げる。ユールベルは無表情のまま首を横に振った。
「俺を、許してくれるか?」
「あなたは何も悪いことなんてしていない」
 それが本心かどうかはわからない。しかし、彼女が自分のことを否定しないのならば、勝手に先回りして自ら身を引くようなことはしたくないし、してはならないと思う。
 だから、俺は——。
 芝生のうえで握りしめた手が汗ばんできた。ぐっと力を込めて握り直す。そして、しばらく考えを巡らせると、少し顔を上げ、ごくりと唾を飲み込んでから口を開く。
「じゃあ、来週も、会ってくれるか……?」
 ユールベルは瞬きをしてきょとんとした。そして小さくこくりと頷く。相変わらずの無表情だったが、ジョシュがほっとして緊張を解くと、彼女の表情も少し緩んだように——わずかに微笑んだように見えた。


花壇

「一人でウチに乗り込んでくるなんて、おにいさん結構いい度胸してるよね」
「度胸って何だよ」
「姉さんとのことを僕に追及されるって思わなかった?」
「…………」

 初めて彼女と二人で休日を過ごしてから3週間、ジョシュは毎週ユールベルと会っていた。今までは公園など外で会っていたのだが、今日は彼女の家で会う約束をして、ここへやって来たのである。もちろん彼女の弟がいることは承知の上だ。むしろ、二人きりだったら彼女の家に上がることはなかったに違いない。彼女も警戒するだろうし、自分も遠慮しただろうと思う。
 彼女の思考は相変わらずわからないままだ。
 なぜ自分と会ってくれるのだろう。自分が好きだと言ったことに対してどう感じているのだろう。自分のことをどう思っているのだろう——。聞きたいことは山ほどあったが、実際に聞くことは躊躇われた。聞いた瞬間にすべてが失われてしまうような、そんな気がして怖かったのだ。
 ただ、少なくとも嫌われてはいないだろうという確信はあった。今はそれで十分である。レイモンドとのことが心の傷になっているかもしれない彼女には、慎重すぎるくらいに進めるのがちょうどいいはずだ。焦らずに少しずつ彼女との距離を縮めていけたらいい。そして、いずれは——。

「姉さんと付き合ってるの? その辺、イマイチはっきりしないんだけど」
 アンソニーはソファに座ったまま、膝に腕をのせて身を乗り出し、眉をひそめながらジョシュに尋ねる。
 付き合うというのが恋人になると同義ならば、現時点での答えは否としかいいようがない。彼女の気持ちは聞いていないし、毎週会っているのは確かだが、ただ並んで歩くだけで手さえ繋ぐことはないのだから。
 ジョシュは考え込んだまま返事をしなかったが、微妙に曇った表情を見て、アンソニーはだいたいのところを察したようだった。面倒くさそうに溜息をついて上体を起こす。
「ほんと焦れったくて仕方ないんだけど。子供の恋愛じゃあるまいし何やってんのかなぁ。おにいさんもう30近いんでしょう? いい大人っていうか、そろそろおじさんだよ?」
「おまえには関係ないだろう」
「相手が姉さんじゃなければね」
 アンソニーは頭の後ろで手を組みながら言った。
「僕としてはさ、先生一押しだったんだよね。姉さんには、先生みたいな優しくて穏やかな人がいいんじゃないかなって。まあ、先生にその気がなければ仕方ないんだけどさ。どうなんだろう? 先生って姉さんのこと好きじゃないのかなぁ?」
 ジョシュにとって、それはあまり考えたくないことだった。もしも、サイラスがユールベルに好意を寄せているとしたら、そして行動を起こしたとしたら、自分ではとても敵わないだろうと思う。そして、サイラスの方が彼女を幸せにできるのではないかと——。
「ねえ、先生に聞いてきてくれない?」
「自分で聞いてくればいいだろう」
 不安からか、思わずそんな突き放すような言い方をしてしまう。
 アンソニーは体を起こして前屈みになると、もの言いたげにじっとジョシュを見つめた。
「おにいさんは姉さんのこと好きなんだよね?」
「……ああ」
 あまりにも直球な質問にいささか動揺しながらも、ジョシュは正直に答えた。そのことはユールベル本人にも言ってあるし、アンソニーもとっくにわかっているようなので、今さら隠す必要はないだろうと思う。
「それで、どうしたいわけ?」
「どう、って言われても……」
「念のため言っておくけど、たいして本気でもないのに思わせぶりな態度をとったり、ちょっかいを出したりして、姉さんを傷つけることだけはやめてよね。そんなことをしたら、僕、絶対におにいさんのこと許さないから」
「俺は、本気だ」
 本気だからこそ、彼女に対してこれほど慎重になっているのだ。決して思わせぶりな態度をとっているつもりはない。しかし、アンソニーはまだ信用していないのか、険しい表情でぐいっと身を乗り出して問い詰める。
「全部まるごと受け止める覚悟はあるの?」
「……ああ」
 彼の迫力に気おされながらも、ジョシュは真剣な顔で頷く。にもかかわらず、アンソニーはソファにもたれかかって深く溜息をついた。僅かに顎を上げて、疑いの眼差しをジョシュに流す。
「本当にわかってるのかな……」
「何がだ? どういうことだ?」
 何か含みがありそうなアンソニーの言動に、ジョシュは眉をひそめた。
「ま、とりあえずおにいさんのこと信用しておく」
「あの、コーヒー……」
 背後からのユールベルの声に、ジョシュはビクリと体を震わせた。アンソニーと話しているうちに、彼女が隣の台所にいることをすっかり忘れてしまっていた。二人とも声をひそめていなかったように思うので、もしかしたら会話を聞かれてしまったかもしれない。
 ユールベルは無表情のまま、トレイにのせたコーヒーをテーブルの上に置いていく。
 ジョシュは息を詰めたままその横顔を窺い、特に意識している様子はなさそうだとわかると、ほっと小さく安堵の息をついた。
「ねえ姉さん、おにいさんがね、姉さんのこと……」
「わーっ!!!」
 アンソニーがニコニコしながらユールベルに話し始めると、ジョシュは血の気が引いて頭が真っ白になった。妨害するように大声を上げて、あたふたと両手を伸ばす。
「なに……?」
「い、いや……」
 ビクリとしたユールベルを見て、ジョシュは我に返った。不安の拭えないまま再びアンソニーに目を向けると、彼は白い歯を見せて悪戯っぽく笑っていた。またからかわれたのだと脱力する。
 それでも、本当にユールベルに言われてしまうよりはいいだろう。
 後ろめたいことは何もないが、それはいつかあらためて自分から彼女に伝えるべきことであり、こんな軽い調子で暴露されるのだけは勘弁してほしいと思った。

 ユールベルが淹れてくれたコーヒーを飲んで一息ついたあと、ジョシュは大きなガラス窓を開けて、コンクリートのベランダに出た。雲ひとつない鮮やかな青空から燦々と陽光が降り注ぎ、そのまぶしさに思わず目を細める。そして、あまり広くはないそこにしゃがみ、持ってきたビニール袋から中身をひとつずつ出して広げた。白いプランター、袋に入った土、肥料、スコップ、そして花の種である。
「何かと思ったら花壇だったんだ」
 窓際にしゃがんで覗き込みながら、アンソニーが呆れたように言う。
「女の子と会うのに花束を持ってくる人はいても、花壇を持ってくるのはおにいさんくらいじゃない?」
「そうかもな。どっちも花なんだし悪くはないだろう」
 正確には花壇でなく鉢植えであるが、些細なことであり、ジョシュはあえて訂正しなかった。両方の袖をまくり上げると、プランターに土と肥料を流し込み、黙々とスコップで整えていく。
「でも、もっと他にいいものがあると思うんだけど。初めてのプレゼントだよね?」
「私がお願いしたの」
 ジョシュの代わりに、アンソニーの隣に立つユールベルが答えた。
 そう、これは彼女が望んだことなのだ。別にジョシュの独断でプランターを抱えてきたわけではない。いくらなんでも、頼まれもしないのにこんなものを持ってきて押しつけるほどの図々しさは持ち合わせていなかった。
 一通りプランターの土をならして準備を整え、種をまき始めると、アンソニーも面白がって手伝い始めた。
「おにいさんって何となく無趣味な人かと思ってたなぁ」
「別にこれは趣味ってほどでもないけど……」
 一人暮らしの部屋はあまりに味気なく、また人恋しさも手伝ってか、何とはなしにプランターで花を育てるようになっただけである。特に詳しいわけではない。ただ適当に種をまいて水をやって草をむしると、それなりに花は咲いてくれた。花の種類にこだわりがないので、育てやすいものばかりを選んでいるからだろう。
 先週、そういう話をユールベルにしたら、意外なことに、彼女は自分も育ててみたいと言った。これまで彼女が自分から何かをしたいということはほとんどなく、何に関心があるのかもわからなかったので、少しでも彼女を知る手がかりを得られたことが言いようのないくらいに嬉しかった。
「適当に水をやってれば育つと思うけど、うまくいかなくても気にするなよ」
 念のため、窓際に立っているユールベルにそう釘を刺す。ジョシュも仕事が忙しかったときに少し枯らしたことがあったが、それだけでけっこう落ち込んでしまった記憶がある。できればそんな思いを彼女にはさせたくはないが、生物である以上、絶対に駄目にしない方法などないこともわかっていた。
「適当って……?」
「俺もあんまりよくわかってないけど、土が乾いてきたらやればいいんじゃないかと……あ、やりすぎもよくないからな。様子を見て調整していけばいいと思う」
 ユールベルは不安そうな面持ちながらもこくりと頷いた。
「おにいさん、どうせたびたび見に来るつもりなんだよね?」
 アンソニーは「どうせ」に力を込めて皮肉っぽく言う。確かに、彼女に任せきりにするのではなく、ときどきは成長具合を確かめに来た方がいいかもしれない。しかし——ジョシュは彼の眼差しから逃れるように、プランターを見つめたまま目を細めた。
「それは……ユールベルが望むのなら……」
「私は、ジョシュさえ迷惑でなければ……」
 呼応するように頭上から降ってきた彼女の声。
 ジョシュはドキリとしてそこに立つ彼女を見上げた。いつものように感情の窺えない表情をしていたが、少し視線を外して目を泳がせたり、心持ち肩をすくめて後ろで手を組んだりして、どこか落ち着きなく感じられた。まるで、恥じらっているかのように——。
 それは勝手な解釈かもしれない。
 しかし、来ることを許されたのは事実である。
 ジョシュは柔らかくふっと表情を緩めると、行くよ、と小さいながらもはっきりとした声で言った。

 ベランダに座るジョシュ、窓際にしゃがむアンソニー、その隣に立つユールベル——3人は、あたたかい日差しと緩やかなそよ風を感じながら、それぞれ無言でたたずんでいた。心地いい昼下がりが、眠気を運んでくる。ジョシュはあくびを噛み殺しながら、雲ひとつない穏やかな青空を見上げた。
「花が咲く頃にはどうなってるかなぁ」
 アンソニーはプランターを見つめながら、からかうような口調でなく、ぼんやりと独り言のようにそう言った。
 ジョシュも、ユールベルも、何も答えなかった。
 けれど、そこには気まずい空気はなく、ジョシュはうつむいたまま目を細めて、その近くて遠い未来のことをおぼろげに遠慮がちに思い描いた。


約束

 研究所の食堂で、ジョシュはいつものようにBセットを注文した。
 ユールベルに会えるのではないかと期待して、このところジョシュは少し遅めに来るようになったのだが、あの転機となった出会い以降は、一度も食堂では見かけていない。彼女は正規の休憩時間より後になることが多いのだろう。それだけに、あのとき会えたことは運命のような気さえしていた。
 少しだけ人波の引いた食堂をぐるりと見渡す。
 おそらくいないだろうと思っていたが、その日は窓際に彼女が座っていたのを見つけた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後頭部で結ばれた白い包帯——ジョシュの胸はそれだけで熱くなる。今にも走り出したい気持ちを抑えつつ、彼女の方へゆっくりと足を向けた。
 しかしその瞬間、ある光景を目にして、とっさに近くの柱に身を隠した。
 ユールベルの前にサイラスが座っていたのだ。
 別に隠れる必要はなかった。研究所の食堂で一緒に昼食をとっているだけで、やましい現場でも何でもない。二人ともジョシュの知り合いであり、声を掛けて同席を求めればいいだけのこと、邪魔をしたくなければ黙って離れればすむだけのこと。なのに——。
 ジョシュは柱の陰になった席に腰を下ろし、後ろめたさを感じつつも、二人からは見えないであろうその場所からこっそりと聞き耳を立てた。

「でも、そうはならないんじゃ……」
「前提条件が違うんだよ。限りなく絶対零度に近い温度で反応させれば、理論上は上手くいくはずなんだけど、実際に実験をするのは難しそうだね。今の研究所の設備では無理だって言われたよ」
 どうやら二人は研究の話をしているらしい。食事中までこんな話をしなくても、と思うものの、そういう会話が出来る二人をジョシュはうらやましく思った。ジョシュは、サイラスとも、ユールベルとも、真面目に研究の話をしたことなどほとんどない。自分にそれだけの知識も能力もないからだろう。
 しばらく研究の話が続いた。
 ジョシュの手にはフォークが握られているものの、ただ握っているだけで、サラダの上で微かに揺れながらとどまっている。背後の二人が気になって、食事をするどころではなかった。
「ねえ、ユールベルって休日は何をしてるの?」
 その質問にジョシュの心臓はドキリと跳ねる。
「別に……」
 ユールベルはごまかすように口ごもった。ジョシュの名前は出てこない。ほっとしたような、残念なような、相対した気持ちがジョシュの心に渦巻いた。それでも、今はこれでいいのだと自分に言い聞かせる。
 だが、話はこれで終わらなかった。
「じゃあさ、今度の休日、もし良かったらどこか遊びに行かない?」
「えっ……」
 気楽なサイラスの言葉と、戸惑いを隠せないユールベルの声。そのとき二人がどんな表情をしているのか、気になって仕方なかったが、柱の陰から顔を出すなどという危険なことはできない。ただフォークを握りしめたまま、奥歯を食いしばり、じっとどちらかの次の言葉を待つ。
「あ、別に無理しなくていいんだけど」
「そうじゃなくて、予定があるから……」
「そっか」
 彼女とは次の休日も会う約束をしている。予定とはおそらくそれのことだろう。サイラスの誘いより自分との約束を優先してくれたことに、ジョシュはほっと胸を撫で下ろした。が、それも一瞬のことである。
「じゃあ、その次の休日はどうかな?」
「ごめんなさい、その日も予定があるの……言い訳じゃなくて……」
 ユールベルは申し訳なさそうに言う。
 ジョシュはフォークの先を見つめて眉をひそめた。自分がユールベルと約束をしたのは次の休日だけである。いつも帰り際に次の約束を取り付けているのだが、その先の約束まではしたことがない。だから、彼女のその予定は、自分以外の誰かとの約束ということになる。もちろん、誰と休日を過ごしても彼女の自由なのだが——。
「そっか、じゃあ暇なときがあったら誘ってくれる?」
「ええ……」
 サイラスの声は明るいままだった。
 ジョシュは口を引き結んで、フォークをサラダに突き刺した。二人が楽しそうにとりとめのない話を続けるのを聞きながら、身を隠したまま、音を立てないようひっそりとサラダを口に運んだ。

 次の休日——。
 昼過ぎにユールベルと待ち合わせをして、公園を散歩したあと、彼女が希望したアイスクリーム屋へ向かった。彼女の方から行きたいことやしたいことを言ってきたのは初めてで、少しずつ打ち解けてきている証左かもしれないとジョシュの気持ちは弾んだ。
 アイスクリーム屋の店内に座っている客は、ほとんどが若い女性だった。あちらこちらから楽しそうなお喋りが聞こえてくる。その雰囲気には少しばかり居心地の悪さがあったものの、目の前でアイスクリームを口に運ぶ彼女を見ていると、やはり来て良かったと思わざるを得ない。
「アイスクリーム、好きなのか?」
「……多分、好き」
 下を向いたまま訥々と答えるユールベルの表情には、僅かに戸惑いが浮かんでいた。しかし、それさえも、ジョシュには可愛らしく感じられて、アイスクリームをつつきながら自然と顔がほころんでいた。

 アイスクリームを食べ終わって外に出ると、もうだいぶ日が傾き、地平近くの空が燃えるように赤く染まっていた。そろそろ帰らねばならない時間である。ジョシュは名残惜しさを感じつつ、彼女と並んで帰路につき、やがて研究所近くの交差路で足を止めた。そして、いつものように次の約束を取り付けようとする。
「再来週にまた会えるか?」
「……来週じゃないの?」
 ユールベルは不思議そうに聞き返し、少し不安そうにジョシュを見上げた。その深森の湖のような瞳にどきりとして、ジョシュは混乱した思考のままドギマギと質問を返す。
「来週は予定があるんじゃないのか?」
「別に、ないけれど」
「ないって……だってこの前おまえ……」
 そこまで言いかけて、ジョシュは慌てて口をつぐんだ。しかし、少し遅かったようである。ユールベルは怪訝な面持ちでジョシュを下から覗き込んだ。
「この前って?」
「あ、いや……食堂でサイラスと話してるのが聞こえて……」
 正確には「聞いていた」だが、言い訳がましく「聞こえた」と言ってしまう。もちろん、そんなことは見透かされているだろう。盗み聞きのようなまねをしたことで、非難されるかもしれないと不安になったが、彼女はただ困惑したように目を泳がせてうつむくだけだった。後頭部で結んだ白い包帯が緩やかにひらひらと揺れている。
「あれは、あなたと会うことになるだろうと思ったから……」
「えっ?」
 思わず口をついた短い声。
 視線を落としたままの彼女を見つめながら、ジョシュは気持ちを落ち着けて、彼女の言葉の意味をよく考えてみる。つまり——彼女には誰かと約束があったわけではなく、自分との約束のために予定を開けておいてくれたということで——。
 少しは、期待していいのか?
 次第に鼓動が速さを増し、そして強くなっていく。体から飛び出さんばかりの動きがはっきりと認識できる。それでも、精一杯の平静を装うと、僅かにうわずった声で言う。
「じゃあ、来週でいいな」
 ユールベルは小さく首を縦に振った。そして、ちらりと上目遣いにジョシュを窺う。視線が合うと、ジョシュは少し顔を赤らめながらぎこちなく笑いかけた。つられるように彼女も戸惑いがちに小さく笑った。
 少し冷たくなった風が、彼女の長い髪と白いワンピースをふわりと揺らす。
 ジョシュは彼女の方へ手を伸ばしたい衝動を抑えつつ、その手を小さく挙げ、またなと言って背を向けながら歩き出した。その足取りは軽い。薄暗くなった空を目を細めて仰ぐと、浮かれる気持ちを静めるように、大きく胸いっぱい深呼吸をした。


寂寥

「ユールベル! こっち!!」
 奥の席に座っていたターニャは、喫茶店に入ったユールベルを見つけると、少し腰を浮かして大きく手を振った。今まではあちこち撥ねた癖毛だったが、どういうわけかストレートヘアになっていたので、一瞬ユールベルは面食らったが、それを表情に出すことなく、呼ばれるまま彼女の前に腰を下ろす。
「ごめんね、休日に呼び出したりして」
「ううん……」
 不安げにそう答えたところで、ウエイトレスが注文をとりにきたので、少し考えてレモンティを頼む。そして、運ばれてきた水に少し口をつけて、小さく息をついた。
「久しぶりね。元気だった?」
 目の前のターニャは明るい笑顔を見せている。が、どことなくぎこちなく、落ち着きもなく、緊張しているように感じられた。
「何か話があるんじゃないの?」
「えっ、ああ、まあ……」
 ユールベルが水を向けると、彼女は困惑して目を泳がせた。しばらく眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて振り切るようにパッと笑顔を作った。
「ユールベルがどうしてるか気になったのも本当だから。しばらく会ってなくて、就職してからの話もほとんど聞いてなかったし、お仕事がんばってるかなーって」
「……ええ、それなりに」
 彼女の不自然な明るさを疑問に思いながら、ユールベルはぽつりと答えた。
「まわりの人とか大丈夫? 変な人いない?」
「みんないい人ばかりよ」
 今は——と心の中で付け加える。レイモンドのことは彼女に言ってなかったが、もう終わったことであり、あえて言う必要もないし言いたくもない。このことを言うべき相手がいるとすれば、レイモンドが次に狙いを定めているアンジェリカくらいである。
「あの先生とは仲良くしてる? ほら、えーと……」
 名前を忘れてしまったようで、ターニャは斜め上に視線を向けて記憶を辿る。しかし、それがサイラスのことだというのは、ユールベルにはすぐにわかった。
「先生とはときどきは会っているけど」
「そう、良かった」
 ターニャは安堵したように息をついた。彼女はなぜほとんど面識のないサイラスのことをそれほど気にするのだろうか。もやもやした気持ちになりながらも、あえて聞こうとはせず、何となくテーブルの上のグラスに視線を落とした。
 沈黙が重くなってきたところで、ユールベルの頼んだレモンティが運ばれてきた。スライスされたレモンを紅茶に沈めてそっと口をつける。その温かさにほっとして、少しだけ気持ちが軽くなった。
「ね、ケーキも頼まない? 遠慮しなくていいのよ?」
 ターニャは思いついたように勧めてくる。今日は彼女の奢りということなので、気を利かせてくれたのだろうが、どちらにしてもケーキまで頼むつもりはなかった。
「私、このあと用があるから」
「え? そうなの??」
「まだ一時間くらいは大丈夫だけど」
「そっか……」
 ターニャは少し考えたあと、残っていたミルクティを飲み干した。ティーカップをソーサに置くと、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐにユールベルを見つめる。
「私、ユールベルのこと、とても大切な友達だと思ってる」
 一言、一言、噛みしめるように繋いでいくと、大きく息を吸い、思い詰めたように表情を険しくして続ける。
「だから、私から、言っておかなくちゃって……」
 ただごとでなく緊張している彼女を見て、ユールベルは不安になってきた。あまりいい話でないことは容易に想像がつく。しかし、話の内容についてはまったく心当たりがなかった。僅かに眉を寄せながら、口を開こうとしている彼女の次の言葉を待つ。
「わ、私ね……今、レオナルドと付き合ってるの」
 ガタン——!
 ユールベルはテーブルに手をついて反射的に立ち上がった。顔をこわばらせて硬直する。思いもしないことに驚いたというのもあるが、それだけでないことは自分自身でよくわかっていた。
「ごめんなさい、あの……」
 ターニャは怯えたように身をすくめて目に涙を溜めていた。そんな彼女を見ていられなくて、ユールベルは下を向く。肩から髪がはらりと落ちて揺れた。
「どうして謝るの? あなたは何も悪くない」
 そう、ターニャは何も悪くない。レオナルドも悪くない。悪いのは他の誰でもなく、勝手に動揺している自分自身。今の私にはそんな資格もないのに——。
「だけど……」
「もう行くわ」
「待って!」
 ターニャの必死な声に追い縋られ、ユールベルは背を向けたまま足を止めた。緩いウェーブを描いた金色の髪がふわりと揺れ、後頭部の白い包帯がひらりと舞う。
「私たち、これからも友達よね?」
 ターニャがおずおずと問いかけると、ユールベルはぎこちなく小さな口を開く。
「ええ、何も変わらないわ……」
「だったらお願い、行かないで!」
「……今は、一人になりたいの」
 両手を顔で覆って静かに泣き崩れるターニャと、まだほのかに湯気の立ち上るレモンティを残し、ユールベルは足早に喫茶店を後にした。

 約束の時間よりだいぶ早く、次の待ち合わせ場所に着いた。近くの植え込みの煉瓦に座り、膝を抱えてそこに顔を埋める。前を通る人たちがちらちらと不思議そうに視線をよこすが、ユールベルにはそれを気にする余裕などなかった。通り過ぎる人たちの足音を聞きながら、膝を抱える手にぎゅっと力を込める。
 どれくらいの時間が過ぎたのかもわからず、時が止まったように感じていた、そのとき。
「ユールベル?」
 少し離れたところからジョシュの声が聞こえた。彼は急いで駆けつけてくると、隣にひざまずき、ユールベルの背中に手を置いて覗き込む。
「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
 優しくあたたかな声、あたたかな手。そのせいで、必死に凍らせようとしていた自分の気持ちが一気に氷解した。バッと勢いよく彼の首に腕を絡めて抱きつく。ジョシュはバランスを崩して尻もちをつきながらも、ユールベルの体をなんとか受け止めた。
「ど、どうしたんだよ……」
 ジョシュの声はうわずっていた。しかし、構うことなく、細い腕にぎゅっと力を込めて縋りつく。ピタリと寄せた体から体温と鼓動が伝わる。少し乱れた長い髪が、彼の背中側に落ちて揺れた。
「抱いて」
「……え?」

 チチチチチチ……。
 遠くに小鳥のさえずりが聞こえる。
 ユールベルは少し背中を丸め、膝を抱えるように体を横たえていた。強い日差しに照りつけられた足もとがジリジリと熱い。
「少しは落ち着いたか?」
 いつもと変わらないジョシュの口調。けれど、ユールベルは背を向けたまま何も答えなかった。頭上の木々がさわさわと擦れる音と、優しい草の匂いに包まれながら、小さな口をきゅっと結んで身を固くする。
「無理しなくてもいいわ」
「無理なんてしてない……まあ、かなり驚いたけど……」
 抱いて、少しでも私のことを想ってくれるなら——我を忘れてそんなことを求めてしまったユールベルを、ジョシュは理由も聞かずにこの公園へ連れてきてくれた。彼は大きな木陰に腰を下ろして空を見上げたが、ユールベルはとても彼の顔を見られず、その隣に寝転がりずっと背を向けていた。
「気持ちが沈んだときやつらいときは、外に出て青空を見上げるのが一番いい」
「……雨が降ってたら?」
「いつかは晴れるだろ」
 ジョシュは苦笑しながら答えた。その答えを、ユールベルはうらやましく思い、同時に彼との距離を大きく感じた。
「もうわかってると思うけれど、私、あなたが考えていたような無垢な女の子じゃない」
「別に、俺は……」
 ジョシュはそう反論しかけて口ごもった。ユールベルは淡々と続ける。
「あなたがそう誤解しているのはわかっていた。わかっていたけど否定しなかった。あなたの優しさを利用していたの。寂しかったから、一緒にいたかったから……だからごめんなさい。もうこれで終わりにするわ」
「ちょっと待てよ! なに言ってんだよ、勝手に終わらせるなよ!」
 ジョシュは焦ったように振り向いて言った。それでもユールベルは背を向けたまま動かない。少し呼吸をしてから、静かに話し始める。
「私、今朝、友達に会ってきたの。話があるって言われて」
 ジョシュは相槌も打たず黙りこくっていた。ユールベルから彼の姿は見えないが、いきなり話が変わって困惑しているだろうことは、何となく空気で伝わってくる。少し緊張して手元の芝を握りしめた。
「その友達、付き合ってるって……私が以前一緒に住んでいた人と」
「す……?!」
 ジョシュは素っ頓狂な声を上げかけて、それを呑み込んだ。
「……今でも、そいつのことが好きなのか?」
「優しくしてくれるから、寂しさを埋めるために利用していたのよ。きっと、最初からずっと……。好きな人は他にいたけれど、相手にしてもらえなかったから。でも、そういうのは良くないと思って自立しようとした。けれど無理だった。さっきみたいに友達に嫉妬したり、あなたを利用したり、弟にまで縋ったり……」
 ユールベルの声は次第に小さくなっていく。芝を握る手に力がこもり、ブチブチとちぎれる音がした。
「利用とか言うなよ。だいたい弟は家族なんだから遠慮することないだろう」
「そう、家族なの。家族だから許されない……あんなこと……」
「…………」
 張りつめた空気。ジョシュが背後で小さく息を呑んだ。ユールベルの発言は曖昧だったが、その言い方から何があったか察したのだろう。それでも構わないと思って口にしたのだから、覚悟はできている。ユールベルは芝を握る手を緩めた。
「ここまで聞いたら軽蔑する以外にないでしょう? もういいの」
「放っておけるかよ!」
 ジョシュは横たわるユールベルの両側に手をつき、真上から覗き込んで強く訴える。そろりと視線を上に向けたユールベルに、彼の真剣な眼差しが突き刺さった。
「俺と一緒にいたいって思ってくれたんだろう? それって俺のことを好きってことじゃないのか? それともまだ相手にしてくれなかったヤツに未練があるのか?」
「わからない……本当にわからないの……」
 必死に追及されて混乱する。言い逃れではなく、本当に自分の気持ちがわからなかった。ユールベルが潤んだ目を細めると、ジョシュは奥歯を噛みしめて苦しげに顔をしかめた。
「俺は、利用されたなんて思っていない。お互いに会いたいから会ってただけだろ? 嘘をついて騙してたわけでもないのにそんな言い方するなよ。俺のことを嫌ってるわけじゃないなら、これからも……」
「同情ならやめて。私もあなたも傷つくだけだから」
「同情じゃない。俺が終わりにしたくないだけだ!」
 今の彼がそう思っていることは間違いないだろうが、それはおそらく一時の感情に流されてのこと。だから、それに縋ってはいけないし、自分からきっぱりと終わらせなければならない。これ以上、彼に後悔させないように、自分が後悔しないように——。
「……来週、また会ってくれるか?」
 ジョシュが緊張した面持ちで問いかけてくる。
 ユールベルは彼から目を逸らすと、少し考え、やがてぎこちなくこくりと頷いた。



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