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年上

「ユールベル、卒業おめでとう!」
 ターニャは講堂から出てきたユールベルに駆け寄り、彼女が戸惑うのも構わずに思いきりぎゅっと抱きしめた。白いワンピースの裾がふわりと舞い、金の髪が揺れ、立ち上ったほのかな甘い匂いが鼻をくすぐる。
「卒業生代表の挨拶も良かったわよ」
「あれは俺が書いたようなものだ」
 ユールベルの後ろからついてきていたレオナルドが、自慢げに胸を張って割り込んできた。普段と変わらない格好をしているユールベルとは対照的に、新調したと思われる、高級そうな仕立ての良いスーツを身に着けていた。
「それどういう意味よ」
「何を言ったらいいかわからない、ってユールベルが悩んでたから、ネタ出ししてやったんだ。まあ、文章に起こしたのはユールベルだけどな」
 腰に手を当てて鼻高々のレオナルドに、ターニャは呆れた眼差しを送った。
「卒業できるかさえ危なかったのに、よくそんな余裕があったわね」
「卒業が決まってからの話だ!!」
 レオナルドは卒業証書の入った筒を握りしめ、顔を真っ赤にして言い返した。

 今日はアカデミーの卒業式である。
 元ルームメイトで友人のユールベルを祝うために、ターニャはここへやってきたのだ。もっとも、当事者である卒業生と教師以外の立ち入りは許可されていないため、式は外からこっそり覗いていただけである。だが、取り立てて派手なことを行うわけでもないので、声を聞くだけでも十分なくらいだった。
 長くはない厳粛な式が終わると、講堂のまわりは急に賑やかになった。外に出た卒業生たちのはしゃいだ声があちこちで上がる。ターニャたちの声も、その中のひとつだった。

「ユールベル、卒業おめでとう」
 ふと、背後から落ち着いた声が聞こえ、3人は会話を中断して振り返る。
 そこにいたのは、優しく微笑む温厚そうな男性だった。
 ターニャには見覚えのない人物であり、誰だろうかと不思議に思う。ユールベルの父親にしては若すぎるし、そもそも全く似ていない。第一、このぼさぼさ髪の冴えない男が、ラグランジェ家の人間であるとも思えない。
「ありがとう」
 考え込んでいるターニャをよそに、ユールベルは素直に淡々と応じた。
 ターニャは、その男性のことが気になりつつも、さすがに本人の目の前で「誰?」などと訊くことは躊躇われた。だが、レオナルドの方は、そんな気遣いなど微塵も持ち合わせていないようだ。
「おまえユールベルとどういう関係だ」
 単刀直入に、しかもあからさまな敵意を込めて、睨みつけるような視線で問いただす。年上の人間に対して、かなり失礼な態度といえるだろう。
「やめてレオナルド、この人は……」
「僕はサイラス=フェレッティ。アカデミーの魔導全科1年担任と、魔導科学技術研究所の研究員を兼務している。ユールベルとは研究所で知り合ったんだ」
 困惑したユールベルを制止して、相手の男性は笑みを崩すことなく端的に説明をした。それでもレオナルドは納得しなかったらしく、さらに険しい顔になり食ってかかる。
「教師が生徒に手を出していいと思っているのか」
 それはあまりにも飛躍した決めつけだった。サイラスは困ったように乾いた笑いを浮かべると、ユールベルに振り向いて肩を竦める。
「何か誤解しているみたいだね、君の……彼氏?」
「彼氏じゃなくて、親戚……」
 ユールベルは無表情でぼそりと答えた。
 それまで黙って聞いていたターニャは、その言葉を耳にして思わず噴き出した。しかし、すぐに咳払いしてそれをごまかす。レオナルドは、その様子を横目で見ながら、ムッと眉をひそめて睨んだ。
 サイラスは申し訳なさそうに微笑みながら、ユールベルに振り向いて口を開く。
「ごめんね、ユールベル。友達と一緒のところに声を掛けちゃって。これからアイスクリームでもどうかなと思ったんだけど、それはまた今度にするよ」
「ええ……私の方こそ、ごめんなさい……」
 ユールベルのその声には、どこか寂しそうな響きがあった。気のせいではないだろう。彼女の場合、表情にあまり動きはなくても、声には比較的素直に感情が表れるのだ——ターニャは確信してくすりと笑う。
「ユールベルは先生と行って。私からのお祝いは、また今度ってことで」
「おまえっ! 何を言って……」
 勢いよく突っかかってきたレオナルドの口を、ターニャは両手を伸ばして無理やりふさぎ、満面の笑みを浮かべて続ける。
「今日はレオナルドを祝ってあげることにするわ。だから、こっちは気にしないでね」
「えっ……あの……」
「それじゃーねっ!!」
 戸惑うユールベルに一方的にそう告げると、大きく手を振り、レオナルドの腕を引きながら逃げるように門に向かって走っていった。講堂前に残されたユールベルとサイラスは、呆気にとられ、去りゆく二人をただ立ちつくしたまま見送っていた。

「おい、どういうつもりなんだよ」
 アカデミーの門を出ると、レオナルドはむすっとした膨れ面を見せながら、前を歩くターニャにぶっきらぼうに尋ねた。ターニャは掴んでいた彼の手首を放すと、くるりと振り返り、その鼻先に人差し指を突きつけて言う。
「ユールベルが先生と過ごしたがってるって気づかなかったの?」
「あんな野暮ったい冴えないおっさんなんて、冗談じゃないぞ」
「大事なのは外見じゃなくて中身でしょ。いい人そうじゃない」
 嫌悪感を露わにしたレオナルドに、ターニャは反論する。
「ユールベルにはああいう穏やかで優しい人が似合ってるのよ。すごく大切にしてくれそうな感じがするし。あの二人はきっと上手くいくわ。うん、間違いない!」
 一人で盛り上がると、両手を組み合わせ、澄み渡った青空をうっとりと仰ぐ。
「なに勝手に決めつけてるんだよ」
「決めつけじゃなくて、女の勘よ」
「女の勘……おまえがね……」
 レオナルドは嘲笑まじりに口先で呟いた。
 その言葉が聞こえていたものの、彼の失礼な態度には慣れていたため、ターニャは気にすることなく受け流した。それより、他にもっと気になっていることがあるのだ。横目を彼に向け、遠慮がちにそろりと切り出す。
「ねぇ、余計なお世話かもしれないけど、いい加減ユールベルのこと諦めたら?」
「とっくに諦めてるさ。もう終わってるんだよ」
 レオナルドの答えは、拍子抜けするくらいあっさりとしていた。先ほどまで見せていた態度とは裏腹の、まるで何の未練もなさそうな口調である。ターニャは怪訝に眉をひそめて問い詰める。
「じゃあ、何でそんなにムキになるのよ」
「終わったからって、情までなくなったわけじゃない。あいつが不幸になるのは見たくない。いつか幸せになれることを願っている……それだけのことだ」
 そう語るレオナルドの眼差しは、ドキリとするくらいまっすぐで、真剣そのものだった。その言葉に嘘やごまかしはないだろう。別れた相手からこんなふうに思われるユールベルを、ターニャは少し羨ましく思う。
「だったら大人しく見守ることね。上手くいくものもいかなくなっちゃう」
「だからあんなおっさんじゃ、あいつが幸せになれないって言ってるんだ」
 レオナルドは相変わらず一方的に決めつけていた。先ほど羨ましいと思ったばかりなのに、ターニャはもうその気持ちを撤回したくなった。思いきり眉をしかめた不機嫌な顔を、グイッと背伸びして彼の鼻先に突きつける。
「そんなのわからないじゃない。ユールベルを信じて見守るの! いい?!」
「……わかったよ」
 ターニャの勢いに圧され、レオナルドは少し上体を引きながら、仕方なくといった感じでしぶしぶ返事をした。柔らかい金髪を掻き上げながら顔をそむけると、小さく溜息をつく。
「それで、どうやって祝ってくれるんだ?」
「えっ?」
 ターニャは隣のレオナルドに振り向いて、問いかけるようにぱちくりと瞬きをした。彼は、空を見上げたままポケットに両手を突っ込み、静かな声で言う。
「さっき言っただろう、祝ってくれるって」
「ああ、そっか。じゃあゴハンでも奢ってあげるわ。何が食べたい?」
 ターニャが人差し指を立てて明るく尋ねると、レオナルドは少しだけ振り向き、どこかむくれたような表情で、ターニャにじとりと視線を流した。
「貧乏人のおまえに、俺が奢られるのか?」
「あら、これでも立派に社会人やってるのよ? 今はもうそんなに貧乏でもないんだから。妙なプライドなんか捨てて、今日くらいは素直にお姉さんに奢られなさいって」
 ターニャは軽く笑いながらレオナルドの肩をぽんと叩いた。
 その瞬間、彼の表情があからさまに翳った。
「そんなに年が違わないのに、年上ぶってお姉さんなんて言うな」
 彼がなぜそんな表情でそんなことを言うのか、ターニャにはわからなかった。戸惑いを感じながらも、目を合わそうとしない彼の横顔を見つめ、小さく首を傾げて尋ねる。
「2年違えば十分でしょ?」
「3ヶ月しか違わない」
「えっ?」
 彼の言った意味が理解できず、ターニャは聞き返した。
「俺は入学したとき19歳だった」
「あ、そうなんだ……でも、3ヶ月??」
 彼がアカデミーに19歳で入学したとなると、生まれ年はターニャと一つしか変わらないことになる。そこまではいいが、3ヶ月という数字に関しては、やはりわからないままだった。しかし、続くレオナルドの言葉で、その疑問も解ける。
「おまえの生年月日はアカデミーの名簿で調べた」
「……は?」
「そんなことも知らないのか? 図書室に行けば、卒業生の氏名と生年月日が書かれた名簿がある。アカデミーの関係者なら誰でも閲覧可能だ」
 平然と答えるレオナルドの言葉を聞いているうちに、ターニャの目は大きく見開かれていった。両方のこぶしをギュッと握りしめて、眉根を寄せると、語気を強めて勢いよく責め立てる。
「そうじゃなくて! だからって何でわざわざ人の生年月日をこっそり調べてるわけ? 普通そんなことしないでしょ。何かちょっと怖いんだけど!!」
 それでもレオナルドに動揺は見られなかった。少しばかり上気したターニャをじっと見下ろし、開き直ったかのようにふてぶてしく言い返す。
「好きな女のことを調べて何が悪い」
「ああ、まあそういう理由だったらわからなくもないけど……って、あれっ?」
 ターニャはいったん納得しかけたが、何かがおかしいことに気づいて首を傾げた。ユールベルことを言っているのかと思ったが、彼女の生年月日ならば、わざわざアカデミーの名簿など見なくても知っているだろう。だとすれば、彼の言う好きな女というのは、ユールベル以外の誰かということになる。
「もしかして、もう他に好きな子いるの?」
 ターニャは瞬きをして尋ねた。
 何を言ってるんだといわんばかりの表情で、レオナルドは柔らかい金の髪を掻き上げながら、呆れたように小さく溜息をついた。それから顔を上げ、真剣な眼差しでターニャを見据えると、ゆっくりと薄い唇を開いて言う。
「おまえが好きだ。俺と付き合え」
「……へっ?」
 呆然としたターニャの口からは、間の抜けた声しか出なかった。


攻防

「ターニャ、そろそろ切り上げない?」
「ごめん、私、もう少しやっていくから」
 定時が過ぎてすっかり帰る気になっている同僚のアニーに、ターニャは申し訳なさそうに両手を合わせて詫びた。そして、さらに申し訳ない顔になり、上目遣いで、言いにくそうに二日連続のお願いを切り出す。
「それでさ……もしあいつが待ってたら、もう帰ったって言ってくれない?」
「またぁ? 私は別にいいけど……でも、嫌ならちゃんと断った方がいいよ?」
 アニーは机の書類を片付けながら軽く忠告する。しかし、そんなことはもちろんターニャにもわかっていた。疲れたように薄く笑って溜息をつく。
「もう何度も断ったわよ。でも、あいつ全然あきらめてくれないんだもの」
「そんな情熱的に想われるなんて羨ましいよ。いっそ付き合っちゃえば?」
「バカ言わないでよ!」
 悪戯っぽくからかうアニーの言葉に、ターニャはむきになって反論した。思いのほか大きかった声は、しんとしたフロアに響き渡り、まわりの注目を集めてしまう。ターニャは慌てて肩を竦めて小さくなり、ごまかし笑いを浮かべながら周囲にペコペコと頭を下げた。
 アニーは首を伸ばしてターニャに顔を寄せると、声をひそめて話を続ける。
「どうしてよ? 結構カッコイイし、一途っぽいし、何よりラグランジェ家のご子息なんでしょう? 言うことないじゃない。上手くいけば玉の輿だよ? 何が不満なわけ?」
「……バカなのよ」
 少し考えたあと、ターニャはぽつりと言葉を落とした。
「えっ? でもアカデミー卒業したんでしょう?」
「成績の問題じゃなくて、人としてバカなのよ」
「ふぅん、まあ、人の好みはそれぞれだけどね」
 アニーは興味なさげにそう言うと、鞄を持って立ち上がり、「お先に」と挨拶をして帰っていった。遠ざかる彼女の足音を聞きながら、ターニャは書類に目を落としたが、胸がざわついてなかなか集中することができなかった。

 突然の告白以来、レオナルドは毎日のようにターニャの前に姿を現した。
 その度に、ターニャは毅然と断ってきた。少なくともターニャ自身はそのつもりだった。しかし、人の話を聞いているのかいないのか、それとも断り方が悪いのか、レオナルドは性懲りもなく告白を繰り返し、付き合えと偉そうに迫るのだ。
 彼のことが嫌いなわけではない。
 だが、あくまで友人の一人である。恋愛対象として見たことはなかったし、見るつもりもなかった。それ以前に、彼とは付き合うわけにはいかない理由がある——。

 数時間が過ぎ、フロアに残っている人もだいぶ少なくなってきた。
 ターニャはきりのいいところまで仕事を片付けると、大きく腕を上げて背筋を伸ばした。あくびを噛み殺しながら、帰り支度をして立ち上がり、残っている人たちに挨拶をして研究所をあとにする。
 外はもうすっかり暗くなっていた。
 濃紺の空に数多の星がきらきらと瞬いている。夜遅くまで仕事をした帰り道、新鮮な空気を吸い込みながら星空を眺めると、体も心も少しだけリフレッシュできる。ターニャはこのひとときが好きだった。
 だが、今日は、それを楽しむ余裕はなさそうである。
 もうすぐ深夜といってもいい時間のせいか、だいぶ冷え込んでおり、ブラウスに薄手のジャケットという格好では寒さが身に沁みるのだ。ここまで遅くなるとは思わず、コートを持ってこなかったのだが、ターニャはその判断を後悔していた。
 小さく身震いして足早に帰路につこうとした、そのとき——。
「随分と卑怯な手を使ってくれたな」
「レオナルド……っ!」
 木の陰からぬっと姿を現したレオナルドに驚き、ターニャは息を呑んで後ずさった。すぐさま彼はその間を詰めると、少し怒ったような顔で、逃げるように視線を逸らしたターニャをじっと見下ろす。
「二度も同じ手が通用すると思ったのか」
「…………そうよ」
 ターニャはぽつりと言葉を落とすと、キッと強い眼差しで顔を上げる。
「私はこういう愚かで卑怯で馬鹿な人間なの。あなたの思っているような人間じゃないの。落胆した? 軽蔑した? 嫌いになればいいじゃない。早く愛想つかしなさいよ!」
 感情のまま早口で捲し立てたが、レオナルドはまともに取り合うことなく、呆れたように小さく溜息をついた。
「おまえ、本当に意地っ張りだな」
「あなたこそどこまでしつこいのよ!」
「おまえが素直にならないからだ」
「素直に嫌だって言ってるでしょう?」
 いつもと同じ言い合いの繰り返し。どうしてわかってくれないのだろうと苛立ちが募る。それはレオナルドも同じなのかもしれない。一瞬、苦々しく顔をしかめたが、それでもすぐに平静を装うと、じっとターニャを見つめて落ち着いた口調で続ける。
「おまえのことだ。どうせユールベルのことを気にしているんだろう。だけどユールベルとはとっくに終わってる。おまえが遠慮することなんて何もない」
「お、終わってるからいいってもんじゃないわよ!」
 ターニャは必死に言い返した。
 レオナルドはうんざりしたように反論する。
「俺が振ったのならともかく、俺があいつに振られたんだぞ。おまけにあいつはあの先生と仲良くやってるんだろう? いったいどこに遠慮する要素があるんだよ」
「それでも、私はユールベルの友達だから……きっとあの子は傷ついちゃう……きっと裏切られたような気持ちになると思う。あなただってユールベルを傷つけたくはないでしょう?」
 それは今まで口にしなかった本音だった。ユールベルは自分を見捨てられることを何よりも怖れている。だから、今まで自分を好きだと言っていたレオナルドが、他の人、それも友人と付き合いだしたとなれば、理性ではともかく、感情的な面では見捨てられたと感じてしまうに違いない。
 しかし、それでもレオナルドは引かなかった。
「そんな納得できない理由で、好きな女を諦めるつもりはない」
 真剣にそう言うと、さらに間を詰める。ターニャはその距離の近さに驚き、後ずさりかけたが、レオナルドは手首を掴んでそれを引き留めた。
「俺が諦めるのは、本気でおまえに嫌われたときだけだ」
「嫌いよ!」
 ターニャはカッとして間髪入れずに叫んだ。その瞬間、急に目頭が熱くなり、彼の姿が大きくぼやけて見えた。そんな自分に混乱し、やけになって大声を張り上げる。
「あなたみたいなわからずや大っ嫌いなんだから!!」
「……俺には好きって言ってるように聞こえるけどな」
「はぁっ?!!」
 レオナルドはどこまでも自己中心的だった。だが、その声にはどことなく寂しさが漂っているように感じられた。少し冷静さを取り戻したターニャの胸に、理由のわからない罪悪感が広がる。
「いい加減に素直になれよ。無理をしていたら苦しいだろう。俺も……きつい」
 ふわり、と背中をあたたかいものが覆い、ターニャは驚いて顔を上げた。それはレオナルドのジャケットだった。彼が自分の着ていたものを掛けてくれたのである。彼の体温の残るそのジャケットに、ターニャの身体はすっぽりと包まれた。
「不格好だが、こんな時間だ、誰も見ないだろう」
「レオナルド……」
 ターニャは戸惑いながら目を泳がせる。心臓を鷲掴みにされたように苦しい。彼を拒絶するつもりなら借りるべきではないのかもしれない。だが、彼の厚意を踏みにじるようなことは言えなかった。肝心なときに強気になれない自分に歯痒さを感じた、そのとき——。
「もしも本当に俺のことが嫌いだったら、そのジャケットは返さずに焼き捨てろ」
「えっ……」
「おまえがそこまでするなら、俺もキッパリと諦めてやる」
 レオナルドは真剣な面持ちで言った。そして、軽く右手を上げながらくるりと背を向け、シャツ一枚という見るからに寒そうな格好のまま、片手をポケットに突っ込んで帰っていく。ターニャは何も声を掛けることができず、闇夜にほのかに浮かぶ白い背中をただ呆然と見送った。

 焼き捨てるなんて出来るわけないじゃない——。
 狭いアパートに帰ったターニャは、ハンガーに掛けたジャケットを見つめながら、膝を抱えて心の中で毒づいた。レオナルドの貸してくれたそのジャケットは、生地も仕立ても良く、明らかに高そうなものである。貧乏だった自分がそれを焼き捨てるには勇気がいる。
 彼の勝手な押しつけに腹が立って仕方がなかった。
 なのに、あのときの彼のことを思い出すと胸がキュッと締めつけられ、顔も熱くなる。その感情の正体に、ターニャ自身もうっすらと気づきかけていた。それでも、ユールベルのことを思うと、受け入れるわけにはいかない。しかし、彼の言い分ももっともであり、間違ってはいない。
 思考は堂々巡りして結論に辿り着けない。
 灯りを落とした暗い部屋の中で、抱えた膝に顔を埋める。答えを出さなければいけないことはわかっている。けれど、一晩中考えても、何一つ決断は下せなかった。

 翌日、レオナルドは姿を見せなかった。
 その翌日も、翌々日も、ターニャの周辺は平和すぎるくらいに平和だった。彼がしつこくつきまとう以前、つまり、ほんの数週間前までの生活である。これが自分が望んだ結果なのだ。にもかかわらず、心に大きな穴が空いたような寂しさを感じた。
 愛想つかされたのかな、私——。
 嘘をついて逃げようとしたうえ、嫌いだの大嫌いだの言ったのだ。愛想を尽かされるのも当然のことだろう。最後の去り際に見た、彼のつらそうな顔が脳裏によみがえり、胸がズクリと疼く。それでも、ユールベルのことを思えばこれで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせた。

「4日ぶりだな」
 ターニャが仕事を終えてアパートへ帰ってくると、レオナルドは門の横にもたれかかって待ち構えていた。組んでいた腕をほどき、軽く右手を上げて一歩前に出る。
 ターニャはビクリとして半歩下がると、訝しげに眉をひそめた。
「どうして私の住んでるところを知ってるのよ」
「おまえが教えてくれたんだぞ」
 レオナルドはポケットから取り出した小さな紙片を掲げる。それは、以前、ターニャが渡した名刺だった。裏には自宅の連絡先を書いた記憶がある。もう1年以上前のことであり、今の今まですっかり忘れていた。
「……諦めたんじゃなかったの?」
「俺の言ったことを忘れたのか? 本気で嫌われない限り、諦めるつもりはない」
 じゃあ、なんで……と言いかけて、ターニャはその言葉を呑み込む。しかし、表情には出ていたのだろう。レオナルドは少し視線を逸らし、柔らかい前髪を掻き上げながら、微かに頬を染めてぶっきらぼうに説明する。
「ずっと風邪をひいて寝込んでいたんだ。何度も抜け出して行こうとしたんだが、母親に引きずり戻されてベッドに縛りつけられてな」
「もしかして、その風邪って……」
 あの日の夜はかなり冷え込んでいた。そんなところでコートも着ずに何時間も待ったうえ、ターニャにジャケットを貸してシャツ一枚で帰ったのだ。風邪をひいても仕方のない状況である。
「ああ、俺が勝手にやったことだ。おまえが気にすることはない」
「気になんてしないわよ」
 誇らしげに胸を張るレオナルドに、ターニャは呆れたような眼差しを送る。
「どうしようもないバカだなって思っただけ。バカなのに風邪をひくなんて、本当に何の取り柄もないじゃない」
「おまえな……」
 反論のしようがなかったのか、レオナルドは低い声でそれだけ言うと、額を押さえて小さく溜息をついた。真新しいジャケットの腕に固く皺が走る。それを目にしたターニャは、あることを思い出し、しばらく思考を巡らせてから静かに切り出す。
「少しここで待っててくれる?」
「……ああ。だが、逃げるなよ」
「そんなつもりはないわ」
 訝しげに念を押したレオナルドに、ターニャは冷たく答えると、アパートの階段を小走りで駆け上がっていった。

「はい」
 アパートから出てきたターニャは、待たせていたレオナルドに、口の部分を折り返した紙袋をそっけなく手渡した。レオナルドは不思議そうな顔で受け取り、顔の位置まで持ち上げてじっと眺める。
「何だこれ? 俺へのプレゼントか?」
「あなたのジャケットの燃えかすよ」
「何っ?!」
 レオナルドは焦って紙袋の口をバッと開き、顔を突っ込まんばかりに中を覗き込んだ。
「燃えてない……よな?」
 そう言いながら折り畳まれたジャケットをそろりと取り出し、表を眺めたり裏返しにしたりして確認する。しかし、どこも燃えてなどいない。
 結局、ターニャは燃やすことができなかったのだ。
 渡すものだけ渡したあと、素知らぬ顔でこっそり帰ろうとしたターニャを、レオナルドは手首を掴んで引き留める。ニッ、と口の端が吊り上がった。
「ようやく俺を好きだと認めたな」
 ターニャはカッと顔を真っ赤にしてあたふたとする。
「べっ、弁償しろって言われたら困るから! だから燃やさなかっただけよ!!」
「この期に及んでまだそんな意地を張るのか。まあそんなところも可愛いけどな」
「年下のくせに、年上に向かって可愛いとか言わないでっ!」
 突然、レオナルドは真剣な表情になると、ターニャの両方の手首を掴んで壁に押しつけ、ぐいと顔を近づけた。鮮やかな青い瞳で、じっと心の奥底を見透かすように覗き込む。ターニャはますます自分が熱を帯びていくのを感じた。
「なっ、何よ……」
「おまえが好きだ」
 まっすぐな言葉と眼差しに、ターニャの心臓はドキンと跳ねた。目を見開いたまま動きが止まる。その一瞬の隙に、レオナルドは掠めるようにターニャの唇に口づけた。
 な、な、な……。
「何するのよっ! は、初めてだったのにっ!!」
 ターニャはあまりのことにパニックになり、ゆでだこのように耳まで真っ赤にして、わけもわからずぼろぼろと涙を流した。手首を掴まれたままで、頬を伝う涙を拭うこともできず、浅くしゃくり上げながら震える口を開く。
「い、いつか素敵な人とロマンチックにって、ずっとずっと夢見てたのに……!」
「それならいま叶っただろう」
「どこがよ、バカーーっ!!」
 しかし、レオナルドはその暴言を受け流してニヤリと笑う。
「そうか、初めてだったのか……これから楽しみだな」
「なっ……バカっ! 変態!! 最低っ!!!」
 そう喚き立てながら抵抗するターニャを、レオナルドはものともせずぎゅっと抱きしめた。ターニャは泣きながら彼の背中を叩いていたが、次第にその手は弱まっていく。やがて完全に動きを止めると、レオナルドの胸に顔を埋めて小さく鼻をすすった。
 本当にどうしようもないくらい最低……あなたも……私も——。
 レオナルドの背中にまわした手に、ターニャは戸惑いながらもそっと力をこめた。

理由

 ふー……。
 手持ちの仕事が一段落したジョシュは、細く息を吐いて椅子にもたれかかった。背筋を伸ばしながら、何とはなしに奥へ続く通路に目を向ける。見えるわけでないことはわかっていたが、それでもいつも無意識に目を向けてしまうのだ。
 あいつ、どうしてるかな——。
 僅かに眉を寄せながら再び溜息をつくと、目を閉じて彼女の姿を思い浮かべた。

 アカデミーを卒業したユールベルが、正式に魔導科学技術研究所に勤務するようになったのが約一ヶ月前のことだ。同時に配属先が伝えられたが、それは誰もが驚かざるをえない異例のものだった。
 彼女の配属先は、レベルC 特別研究チーム——。
 研修のときと違うチームに配属されることは通例であり、ジョシュも覚悟はしていたが、異例なのは彼女が配属されたそのチームである。研究所でも限られたものしか入室か許可されていない、立入制限区域で研究を行う特別チームになのだ。そこでは機密事項を含む高度な研究が行われていることもあり、相応の実績を上げ、なおかつ身辺がクリーンであると判断された所員のみが配属される。新人が配属されることなど通常はありえない。誰が考えてもラグランジェ家の力が働いているとしか思えなかった。
 おそらくはサイファの仕業だろう。
 しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。表沙汰にはなっていないものの、研修のときに、彼女はラグランジェの名のために襲われかけたことがあった。今回の配属は、二度とそのような目に遭わせないための配慮なのだろう、とジョシュは好意的に解釈していた。完璧ではないにしろ、一般フロアと比べて安全であることには違いない。セキュリティはしっかりしているし、何より、特別チームにはレイモンドのような愚か者はいないはずである。
 問題は、ジョシュがそこに立ち入る権限を持っていないことだ。
 当然のように仕事上の接点もなくなり、一ヶ月も経つというのに、彼女とはまだ言葉を交わしたことすらない。何度か廊下を通るのを見かけたことはあるが、勤務中では、用もないのに追いかけて声をかけることなど出来はしない。もっとも、立入制限区域への入室を許可されているサイラスは、勤務中にときどき用もなく彼女の様子を見に行っているようだが……。
 せめて食堂で会えないかと、行くたびに彼女の姿を探しているが、一度も見つけたことはなかった。食堂ではなく自席で食べているのかもしれない。特別研究チームにはそうする人が多いという話を聞いたことがある。彼女もまわりに合わせている可能性はあるだろう。

 昼休憩の時間になり、ジョシュはひとりで食堂に向かった。スパゲティとサラダの載ったプレートを持ち、あたりをぐるりと見まわして、残り少ない空席を見つけようとする。同時にユールベルの姿も探すが、それは習慣のようなものであり、もはやほとんど期待はしていなかった。
 しかし、その日——ついに見つけた。
 一瞬、我が目を疑ったが、見間違いであるはずがない。顔はよく見えないものの、腰近くまである緩いウェーブを描いた金の髪も、後頭部で結ばれた白い包帯も、間違いなく彼女のものである。ジョシュはそのテーブルの前に立つと、少し緊張しながら、窓際にひとりで座っている彼女に声を掛けた。
「ここ、いいか?」
 ユールベルは驚いたように顔を上げた。呆然としながらも、小さくこくりと頷く。
 ジョシュは冷静を装って席に着いた。
「元気でやってるか?」
「ええ」
「そうか、良かった」
 素っ気ないくらいの短い会話を交わすと、ジョシュはフォークを手に取り、黙々とスパゲティを食べ始めた。しかし、半分ほど口にしたところで手を止めると、そっと彼女に目を向けて尋ねる。
「おまえ、いつも姿を見ないけど、食堂には来てないのか?」
「食堂で食べているけれど、お昼休み、ずれることが多いから」
 その理由にジョシュは納得した。基本的に、特別研究チームというのは、研究のこととなると寝食を忘れるような人間が多い。彼らにとっては昼休憩など重要ではないのだろう。
「大変だな」
「食堂が空いていて助かっているわ」
「それは言えるかもな」
 ジョシュは小さく笑いながら言った。つられるように、彼女の顔も僅かに綻ぶ。それを見たジョシュの顔はほんのりと熱を帯びた。彼女に悟られないようにうつむくと、黙々と冷たいサラダを口に運ぶ。
「ごめんなさい」
「えっ?」
 不意に落とされた小さな謝罪に、ジョシュは驚いて顔を上げた。そこには、何かをこらえるような、彼女の沈鬱な表情があった。
「新人が特別研究チームなんて、異例だって聞いたわ」
「そんなこと俺は気にしてない。おまえも気にするな。謝る必要なんてないんだ」
 彼女がこういうことを気にするようになったのは、おそらく、研修のときにジョシュが冷たく当たったせいである。その理由がラグランジェ家にあることを知り、彼女は自分を責めるようになったのだ。
「おじさまには抗議したけれど、聞き入れてもらえなかった」
「おまえを守るために必要だと思ってやったことなんだろう」
 ジョシュは腹立たしくもサイファの肩を持つような発言をしてしまう。それだけ必死だった。しかし、その甲斐もなく、彼女はいまだに表情を曇らせたままうつむいていた。
「もしかして、誰かに何か言われたのか?」
 眉をひそめたジョシュの問いに、ユールベルは小さく首を横に振った。
「みんな良くしてくれるわ」
「だったら一人で気に病むな。おまえは自分に出来ることを精一杯やればいい」
 それは自身のことを棚に上げた発言だった。いつも一人で後ろ向きなことばかり考え、自分に嫌気が差し、他人に当たり散らしている。そんな人間が言ったところで、説得力などあるはずもない——。
 しかし、ユールベルはこくりと真摯に頷いた。
 そのことで、ジョシュは逆に自分の方が励まされたように感じた。単なる自己満足かもしれないが、彼女の力になれたことが嬉しかったのかもしれない。自分が認められたように思えたのかもしれない。ほっと安堵の息をつくと、再びスパゲティを口に運び始めた。

 カタン——。
 彼女より先に食べ終わったジョシュは、どうしようかと思案しながらフォークを置いた。
 このまま席を立ってさよならしては、今度いつ会えるのかわからない。この調子だと数ヶ月後ということも十分に考えられる。それに、今日のように運良く会えたとしても、こんな短い会話だけでは、自分と彼女の関係は何ひとつ変わりはしないのだ。だとしたら——。
「今度の休日、どこか行かないか?」
「……えっ?」
 意を決して切り出したジョシュの耳に、明らかに戸惑いを含んだ声が届いた。彼女は訝しげに言葉を繋ぐ。
「どうして?」
「どうしてって……」
 まさか理由を訊かれるとは思わず、今度はジョシュが戸惑った。しかし、考えてみれば随分と唐突な話であり、不審に思われても当然のことだろう。もしかすると、レイモンドとのことがあったので、この手の話には警戒しているのかもしれない。
 俺は、あいつとは違う——。
 ラグランジェの名前などに興味はない。そんなもののために彼女に近づこうとしているわけではない。ジョシュは斜め下に視線を落とすと、テーブルに載せた手をギュッと握りしめた。
「好きだからだよ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、プレートを持って席を立ち、彼女の視線から逃れるように背を向ける。
「今度の休日、朝9時に研究所の前で待ってる」
 ぶっきらぼうな口調で一方的にそう告げると、彼女の返事を聞かないまま、返却口に向かってその場から足早に立ち去った。彼女がどんな顔をしているのか気になったものの、それを知るのが怖くて、食堂を出るまで後ろを振り返ることも出来なかった。


再会

「朝9時って何だよ……」
 ジョシュは研究所の前で塀に寄り掛かりながら、大きく溜息をついてうなだれた。
 今度の休日、朝9時に——。
 とっさにそう言ってしまったものの、遠出するわけでもないのに、朝9時に待ち合わせなどどう考えても早すぎる。子供でもこんなに早く遊びに行きはしない。住宅街から離れた場所柄も関係しているのだろうが、実際、まわりにはほとんど人影もなく閑散としていた。
 それ以前に、一方的に約束を押し付けたことが一番の問題である。いや、断る隙すら与えなかったのだから、そもそも約束にさえならないのだ。臆病ゆえにそんな態度をとってしまったのだが、彼女の目にはさぞや傲慢に映ったことだろう。もしかすると、レイモンドとたいして変わらない男だと思われたかもしれない——そのおぞましい想像を否定するように、必死にブンブンと首を横に振った。
 腕時計に目を落とす。もう間もなく9時である。
 ジョシュは青空を大きく仰ぎ見て、細く長く溜息をついた。彼女は来ないかもしれない。来なくても当然だと思う。それでも一応10時くらいまでは待ってみよう、そう考えたそのとき——。
「ごめんなさい、遅くなって」
 ユールベルが駆け足でやってきた。少し息を切らせながらそう言う。薄手の白いワンピースがひらひらと揺れて目に眩しい。
「……来たのか?」
「どういう意味?」
「あ、いや……」
 ユールベルは怪訝に小首を傾げて、ジョシュをじっと見つめている。来いと言われて来たのに、来たのかなどと問われては、確かに不安にもなるだろう。慌てて、ジョシュは少々ぎこちない笑顔で取り繕った。
 しかし——。
 彼女は嫌ではなかったのだろうか。嫌だったが仕方なく来たのだろうか。好きだからと言ったことに対しては、どう思っているのだろうか。次々と疑問が頭に浮かぶが、どれも口には出せなかった。
「それで、どこへ行くの?」
「……え?」
 ジョシュは大きく瞬きをして、口もとを引きつらせたまま硬直した。ユールベルを誘うことで頭がいっぱいになってしまい、肝心なその後について何も考えていなかったことに、彼はこのときになってようやく気がついた。

「悪い、こんなところしか思いつかなくて……店はまだ開いてないし……」
「人の多いところは苦手だから、こういうところの方がいいわ」
 そこは公園だった。広々とした芝生の奥に、大きな湖が続いている。まだ午前中のためかあまり人は多くなく、ランニングしている人、ボール遊びをしている人、散歩をしている人、木陰のベンチに座って読書をしている人が、ちらほらと目につく程度である。
 二人は木陰の下に、ジョシュの上着をひいて座っていた。
 ユールベルは軽く膝を抱え、ぼんやりと青い空を見上げている。緩やかなウェーブを描いた金の髪が小さく揺れ、後頭部で結ばれた白い包帯もひらひらと舞う。その横顔を見つめながら、ジョシュは出来るだけ何気ない口調で切り出した。
「卒業おめでとう」
 ユールベルはふわりと髪を揺らして振り向いた。半開きの口できょとんとしたあと、少し気恥ずかしそうにうつむき、小さな声で「ありがとう」と応じる。
「首席卒業だって? なんか代表で挨拶したってサイラスから聞いた」
「私、ああいうのは苦手なのに、辞退は許してもらえなかったから……」
 彼女はますます深くうつむくと、膝を引き寄せて顔を埋める。その照れたような仕草が可愛くて、ジョシュは小さく笑みをこぼした。
「サイラスとはよく会っているのか?」
「今はときどき様子を見に来てくれるだけ」
 ジョシュもそれほど頻繁にサイラスと会っているわけではないが、彼はそのたびにユールベルの話をしていた。その内容から察するに、彼女がアカデミーを卒業するまでは、毎日のように会っていたようだ。今は「ときどき」ということらしいが、週に2、3回は顔を合わせているのだろう。彼の話だけが今の彼女を知る唯一の手掛かりであり、その点ではとてもありがたく感じていた。しかし、同時に、自分自身に対する不甲斐なさも感じずにはいられなかった。
 サイラスには水をあけられるばかりだな——。
 彼は立入制限区域に入る許可を持っており、ときどき特別研究チームの手伝いをしているようだった。今はアカデミーの教師がメインであるが、約束の4年を終えれば、おそらくは正式に特別研究チームへ配属されるのだろう。いまだに下っ端の自分とは雲泥の差である。
 そんな人間には、ユールベルと会う資格はない。
 まるで現実にそう諭されているかのようだった。しかし、今日彼女に会って、諦めたくないという思いをいっそう強くした。勝手に卑屈になって身を引くなんてことはしたくない。いや、もうしないと決めている。だからといって焦ることも禁物だ。レイモンドの件で傷ついているだろう彼女を、意図せず傷つけてしまう結果になりかねないのだから——。

「やあ、ジョシュにユールベルじゃないか。こんなところで何をやってるんだ」
 ビクリとして振り返ったジョシュは、その声の主を目にし、思いきり顔をこわばらせて絶句した。ややあって我にかえると、慌てて立ち上がり、ユールベルをかばうように彼の前に立ちふさがる。
「レイモンド……おまえこそ、どういうつもりだ」
「この格好を見たらわかるだろう。ランニングだよ。研究ばかりしているひょろっこいおまえとは違って、俺はこの体をつくるために相応の努力しているのさ」
 確かに彼はランニングシャツに短パンという、いかにもな格好をしていた。あまり気にしたこともなかったが、剥き出しになった彼の腕や脚は、適度に筋肉がついていてたくましく見える。だからといって、彼の言うことを鵜呑みにはできない。
「そんなこと言って、何かたくらんでるんじゃないだろうな」
「悪いが、今は他にターゲットがいるんでね」
 そう言って、レイモンドはフッと笑って口もとを斜めにする。
「ジョシュ、研究所での君の態度は忘れていない。覚悟しておけよ。結果的にラグランジェ本家の次期当主に唾を吐いたことになるんだからな」
 その意味が掴めず、ジョシュは眉をひそめる。しかし、ユールベルにはすぐにわかったようで、ジョシュの後ろに座ったまま、じっと上目遣いにレイモンドを睨んでいた。
「あなた……、本当におじさまに殺されるわよ」
「自由恋愛を妨害する権利が彼にあるとでも?」
「あなたは自由でも、相手にとっては不自由だわ」
「君のときのような強引な手を使うつもりはないさ。何せ相手は子供だからな。今度はじっくりと時間をかけて口説いていくつもりだ」
 二人の会話を聞いているうちに、ジョシュにも話が見えてきた。
 どうやらレイモンドは、ラグランジェ家当主——すなわちサイファ——の娘と結婚して、自分が次期当主に収まるつもりらしい。サイファに悪感情しか持たれていないであろう彼が、ラグランジェ家に入ることなど、ましてや次期当主として迎えられるなど、到底あり得る話ではないと誰もが思うはずだ。しかし、彼がそのつもりで行動を起こすのなら、ターゲットの娘が無事で済むかが心配である。強引な手を使わないという言葉を信じていいかわからないし、もしそうだとしても、子供ならば表面的な優しさにコロリと騙される可能性も高いだろう——とジョシュは思ったのだが、ユールベルの考えは違ったようだ。確信したような強い眼差しで断言する。
「彼女は私ほど愚かじゃない。絶対にあなたの思いどおりになんかならないわ」
「ふむ……なるほど……」
 レイモンドはゆっくりと右手で顎を掴んで考え込むと、やがて一人納得したように頷き、真面目な面持ちでユールベルを見つめて自分の胸に手を当てた。
「俺にも情はある。君が泣いて謝るのなら、当主の座は諦めて君と結婚してやってもいい」
 何を勘違いしたのか、それともわざとなのか、上から目線でありえないくらい勝手なことを言う。ユールベルは何とも言えない微妙な表情で言葉を失っていた。彼の身勝手さをよく知っているジョシュも、さすがに開いた口がふさがらない。
「俺としてもロリコン趣味はないんだ。あんな実年齢以上に子供っぽいガキなんて、当主の娘という肩書きさえなければ相手をする気も起きないさ。その点、君はいろいろと楽しませてくれそうだからな」
 レイモンドはそう言うと、いやらしく片方の口角を吊り上げ、舐め回すようなねっとしとした視線をユールベルに絡ませる。まるで白いワンピースの中の肢体を、その目に映しているかのようだった。彼女はぞくりと身を震わせると、自分の腕を抱え、その視線から逃れるように大きく顔を背けてうつむいた。緩やかなウェーブを描いた髪がはらりと落ち、彼女の表情を隠す。
「やめろ!!」
 ジョシュはあらためて二人の間に割り込むと、両腕を広げ、レイモンドの視界から必死に彼女を隠そうとした。そして、ありったけの嫌悪感を瞳に込め、斬りつけるように激しく睨む。腹立たしいと思ったことは数えきれないほどあるが、ここまで誰かを憎いと思ったのは初めてかもしれない。いっそサイファに殺されてしまえとさえ思った。
 しかし、レイモンドは痛くも痒くもないようで、小馬鹿にしたように鼻先でフッと笑う。
「相変わらず姫を護る騎士か? どうせそれ以上の進展もないんだろう」
「……だったら何だ」
 背後のユールベルを気にしながら、ジョシュは小さな声でぼそりと言う。
 そんなジョシュを見て、嫌がらせのように、レイモンドはよりいっそう声を大きく響かせる。
「残念だったなぁ? せっかくユールベルを抱かせてやる約束をしてたのに、俺がこんなことになったせいで約束がおじゃんになって」
 ジョシュは目を見開き、息をのんで顔を真っ赤にした。
「やっ……約束なんてしてないだろう! おまえが勝手に……!」
「ま、せいぜい一人で頑張ることだな。アドバイスくらいならしてやるよ」
「うるさいっ!!」
 ジョシュがいきり立てば立つほど、レイモンドは愉快そうに笑う。その不快な笑い声は、広い空に高らかに響いた。ひとしきり笑うと、ジョシュの肩を軽く押しのけ、腰を屈めてユールベルを覗き込みながら白い歯を見せる。
「ユールベル、その気になったら王宮を訪ねてきてくれ。間違っても、こんな出世の見込みもないような男なんて相手にするなよ」
 ジョシュが反撃して押し返そうとすると、レイモンドはひょいと身軽に避けて数歩後退する。そして、ランニングのポーズをとって足踏みを始めると、じゃあなと右手を上げて、何事もなかったかのように足どり軽く湖の方へ走っていった。

 ジョシュはおずおずとユールベルに振り返った。何も言わずにじっとジョシュを見上げている、感情の窺えないその瞳に怯えながら、誤解を解こうとあたふたと両手を動かしながら口を開く。
「あ……あのな、レイモンドが言った約束とか何とか、あれ、俺、そんな約束なんてしてないから。あいつが一方的に言ってきただけで、俺はそんなつもりなくて……」
 必死になればなるほど、出来の悪い言い訳のようになっていく。そのみっともなさに耐えきれなくなり、思わず頭を抱えて彼女に背を向けた。
「私は……」
 遠慮がちに切り出された彼女の声に、ジョシュの鼓動は大きくドクンと打った。どんな言葉をぶつけられるのか怖かった。背筋が凍り付くような冷たさと、頭から熱湯をかぶったような熱さを同時に感じ、何も考えられないほどに目眩がした。しかし——。
「私は、ジョシュのことを信じているから」
 彼女は静かな声で噛みしめるようにそう言った。驚いてジョシュは振り向く。
「信じて……くれるのか?」
「あなたはそんなことを望む人じゃないもの」
「…………」
 深い森の湖のような瞳で見つめながら、まっすぐそう言ってくれる彼女に、ジョシュは二の句が継げなかった。眉を寄せてうつむき、額に右手を押し当てる。一度は忘れようとした罪悪感が、急に胸の内を支配して、息が出来ないほどに苦しくなる。
「どうしたの?」
「……夢を、ときどき見るんだ」
 話が見えないユールベルは、地面に手をついて身を乗り出し、不思議そうに下からじっと覗き込む。しかし、ジョシュは彼女を見ることができず、顔をそらして、額を押さえていた手で両目を覆った。ずっと隠してきたことを、あふれくる感情にのせて吐露する。
「場面はあのときの資料室で……だけど、ユールベルに跨がっているのは、レイモンドじゃなく俺で……」
「夢、でしょう?」
 そう、現実ではなく夢である。だけど、それは自分自身が見せているもので——。
「何度も見るってことは、どこか俺の願望が入ってるのかもしれない」
「……もしかして、以前、私を避けていたのって、これが原因なの?」
 訥々と紡がれる疑問に、ジョシュは顔を隠したまま小さく頷いた。その夢を見るようになってからは、彼女への罪悪感と、自分に対する嫌悪感とで、まともに彼女と接することが出来なくなった。いや、彼女と接していい人間ではないように感じたのだ。
「そんなことだったなんて……」
「そんなことって、おまえ……」
 半ば呆れたように溜息まじりに言われ、思わずジョシュは目を覆っていた手を外し、困惑ぎみに彼女を見下ろして言い返す。しかし彼女は淡々と続ける。
「夢を見ることと実際に行動を起こすことは違うわ」
「それは、そうだけど……」
 ジョシュは複雑な表情で眉を寄せた。確かに現実と夢とでは重みが違うが、夢だからといって気にならないわけではないだろう。きっと嫌な思いをしているに違いない。
「言わなければわからなかったのに」
「……嫌な話を聞かせて悪かった」
 ジョシュは彼女の前に膝を折って座り、うなだれるように頭を下げる。ユールベルは無表情のまま首を横に振った。
「俺を、許してくれるか?」
「あなたは何も悪いことなんてしていない」
 それが本心かどうかはわからない。しかし、彼女が自分のことを否定しないのならば、勝手に先回りして自ら身を引くようなことはしたくないし、してはならないと思う。
 だから、俺は——。
 芝生のうえで握りしめた手が汗ばんできた。ぐっと力を込めて握り直す。そして、しばらく考えを巡らせると、少し顔を上げ、ごくりと唾を飲み込んでから口を開く。
「じゃあ、来週も、会ってくれるか……?」
 ユールベルは瞬きをしてきょとんとした。そして小さくこくりと頷く。相変わらずの無表情だったが、ジョシュがほっとして緊張を解くと、彼女の表情も少し緩んだように——わずかに微笑んだように見えた。


花壇

「一人でウチに乗り込んでくるなんて、おにいさん結構いい度胸してるよね」
「度胸って何だよ」
「姉さんとのことを僕に追及されるって思わなかった?」
「…………」

 初めて彼女と二人で休日を過ごしてから3週間、ジョシュは毎週ユールベルと会っていた。今までは公園など外で会っていたのだが、今日は彼女の家で会う約束をして、ここへやって来たのである。もちろん彼女の弟がいることは承知の上だ。むしろ、二人きりだったら彼女の家に上がることはなかったに違いない。彼女も警戒するだろうし、自分も遠慮しただろうと思う。
 彼女の思考は相変わらずわからないままだ。
 なぜ自分と会ってくれるのだろう。自分が好きだと言ったことに対してどう感じているのだろう。自分のことをどう思っているのだろう——。聞きたいことは山ほどあったが、実際に聞くことは躊躇われた。聞いた瞬間にすべてが失われてしまうような、そんな気がして怖かったのだ。
 ただ、少なくとも嫌われてはいないだろうという確信はあった。今はそれで十分である。レイモンドとのことが心の傷になっているかもしれない彼女には、慎重すぎるくらいに進めるのがちょうどいいはずだ。焦らずに少しずつ彼女との距離を縮めていけたらいい。そして、いずれは——。

「姉さんと付き合ってるの? その辺、イマイチはっきりしないんだけど」
 アンソニーはソファに座ったまま、膝に腕をのせて身を乗り出し、眉をひそめながらジョシュに尋ねる。
 付き合うというのが恋人になると同義ならば、現時点での答えは否としかいいようがない。彼女の気持ちは聞いていないし、毎週会っているのは確かだが、ただ並んで歩くだけで手さえ繋ぐことはないのだから。
 ジョシュは考え込んだまま返事をしなかったが、微妙に曇った表情を見て、アンソニーはだいたいのところを察したようだった。面倒くさそうに溜息をついて上体を起こす。
「ほんと焦れったくて仕方ないんだけど。子供の恋愛じゃあるまいし何やってんのかなぁ。おにいさんもう30近いんでしょう? いい大人っていうか、そろそろおじさんだよ?」
「おまえには関係ないだろう」
「相手が姉さんじゃなければね」
 アンソニーは頭の後ろで手を組みながら言った。
「僕としてはさ、先生一押しだったんだよね。姉さんには、先生みたいな優しくて穏やかな人がいいんじゃないかなって。まあ、先生にその気がなければ仕方ないんだけどさ。どうなんだろう? 先生って姉さんのこと好きじゃないのかなぁ?」
 ジョシュにとって、それはあまり考えたくないことだった。もしも、サイラスがユールベルに好意を寄せているとしたら、そして行動を起こしたとしたら、自分ではとても敵わないだろうと思う。そして、サイラスの方が彼女を幸せにできるのではないかと——。
「ねえ、先生に聞いてきてくれない?」
「自分で聞いてくればいいだろう」
 不安からか、思わずそんな突き放すような言い方をしてしまう。
 アンソニーは体を起こして前屈みになると、もの言いたげにじっとジョシュを見つめた。
「おにいさんは姉さんのこと好きなんだよね?」
「……ああ」
 あまりにも直球な質問にいささか動揺しながらも、ジョシュは正直に答えた。そのことはユールベル本人にも言ってあるし、アンソニーもとっくにわかっているようなので、今さら隠す必要はないだろうと思う。
「それで、どうしたいわけ?」
「どう、って言われても……」
「念のため言っておくけど、たいして本気でもないのに思わせぶりな態度をとったり、ちょっかいを出したりして、姉さんを傷つけることだけはやめてよね。そんなことをしたら、僕、絶対におにいさんのこと許さないから」
「俺は、本気だ」
 本気だからこそ、彼女に対してこれほど慎重になっているのだ。決して思わせぶりな態度をとっているつもりはない。しかし、アンソニーはまだ信用していないのか、険しい表情でぐいっと身を乗り出して問い詰める。
「全部まるごと受け止める覚悟はあるの?」
「……ああ」
 彼の迫力に気おされながらも、ジョシュは真剣な顔で頷く。にもかかわらず、アンソニーはソファにもたれかかって深く溜息をついた。僅かに顎を上げて、疑いの眼差しをジョシュに流す。
「本当にわかってるのかな……」
「何がだ? どういうことだ?」
 何か含みがありそうなアンソニーの言動に、ジョシュは眉をひそめた。
「ま、とりあえずおにいさんのこと信用しておく」
「あの、コーヒー……」
 背後からのユールベルの声に、ジョシュはビクリと体を震わせた。アンソニーと話しているうちに、彼女が隣の台所にいることをすっかり忘れてしまっていた。二人とも声をひそめていなかったように思うので、もしかしたら会話を聞かれてしまったかもしれない。
 ユールベルは無表情のまま、トレイにのせたコーヒーをテーブルの上に置いていく。
 ジョシュは息を詰めたままその横顔を窺い、特に意識している様子はなさそうだとわかると、ほっと小さく安堵の息をついた。
「ねえ姉さん、おにいさんがね、姉さんのこと……」
「わーっ!!!」
 アンソニーがニコニコしながらユールベルに話し始めると、ジョシュは血の気が引いて頭が真っ白になった。妨害するように大声を上げて、あたふたと両手を伸ばす。
「なに……?」
「い、いや……」
 ビクリとしたユールベルを見て、ジョシュは我に返った。不安の拭えないまま再びアンソニーに目を向けると、彼は白い歯を見せて悪戯っぽく笑っていた。またからかわれたのだと脱力する。
 それでも、本当にユールベルに言われてしまうよりはいいだろう。
 後ろめたいことは何もないが、それはいつかあらためて自分から彼女に伝えるべきことであり、こんな軽い調子で暴露されるのだけは勘弁してほしいと思った。

 ユールベルが淹れてくれたコーヒーを飲んで一息ついたあと、ジョシュは大きなガラス窓を開けて、コンクリートのベランダに出た。雲ひとつない鮮やかな青空から燦々と陽光が降り注ぎ、そのまぶしさに思わず目を細める。そして、あまり広くはないそこにしゃがみ、持ってきたビニール袋から中身をひとつずつ出して広げた。白いプランター、袋に入った土、肥料、スコップ、そして花の種である。
「何かと思ったら花壇だったんだ」
 窓際にしゃがんで覗き込みながら、アンソニーが呆れたように言う。
「女の子と会うのに花束を持ってくる人はいても、花壇を持ってくるのはおにいさんくらいじゃない?」
「そうかもな。どっちも花なんだし悪くはないだろう」
 正確には花壇でなく鉢植えであるが、些細なことであり、ジョシュはあえて訂正しなかった。両方の袖をまくり上げると、プランターに土と肥料を流し込み、黙々とスコップで整えていく。
「でも、もっと他にいいものがあると思うんだけど。初めてのプレゼントだよね?」
「私がお願いしたの」
 ジョシュの代わりに、アンソニーの隣に立つユールベルが答えた。
 そう、これは彼女が望んだことなのだ。別にジョシュの独断でプランターを抱えてきたわけではない。いくらなんでも、頼まれもしないのにこんなものを持ってきて押しつけるほどの図々しさは持ち合わせていなかった。
 一通りプランターの土をならして準備を整え、種をまき始めると、アンソニーも面白がって手伝い始めた。
「おにいさんって何となく無趣味な人かと思ってたなぁ」
「別にこれは趣味ってほどでもないけど……」
 一人暮らしの部屋はあまりに味気なく、また人恋しさも手伝ってか、何とはなしにプランターで花を育てるようになっただけである。特に詳しいわけではない。ただ適当に種をまいて水をやって草をむしると、それなりに花は咲いてくれた。花の種類にこだわりがないので、育てやすいものばかりを選んでいるからだろう。
 先週、そういう話をユールベルにしたら、意外なことに、彼女は自分も育ててみたいと言った。これまで彼女が自分から何かをしたいということはほとんどなく、何に関心があるのかもわからなかったので、少しでも彼女を知る手がかりを得られたことが言いようのないくらいに嬉しかった。
「適当に水をやってれば育つと思うけど、うまくいかなくても気にするなよ」
 念のため、窓際に立っているユールベルにそう釘を刺す。ジョシュも仕事が忙しかったときに少し枯らしたことがあったが、それだけでけっこう落ち込んでしまった記憶がある。できればそんな思いを彼女にはさせたくはないが、生物である以上、絶対に駄目にしない方法などないこともわかっていた。
「適当って……?」
「俺もあんまりよくわかってないけど、土が乾いてきたらやればいいんじゃないかと……あ、やりすぎもよくないからな。様子を見て調整していけばいいと思う」
 ユールベルは不安そうな面持ちながらもこくりと頷いた。
「おにいさん、どうせたびたび見に来るつもりなんだよね?」
 アンソニーは「どうせ」に力を込めて皮肉っぽく言う。確かに、彼女に任せきりにするのではなく、ときどきは成長具合を確かめに来た方がいいかもしれない。しかし——ジョシュは彼の眼差しから逃れるように、プランターを見つめたまま目を細めた。
「それは……ユールベルが望むのなら……」
「私は、ジョシュさえ迷惑でなければ……」
 呼応するように頭上から降ってきた彼女の声。
 ジョシュはドキリとしてそこに立つ彼女を見上げた。いつものように感情の窺えない表情をしていたが、少し視線を外して目を泳がせたり、心持ち肩をすくめて後ろで手を組んだりして、どこか落ち着きなく感じられた。まるで、恥じらっているかのように——。
 それは勝手な解釈かもしれない。
 しかし、来ることを許されたのは事実である。
 ジョシュは柔らかくふっと表情を緩めると、行くよ、と小さいながらもはっきりとした声で言った。

 ベランダに座るジョシュ、窓際にしゃがむアンソニー、その隣に立つユールベル——3人は、あたたかい日差しと緩やかなそよ風を感じながら、それぞれ無言でたたずんでいた。心地いい昼下がりが、眠気を運んでくる。ジョシュはあくびを噛み殺しながら、雲ひとつない穏やかな青空を見上げた。
「花が咲く頃にはどうなってるかなぁ」
 アンソニーはプランターを見つめながら、からかうような口調でなく、ぼんやりと独り言のようにそう言った。
 ジョシュも、ユールベルも、何も答えなかった。
 けれど、そこには気まずい空気はなく、ジョシュはうつむいたまま目を細めて、その近くて遠い未来のことをおぼろげに遠慮がちに思い描いた。



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